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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《空中の権能》とは 何でしょう?)

空中の権能とは何でしょう?

このQ&Aのポイント
  • 過ちと罪により死んでいた私たちにとって、空中に勢力を持つ者はこの世を支配する存在であり、不従順な者たちの内に今も働く霊こと悪魔のことを指します。
  • 空中に勢力を持つ者はこの世を支配し、不従順な者たちの内に働く霊は悪魔であるとされています。
  • 自由意志によって悪いことを思い実行することもあるかもしれませんが、空中の権能と霊の存在が私たちの罪と関係していることは否定できません。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

bragelonneさん こんばんは ベストアンサーのお礼にbragelonneさんの哲学体系構築の一助として参考文献となればと思い投稿いたします。 現在の宇宙観にこびりついた現代人の私は、なんと斬新な考えだと思ってしまいますが、当時の古代ユダヤ教の考えでは空には、第1の天として空高く雲のあるところ、第2の天として星や天体が張り付いているところ、第3の天としていわゆる楽園があると考えられていたそううです。 コリント人への第二の手紙12章2節に出てくる「第3の天」という言葉を読んでいただけるとわかりますが、パウロもこのような宇宙観を持っていたと考えられます。 さて、ご質問ですが、この聖句の「この世を支配するもの(アイオーン)」は永遠の時の流れ、または、グノーシス神話(知識豊かなbragelonneさんはもうご存知と思いますが、もうパウロの時代からキリスト教の異端が生まれ使途行伝8章9節に出てくる魔術師シモンはグノーシス主義のシモン派を率いていたそうです。)の中では悪しき霊的存在を示すそうです。 「かの空中」とは天の最下層(おそらく第1の天ですか)でグノーシス神話の中では諸霊の勢力を持つ者(アルコーン)が住むとされていたそうです。 ですからサタンと捉えてもいいと思いますが、パウロにとってのこの使い回しはグノーシス主義をキリスト教の異端であるという意味合いが含まれているかもしれません。 回答(お)につきましては私も賛成です。神は人間を自由意志がないロボットとしてはいないと思います。 アダムとエバの話にしろ十戒にしろ神は「~してはならない」と断言命令してますが、これはもし神と人との間に愛と信頼の関係あるのなら、その文をすべて「~するはずがない」と置き換えも可能と思います。前提つきですが。 (か)はいかがでしょう。ヒットラーなどは悪魔に取り付かれたかもしれない。bragelonneさんは哲学体系が完成しても、まさか独裁者として君臨する野望はないと断言してください(笑) しかし、子孫がbragelonne哲学体系を使い世界統一戦争をおっぱじめるかもしれませんよ。そうならないようにくれぐれもご注意ください。 以上参考文献でした。

bragelonne
質問者

お礼

 まづ聖書のくだりの確認です。  ▼ (コリント後書12:2-4) ~~~~~~~~  2: わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。    3: わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。  4: 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 確かに 《第三の天》と《楽園》が出て来ますね。    あめんほてぷ2000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「この世を支配するもの(アイオーン)」は永遠の時の流れ  ★ 諸霊の勢力を持つ者(アルコーン)  ☆ これらは 確かに使われていますね。  ▲ (エペソ書 2:2) ~~~~~~~~~~~  κατὰ  τὸν  αἰῶνα(<アイオーン)  τοῦ  κόσμου  τούτου  = according to the course of this world,  = この世を支配する者に従い  κατὰ  τὸν  ἄρχοντα(<アルコーン)  τῆς  ἐξουσίας  τοῦ  ἀέρος  = according to the prince of the power of the air  = かの空中に勢力を持つ者に従い  〔 κατὰ  τὸν  ἄρχοντα(<アルコーン) 〕 τοῦ  πνεύματος  = 〔 according to the prince of 〕 the spirit  = 霊〔の支配者〕に従い  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ グノーシス神話((中略)・・・もうパウロの時代からキリスト教の異端が生まれ使途行伝8章9節に出てくる魔術師シモンはグノーシス主義のシモン派を率いていたそうです。)  ☆ ということは この《悪魔≒空中の権能》とは グノーシス主義ですからけっきょく思考と想像の産物として現われたものだ。ということでしょうか?    偶像の神 思念ないし観念としての神だということでしょうか。  いや あるいは グノーシス主義は 二元論ですね。それも 関係していましょうか。  ふむ。ただ 信仰の道をはづすという場合は グノーシス主義のごとく理念志向によるだけではないとは思われます。善神と悪神との二元論によるマチガイだけではないかも知れません。  ☆☆ (趣旨説明欄)(お) いいえ。自分たちのそれぞれの自由意志で よからぬことを思いこれを実行してもいただけなのではないのでしょうか?  ★ 回答(お)につきましては私も賛成です。神は人間を自由意志がないロボットとしてはいないと思います。  そして  ★ アダムとエバの話にしろ十戒にしろ神は「~してはならない」と断言命令してますが、これはもし神と人との間に愛と信頼の関係あるのなら、その文をすべて「~するはずがない」と置き換えも可能と思います。前提つきですが。  ☆ これは そういった解説がついていますね。必ずしもオシエないし規範なのではないという見方です。律法ないし法律ではなく アブラハムの信仰に立って その信仰によってあゆむというかたち。信仰の道をあゆむ者には 《ころすという行為をするようになることはない》といったように。  ☆☆ (趣旨説明欄) (か) 悪魔などは 屁の河童であると言わねばならないのではないでしょうか?  ★ (か)はいかがでしょう。ヒットラーなどは悪魔に取り付かれたかもしれない。bragelonneさんは哲学体系が完成しても、まさか独裁者として君臨する野望はないと断言してください(笑)  ☆ 独裁者を放っておくような人びとからもし仮りに支持を受けても うれしくない。でしょうね。  ★ しかし、子孫がbragelonne哲学体系を使い世界統一戦争をおっぱじめるかもしれませんよ。そうならないようにくれぐれもご注意ください。  ☆ 悪魔に取り憑かれることがないということが分かって来たなら ひょっとして人間の知恵と能力と努力とで 競争が始まるかも知れませんね。互いに自由な批判を もろに・余すところなく おこないきるようになるかも分かりません。  経験合理性にもとづく推論が行き着くところまで 議論をつらぬきとおすようになるかも分かりません。  議論戦争が始まるかも分かりません。  

bragelonne
質問者

補足

 《第三の天》など《天》をめぐる宇宙観について 次の質問と回答を見つけました。いくぶん神にかかわらせたオシエというその中身に近い解釈ではないかと思いますが ここに掲げておきます。  【Q:聖書の記事について質問です。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7724767.html  ◆ (回答No.2:第一の天から第三の天までについて) ~~~~  第一の天とは、物質的な天、大空または宇宙。  第二の天は 霊的な天使たちの住む領域。そして、  第三の天、つまり「天の天」とは、全能の神の王座のあるところ、  ということができます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《天使の住む・第二の天》に どうも《悪霊ないし 堕天使でしょうか悪魔》なるチカラがはたらくと見られているのでしょうか? エペソ書6:12に《天にいる悪の諸霊》とあるようです。  ◆ (同上:空中の権能について) ~~~~~~~  ヤコブ(イスラエル)も天使と格闘してついには勝ちましたが、「腿の関節、つまり腰の筋」を打たれて謙遜にさせられました。(創世記27:24-32)  それに対応して、クリスチャンは悪魔(ヤコブの時の天使に対応)と格闘しなければなりません。   「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 」  とエフェソス6:10-18にあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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その他の回答 (15)

noname#214841
noname#214841
回答No.5

「お礼」ありがたうございました。 >>《サタンの支配》というのは 単なるタトエであって >>じつは 単純に人間の自由意志の――おのれにさからう場合の―― >>自由度とそれを駆使したときの心の状態 これを言うのではないでしょうか? 私はそこまでは断言できません。存在として認めてもよいのではないか、とも思ひます。ただし、一人の人間として聖書を読み、みづからへの戒めとしての価値を見出すならば、bragelonneさんのお考へに賛成です。私はさういふ立場です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 〔* 悪魔 あるいは サタンの支配について〕 存在として認めてもよいのではないか、とも思ひます。  ☆ ここが 重大な問題点であると思うのです。  つづきましてのご回答をありがとうございます。  つまり 《存在として》という概念そのものが 一大事ではないでしょうか? 悪魔のことについてですよ?  つまり 文学として そのような表現を用いることは 何の制約もありません。表現がうまかったか・まづかったかだけで判定すればよいのだと思います。  でも 哲学は 済まされないでしょうね。  つまり 悪魔・サタン・空中の権能・・・これらは 文学の問題であるというのが 質問者の立ち場です。  ちょっと軽いかたちで・つまり例によってコーヒーブレイクとして 出してみておこうと思ったのですが 大きな問題点を――わたしから見れば――成しているようですし 意外と《悪魔》論は みなさんがそれぞれ持論をお持ちのようです。  いましばらく出来るところまできちんと進めて置こうとは思います。  ★ 一人の人間として聖書を読み、みづからへの戒めとしての価値を見出すならば  ☆ という観点からの判断 これもありそうなのですが どうでしょう? ありそうで まだ分かりにくいとも言わなければならないように感じます。  それは 先ほどの《存在するかどうか》の問題です。悪魔は 想像の産物であり 文学の扱う題材ないし主題である。哲学は 表現の問題であらそわないという条件で タトエとして用いることがある。となると思います。  すなわち  ★ 私はそこまでは断言できません。  ☆ というときの《断言》の問題ではないように思っています。つまりぎゃくに言うと ジャンルの違い・つまりそこでの扱い方の問題であると。  おおきな論点だと思います。  ところで  ▼ Eph 2:4  But God, who is rich in mercy, for his great love wherewith he loved us,  ▲  2:4   ὁ  δὲ  θεὸς  πλούσιος  ὢν  ἐν  ἐλέει  διὰ  τὴν  πολλὴν  ἀγάπην  αὐτοῦ  ἣν  ἠγάπησεν  ἡμᾶς  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Eph&c=2&t=KJV#s=t_conc_1099004  ☆ この《 ἣν 》って何ですか? 関係詞ですか? 《 wherewith 》と訳されているのですが。

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回答No.4

bragelonneさんこんにちは。以前、「言葉をなぜ、学ぶのか?」に参加させていただいた音楽家です。 キリスト教に詳しくないので直接の回答はできないのですが、引用文にわからないところがあります。 >この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者 とあるのですが、「この世を支配する者」の部分が、私が所有する聖書(フェデリコ・バルバロ日本語訳、講談社)には、「この世のならわしに従って、空中の勢力のかしら、すなわち不従順な人々の中に今も働く霊に従って歩んでいた」とあり、ルター訳のドイツ語の聖書でも「Auch ihr wart tot durch eure Übertretungen und Sünden, in denen ihr früher gelebt habt nach der Art dieser Welt, unter dem Mächtigen, der in der Luft herrscht, nämlich dem Geist, der zu dieser Zeit am Werk ist in den Kindern des Ungehorsams.」、つまり「nach der Art dieser Welt」となっております。また、講談社の方の注釈には、「空中に勢力を持つ者」は「悪魔」のこと、とありました。したがって、もしこれが正しいとすれば、 (あ)(う)「空中の勢力のかしら」「不従順な人々の中に今も働く霊」はともに「悪魔」ということではないでしょうか。 (い)は、その文が本来「この世のならわしに従って」という意味であるとすれば、質問が成り立たなくなってしまいますが、その「悪魔」に従って生活することが世のならわしになっていた、という意味では、「悪魔のならわしに従って」ということになりますね。 (え)注釈によると、「あなたがた」は「異邦人の信者」、「不従順な人々」は「ヘブライズム」、「私たち」は「ユダヤ教からの信者」とありました。 (お)よからぬことを、よきことと思わせる教えのもとに暮らしていたのであれば、自由意志というより、よからぬことをしていると思っていなかったのでは? (か)「悪魔などは 屁の河童である」- 悪魔であることに気付いていなければ、そう叫ぶことはできませんね。 聖書などほとんど読んだことがない者の回答です。本気になさらないでください。

bragelonne
質問者

お礼

 たすてんかすてんさん こんにちは。ああ そうでしたか。《日本文化》の質問で 質問者にていねいにおしえてあげていましたね。そのときは 作曲家さんだとは知りませんでした  ご回答をありがとうございます。    ★ (か)「悪魔などは 屁の河童である」- 悪魔であることに気付いていなければ、そう叫ぶことはできませんね。  ☆ なかなかきついツッコミだと思いました。  それから バルバロ訳は 参照できました。ルーテル訳は 持っていませんので 参考にさせてもらいます。  ▽ unter dem Mächtigen, der in der Luft herrscht, nämlich dem Geist  ☆ これは    ▲ according to the prince of the power of the air, 〔 the prince of 〕the spirit  とあるその《 the prince of the power 》が 《 dem Mächtigen 》なる一語に訳されているので  わかりにくくなっていますが 《 nämlich dem Geist 》の《霊》は 《空中の権能( the prince of the power )》のことだと捉えられます。  ☆ つまりは 意味からすれば  ○ der in der Luft herrscht, =  nämlich dem Geist  であるのかなと考えます。    その限りで バルバロ訳は 次のように受け取るほうが 逐語訳としては よいようです。   △ この世のならわしに従って、〔また〕空中の勢力のかしら〔に従って〕、すなわち不従順な人々の中に今も働く霊〔なる頭〕に従って歩んでいた  でしょうか。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  講談社の方の注釈には、「空中に勢力を持つ者」は「悪魔」のこと、とありました。したがって、もしこれが正しいとすれば、  (あ)(う)「空中の勢力のかしら」「不従順な人々の中に今も働く霊」はともに「悪魔」ということではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは おそらく一般の見方だとわたしも思います。(い)についても おっしゃるとおりに思います。  むしろ問題は 質問者にとって 《悪魔》が どういう実態(実体?)であるのか? にあります。  ★ (え)注釈によると、「あなたがた」は「異邦人の信者」、「不従順な人々」は「ヘブライズム」、「私たち」は「ユダヤ教からの信者」とありました。  ☆ 《不従順な人びと》とは 旧約の世界になお閉じ籠るヘブライイズムでもあるのでしょうし 一般に《神――ヤハヱーやキリストの神を超えた一般・普遍の神――》との関係を受け取りも拒みもしないところの・信仰としてのっぺらぼうの生き方ではないかと考えますが どうでしょう。  ★ (お)よからぬことを、よきことと思わせる教えのもとに暮らしていたのであれば、自由意志というより、よからぬことをしていると思っていなかったのでは?  ☆ ここも ツッコミの響いたところですが ものごとが入り組んでいると思います。  旧約の時代であるなら 《よきこと・よからぬこと》は 一般にモーセの律法に明らかにして記されています。  モーセの以前には アブラハムがいたのですから そしてかれは律法の規範によるというよりは 信仰によってあゆむ人間でしたから また話がややこしくなると思うのですが 要するに――モーセの律法による規範がものを言う時代にあっても けっきょくは―― ヤマシサ反応は 誰にもはたらくと考えます。  だれの心にも やましさを知覚することが 生まれつきの自然本性としてそなわっています。(ブッダター(仏性)がやどると言っても 同じことでしょう)。よって その意味で 自由意志はすでにあった。その意志による判断をおこなう際に ヤマシサ反応があらわれます。よからぬことを考えると 考えるだけで胸が動悸をおぼえたりします。  したがって 《よからぬことを、よきことと思わせる教えのもとに暮らしていた》としても それは―― 一時期の一部の人びとないし地域で自由意志の自覚がとぼしくなっていたとしても―― やはりすでに感性が よきこと・よからぬことの判定をヤマシサ反応としておしえているのではないかと考えます。  したがって  ★ よからぬことをしていると思っていなかったのでは?  ☆ については いわゆる社会において集団としての洗脳があって そのハタラキが影響したとしても 一時期・一地域・一部分ではないかと考えるのですが どうでしょう。  戦時中というけっこう長いあいだ・多くの人びとが マインド・コントロールにかかったような歴史もありましたが。また 韓国は 長い長いあいだ集団としての集団の全体が おかしくなっていると見られますが。  さて 悪魔論は いかがあい成りましょうか。

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回答No.3

KJVと日本語訳ですと分かりにくいので、 Net Bibleから引用しますと ――――――――― Ephesians 2 2:1 And although you were1 dead in your transgressions and sins, 2:2 in which you formerly lived according to this world’s present path, according to the ruler of the kingdom of the air, the ruler of the spirit that is now energizing the sons of disobedience, 2:3 among whom11 all of us also formerly lived out our lives in the cravings of our flesh, indulging the desires of the flesh and the mind, and were by nature children of wrath even as the rest… https://bible.org/netbible/index.htm ――――――――― と非常に分かりやすいようです。 この注釈を見ると、 he ruler of the kingdom of the air is also the ruler of the spirit that is now energizing the sons of disobedience. Although several translations regard the ruler to be the same as the spirit, this is unlikely since the cases in Greek are different (ruler is accusative and spirit is genitive). To get around this, some have suggested that the genitive for spirit is a genitive of apposition. However, the semantics of the genitive of apposition are against such an interpretation (cf. ExSyn 100). とありますので。 the air,に続くspiritに該当するギリシア語は属格、所有格で、 日本語訳、KJVともに訳として問題があるようですね。  ―――KJVはグレイか。でも、日本語訳には問題がある!! とんでもない誤訳の可能性がある――― これを読むと、悪者は《肉・flesh》となるのですかね。 この訳が正しいならば、 この霊は悪魔や悪霊ではないということになりそうです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。やや 複雑なようです。  つづいてのご回答をありがとうございます。  わたしが理解したところでは  ◇ the air,に続くspiritに該当するギリシア語は属格、所有格で、  ☆ ということで NetBible の訳が 原文に忠実なように思います。  すなわち:  ▲ according to the ruler of the kingdom of the air, the ruler of the spirit  ☆ であるようです。ということは KJV についてこれをあてはめるなら こうなります:  ▼ according to the prince of the power of the air, 〔 the prince of 〕the spirit  ☆ ややこしいですね。    ○ 空中の権能なる王(第一人者・支配者) [・・・]霊の王(支配者)  それから 知り得たこととして:  ○ 2:1 や 2:2 の 《あなたがた》は ユダヤ人ではないいわゆる異邦人のこと。    2:3 の《われわれ》は ユダヤ人のこと。  であるようです。  さて 空中の権能とは 何でしょう?   もし悪魔だとして それは 実態があるのでしょうか?

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noname#214841
noname#214841
回答No.2

先日は、外国語カテゴリでの、投稿文盗用問題におつきあひくださり、ありがたうございました。さらに調べてみると、哲学カテゴリの回答文もYahoo知恵袋にコピペされてゐました。「デジタルライフオールスターズ」といふサイトがあるのですが、そこでこの件の監視もしくは注意報発令などの役割をはたしてもらへないものかと、今思案中です。 質問文のパウロの言葉は、ぶらげろさんの解釈のとほりと存じます。下記のとほり、ルカもヨハネも、同じ趣旨の記述をしてゐます。 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。 (使徒言行録26章18節 新共同訳) わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。 (ヨハネの手紙一5章19節 新共同訳) 神の国が現実世界において実現してゐない以上、「サタンの支配」とみなすのが聖書的な発想です。以前ねこさんから、聖書の教へは、善と悪といふ極端な二項対立だといふ指摘を受けました。たしかに、これは聖書を読むときに、心にとめておかなければならないきはめて重要な要素です。 最終的な判断ができるのは、神のみです。私は、予定説でさへ誤りだと思つてゐます。小さな存在にすぎない人間がかるがると判断すべきものではありません。人間にできるのは、ぶらげろさんがおつしやるとほり、「それぞれの自由意志で よからぬことを思いこれを実行してもいただけなのではないのでしょうか?」、その程度のことにすぎません。 私は「屁の河童」などと主張するほど下品ではありませんので、(あ)から(お)までに同意いたします。 以上、悪魔plapotaの意見でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (使徒行伝 26:18) ~~~~~~~~~   〔* イエスが パウロに向かって語っていることばとして イエスがこのサウロ=のちのパウロを召したのは〕  それは、彼ら(* イスラエル人および異邦人つまり世界の人びと)の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたし(* イエス・キリスト)への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。   (使徒言行録26章18節 新共同訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですね。けれども この《サタンの支配から神に立ち帰らせ》というときの《サタンの支配》というのは 単なるタトエであって じつは 単純に人間の自由意志の――おのれにさからう場合の――自由度とそれを駆使したときの心の状態 これを言うのではないでしょうか?  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  回答No.1でのやり取りにも このいま述べました趣旨を説明しています。併せてお読みいただければ さいわいです。  すなわち  ▲ (ヨハネの手紙一5章19節 新共同訳) わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。  ☆ というときの《悪い者の支配》というのは そうではなく 人間にあってそれぞれおのれの意志自由なる選択における――よからぬほうの――自由度のことを言うのではないか? です。  空中の権能などが 人間と別様にいるわけがありません。  そんなことを言うから――つまりは タトエを実在のものであるかのように見たり言ったりするから―― たとえば《人間の自由意志や知性から独立した〈ムイシキ〉なる領域》を推し立てられても 文句を言わないのですし 批判をし得ないままでいる。のではないでしょうか?  アーラヤ識などと言っても ただの想定です。  ましてや アマラ識=九識などというのは あり得ません。  シュウキョウだけではなく 哲学までも まだまだ《おままごと》の域を出ない。  ★ 以前ねこさんから、聖書の教へは、善と悪といふ極端な二項対立だといふ指摘を受けました。たしかに、これは聖書を読むときに、心にとめておかなければならないきはめて重要な要素です。  ☆ これは 次元がちがいます。空中の権能とは 別です。  そのように対立する二項としての善と悪という概念は あくまで人間の自由意志による《ヤマシサ反応にさからわない自己同一性とその保持》とそして《ヤマシサ反応にさからっておこなう意志行為とそれによる心の欠け》とであって そのように相対的な世界における相対的な内容の概念です。  この際 重大なことを提起します。  ★ 最終的な判断ができるのは、神のみです。  ☆ という命題は 人間の意志行為としての判断です。それ以外のものではありません。  人間ぶらじゅろんぬの見るところを推し進めています。  

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回答No.1

KJVですと ――――――――― 1 And you hath he quickened, who were dead in trespasses and sins; 2 Wherein in time past ye walked according to the course of this world, according to the prince of the power of the air, the spirit that now worketh in the children of disobedience: http://www.kingjamesbibleonline.org/Ephesians-Chapter-2/ ――――――――― ですね。 これはこれで、どうとでも解釈できる文章ですね~。 で、 この「the air」は、「虚勢」とか「外見的に取り繕った態度」とかの意味、あるいは「空中楼閣 air castle」の「air」とかの意味で、「虚しいもの」、「実際には無い」とかの意味なんでしょうね。 ☆☆ (あ) 《空中に勢力を持つ者》とは なんでしょう?  (い) それが 《この世を支配する者》なのですか? ◇不従順な子らに働く霊ですよ。 《悪魔》や《悪霊》と呼ばれるものなのでしょうね。 ☆(え) このような《権能》が《霊》としてはたらき わたしたちは《死んでいた》のでしょうか? ◇この文章を読むかぎりは、そうなるのでしょうね。 (見た目は)生きてはいたが、(実は)死んでいた、死んでいたも同然だった、となる。 ☆(お) いいえ。自分たちのそれぞれの自由意志で よからぬことを思いこれを実行してもいただけなのではないのでしょうか? ◇イエスとイエスの教えを信じることによって聖霊が後天的に与えられるものか、 そうではなく、 生得的に我々に備わっているのかによって違ってくるのでしょうね。 前者の立場に立つならば、自由意志の選択ではない、と考えるべきなのでしょうね。 《悪魔》や《悪霊》によって支配されているのですから。 後者の立場に立つならば、「自由意志で」ということになるのでしょうね。 ですが、《先天的に聖霊が備わっているよ説》だと、「人が何故悪を行なうのか」がうまく説明できなくなるじゃないですか。 まっ、 「悪いのは肉の部分だ」と、霊の部分ではなく《肉》を悪者にしちゃえば、 この件については何とか説明がつくのかもしれませんが。 ☆(か) 悪魔などは 屁の河童であると言わねばならないのではないでしょうか? ◇わたしは、これでも一応《自力》派なんで、「悪魔なんて本当はいない」とは言いますが、 ここまで踏み込んだ発言はしませんよ、絶対に。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。言いたいことは  ◇ 《悪魔》や《悪霊》によって支配されているのですから。  ☆ という状態について それは いやいや   ○ われわれ人間が 自分の自由意志で よからぬことをたくらんでそれを実行に移した。だけではないのか?  です。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  つまり だって アダムとエワとには初めから自由意志がそなわっていたからこそ それぞれのおのれの心に あの木から採って食べてはいけないというヤマシサ反応が起きていた。しかもそれにさからって 食べたのは 同じ自由意志による考えとおこないである。のではないでしょうか?  悪魔だとか 空中の権能などというチカラは どこにもありません。  人間の自由意志の自由度を表わしただけのタトエなのではないでしょうか?  というのが 趣旨です。  ◇ ですが、《先天的に聖霊が備わっているよ説》だと、「人が何故悪を行なうのか」がうまく説明できなくなるじゃないですか。  ☆ いえ。ですから おのれの心――聖霊なるきよらかさ――にさからって自分の意志をおこなう自由度を われわれ人間は 持つ。すなわち 《心にさからう》ことは よからぬことであり 言うとすれば悪なのではないでしょうか。  ヤマシサ反応を強行突破する意志自由のことであり その実行であり その結果 おのれの心に出来た欠け――自然本性のきよらかさなる心に出来た欠け―― これらを 悪と呼ぶのだと見ます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  まっ、  「悪いのは肉の部分だ」と、霊の部分ではなく《肉》を悪者にしちゃえば、  この件については何とか説明がつくのかもしれませんが。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいえ。悪を考えつきそれを 論理によって弁護しつつ実行するのは 理性です。悪を考えるにあたっては 感性ないし感情としての知覚をきっかけにしたかも知れません。  ただし この知覚にもとづきそのまま先へ進むのは やましいことだとおしえるのは それも 感性であると捉えます。  つまり わるものは 理性でありおのれの知性なる心であり じつに おのれの自由意志である。となりませんか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆(か) 悪魔などは 屁の河童であると言わねばならないのではないでしょうか?   ◇ わたしは、これでも一応《自力》派なんで、「悪魔なんて本当はいない」とは言いますが、  ここまで踏み込んだ発言はしませんよ、絶対に。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《空中の権能》に義理立てしなければならないことでもありますか?

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  • 《空中の権能》とは いわゆるクウキのことでしょうか

     この問いは 次の質問をさらに派生させたものです。  【Q:《空中の権能》とは 何でしょう?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8735720.html  いくぶん いえ かなり主観的な見方に片向いており それゆえ主流では必ずしもなく 《派生させたもの》ということですが 問うておきたい主題であり問題だと考えます。  まづ《空中の権能》について確認します。:    ▲ (エペソ書 2:1-2) ~~~~~~~~~~~  1: さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。  2: この世を支配する者、≫かの空中に勢力を持つ者≪、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。  KJV: Eph 2:2 : Wherein in time past ye walked according to the course of this world, according to the prince of the power of the air, the spirit that now worketh in the children of disobedience:  ▲ (同 6:12 ) ~~~~~~~~~~~~~~  12: わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、≫天にいる悪の諸霊≪を相手にするものなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 悪というよりも むしろ善い悪いを別にしてと言いますか 善い悪いをみな包むようにして 一定の社会には 思潮や風潮あるいはナラハシといった暗黙の取り決め(黙契)があって これがいわゆるクウキとして作用している。と考えられます。  このことは 英訳の   ye walked according to the course of this world  という表現にあんがいピッタリであるように感じられたものですから 尋ねてみたいと思いました。  身の回りのそれぞれの場で特殊具体的なクウキが あたかも支配していたり そして社会全体の場についても それらのクウキの大元を成すエーテルが やはり空(そら)を あたかも透明なかたちで覆っている。かも知れません。  そこで一度問うておきたいことは 次のようです。:  (あ) 単純に《悪》だと決めつけることは――善意の心がぜんぶ削除され切っているわけではないでしょうから――憚られますが 要するに《この世の支配者》は 空中にただようクウキであるでしょうか?  (い) もしそうだとしたら その空中の権能なるエーテルは どうしてそのような支配的な作用たるクウキを醸し出すように 出来てしまっているのか?  (う) クウキもエーテルも 人間の思惟と行為――つまりは そのようなカルマ(おこない・業)としての過去の歴史やまたそこで形成されたナラハシといったもの――が むしろ人びとそれぞれの身についたようにして出来上がって来ており ゆえに何らかのチカラとして はたらく心なのであろうか?  (え) 空中のチカラと言っても 人間のものであるなら これを変革していくことが出来る。のではないか?  (お) 悪魔とは われらが胸中のものなり。と言い切って行くことが出来るか?  (か) しかもさらに問いたいことは このようなエーテル教とも言うべき日本教ないしそれが醸し出すクウキといった現実は ほかの国や社会にも見られるだろうか?  (か-1) 韓国には 法律条文を凌駕する《国民情緒》法が支配しているとか。  (か-2) ひょっとして 欧米の社会にも このクウキなる場の作用は まぎれもない現実なのではないでしょうか? この点は よく分からず生活感覚としてはまったく分からないので特におしえを乞います。

  • 原罪は 悪魔とともに 方便。無い。屁の河童。

     1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治》が なかなか思うようにならない(=《苦》)ことの説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に想像されていたもので そのような人びとのあいだの通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経てシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり なかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  批判を歓迎します。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • 何故イエスキリストは主アルケーの教えに逆らったのか

        かつてナザレの民イエスキリストは奇跡と称して様々なパフォーマンスを行ったとゆー。 死人に触ってその死人を生き返らせたとゆー。 ガラリヤ湖の上を空中浮揚し裸足で渡るところを皆に見せたりしたともゆー。 その結果ナザレの村の風紀を乱した罪によりローマ軍に捉えられ磔にされ処刑された。 ローマ軍の裁きは正しかった。 宇宙の支配者であるアルケーの神は如何なる者も宇宙の法則に従わねばならない、奇跡など起こしてはならないと教えたのである。 ナザレの民イエスキリストはこのアルケーの神の教えに逆らったのである。 イエスキリストはアルケーの神の偉大さを忘れたのであろーか。 なぜイエスキリストは主アルケーの教えに逆らい奇跡を起こそーなどと愚かなことを考えたのであろーか。    

  • アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?

     アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。  社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。  ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?  感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。  鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?  そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。  まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?  ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~  およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。  無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。  彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。  〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。  自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。  政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。  (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?  極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?  それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 悪魔崇拝者イルミナティ

    ローマ法王とエリザベス女王、ロックフェラーとロスチャイルド、ブッシュ一族。彼らは皆、悪魔崇拝者です。 前ローマ法王ベネディクト16世とエリザベス女王については、実際に逮捕状が出されており、特に彼ら二人が悪魔崇拝者であることにはもはや疑いの余地はありません。 ロックフェラーとロスチャイルド、ブッシュ一族についても、多くの人たちが彼らのことを悪魔崇拝者だと証言しています。 ロックフェラーとロスチャイルドこそ世界の政治や経済を裏から操ってきた張本人です。 彼ら自身が自らをユダヤ人と名乗っていることから、彼らの行う陰謀について語るときユダヤ陰謀論という名前が使われるようになりましたが、実際のところはバチカンやエリザベス女王なども関わっているので、ユダヤ陰謀論という言い方は正確ではないかも知れません。 悪魔崇拝者陰謀論かイルミナティ陰謀論というのが正確でしょう。 ブッシュ一族もロックフェラーやロスチャイルドのように様々な企業を経営していますが、彼らのイルミナティ内での最も大きな役割はやはりアメリカCIAを中心とした諜報活動、工作活動であると思います。 彼らによって世界中の諜報機関、警察が牛耳られ、裏社会にとって都合の悪い者を逮捕したり、暗殺したり、逆に裏社会に必要な人間をかばったりしてきたのでしょう。 また、麻薬取引や人身売買など、イルミナティによる犯罪活動の大半をこのCIAが引き受けてきました。 要するに、ロックフェラーとロスチャイルドが表立った経済活動をしてきたのとは逆に、表沙汰にはできない裏取引を行ってきたのがブッシュ一族です。 バチカンという存在が陰謀論の中でも特にわかりにくい部分でしたが、悪魔崇拝を中心的に行っているのは明らかにバチカンです。 それは単なる形式的な儀式ではなく、実際に悪魔ルシファーを呼び出し、交信する儀式です。 日本人の多くは霊的な存在を余り信じていないと思いますが、実際に霊はこの世に存在し、悪魔もこの世に存在します。 このローマ法王やイエズス会などが、全世界の宗教の破壊活動に関わってきました。 エリザベス女王はイギリスという世界の中心的な国家の最高権力の座に悪魔崇拝者を就けることで、世界中の権力者たちとの交渉・交流を円滑にし、悪魔主義的な思想や考え方などを世界各国に広げていこうという魂胆だったのでしょう。 などの情報をどう思いますか。

  • やっぱ陰謀でしょ。

    私しは100%陰謀論者の者です。 【質問1】 インターネットの普及がなかったらば今頃は普通にTVニューズからの情報を鵜呑みして 気楽に(おめでたく)生活をおくっていたであろうと思います。 真実に気づかせてくれたインターネットという仕組みに感謝いたします。 さて、この掲示板でも9.11陰謀説について多岐に渡り語られてきたと存じます。 肯定派、否定派と真っ二つに分かれているわけですが、私のような100%陰謀論者から すると、なんでこれだけ客観的な証拠がありながら陰謀論を信じないのか不思議です。 http://video.google.com/videoplay?docid=3031125939592548381# 善悪はどうであれ、動機は明白である。 単純にアメリカという国(駒)を使って戦争させた。そういう勢力が現実にあるということ。 (ここまでは普通のことです、普通に歴史とはそういうことですので) はい。でその勢力が何考えているのかがイマイチわからないので誰か教えてください。 つまり世界を意図的に混乱させます→アメリカ経済崩壊させます→第三次大戦起きます→その他パニック連発 →もう宗教とか国境とかあるから戦争になるんちゃいますかー?ってなります→じゃ世界統一政府を造りましょ! →はいできましたーって近未来なるそうなのです。 こうして世界は一部の支配者と多くの被支配者とに永遠にわかれ、悲しくもそれなりに平和になったとさ。 (これをユダヤ共産主義構想という・・・) 闇の勢力の真の目的とは何でしょうか? ちなみに視点を変えると、地球をひとつにまとめる事で、来るべき外勢力から地球侵略を守る。と大儀に置き換えることも 可能ですね。痛みを伴いすぎる改革ですけどね。 【質問2】 皆さんも2012アセンション問題については一度は何らかの形で触れられていると存じます。 そうです、あのフォトンベルトです。次元上昇です、弥勒の世、三千世界、曙です。 こいつは厄介です。なぜなら霊とか宇宙意識とかUFOがじゃんじゃん登場するからです。 いろいろ書籍やHPやらほんと沢山あって、みんな好き勝手事を(無責任なことを)書きまくっています。 問題なのは表現の違いはあるとしても、共通して皆同じことを言っている事です。 つまり2012あたりから地球は大変な事になっちゃうよって事。(抽象度高) ヨハネの黙示録しかり、大本教の人もしかり、時間を越えたペテン行為だと考えたとしても、なぜそこまでする 必要があるの?つかれません?とかって思います。 この大問題について誰かまとめてわかり易く一本の筋の通った整合性の取れた話として教えていただけませんか? 以上50コメントくらいください。

  • 総支部長の権能

    少なくても民主党と自民党には総支部長という役職があります。(他の政党の事はわかりません。)衆議院の小選挙区ごとに総支部長を置くらしいんです。総支部長の役割を政党別に教えてください。とくに気になるのは総支部長に党員を処分する権能があるか、また市議会議員や市長候補者を総支部単位で推薦できるかです。

  • 補助人の権能について

    成年後見制度の一つである補助について聞きたいことがあります。 本を複数読んでいたのですが、補助人の権能として、同意権・代理権・取消権・追認権の有無(○・△・□表示)が、本によって違いどう考えればいいかわかりません。 1)同意権○、代理権△、取消権○、追認権○  △=家庭裁判所の代理権を付与する審判があった場合のみ認められる 2)同意権△<注>、代理権△<注>、取消権△<注>、追認権△<注>  <注>家庭裁判所の審判により、特定の法律行為についての同意権・代理権双方又は一方を付与した場合のみ、これらの権利が認められる。 という上記二つの表記の違いがあります。 そもそも補助は、補佐等よりも比較的軽い方(言い方に御幣があるかもしれません)を対象にしているように思えるのですが、補助開始の審判が開始されたら通常同意権・取消権・追認権に制限を持たせるのはおかしいようにも思えます。補佐人には権能を与えてますし。 しかし条文(民法17・876・120条とか)を読んでも最初から権能(同意権・取消権・追認権)を持たせてるようには読みとれませんでした。 長々となりましたが、御教授お願い致します。