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論破の使い方

2chでこのような文がありました。 人殺しはダメだ。 ←これ論破できる? ゲームしてる時間は無駄 ←これを論破できる? 無駄か無駄じゃないか、なんて人それぞれではないのですか?てか主観が入るものに対して論破って出来るのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

論破とは、自説を主張する事ではなく、相手の 論拠を否定する事だ。 「殺す事が悪い」というのは、社会性(分業化 &組織化)が充分発達して、社会内淘汰による 優秀な個体の選択より、協調の方が全体の強化 につながる場合である。 そのように、「何のために生きているのか」まで 遡って、その言明が必然である事を演繹せねば、 どこかに感情的判断が先入 している事になる(正義だとか善悪だとか)。

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  • kurinal
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回答No.9

mikaze007様、こんにちは。 >「主観が入るものに対して論破って出来るのでしょうか?」 「仮にAなら、A1」というようなことしか、言えないのかもしれません。

回答No.8

無駄とか無駄じゃないかって、判断基準があるわけですよ。 思いっきり楽もう! って思っているときに、友人とゲームを利用することで楽しむことができるならそれは無駄じゃない。 大学受かるために寝る間も惜しんで勉強しよう! って思っているときにゲームやって必要な勉強ができていないんだとしたら無駄です。 「目的」という判断基準が何も提示されて無い状況で無駄とか無駄じゃないとか論じることは無理です。 そしてもっと言えば、無駄か無駄じゃないかは結果論です。 上記の例で、仮にゲームをして、時間の大切さに気づいた。 だから本当に寝る間も惜しんで勉強する必要に気づいてぞれを実践し、結果第一志望の大学に受かったのならばゲームも無駄ではないかもしれません。 また本当に勉強していても気が抜けていたり、頑張ったけど合格できなかったとしたら、冷たいようですが大学にうかるための勉強としてはどこか無駄があったのでしょう。ただし、そこで反省して何かを学んで浪人して合格できれば無駄はないといえるので、やはり結果論です。 結果がすべてということは、結局その人次第で無駄かどうかは変わるでしょうね。

noname#194019
noname#194019
回答No.6

主観の違いをあまり見てないと思います。 客観への共感を求めて、はい論破と言ってまとめてしまえば勝ち誇った気持ちになる、弱い者ほどこういうのを好んでやってるように思います。 言い負かしたいから、適当なこと言ってそれが客観的に共感されれば、現実に満たされない気持ちが紛れるから、議題は何でもいいのではないでしょうかね。 主観の違いを受け止める事ができるなら、論破したい気持ちは出ないと思います。

  • fuukakou
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回答No.5

う~ん… ちょっぴりえげつない方法を思いついてしまいました。黒いよ私。 人殺しはダメだ うん、そうだよね~。それがOKな状態ならとっても怖い世界だよね。 自分や身内の人がいつ殺されるか判らないし、逆に身近な人や自分がいつ人を殺すか、もう殺してるか判らない状態だもの。 怖いよね、まぁそれが戦争の状態なんだろうけど… 戦争も怖いね。 うん、で思うんだけどね、今この話を土手とかで話してて、こんな内容で意見が近いからとっても近づいてるとしてね、いきなり私がナイフをあなたの首に突き付けたらどうするかなぁ?きっとパニックだよね(笑) 避けるために押したら私が土手から落ちて頭打って死んじゃったら。 ねぇその後でこの命題をどう思うと思う? 特に後で見たらナイフがペーパーナイフでとかで刃がなかったりしてたら。 ねぇ、どうおもう? と、同意見ぽく振舞い、気持ちは同じだよと思わせて気持ちを少しでも許させた後、気持ちを揺さぶる。 (さらに相手に考えさせることが重要) 主観は自分の感情が強そうだから、感情に訴える事をしたら、いいのかな?と。 ゲームしてる時間は無駄 ゲームした事あるの?と訊いて、した事無かったら「なんでした事無いのに分かるの?超能力者なの?神様なの?」と訊く(性格悪いなぁ) やった事あるから言うんだと言ったら 「じゃあ、あなたの人生でゲームをしてる時間があったから無駄なんだって分かったんだから無駄じゃないじゃん」という。 これ上げ足をとるという。

回答No.4

 再考です。  論破しようとする相手の懐(ふところ)に飛び込む、という手もあります。  離れて戦うのではなく、相手の懐に飛び込めば殴られません。  有利に戦えそうです。  懐に飛び込むとは、相手のリングに乗り込むと云う事です。  そうすることによって、「相手の主観」で議論できるので、論破の可能性が出てきます。

回答No.3

こんばんは。 ☆人殺しはダメだ。 ←これ論破できる? ◇「人殺しはダメだ」は命題ではなく(論理学的な意味で真・偽が定まらない)、規則や公理になるので、論破はできない。 できるのは、 「人殺しはダメだ」と主張する人の言動が、この規則を犯してるか、いないか、の判定。 この規則に例外事項があるかどうか。 例えば、正当防衛。例外を認めないとすれば、正当防衛もダメとなる。正当防衛は除くとすれば、正当防衛は例外事項として認められる。規則に制限を加えるのであれば、問題ナシ!! あるいは、「人殺しはダメだ」という規則、公理が、その他の規則や公理と矛盾しているかどうか。 そして、矛盾しているからといって、「人殺しはダメ」が間違っているということはできない。 ☆ゲームしてる時間は無駄 ←これを論破できる? ◇《無駄》の意味があまりに漠然としている。 なので、ほにゃららの観点から無駄、それとは違う観点からは無駄でない、ということが起こりうるので、 論破できる、できない、という以前の問題。 ですから、この議論をする前に、《無駄》が何を意味しているのかハッキリさせて、お互いにそれを了承してからでないと、議論にならない。 ☆無駄か無駄じゃないか、なんて人それぞれではないのですか? ◇同一人物であっても、その行為が、時と場合によって、無駄であったり、無駄でないこともありえます。 試験期間中に、勉強をまったくせず、ひたすらゲームをやりつづけて、試験後、赤点でもとれば、 「ゲームをやっていた時間は無駄であった」 と思うのではないですかね。 もっとも、それでもなお、 「いやいや、あの時、ゲームをやっていたのは無駄ではない」と思う人もいるでしょうけれど。 ☆てか主観が入るものに対して論破って出来るのでしょうか? ◇外延や内包を定められるものであれば、主観であろうが、白黒をつけることはできる。 ~~~~~~~~ 内包と外延 内包(Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延(extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。これらは互いに対義語の関係をもつ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8C%85%E3%81%A8%E5%A4%96%E5%BB%B6 ~~~~~~~~

mikaze007
質問者

補足

回答ありがとうございます。 外延や内包を定められるもの、とは例えばどのようなものか教えてくれませんか?あと、主観が入ったものに対して論破できるような論の例をあげてくれませんか?

回答No.2

相撲は土俵内で闘って決着を着けます。 ボクシングはリング内で。 同じ土俵、同じリング内で闘えば勝敗はつけられます。 主観を同じにすれば、どちらかがどちらかを論破することは可能かと思います。 人殺しはだめだ。 ←これの“土俵、リング”は神、仏の世界。 人殺し? いいではないか! ←これの“土俵”は悪魔、煩悩の世界。 人殺しはだめ、と言うのは神の言葉、思い。 肯定するのは悪魔の立場。 結論。 論破しようとする相手を自分の土俵、リング、に引き上げて戦いましょう。

  • Glory_777
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回答No.1

論破は相手の論理の矛盾を知らしめることです。 どちらかと言うと理屈をつかって自分を攻撃する人に対して防御的につかいます。 相手の理屈が成立しないと言うことを説明するだけです。 なので、 「人殺しは駄目である、なぜなら・・・A」 という話があったとき、Aについて成立しない事を説明するだけであり、 人殺しが駄目であるという命題の正しさについては、結論自体は両者保留ということです。 つまり論破ができたあとは、 共に肯定も否定もできないという立場をとるのが正解です。 もともと、口げんかで相手をやり込める事に使うわけではなく、 意見と言うのは、相手の方を思いやって、損をしないように助言するものです。 この理由について論理で説明する。 受けては、それが成立した場合必ず損をする運命にあるわけですから、 回避できる条件を探す必要があります。 こうして、「xxxの場合は成立しないので、どちらともいえない」 と言う締めくくり方しか出来ません。 その上で、 自分としては、「どちらともいえないとは思うが、これくらいは気をつけることにした」 といって、相手の心配に対して礼を返します。 もともと、受け入れる気が無いのに、何とか口で言い返して結論を変えようとする行為は、 論破ではなく、言い負かすと言います。 しかし、現実の危険があった場合、言い負かしても仕方ありません。 相手の言っているとおりになるかもしれないからです。 ですから、 質問者様の言うとおり、 主観が入るものを論破するのは無駄ですね。 思いやりのある助言とその理由について、理由だけを破壊するのです。 結論を変えることではありません。 あくまでも好意的な助言に対してのみ、まともに考えて、論理を返すべきです。 聞く気が無いものどうしで言葉を重ねても、それこそ無駄でしょう。 さきに味方であるという事を証明してからの話だと思います。 敵である場合は、言い返すのではなく、無視するのがセオリーです。 関係を絶つということです。 そもそも敵である人が助言をするはずがありません。 まずは味方であると証明してから、助言をするようにと、諭すのが一番です。 人と言うのは、デフォルトで敵対関係になってしまいますから、 まずはそこから相手の立場を考えて、 何が一番良い助言なのかをじっくりと考える必要があると思います。 しかし受け手にとっては、 効果が全く無い助言等、うるさいだけですから、 何故効果があるのかを、説明してあげる。つまり売り込みですよね。 これが誇大広告であってはいけません。そこで受け手が、ここは違うと論理を説明し、 両者合意に至るのが大事だと思います。 例文二つですが、 人殺しを人に勧めて、その人が幸福になるならば、そのように助言すべきです。 人殺しを辞めさせて、その人が幸福になるならば、そのように助言すべきでしょう。 この二つをどちらか選ばないといけないとしたら、 自分はどちらに立って論理を作るのでしょうか? これは、自分と同じくらい大事な人が出来たとして、このひとに助言をする場合、 無理に人殺しを勧めなければいけないとしたら、自分は大変不幸です。 言い負かしても、無益なことがあります。 これを倫理と言います。 つまり論理以外にも大きな判定要素が多数ありまして、 これらは同じように尊重されています。 論理と論破が成立しない理由は、 一番最初に、敵か味方か?の証明が無いからです。 主観が混ざるものでも、味方であることが心から分かれば、 それについて互いに相談し、心が温かくなるはずです。 また、相手の心配のとおりに出来ずとも、申し訳ないという思いは残るでしょう。 これが大事なのであり、 みずから敵を作り、敵に攻撃され、敵に反撃をするという流れから出る必要がありますね。 必要以上に自分が腹を立てたり、傷ついたりした場合は、 もともと相手が自分を傷つけたかっただけです。 それ以前に、相手を敵としてしまう何かをやってしまったか、 もしくは、その人が誰かに傷つけられて、自分にやつあたりをしているんでしょう。 こういうシーンに、論理を使ったら勿体無いですよ。 「何があったんですか?」 と聞くのが良いと思います。 以上、ご参考になれば。

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