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なからざるべからず~その2~

OKATの回答

  • OKAT
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回答No.11

 【共通理解事項としたいこと】  なから(形容詞「なし」の未然形)+ざる(打消の助動詞「ず」の連体形)+べから(推量の助動詞「べし」の未然形) +ず(打消の助動詞「ず」の終止形)  注1. 「べし」は一般的には「推量」であるが、実際にはこの場合、「~にちがいない」(推量)・「…するはずだ」(当然)・「…しなければならない」(義務または命令)などの意味と思われます。  注2. 「べし」の接続は本来「終止形」(「すべし」のように)接続ですが、ラ変型活用には連体形接続です。(ざるべし)  【なから / ざる / べからず の三つの内、何が注目点なのか】    わたしが「ざるべからず」で検索したから言うわけではありませんが、「ざる」と「べからず」の緊密度はかなり高いように思います。「べからず」だけで検索してみました。  結果は、これも動詞の後に付く場合が多く、「言うべからず」「すべからず」「思うべからず」とかなり多いのですが、この場合の意味は「~してはいけない」であり、命令の打消、いや打消の命令となります。  故に子を教うるがためには労を<憚(はばか)るべからず>、財を<(いとし)むべからず>。よくその子の性質を察して、これを教えこれを導き、人力の及ぶ所だけは心身の発生を助けて、その天稟(てんぴん)に備えたる働きの頂上に<達せしめざるべからず>。 「教育の事」 福沢諭吉  上記の<憚(はばか)るべからず>がそうですが、対して<達せしめざるべからず>の方は明らかに二重否定になっています。ただし、「べからず」がつくもので、例外があります。ここでも「なし」が絡んできます。次の例です。   一人の教育と一国の教育とは自(おのずか)ら区別<なかる/べからず> 「教育の事」 福沢諭吉  「なくてはならない」(の二重否定)=「あるべきだ」(当然)となります。  前に発言したことに係わるので、具合悪いのですがやはり「二重否定」と認めざるを得ません。   その他の二重否定はあるか、と考えていると 「悪天候が続けば登頂は断念せ<ざる>を得<ず>」を思い付きました。そして「これは漢文の訓読ではないのかと気づき、探してみました。 漢文訓読の二重否定の例 ~せざるにあらず(~しないのではない) ~なきに(しも)あらず(~がないのではない) ~せざる(は)なし(~しないものはない) ~にあらざるなし(~でないものはない) ~せざるべからず(~しなければならない。~しないことがあってはならない。) ~せずとなさず(~しないとはいえない) ~せざるをえず(~せずにはいられない)  そうすれば「なからざるべからず」も漢文にすれば、「不レ可レ不レ無」ではないのか。当時の文人は漢文訓読など日常茶飯事だったのだから、このような言い回しにほとんど抵抗感がなかったのではないでしょうか。  【二重否定と否定呼応】 「二重否定」であれこれ探している内、「否定呼応」に行き当たりました。そのなかに「強い肯定」「緩い肯定」ということばが出てきました。読んだ文章の一部を引用します。 ○現代の標準日本語では上述した「全く」「ほとんど」「絶対」などは文末の否定語との対応関係を失い、肯定文でも用いられるようになっており、否定呼応は更に廃れていく傾向にある。 そのため現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。 ○肯定の意味で二重否定を用いる修辞技法は緩叙法と呼ばれる。本項では主に、単純否定を意味するのに二重否定を用いる用法、すなわち二つの否定語が対応してひとつの否定表現を作る否定呼応を中心に述べる。  一般に否定呼応を用いる言語で、緩叙法は用いられないか、あっても用例は少ない。逆に緩叙法を用いる言語では否定呼応は用いられないか、非文法的とされる。これは緩叙法を用いる言語はひとつの否定表現をひとつの否定語と対応させるため、否定語を重ねることは否定を否定(-×-は+という論理)して肯定を意味することになるためであり、逆に否定呼応を用いる言語では、否定語を複数用いることは否定の否定(-×-)ではなく、否定の強調または否定の成立条件(-+-)であるとされるからである。両者をひとつの言語の中で認めると、論理的な混乱を招くことになる。 ○特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる。 ○現代標準日本語では一部の表現に否定呼応、もしくはそう捉えられることのあるものが見られる。例として「何も」「あまり」「全く」「ほとんど」「絶対」などが文末の否定語と呼応して用いられる表現があげられる。しかし単独で否定を意味する単語はごく少なく(助動詞「ない」「まい」、形容詞「ない」、補助動詞「かねる」)、名詞を否定する表現(「ない袖は振れぬ」など)も滅多に用いられない。そのため上掲のように異なる否定語が組となってひとつの否定表現を形作る、否定呼応は極めて少ない。  また、現代の標準日本語では上述した「全く」「ほとんど」「絶対」などは文末の否定語との対応関係を失い、肯定文でも用いられるようになっており、否定呼応は更に廃れていく傾向にある。  そのため現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。  また、「満更でもない(全く嫌というわけではない)」のように、慣用句として扱われる表現もある。この場合は肯定を強調しているのではなく、否定の緩和、つまり部分的な肯定を表すが、厳密には緩叙法に含めないこともある。  詳しくは「否定呼応」で検索してください。

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質問者

お礼

回答有り難うございます。 頭が痛くなりそうな情報なので頂いた内容を検討するのは後日にして、まずはさらっと返答しておきます。 まず、漢文を念頭に3重以上に否定を連結するというのは、まずは具体的にそういう漢文が存在したかどうかによると思います。漢文訓読の話はそれを例示してから先にすすむと思います。というか、私は漢文がわかりませんのでただ聞くだけになるでしょうが、実例が1つも無いのならいつまでたっても納得はできないような気がします。 それと、これはこの回答とは関係ないのですが、 わたしは前のスレの時からずっと「なからざるべからず」を短歌の枕詞のように定型句として使っていたとは思えずにいました。まず、庶民が使う事はほとんどなかったのではないかと思います。現在の社会を考えても、なくはない、までは使う事があるとしても、なくはないとはいいきれない、などという言い方は庶民的表現ではありません。むしろそれは言葉に気を使う職業や立場の人達が必要にせまられたときに使う言葉使いだと思います。ということは、普通の肯定や単純否定とは違い、相当なニュアンスがそこには含まれて使われていたというのが自然なのではないでしょうか。意味もなく否定を何重にも重ねた言い回しを特別な意味を念頭におかずに使いこなすというのは想像しにくいです。否定1つや肯定1つの意味が3重否定的な言い回しと同義だとはおもえません。語呂がいいですし、かしこまった言い方という役割はあったにせよ、特別なニュアンスがなかったとは思えません。人はむずかしくややこしい表現を口にするときはその意味の連なりを意識しながら口にするものではないでしょうか。 そういうことを念頭にこの問題を考えています。

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