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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章)

スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

mmkyの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.24

○ドータカ尊者は、釈尊に、生きながら自身で涅槃を体現したいので、涅槃の境地を問うたわけですね。 釈尊は、自身が涅槃を体験したので、それを話したわけですね。 それが、 1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。 ですが、この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。 生きて涅槃に入るわけですから執着を完全になくさないように、「妄執をいだくな」と言っていますね。執着を完全になくすと「死体」になって死んで涅槃に入ってしまいますので、妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。 「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、」この部分はむつかしいですね。ここが涅槃の境地の味噌の部分ですね。 さて、ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから、即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。空間というのは悟りの上下、時間というのは過去・現在・未来のことですね。つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。 この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。 しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ゴータマ弁護ないしスッタニパータ擁護のご回答内容です。  いくつか疑問があります。  1.  ★ この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。  ☆ ということは このスッタニパータの編集者は 知らないということでしょうか? ドータカさんがさとりをどのように得たのか またその内容は何かについて 知らない。けれど 伝えられたままいわば実況中継をおこなった。  ――こういう理解をするのが 読者一般であるということでしょうか?  2.  分かる人は分かる。分からない者は 分からない。ということですね。  つまり ゴータマ氏もドータカ氏も ほかの人たちに――たとえ分からなくても――さとりの中身を言葉で伝えるという手間暇はかけなかった。そうはしなかった。  けれども たとえただちに分からなくても言葉で表わしておいてくれたら あとで分かるようになる場合もあります。でも そういう親切心は起こさなかった。ということでよいでしょうか?  3.   ★ 妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。  ☆ だとしますと 例の四苦つまりその内の《生なる苦》については 解せなくなります。なんで生が苦であると言ったのか?  《生きる執着》こそが 生が苦であることの原因であり けっきょくそれが無明≒煩悩≒渇愛であると説いたのではなかったのですか? まさか二枚舌ではないと思うのですが。  4.  ★ ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから  ☆ この章で質問をしているのは マナワと呼ばれるおそらくバラモンたちです。中には ピンギヤさんは老人であるようですが けれどもマナワという言葉は 若い青年を意味するようです。ドータカさんも ゴータマの噂を聞いて初めてやって来たということですから まだ若い人であったと推測されるのですが どうでしょう?  5.  ★ 即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。  ☆ そうは なかなか考えられないのではないでしょうか。  要するに世界のすべてのものごとというくらいの意味ではないのですか? あらゆる事象というほどの意味なのでは?  6.  ★ つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。  ☆ いいえ。たとえば ナーガールジュナによれば 《真理》は この世のもろもろの事柄・ささいな物事を離れてはあり得ないという意味のことを言っています。煩悩即菩提です。娑婆即常寂光土です。即身成仏 即得往生です。なぜなら 一切衆生にブッダターがやどるゆえ。  《執着》がどうのこうのと言いだすことがマチガイなのです。ゴータマの欠陥です。明らかな事実です。    7.  ★ この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 / なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。  ☆ ぢゃあ そう言うえむえむけいわいさんは そのゴータマの程度のニルワーナには到達しておられるわけですね。唯仏与仏とも言いますから そうでなければ理解することが出来ないと考えられます。  ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか?  思うに ブッダなる境地にあれば 相手が理解できないとしても 先ほども言いましたがあとになってその言葉による説明があれば 何度もそれを読んで 何とか知ることが出来るようになるかも知れません。そういう意味で 成道の中身を 公開・公表するというお考えはありませんか?  8.  ★ しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 / それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに  ☆ あぁ。やっぱし 尋常でない人たちも こちらがお尋ねするだけ無駄だったようです。

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