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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章)

スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

このQ&Aのポイント
  • ドータカさんが仙人に質問し、仙人が答える対話が描かれています。
  • 仙人は賢明であり、自己の安らぎを学ぶようにとアドバイスします。
  • また、仙人は疑惑から解放されるようにドータカを導くと説明します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

 こんばんは nyanko編 (スッタニパータ改)  「センセーイ、センセーイ! このことをわたくしに教えてくださ~い。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びま~す。」  釈尊「この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  「センセーイ わたしはその最上の安らぎを受けて歓喜しま~す。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えま~す!」  釈尊「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」  そこで、いきなり結論なのですが、 > このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  いわゆる「自己啓発」本の”まえがき(序章)”ならば、よくできていると思います。  ですが、知りたいのは、本編かと思われます。 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ・ ・ ・  ですが、[スッタニパータにおいて]これらが具体的に示されていないところに問題があるのだと思います。  このため、[哲学的]知性は感ぜられない。これが小見でございます。  どうも失礼致しましたm(_ _)m

bragelonne
質問者

お礼

 いやぁ じつに言いたいところを 簡潔にこれ以上やさしくは語れないと思えるほど しかも全体として――つまり その対話が まだ入口であり前書きでしかないゆえ 本論へとどう展開されて行くかをも含めて全体として―― 明らかにしてもらっています。  ご回答をありがとうございます。  いや もう言うことなしです。  じっさい 本編はそうなるはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~  第一章 ニルヴァーナとは?  第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを!  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《執着・離れる・やすらぎ》の鍵語は 明らかにされたわけですから あとは どうすればよいか(第二章)とそしてそうすれば どういう状態になるのか(第一章)が説明されれば 完結です。  すでにほかのところで取り上げましたが 《執着→離れる→離れようとすることへの執着→離れる→・・・》という堂々めぐりの問題もあります。つまり 《執着を離れる》と意識した途端にその意識から離れなければならない。という意志行為を始めた途端に それ自体からも離れなければならない。・・・・という問題です。  ですから このドータカの質問としてまとめられたひとくだりは 序論であって まだ本論には入っていない。と言わねばならないはずです。  ★ このため、[哲学的]知性は感ぜられない。  ☆ と質問者も思います。ありがとうございました。

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その他の回答 (32)

  • a_hona
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回答No.12

連続投稿すいません。 初めから安らぎがあるということに疑義を生じたように、私は、一切皆苦であるという見解には疑義を生じます。というのもこれまでに、安らぎというものは味わったことがあるように思えるからです。しかしそれは、ニルヴァーナの安らぎではないのかもしれません。一切の苦悩の消滅とはいえず、ただ苦を感覚していなかったとしか言えないからです。 神通力などは、サクラメントに思われるかもしれませんが、それは後世の編纂による所が少なく無いと思います。原義はもっとシンプルな分かりやすいものだったと考えられます。 以上、取り敢えずの私の見解となります。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 初めから安らぎがあるということに疑義を生じたように  ☆ すでに書きましたが 《ブッダターが・あるいはアートマンがわが心に宿る》とすれば それは取りも直さず《やすらぎのみなもとなるチカラが はじめにあった》ことになるのではありませんか?  ★ ・・・というのもこれまでに、安らぎというものは味わったことがあるように思えるからです。しかしそれは、ニルヴァーナの安らぎではないのかもしれません。一切の苦悩の消滅とはいえず、ただ苦を感覚していなかったとしか言えないからです。  ☆ ですから そういう捉え方というのは すでに《初めに苦があった》という前提とその切り口のような見方を持って世界を見ていることから出て来ていますよね? すでに大きな影響を受けてしまっています。  その影響が問題であるということをも物言いの中にふくめて言っているのですが どうでしょう?  初めのボタンの掛け違いの問題です。    だから いかに失礼であっても めざめてくださいと声を枯らして言って来ています。    何度でも言いましょう。ニルワーナなんてのは くそくらえです。ドゥッカ(苦)を初めに置くから 問題がこじれて来ます。どうしても苦の消滅というニルワーナを目指さねばならないという見方とものごとを捉える切り口が消えません。  ★ 神通力などは、サクラメントに思われるかもしれませんが  ☆ そうですね。書きましたが こちらの見地としては 《個人たるわたしの修行とそこから得られる成果としての境地》の問題ではないということを 反応として感じます。  要するに話し合いにおいて 相互理解のためにそして延いては広く大きく共生のために必要なかぎりで ヒラメキがあたえられるがごとく得られる《神通力(インスピレーション)》であると捉えます。  そのように捉えるなら 《秘密》はないのです。(あるいは ナゾはナゾのままであります)。ましてや《儀式》は要りません。また《修行》は一般に 個人の趣味の問題であると見ますから お好きな人はどうぞという位置づけです。  

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  • a_hona
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回答No.11

すいません、訂正です。他心通は、三種の明知には含まれていませんでした。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  他心通で検索したら 六神通が出て来て そこで見ました。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

すいません、真理が全てにおいて全てである、でした。この文章の意味が分かりません。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答です。  いえ 二つとも同じ意味として用いています。だいじょうぶだと思います。  ○ 真理が全てにおいて全てである  ○ 真理が全てにおいて真理である

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  • a_hona
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回答No.9

真理が全てにおいて真理であるという文章の意味が分かりません。人の心が分かるとかは、覚った時に身に付くと言われる三種の明知の内の一つ、他心通などとよばれていますが、そのことでしょうか。それに、執著を離れることも離れるというのもよく仏教では出て来る話です。 中身とおっしゃられているのは、覚った結果どうなるのか、ということですか? また、私の経験的事実からすれば、初めから安らぎがあった、ということはありません。時に心に動揺が奔る、それが普通だと思います。ですから、一切皆苦に対するアンチテーゼとしての初めに安らぎありというのは、私にとっては疑義のでるところです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人の心が分かるとかは、覚った時に身に付くと言われる三種の明知の内の一つ、他心通などとよばれていますが、そのことでしょうか。それに、執著を離れることも離れるというのもよく仏教では出て来る話です。  ☆ 《他心通》については知りませんでした。すみません。  ▼ (ヰキぺ:六神通) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A  (あ) 六神通 (ろくじんずう, Pali:chalabhiññā)とは、  (あ‐1) 仏教において仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。6種の神通力(じんずうりき)。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ただしわたしの例示する場合の中身としては 《超人的な能力》ではありません。誰もが持ち得るさとりの状態として想定しており 次の説明にもここで違いを述べるなら 要するに修行によって得られるという筋においては捉えておりません。    自然本性において言わば《前史から後史へ移る》ときにさらに備えられるものと見ます。    あるいは もし――前史・後史は言わないとして――自然本性にすでに備わっているとすれば そのような《人の心が分かり 情況が分かる》ということは その時その場や相手に応じて必要な限りで与えられる知恵であり知解である。と見ています。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ‐2) 六通ともよばれ、「止観」(瞑想)修行において、「止行」(サマタ瞑想、禅那・禅定、四禅)による三昧の次に、「観行」(ヴィパッサナー瞑想)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。   ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   引用を掲げたあとにも注解しますが おそらく《自在な境地》という言い方に違和感があります。問題は 社会行為としての交通関係にあります。共生の問題なのです。コミュニケーションのために《必要なかぎりで得られる(または ヒラメキとして与えられる)知恵と知解》です。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 1 内容 (い) 具体的には以下の6つを指す。   ・神足通(じんそくつう, Pali:iddhi-vidha-ñāṇa) - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。   ・天耳通(てんにつう, Pali:dibba-sota-ñāṇa) - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。   ・他心通(たしんつう, Pali:ceto-pariya-ñāṇa) - 他人の心を知る力。   ・宿命通(しゅくみょうつう, Pali:pubbe-nivāsānussati-ñāṇa) - 自分の過去世(前世)を知る力。   ・天眼通(てんげんつう, Pali:dibba-cakkhu-ñāṇa) - 他人の過去世(前世)を知る力   ・漏尽通(ろじんつう, Pali:āsavakkhaya-ñāṇa) - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (い)についてですが これなら読んだことはあります。すでに捨てました。  《神足通》は テレポーテーションでしょうか。これは 現在においては考える必要はないと思います。  《天耳通》は 相手や情況を知るために必要な知識は 心において得られると見ます。だから《聞こえることのない音を聞く》必要はないと見ます。  《他心通》 これですが 引用の中に注解したとおり 超人的な能力とは見ませんしそれなら要らないと見ます。  《宿命通・天眼通》は どうでもよいです。ただし 生まれて来てからの過去の精神の遍歴というのなら 必要におうじて知ることがあるかも知れませんが それは 他人については 尋ねればよいと考えます。  《漏尽通》。そもそも煩悩を前提として立てることをしません。  あらためて 他心通とそれから《執著を離れることも離れるというのもよく仏教では出て来る話です》の執着関係の問題についてですが 《真理がすべてにおいてすべてである状態》にとってはそれらはあくまでコミュニケーションのために働くという見方に立ちます。あるいはつまり 共生において共生のためです。  言いかえると 《生存への妄執 そしてそれから離れること。さらには この執着を離れることからも離れるということ》については そもそも共生におけるわが人生にとって初めの方針として立てることをしません。  よく出て来る話ですとありますが それでは この限りなくつづくと見られる問い求めは どう収拾がつくのでしょう? つまり《離れる》という方針を立て意識をしたときには すでにただちにその《離れることからも離れる》というシワザをおこなっていなければならないのではないでしょうか?  ★ また、私の経験的事実からすれば、初めから安らぎがあった、ということはありません。時に心に動揺が奔る、それが普通だと思います。ですから、一切皆苦に対するアンチテーゼとしての初めに安らぎありというのは、私にとっては疑義のでるところです。  ☆ 《時に心に動揺が奔る、それが普通だと思います》という事態は 《動揺が現われていない状態》が先にあったということを意味しているのではないのですか? それとも《苦》の要素が――あたかも原罪のごとく――初めからあったから現われると見るのでしょうか? そういう問題ではないのですか?   つまり必ずしも《アンチテーゼ》の問題ではないはずなのです。  すなわちもしブッダターがやどるという想定に立つのならば 《初めにやすらぎ〔のチカラ〕があった》と言っていることになります。アンチテーゼというのなら そうではなく こちらのほう(ブッダターの想定のほう)が おそらく万人のみとめるテーゼなのです。

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  • a_hona
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回答No.8

私には、中身がないということの意味がわからないのです。八正道や六波羅蜜、さきほどの移り変わる生存への妄執を捨て去るという具体な方法にしても、結構、中身に相当することは言っていると見ます。何処ら辺りが中身が無いと思われるのでしょうか。確かに、覚りの境地は言葉では言い表せないとも聞きます。しかしそれと中身が無いというのは別問題かと思うのです。如何でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《中身》とは どういうことを言うのか? これについては すでにわたしは例示を出していますよ。  真理がすべてにおいてすべてである。という状態。そこでは ひとの心が分かるということです。互いに分かれば 申し分なしでしょう。  相手の心がわかり その場その社会の情況についても分かるということ。そこから一人ひとりが自分の思うところを行為する。  そこではかなりコミュニケーションはなめらかにすすむでしょう。社会はすこやかさを増しましょう。  これなら なおまだ実現していないとしても さとりの中身として思っていても・そしてさらに考え合って行ってもよいはずです。  そうではなく 苦が消えた状態になりましょうとか 悩みから自由な状態に成りましょうとか。  それには ただしい見方をしましょう。世界を いっさいのこだわりや片寄った見方を捨てて そのままに見つめ捉えて行きましょうとか。・・・  これは カンバスに輪郭を描いたわけです。予告編なわけです。だから どうなんだ? となるはずです。  ★ 移り変わる生存への妄執を捨て去るという具体な方法  ☆ ぢゃあ 仮りにこれが具体的な方法であったとします。だからどうなりますか? おそらく《生存への妄執を捨て去るのだ》というあらたな妄執に満ち溢れた状態になって終わるのではないでしょうか?  こだわりを捨てよというのは 捨てようというこだわりが生じているだけです。  中身として どうなるか? これを明らかにしたほうがよいかと思います。

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noname#195588
noname#195588
回答No.7

Niddesa (Pali Text) PTS Version:3 https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/niddesa.html ~~~~~~~~~~~~~~ だめだ。疲れた。 ニッデーサの読み方がさっぱりわからない。 Cullaniddesaの翻訳はないのかな。 学生ドータカの質問の注釈があるのかないのか。 わからない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  対話においてやり取りがつづかないですね。  放っておきます。

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  • a_hona
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回答No.6

>☆ この《1068》の議論によると 《世の中には 〈執着の対象〉ばかりがある》と言っていませんか? 《移り変わる生存》について人は 《妄執をいだく》ものだと言って決めつけていませんか?  はじめには《やすらぎ》はなかった。だから まづ《安らぎを学ぶ姿勢を持つべきだ ≒ 学ぶべきやすらぎをきちんと認識するべきだ》と言っていませんか?< 釈尊の見解は一切皆苦ですから、そういうことでしょう。しかしその苦の全ては滅することの出来る性質のものであると言っているわけです。解脱によって。一切皆苦の見解を共有するかしないかは各人の自由です。しかし、彼の見解はそうであったということを、別の文言で批判しても、見解の相違ですね、としかならないのでは。 >もしゴータマは自分がこの《苦》から自由になったのなら 《初めにある苦》は 解き放つことができる苦である。ということになるのでなければ おかしい< だから、人は解脱できると言っているじゃないですか。この質疑応答では、ドータカよ、自己(=ドータカ自身)の安らぎを学べ、妄執を超えよ、と言っているわけです。ドータカは解脱できないなどとは言っていません。目の当たり体得されるとは、修行者自身が体得するという意味であって、目の前の釈尊の安らぎのことを言っているのではないですよ? >つまり実質的には ゴータマの阿呆! と結論づけたひと言で 一件落着。めでたし めでたし。となりました。< こういうのは余計でしょう。言うのは勝手ですが、却ってブラジュロンヌさんの知性や品が疑われてしまいます。いったいどれだけ経典の文言を理解した上でそのように言うのでしょうか。ブラジェロンヌ流に理解したつもりになるのは結構ですが、それは恥ずかしいことだと私は思います。また、他の思想者を名指しで非難すること自体が、一切衆生悉有仏性に反する言動でしょう。ブラジュロンヌさんの主張と矛盾していますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ しかしその苦の全ては滅することの出来る性質のものであると言っているわけです。  ☆ ほんとうに言っていますか? 言っていたとしても 《はじめに苦ありき》ということですよね?  はじめにブッダターがやどるというのとは ずいぶん違うはずです。《はじめにやすらぎありき》というのとは ずいぶん違うはずなのです。  それにその苦が滅するといっても それは おれの解脱の方法によらなければならないと言ったはずです。  つまりあるいは けっきょく何度も六道輪廻を繰り返す人間もいるとはっきり言ったはずです。こんなことをどうして言えるのかと考えます。  ですから  ★ 見解の相違ですね。  ☆ で終わる問題では まだ ないのです。  つまり批判点は ゴータマはただ思い上がっているだけである。何も実質的な中身はない。これです。  中身はないではないか? と問われた時のために 《初めに苦ありき》を前提においている。ということです。――いやいや そうやすやすと解脱はできないんだよ なにしろ初めに苦があって この苦は すべてに渡っているのだから。とか何とか 言い訳に用いることが出来ます。  ★ ドータカは解脱できないなどとは言っていません。  ☆ できるとも言っていないのですが?  つまり気休めにもならないことを言っているだけです。  ▼ 1064 「ドータカよ。・・・ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。  ☆ などと言って けっきょく真理を知るなら自由になるという当たり前のことを述べただけなのです。  ▼ 1066 ~~~~~~~~~~~~  師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という約束を述べたあと ドータカに限らず誰に対しても 守らなかった。《説き明かした》ためしはありません。  ★ 言うのは勝手ですが、却ってブラジュロンヌさんの知性や品が疑われてしまいます。  ☆ わたしのことより 世の中に現在にもいる多くの人がその落ち入っているイカレポンチの状態から解放されるなら そのために話をします。言い方は その自覚症状のない状態をゆさぶる表現をも用います。  ★ いったいどれだけ経典の文言を理解した上でそのように言うのでしょうか。  ☆ では あ_ほなさんは どうなんですかとは言いませんが(なぜなら わたしのように知ったかぶりをされていないからですが) けれども ひとりの人間を忘れていませんか?   すなわち おれはこの上なき知恵のさとりを得たと宣言した男がいるのです。天上天下唯我独尊とのたまわった人間が 約一人います。  いったいどれだけ真理にうらづけられた知恵を会得した上で 成道宣言をしたのでしょうか? てんだい。  ★ ブラジェロンヌ流に理解したつもりになるのは結構ですが、それは恥ずかしいことだと私は思います。  ☆ という問題点は かの男にこそ言うべきでしょう。  ★ また、他の思想者を名指しで非難すること自体が、一切衆生悉有仏性に反する言動でしょう。ブラジュロンヌさんの主張と矛盾していますよ。  ☆ これは 最近のものでは 【Q:ロマ法王「韓国民、倫理的に生まれ変わることを望む」】の中で 確かにぶつかった問題です。おもに にゅうとらるさんが問うています。  問題は あたかも同じ穴のムジナとなってのように あくまで同じ高さの目線でものを言う。ぼろくそに批判する。場合には むしろ相手の存在をとうとび そこにやどるアートマンをおもんじるからこそ そうするのだと思っています。  ところが ローマ法王のものの言い方は やはり上から目線であって おまえら心を入れ替えろと言っている。  ゴータマは なるほど――えらそうな態度をも取っていますが――同じ高さの目線で相手に話をしているとすれば そうだとすれば それでもその言っていることは すべて中身がない話ばかりです。中身があるとしても それは 予告編としてだけなのです。永遠にその本体としての映画はかからないのです。永遠に予告編ばかりを説き続けている。  おそらく誰も自由人になることなど出来っこないと踏んだのでしょう。あとは 人びとが決して心配をしないように 百万遍でも一億遍でも だいじょうだよという予告編をときつづける。こういうスタイルです。  どうでしょう。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

つまり、この一連の質疑応答の答は1068ということでいいのでは? 何処に疑義が挟まるのかが私には理解できませんでした。 ・学ぶべき安らぎ=移り変わる生存への妄執を離れること では?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ つまり、この一連の質疑応答の答は1068ということでいいのでは?  ▼  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・学ぶべき安らぎ=移り変わる生存への妄執を離れること  では?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《1068》の議論によると 《世の中には 〈執着の対象〉ばかりがある》と言っていませんか?  《移り変わる生存》について人は 《妄執をいだく》ものだと言って決めつけていませんか?  はじめには《やすらぎ》はなかった。だから まづ《安らぎを学ぶ姿勢を持つべきだ ≒ 学ぶべきやすらぎをきちんと認識するべきだ》と言っていませんか?  ――つまり やはりそこには 《初めに 苦あり》なのです。  もしゴータマは自分がこの《苦》から自由になったのなら 《初めにある苦》は 解き放つことができる苦である。ということになるのでなければ おかしい。おのれしか自己解放は出来ないという前提をおくことがおかしい。それは 知性ではない。それをも知性だと言うのなら それは 自分が・ほかの人びとは何の問題もなく自分こそが 出来損ないの人間だと明かしたことになる。    おのれの解脱法を商品として売りたいがために 《やすらぎ》をオシエとしている。  そんなものは 一切衆生 悉有仏性だと言えば――そのように前提をおくならば―― 《苦》は仏性を覆い隠し その発現をさまたげることはあっても 人間はこれを克服して行けるのだ。となります。後世のマハーヤーナ―なるブディストたちは そのように見直しました。つまり 解脱法を商品として売るなどということは きれいに棄て去りました。(そのとき ゴータマの顔に泥を塗るような言いぐさは 残さなかった。だけのことでしょう)。  つまり実質的には ゴータマの阿呆! と結論づけたひと言で 一件落着。めでたし めでたし。となりました。

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回答No.4

誤解を与えてしまったようです。 「徹底した〈自力〉ねぇ~」は、「この章をそのように解釈しようとする中村元説は、ちょっとどうなんですかねぇ~」 というわたしの心の中のツブヤキをそのまま記したものです。 NO3回答の内容とは、直接、関係しません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 「この章をそのように解釈しようとする中村元説は、ちょっとどうなんですかねぇ~」  ▲ 1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  ▼ 中村元・註釈 1064 ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。仏は、人々を救うことが出来ないのである。  ☆ 《徹底した<自力>の立場》というのは 潜在する神の霊が励起されることにかんしてなら あり得ないと考えます。人間の自力では無理だという見方です。  そのように絶対他力のはたらきがあるけれども――そのように認めなければならないけれども―― そのハタラキについては 気にしない。いちいちそのことを知ろうとしたくない。つまり 無視ではないとすれば そのことは いっさいブラックボックスに入れておきたい。――というのが そうしたい・そうなりたいという意味での自力派であると見ます。  ▼ 仏は、人々を救うことが出来ないのである。  ☆ この《仏》が 絶対他力ないし法身のブッダを言うとすれば それは あきらかなマチガイだと考えます。

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回答No.3

徹底した〈自力〉ね~。 1064の 「ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」 の  最上の真理→アートマン  知る→見る  この煩悩を渡る→ニルヴァーナ と置き換えると、《ウパニシャッド》になる(笑い)。 主知主義的な態度の表明は、むしろ、1065でしょうね。 ここでは、理法(理法を知識・ヴェーダに置き換えよ!!)を知ることによってニルヴァーナに至ることができる、と書いてある。 しかし、 1066に「伝承によるのではない」とあるので、これはゴーダマによって否定される。 そして、 「まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」 とあるので、  《まのあたり体得されるこの安らぎ》→いま、ドータカの目の前にいるゴーダマ(の安らぎに満ちた様子) となる。 そして、 「それを知って」の《それ》については、何も語っていない!! ということで。 ではでは。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 自力    というのは 勘違いが多いように思われます。  (あ) 絶対他力の信仰を持つ者も 経験世界における意志行為やもろもろの事象にかんしては 自力の問題になります。その行為の首尾不首尾にはかかわりなく そうです。  (い) 一般に聖道門で自力を言うのは けっきょく――経験世界では 前項の《絶対他力信仰》の場合と同じくであり しかも―― 絶対他力を《無い神》として想定している場合です。  (う) 実際問題としては 自力派も 神と――非思考の庭において――かかわっています。ただし自力派と言うからには この非思考の庭なる《無い神なる霊》について もうそれ以上は 気にしないし 認識もしないと自分で決めた場合を言います。  (え) 本人の思いとしては 自力のみだという認識しかない。つまり 《真理・神の霊・アートマン》を《無い神》と捉えてそう想定したあとは そのような絶対他力には いっさい目もくれない。  (お) つまり 絶対他力との関係は 依然としてあるはずなのだが それを認識したくない。すべては 自力の世界であるという心でいたい。そこに何もつけ加えたくない。という立ち場。    ◇  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《まのあたり体得されるこの安らぎ》→いま、ドータカの目の前にいるゴーダマ(の安らぎに満ちた様子)  となる。  そして、  「それを知って」の《それ》については、何も語っていない!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  ゴータマは けっきょく感得せよと言っているようです。したがって そのあとドータカが 《「それを知って」》と言っているのは 理性による知解のことであるようなので トンチンカンである。  ということでしょうが いま それでは 《やすらぎを感得せよ》というのは どういう意味になるか?  すなわち・つまり これが 《サクラメント》なのである。と言ってよいでしょう。  儀式というまでには成っていないかも知れませんが 初対面のこの場が 或る種のイニシエーションの儀式になっているのかも分かりません。つまり サクラメントです。  言葉では――まだ――伝えない。そうではなく 立ち居振る舞いからにおい出る香りを知りなさい。と言っているのでしょう。まさに サクラメント主義そのものだと知ることができます。  そうではないでしょうか。

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     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • スッタニパータ788、789の読み方は?

    中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • 『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図

     よろしくお願いします。  久しぶりに『スッタニパータ』が読みたくなって、岩波版の中村元師訳や、その他の方の訳や解説をいろいろ読んでいて思ったのですが、『スッタニパータ』五章のとくに「序」と「結語」の扱いが悪い気がするんです。  例えば、羽矢辰夫師の『スッタニパータ さわやかに、生きる、死ぬ』においては、議論の中心はもう一つの最古層四章に集中していてますし、五章に関しては「四章を通して読んだ五章」のような印象を受けます。また、テラーワーダの立場からの学術的な翻訳として正田大観師の『世尊よ、あなたに尋ねます 波羅延経精読』においては「テキスト編集者」という言葉は出てきますが、「ちなみに、今回私たちが取り上げるテキストは、スッタニパータ第五章のすべてではなく、もともと存在したはずの波羅延経に該当すると見られる部分」とあって、「テキスト編集者」の意図が最も反映されているであろう「序」と「結語」は触れていません。  まぁ、理由としては、五章は『スッタニパータ』のなかでも最古層とされる部分ではありますが、「序」と「結語」の部分は『チュッラ・ニッデーサ』などの比較検討の研究において後代に付け加えられた部分といわれているからなんでしょう。  しかし、それでは正田師の言うところの「テキスト編集者」の意図は読み取れないように思います。「釈尊の直の言葉」を重要視することはもちろん大切なんですが、それを「伝えようとしてきた人たちの意図」も同じくらい大切だと私は考えます。  で、ここで質問なんですが『スッタニパータ』第五章の編纂者は、「序」と「結語」を通して、何を伝えたかったと思いますか? 私は「序」いわゆる問題提起と「結語」いわゆる結論を説け加えるということは二つの意図を想定できるのではないかと思います。 (1)内容の強調、もともとあった経文のどこかをより強調するため、そこに注意が向くようにうながすための (2)新しい視点の提起、従来の読み方ではなく、新しい視点から五章を読むため いまは、こんなことを考えています。 どうぞ、皆様のご意見を教えてください。また、『スッタニパータ』五章の内容の研究において、「序」や「結語」に注目をした研究や、編纂者の意図を考察する研究等々があったら教えてください。

  • この世でたった1人の女の子について

    こんな相談をするのは初めてなのですが 最後まで読んでいただければうれしいです。 ぼくは中学校の頃に一目惚れした 女の子がいました。 しかし当時のぼくは集団嫌がらせを受けたり 友達が本当に一人もいない環境で (後に思春期うつ病を発症します)大変でした。 なのでその子に話しかけることすら できませんでした。 そして高校になって別の高校へ行き、 もう会ったり話したりはできなくなりました。 ですが、今思っても当時とはかわらず もうこの世ではその女の子にしか 恋愛感情をもてないというぐらい 強い執着心があります。 万人が可愛いとはいわない顔だとは思いますが ぼくはその女の子の顔が完璧にタイプで 声も体も才能も全てぼくの理想通りなのです。 再度いいますが、もうこの世には その子しか恋愛感情をもてない 気がするのです。 中学校の卒業アルバムで その子の声や笑顔が蘇ってきます。 なんだかこの文章を書いていて 自分が「気持ち悪い存在」なのでは・・・! と、少し不安になってきました。 こんなぼくはこれから どうすればいいのでしょうか。 なにかアドバイスでもあれば 是非お願いします。 ここまで読んでいただき ありがとうございました。

このQ&Aのポイント
  • DCP-J925Nのヘッド清掃に手動で移動させたところ、紙詰まりのエラーが発生しました。ヘッドはクリーニングのために動きますが、右側でガチャンと当たるという問題が発生しています。
  • 使っている環境はWindows10で無線LAN接続です。関連するソフト・アプリは特にありません。電話回線はひかり回線です。
  • ブラザー製品のDCP-J925Nでヘッドの動作不良が発生しており、紙詰まりのエラーが出ます。クリーニングのために動くヘッドが右側でガチャンと当たり続けます。接続は無線LANで、環境はWindows10です。電話回線はひかり回線です。
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