• 締切済み

美とは何か? どこから来るのか?

 1. あらためてすべての知見をエポケーして考えてみたいと思います。質問者の見解を知って回答したいという向きには 次の質問の趣旨説明を参照願います。   Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?   http://okwave.jp/qa/q8423513.html  2. みなさんの見方捉え方を 特に第一次の感覚として 知りたいと考えました。必ずしもアンケートではなく その感覚として表わされた内容から問い求めをすすめて行きたいという心つもりでのことです。  3. たとえば うつくしい・みにくいと よい・わるいとは どう違うのか。同じ要素もあるのか?  4. あるいは 真実かそうでないかと 美しいとそうでないととは どう同じでどう違っているか?  5. よい(良い・好い・善い・佳い)という感覚および認識は どこから来るのか?  6. まこと(真実)とそうではないこととは どこから来てわれわれは知覚し理解するのか?  7. うつくしいという感性とそれとしての知性は どこから来るとお考えですか?

みんなの回答

noname#194996
noname#194996
回答No.14

ブラジュロンヌ様、いつも精力的なご活動、まぶしいほどです。 美についてのご設問に周回遅れで参加ささていただきます。 >:真善美のみなもとは 同じひとつであるか? 物理学に総合統一理論の欲求があるのと同じように、この哲学の3つ峰の源をを強制的にひとつにして説明したいという欲望が絶えないのは理解できます。けっこうしんどい業だと思います。おそらく真の追求が人間の最初の形而上学的欲求であって、その次に社会のもとめに応じて善の追及が始まり、それが結局時の王候などに媚を売る業に過ぎなかったと気がついた有志のひとがなぐさめとした最後の峰がいわゆる美の追求であったというのはどうでしょうか。 真が科学に結びついて学問の頂点に達した後、善(の真理)への欲求も遅れて民主主義の観念へ、人間主義に到達します。結局それは虚無主義つーか実存主義に達してあるものは退嬰へと分化するのですが、もっと違ったもおはないだろうかという追求が向かったのが、人間主義と合体した美の追求だったのではないでしょうか。ヒジョウに大雑把な言い方をしてしまいますが、真という絶対的な自然への帰依と異なり、善は人間社会の構造に依存します。そしてまた美は人間の生体感覚に依存するものではないか、というのが私の俯瞰的なまとめです。それぞれ人間が直面する世界の3要素であり、私見ではそれゆえに3つは所詮まとめることのできないものではないか。おおざっぱにいって人間世界の3権分立という比ゆがあたらずとも遠からずということではないでしょうか。 7・についての感想ですが、私は知性ともっとも離れたものが美であって、それはそれ自体で真であり善であることも可能なように思えます。つまり他と独立した系、次元であると考えます。 ご参考になれば。 ならないでしょうねw。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。   まづ次の図解をかかげたわけですが これにちなんで返答を考えてまいります。   ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界  ~~~~~~  ・真 :  普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽)  ・善 :  善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪)  ・美 :  美醜を超えた美・・・美 と 醜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    それでこの左側の《非経験の場》としての真理・善・美については もしそのように想定したのならば とうぜん《絶対・無限・不可変性》として 三つは一体であるとなるでしょうし また右側の《経験事象》として真偽や善悪や美醜を捉えるのならば 取り敢えずは三つが互いに別々であるだろうし 美というひとつのジャンルを見ても 美や醜の感じ方が人それぞれである。といったひとまづの答えが出て来るものと思われます。  これでは おもしろくありません。想定したのなら そうなるはずですから。ので このこちらの質問のように一たん白紙に戻して再び三度び問うています。  ★ おそらく真の追求が人間の最初の形而上学的欲求であって、その次に社会のもとめに応じて善の追及が始まり、それが結局時の王候などに媚を売る業に過ぎなかったと気がついた有志のひとがなぐさめとした最後の峰がいわゆる美の追求であったというのはどうでしょうか。  ☆ そうですね。  わたしなりの考えを交えてお応えしてまいります。  ★ 真の追求が人間の最初の形而上学的欲求であって  ☆ これについては 違う見方を持っています。それは 真の追究は けっきょく《わたし》の関係する限りでの世界の歴史についてその因果関係を わたしのたましいの歴史に必要なかぎりですべて知るようになるということ。これが 真の追究のひとつの具体だと思うのです。  それによって 過去〔のまづかったことなど〕について善後策を図ることが出来ます。またそのような検討や処置を経たあとなら そのいま現在の歴史についても 自分や相手や周りの情況などについてよく知るということ 失敗のないように必要な事柄を知っておくということ こういった生活の態度で臨むことが出来ると思うからです。  真理というなら あらゆる人のそのときあの時の心のあり方が 分かるということになるかと思います。生身の人間には無理だと思いますが そういう探究はありうると思うのです。  おそらく《形而上学の探究》は そういった具体的なワタシ史のための道具や知恵となって有益なのだと思います。  ★ その次に社会のもとめに応じて善の追及が始まり、  ☆ そういうことでしょうし またおそらく 主観において善だと思っていたのが受け容れられなかった経験を持てば すでに自分からも追究するようになる。であろうと考えます。  ★ それが結局時の王候などに媚を売る業に過ぎなかったと気がついた有志のひとがなぐさめとした最後の峰がいわゆる美の追求であったというのはどうでしょうか。  ☆ 権力者の都合という観点から見たものが 善なら善 悪なら悪だというのでは おかしいという感覚を いま先ほどの《主観》氏は 遅かれ早かれ 覚えて気づくでしょうね。  このときわたしなら 意志行為として ともかく主観においては相手の意志をもとうとび 有効な社会行為として 善であったことが 社会的な有力無力の観点から 受け容れられなかったのだと解釈します。そういう社会力学がはたらくのだという捉え方です。  ですから 必ずしも悲観的にはならないでいられるとは思うのですが:  ★ ・・・有志のひとがなぐさめとした最後の峰がいわゆる美の追求であったというのはどうでしょうか。  ☆ どこかで聞いたことがあると思ったら 漱石か誰かの文章でしたっけ。山道を登りながらこう考えた。・・・いまは確認せずにすすめますが たぶん ともすれば悪貨が良貨を駆逐することがある社会力学の世界で それでもルサンチマンをかこつことなく 日本晴れの心をつらぬくことが出来るというのは 美の世界なのでしょうね。  あるいは スポーツでもよいのではないでしょうか。高梨沙羅は つよいですね。そして 勝ち方がうつくしい。  ですから 日韓・日中の問題情況の中でも 理屈を超えて これはうつくしいといった話が舞い込むといいでしょうね。  ★ 真が科学に結びついて学問の頂点に達した後、善(の真理)への欲求も遅れて民主主義の観念へ、人間主義に到達します。結局それは虚無主義つーか実存主義に達してあるものは退嬰へと分化するのですが、もっと違ったものはないだろうかという追求が向かったのが、人間主義と合体した美の追求だったのではないでしょうか。  ☆ 美は ホームランになり得ますね。女子サッカーがワールドカップで優勝したときには うつくしいと感じました。戦いぶりに ケレンミがない。  ★ ヒジョウに大雑把な言い方をしてしまいますが、真という絶対的な自然への帰依と異なり、善は人間社会の構造に依存します。そしてまた美は人間の生体感覚に依存するものではないか、というのが私の俯瞰的なまとめです。  ☆ 美は 生命のチカラやその発露だといった説明が ここでは多かったです。  善は 非常に主観的・個人的なところがあるとも思えるので わたしは それが真実やさらには変わらざる真実に基礎を置くのがよいとは思っています。つまり 社会的なものごとに依存しつつも その地域ごとの時代ごとの片寄りを突き抜けて行けるような理念型もあるかも知れないといったかたちです。  真は ですから やはりけっきょくすべてを知っている ゆえにそれぞれの人のお家の事情が分かるので 話がスムーズにおこなえるといった事態を事例として考えます。そのように人の心が分かるというのは むしろ《自然への帰依》と通じているのではないかと思うわけです。  ★ それぞれ人間が直面する世界の3要素であり、私見ではそれゆえに3つは所詮まとめることのできないものではないか。おおざっぱにいって人間世界の3権分立という比ゆがあたらずとも遠からずということではないでしょうか。  ☆ ですから わたしの場合 そこここに勝手にしのばせたように なおまだ統一理論への望みを捨てないではいます。  というのも 勝手に話しすすめますが 《三権分立》というのは それぞれが独立しつつ社会全体としては互いに助け合って 共同の目的のために資するというかたちをやはり考えるからです。    前身の質問で すずめのこくすさんでしたかは 《自由度》という表現をしていました。  つまり 分立した三権にしてもそうでしょうし 真善美にしても――まだ論証はよわいのですが―― それぞれに自由度があると見るのは 取りも直さずそれらは互いに地続きである。ということかも知れないわけです、  結論が 真反対になってしまいましたね。  考えてみれば真善美は 経験事象としては 別々であって ちっともおかしくない。ただし どこかつながりも互いにあるかも知れない。こういったあいまいなかたちであるのが よいのかも知れません。  一気に書いて来ましたが(ですから 運びにぎこちないところがあるかと思いますが) この質問はすでに閉めていますので(《お礼欄》は 締め切り後でも書くことができます) もし続きのご議論がありましたら ほかの質問への回答としてでもお寄せください。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.13

>長い年月のうちに、最適化が極限まで進んだ生物は、人間から見て、その形状が非常に美しいと感じます。 自己レスです。 後から気付きましたが、ゴキブリは地球環境に非常に最適化した生物ですが、これ美しいと感じないのはなぜでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ほんとですね ゴキブリ。しぶとく適応して来たらしいけれど うつくしくないですね。  いろいろですかね。  もう少し開いています。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.12

>この美の要素が 絶対的な真理と 基礎として地続きであったらおもしろいのですが。・・・ 機能美という物は、それに該当するものでしょうか? ある一定の自然条件の範囲内で、生存競争に打ち勝つためには、反射機能や、行動パターンなどの本能と共に、その条件内で最適化された肉体形状が必要となります。 長い年月のうちに、最適化が極限まで進んだ生物は、人間から見て、その形状が非常に美しいと感じます。 例えば、鳥、チーターなどです。 花もそれに該当するかも知れません。 色彩については、良くわかりませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  長い年月のうちに、最適化が極限まで進んだ生物は、人間から見て、その形状が非常に美しいと感じます。  例えば、鳥、チーターなどです。  花もそれに該当するかも知れません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。生物の進化・適応というチカラ(とそのハタラキ)は たぶん世界を支配するかのごとき真理につながっており またその結果として自分自身を示す姿は うつくしいのだと。  これも 生命としてのチカラやそのハタラキにかかわったことではあります。その美が 真理とも地続きであると見ることが出来るかも知れないというご見解です。  《善》は どうなんでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ある一定の自然条件の範囲内で、生存競争に打ち勝つためには、反射機能や、行動パターンなどの本能と共に、その条件内で最適化された肉体形状が必要となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように生命とその存在とその維持向上は 存在と生きることじたいが善だとすると やはり善だという見方も出来るでしょうか。  あれーっ? nToTn さんは 真善美がそれぞれバラバラだというご見解ぢゃなかったですか? (いいんですけど)。

  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.11

よく分からないのに参加~。 真善美。 私は全部バラバラだと思いまっす! 美は心が動く事だと思う~。 で、後付けで理由を探すのねー。理由を探しちゃう辺りが知性の部分なのねー。だって誰かと共有したり知らせたいと思ったら説明しないとー。 心が動くのは個人の経験なのね~、だから個人差があるのー。 「とにかく凄いんだ、見てくれ!」って連れてって見て同じように心が動くとは限らないのね。 でも共有する部分が多い人だと同じように心が動くことが多いと思うのねー。 よって知識として 美 を見る事が可能なのかな? 学習の差でも何に美を感じるかは違うのね。育った文化や環境。 やっぱり個人の経験によって差が出るのね。 学習や環境で左右されることで、個人経験だから 美 単独であると思う。 良い悪いは自分や自分達にとって良いか悪いかの判断かなぁ? そのよい事を美しい事と教えられると美しいと思うかも。 真実は単に真実だと思う。 自分にとって受け入れがたいものだったら、よいと思わないだろうけど、そこに美を見出しちゃうことはある。もちろん受け入れがたいから醜いと思う事も~。 真実を知らん幸せもあると思う。 それでも心は動くし、自分にとっての良し悪しがあるのね。 もちろん真実は美しいものだ と学習してると真=美だろうね。 う~ん、そうなると・・・ 美 をどう捉えるか またはこの美というものが曲者なのかな? 個人体験なのに多くの人と共有。心がとっても動くから強烈。 バラバラにあるものを思想的にまとめるのにとっても便利vって事なのかなぁ? 他の方はどう思うかは判らないけど、とりあえず私は全部単独であると思う。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 真善美。/ 私は全部バラバラだと思いまっす!  ☆ これまでとは違っていて 貴重なご見解です。  ★ 美は心が動く事だと思う~。  ☆ そして 《共有する部分が多い人》もいるとすれば――いるのだから―― その心が動いたということの内容もしくは要因とは何か? つまりは 美と感じたその要素とは何だろうとなるのだと思います。  これまででは 均整の取れていること・快適さ・生命感情の高揚・人としての心のきよらかさなどが挙がっています。    ただし  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  学習の差でも何に美を感じるかは違うのね。育った文化や環境。  やっぱり個人の経験によって差が出るのね。  学習や環境で左右されることで、個人経験だから 美 単独であると思う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ふたつの解釈がありますね。  ひとつは 美じたいについて そのとき心が動いた要因は 個人ごとに違う。という解釈。  でも 《共有する部分が多い人》どうしがいると考えられるので そうではない。  もうひとつは 初めに提出された命題。  《環境をもふくめた過去の経験》が個人の経験としてあるしかないので そしてそれに《共有する部分が少ない人》もいるわけであるから 美は すでにそれとしてほかの真や善とは別のものとなっているはずだ。という解釈。  ただし  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  良い悪いは自分や自分達にとって良いか悪いかの判断かなぁ?  そのよい事を美しい事と教えられると美しいと思うかも。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ もちろん真実は美しいものだ と学習してると真=美だろうね。  ☆ ということがありうる。  それというのも 真善美が互いに別々に成り立っているからだと考えることができる。のだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  う~ん、そうなると・・・ 美 をどう捉えるか またはこの美というものが曲者なのかな?  個人体験なのに多くの人と共有。心がとっても動くから強烈。  バラバラにあるものを思想的にまとめるのにとっても便利vって事なのかなぁ?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえばそうですね 美形に出会って 美形だと感じた。  そのうつくしさは 自然であるか 人工であるか。  人工美であるかどうかは ひとつの真実にかかわる問題だ。  しかも その・手を加えるということは よいことかどうなのか。この問題にもかかわる。  人工美でもうつくしいと思うか。  自然に手を加えることはよくないと思うが それでもうつくしいか。  ・・・・  真善美に《自由度》があることはまちがいない。  では それら三っつのあいだにもはや何もつながりはないか?  こんな感じですかね。司会者の発言としては。

回答No.10

>初めにはあったのに とちゅうでないようになったそうです。  これこそが臍量子相互作用。有ると無いのはざまで美を昇華させる臍量子の奇跡。

回答No.9

he-so-なお話 座談会『幕末の農民群像』展に寄せて http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_25.pdf http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/mokuji_21-30.html 『鎖国・開国の現代的考察―近世日本200年の実験―』 http://www.econ.hokudai.ac.jp/~takais/soturon/1kisei/hurukawa.pdf

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.8

信と善については、stmimさんのご意見に同意します。 美について、ここで一つの例として、生物の外観に関する美に限定して述べさせて頂きます。 ある生物を美しいと感じる事とは、その生物が種として、あるいはその個体として、健全であるかどうかを、見る側が対象の外観から推測しているのだと思います。 つまり、健全であれば美しいと感じ、不健全であれば、醜いと感じるということです。 例えば、平均顔という物がありますが、これは沢山の人の顔をコンピュータ処理で重ね合わせ、顔の各パーツの形状や位置を平均して画像にした物です。 平均顔を醜いと感じる人はいません。 ある人の顔が、人間という種のなかで、平均顔に近いほど、遺伝子レベルで健全であると言うことを、体験的あるいは遺伝的に組み込まれた尺度に基づいて、判断しているのだと思います。 平均顔が醜いと感じる人がいるとすれば、その人自身の感性が不健全である可能性があります。 例えば、男性が美人を好むのは、外観からその女性の遺伝子的健全さを読み取り、自分の子供にもその健全さを組み込むことで、子供の生存の確率を増やそうとろうとする仕組みではないでしょうか。 自然環境に対する美意識も、その対象の健全さに左右されると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 真と善については、stmimさんのご意見に同意します。  ☆ 《真》の絶対性については 《善》や《美》の絶対性とともに仮説として捉えたところを stmim さんへの返答で 図示してみました。   ★ ~~~~~~~~~~~~~  美について、ここで一つの例として、生物の外観に関する美に限定して述べさせて頂きます。  ある生物を美しいと感じる事とは、その生物が種として、あるいはその個体として、健全であるかどうかを、見る側が対象の外観から推測しているのだと思います。  つまり、健全であれば美しいと感じ、不健全であれば、醜いと感じるということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは おそらく へきゆさんの示した《生命感情の高揚》に通じるご見解ではないかと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  平均顔を醜いと感じる人はいません。  ・・・  平均顔が醜いと感じる人がいるとすれば、その人自身の感性が不健全である可能性があります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 均整美というところに落ち着くでしょうか。  あらためて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば、男性が美人を好むのは、外観からその女性の遺伝子的健全さを読み取り、自分の子供にもその健全さを組み込むことで、子供の生存の確率を増やそうとろうとする仕組みではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と説明されるところは 均整美=健全さ=生命感情のゆたかさ といった内容に落ち着きましょうか。  この美の要素が 絶対的な真理と 基礎として地続きであったらおもしろいのですが。・・・

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

なりますまいか、ということですが、ならないでしょう。陰徳とは別に称賛されることを願ってするものではないからです。 また、虚栄心からの偽善が美しいかどうかですが、美しくないでしょう。その物悲しさを芸術的に捉えて美しく描くことは出来るでしょうが、所詮は作り事です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 陰徳とは別に称賛されることを願ってするものではないからです。   ☆ 一般論としてそうですね。  ただし――どうも絡みが多くなりますね―― もし陰徳が美としてたたえられると言うならば その陰徳は陰徳ではなくなっています。そのように知られているのですから。一般論ではなく その個別の案件それぞれについてです。  自分から知らせたわけではないでしょうが けっきょく知られたわけです。それが たたえられたわけです。  《不徳の致すところ》なのではないでしょうか。つまり 陰徳をおこなっていたその人について 《不徳》もある。ということになります。《称賛されることを願ってするものではな》かったにもかかわらずです。  すなわち 《ちょっぴりわたくし心があった》と 結果的にはなります。のではありますまいか。    ★ また、虚栄心からの偽善が美しいかどうかですが、美しくないでしょう。  ☆ もしそうだとしますと この《虚栄心からする――天下おおっぴらに偽善だと言いつつおこなう――偽善》が《うつくしくない》とすれば その偽善によって利益を受けた人は 偽善者の醜悪な贈り物を それでも受けることに甘んじた。となりますが そういうことでしょうか?  その受け取った人の悲惨さは  ★ もの悲しさ  ☆ という捉え方で済むでしょうか。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.6

質問の範囲が広すぎると思います。 あえて広い範囲に質問をして、回答者に自由に回答してもらいたいということでしょうか?あるいはご自身の考えについての感想を聞きたいということでしょうか? もし質問をすることで何かを知りたいということでしたら限定した内容のほうが回答者も答えやすいと思います。 真善美のうち、真は他の2つと違っていると思います。 真はもともと絶対的に決まっているもので、私たちが人間であるかどうかに左右されません。善と美は私たちが人間であることによって、内容が左右されそうです。 善は私たち人間が社会をつくっていることから生まれます。 世の中が自分ひとりだった場合、善も悪も生まれません。 社会の構成員がみんな、それをすると社会が困ることが悪です。 それを社会の構成員をすると社会に利益があるものが善です。 美は難しい。センスとか好みも入ってきて個人的要素が入ってくるからです。 絵画的に美しい、美しい音楽、女性が美しい、人間的に美しい、といったものを同じ美しいといことでまとめられるのか?というのは疑問に思います。 美については、どんな美について語るのか限定する必要があると思います。 美については生物としての影響が強いと思います。 例えば、美しい女性はおそらく、生物としてのメスの繁殖能力と関連していそう。 オスがどのような女性(メス)を選択するとより多くの子孫を残せるか? シンメトリーに美を感じるのも、生物として正常に生育しており奇形でなく、 よりよい子孫を残せそうと感じる。 美というものは、人間以外の知的生物(宇宙人?)が存在したとしたらまた違ったものになるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 質問の範囲が広すぎると思います。  ☆ そうですね。真善美のあいだの共通性と差異 これを明らかに知りたい。ここにしぼっているつもりだったのですが なかなか上手に表わし得なかったみたいです。  そしてさらには 真善美のみなもとが 同じひとつであるのではないか。ここにまでたどり着ければ万々歳と思っているかっこうです。  ★ 真善美のうち、真は他の2つと違っていると思います。  ☆ あっ そうですか。つまり 一般に 真善と美とのあいだにへだたりがあると言われるのかと思っていました。美はあまりにも人それぞれであるからという理由によるようです。  ★ 真はもともと絶対的に決まっているもので、私たちが人間であるかどうかに左右されません。善と美は私たちが人間であることによって、内容が左右されそうです。  ☆ ええ。おっしゃることは分かります。  それについては 前問で次のように区別しつつ捉え得たかと思っています。  ○ ~~~ 非経験の場 と 経験世界  ~~~~~~  ・真 :  普遍真理 ・・・・・主観真実(真と偽)  ・善 :  善悪の彼岸・・・・・善 と 負の善(悪)  ・美 :  美醜を超えた美・・・美 と 醜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  善は私たち人間が社会をつくっていることから生まれます。  世の中が自分ひとりだった場合、善も悪も生まれません。  社会の構成員がみんな、それをすると社会が困ることが悪です。  それを社会の構成員をすると社会に利益があるものが善です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーむ。ここには異論があります。  たとえば《正義の戦争を 悪の帝国に対して遂行せねばならない》という合唱が鳴りひびいているとき 非戦論を独り唱えて《社会が困ること》をする。これは 《悪》でしょうか?  《戦争の責任はわたし一人にある。わたしはどうなってもよいが 国民は助けてください》と言って交渉をしたことは 《社会に利益がある》ことだと思われますが 果たして《善》だったでしょうか? 戦争の相手国に対しては あたまを下げたけれども おのが国民に対してはついぞ責任のセの字も出さずにあいまいにしたままに終わったこと これは 人間として果たして《善》でありましょうか。戦争を推し進めたのは ほんとうのほんとうには自分ではなかったでしょうか。  このようにただ独り異論をとなえることは 社会が困る。ゆえに 悪でありましょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~  美は難しい。センスとか好みも入ってきて個人的要素が入ってくるからです。  絵画的に美しい、美しい音楽、女性が美しい、人間的に美しい、といったものを同じ美しいといことでまとめられるのか?というのは疑問に思います。  美については、どんな美について語るのか限定する必要があると思います。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいえ。《個人的要素》は 何であるか? どういう要素〔の組み合わせ〕であるのか? しかもその《自由度》があるにもかかわらず 人間にとってうつくしさとは 誰にも共通の基礎となるものがあって 美は 真善とともにやはり地続きなのだ。・・・と言えるかどうか。ここが知りたいところです。  いままでに出ているところでは 見た目のうつくしさを別とすれば  ・ 快適さ  ・ 生命としてのチカラや感性  ・ 徳をふつうにおこなうことが出来ているその人の人間性  です。一般に かたちとして言えば ととのっていること。均整がとれていることではないでしょうか。  そして そのような美の要素は さらにその奥があるとすれば どこから来るのか? 奥などないのか?  また 奥があるとすれば それは 真や善とは 違うのかどうなのか? こういった問い求めになっています。  次は 生命力にかかわっていると思われます。  ★ 美については生物としての影響が強いと思います。  均整さにも 次のように触れておいででした。  ★ シンメトリーに美を感じるのも、生物として正常に生育しており奇形でなく、よりよい子孫を残せそうと感じる。  

回答No.5

>まこと(真実)とそうではないこととは どこから来てわれわれは知覚し理解するのか?  bragelonneの母親の臍が出臍であることが、まこと(真実)であるか、そうではないことなのかbragelonneが自ら、写真なり、動画なりを公開しなければ、われわれは知覚し理解することができないではないか。  その臍が美しいかどうか、それがどこからくるのは、それを見てからでないとなんとも言えない。

bragelonne
質問者

お礼

 リカちゃん人形には へそがないそうです。  初めにはあったのに とちゅうでないようになったそうです。

関連するQ&A

  • 感性と感覚、知性と知覚の違い

     教えて頂きたいことがあります。  いろいろ調べてはみたのですが、混乱している状況です。  1.感性と感覚  2.知性と知覚 のそれぞれについて、辞書的な言葉ではなかなか理解に苦しい状態に ありますので、できれば具体的に分かりやすく解説頂けると助かります。  お忙しいとは存じますがよろしくお願いします。

  • カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

    カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?

     (α) 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?  (β) あるいは 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か?  (γ) すなわち みな誰もがほかの人からおそわりつつあらたな知見を得るというに過ぎないではないか?  (δ) ほかの人からおそわりつつも その知見の内容に納得するのは おのれの知解能力によるのではないか?  (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?  (ζ) あたらしい知見を得るのに他人に先を越されたからと言って くやしがるのは――そのこと自体は 向上心の現われとしてのぞましいが いつまでもただ悔しがるのは―― あまりにもおのれの知性を買い被っていることではないか?  (η) あとの者が先になり 先の者があとになる。と言うではないか。       *    読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  (θ) 一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか?  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力とその場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は:   (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか?      つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立するのではないか?   でした。  これには もう少し 先もあります。  早い話が:   (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。       *  さらにひと言多く。  《ここは どこですか?》とか《桶狭間へは どう行けばよいでしょう?》という問いに対して 地名や道順をおしえるのは 知識項目の授受であり伝達です。  桶狭間が どの地であるかを比定するのは 歴史学の仕事であり その研究成果をおしえるというのは おそらく 歴史資料をどう判断したか・その推論の妥当性を示すことに主眼があるでしょう。定説を聞いて それを暗記することは 学問にとって おそわることとは言えないでしょう。  信長は どういう決断で臨んだか? あるいは 今川義元となぜ戦わなければならなかったか? これらの問いのたぐいは まだ 歴史学の問題領域です。では   (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  このたぐいの問いになれば 哲学の分野です。  ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。ここで:   (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  こういう質問の趣旨になっています。  思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。か?  この問いをめぐっての質問です。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわします。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (つまりたとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることであり ここでは エポケーとも言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 《空》観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなオシエのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび強迫観念にさえ成りかねない固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) エポケーなり現象学的還元なりなどということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • 哲学の意義について作文しました。添削してください

    前回はコレ↓ http://okwave.jp/qa/q7711979.html どのくらい読みやすくなったか評価して助言してください。 わたしは普段簡潔かつ断定的に短い文章で考えを述べてこそ、そも明白さが知性の表れなのだと考えて実践してきました。 このように言葉を膨らませて柔らかくする事は不慣れです。 どちらかと言うと国語的な質問ですがよろしくお願いします。 書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する個人的見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。神と個人の関わりの限りでは哲学であり、広く、神と人とのかかわりであればそれは宗教である。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法でありながら日本人としての信仰の風土を尊重し、仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事だ。 なぜなら自らの信仰心からしか神に問いかける事はできないからであり、それこそが人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 そのように信仰を問うことが哲学の前提であり、日本人として自らの考えを正すために西洋から哲学を学ぶとすると、自らの信仰を明らかにする必要がある。 哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いがおのずから出てくるのだが、それは同一であり、哲学の起源から知性とは神を問うことに生かされ神の発見が人間知性の起源ではないかと類推します。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する

     最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。  ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」     産経新聞 11月3日(月)13時0分配信   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol  ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに  ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと  ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。  ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。:   事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心)   ____________________   SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》       《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。  つまりは:  ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する  この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。  つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。         *  もう少し細かく趣旨説明します。:  知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。  ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。  むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。  ここまでは おそらくふつうの事態です。  問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。  いまの事例で言えば:  1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。  2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。  3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。  4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。  5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。  6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。  7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。          *  先ほどの事例には おまけの話があります。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~  これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。  この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。  この仮説をめぐって問います。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲光のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (たとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることを ここでは エポケーと言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 空観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなおしえのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) 現象学的還元などということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。