• 締切済み

美とは何か? どこから来るのか?

 1. あらためてすべての知見をエポケーして考えてみたいと思います。質問者の見解を知って回答したいという向きには 次の質問の趣旨説明を参照願います。   Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?   http://okwave.jp/qa/q8423513.html  2. みなさんの見方捉え方を 特に第一次の感覚として 知りたいと考えました。必ずしもアンケートではなく その感覚として表わされた内容から問い求めをすすめて行きたいという心つもりでのことです。  3. たとえば うつくしい・みにくいと よい・わるいとは どう違うのか。同じ要素もあるのか?  4. あるいは 真実かそうでないかと 美しいとそうでないととは どう同じでどう違っているか?  5. よい(良い・好い・善い・佳い)という感覚および認識は どこから来るのか?  6. まこと(真実)とそうではないこととは どこから来てわれわれは知覚し理解するのか?  7. うつくしいという感性とそれとしての知性は どこから来るとお考えですか?

みんなの回答

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.4

少ない中から分かち合えるので徳と呼ばれます。例えにあるように、一時の成金が虚栄心ゆえに醜く豪奢に施しを行っても徳とは呼ばれないでしょう。しかし人は現金なものであり、窮状にある人にとってはそれは幸運と言ってよいかもしれません。私だって、窮状にあって平静さを保てるかどうかと言えば、自信はありません。おそらく、そのラッキーにすがりつくのではないでしょうか。ですから、徳と一言で表される事柄が、容易いことではないということでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 徳と一言で表される事柄が、容易いことではないということでしょう。  ☆ そうすると もっとひどい反論が考えの中に浮かび上がって来るのですが。・・・  無私にて陰徳をなす者は そのことを口に出してはならない。  その無私なる人たちを応援する人びとも その徳のことを宣伝してはならない。  すべて人知れず しずかにおこなうことが肝心だ。と。  ひと言でも無私なる徳をたたえようものなら その徳行を 人びとよ ちょっとは見て欲しいと願ったことになる。  やはりたたえて欲しいというわたくし心がちょっぴりある。ということになりますまいか。  それでもうつくしいと思いますよ。  なぜなら 虚栄心で見せびらかすように徳を積む場合も 行為はうつくしくないとは言えないから。  美とは何でしょうね。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

私は、美とは、眼で感じるものではなく心に感じるものだと思います。ですから、確かに美人には惹かれますが、それは人間的な美しさに惹かれたわけではないと思います。人知れず人助けをするとか、慎みで以って人間関係を護るとか、そういう徳のある事が人間的な美しさなのではないでしょうか。 で、そのような徳としての美しさの起源は何処であるかというと、無私ではないかと推測します。無私の心で行うこと、或いは想うことが、自他の隔たりを超えた真(まこと)の現れなのではないかと思います。 では、何故、無私であることを美しいと思ってしまうのでしょうか、それは、人は自分可愛さのあまり、しばしば醜い、自分さえよければそれで良いという考えや行動をとったりすることがあるからです。それが生き残る為であったとしても。 ここが難しいところですが、自身の生死に縛られて、動物的なレベルに終始しない、そういうところに人間性、人間の光というものを感じるのは私だけでしょうか。 人と動物の違いと言えば、人間だけを特別視した人間優位を説いているように思われるかもしれませんが、一つの希望としての、人間だから、という理由付けが、真善美に纏わる話には、可能である気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いろんな角度から見てみようとしています。  寄せてもらったご回答の内容を一つひとつ受け留めて それとは違う角度からも見ることがありうると思える場合に 天の邪鬼のようにその視点を残しておこうとしています。  ★ 私は、美とは、眼で感じるものではなく心に感じるものだと思います。ですから、確かに美人には惹かれますが、それは人間的な美しさに惹かれたわけではないと思います。  ☆ そうしますと 美にいくつかの種類があるということにもなるかと思われます。  (あ) 目に飛び込んで来た美。  (い) 人工の美であった場合 それでも美の一種であるとみる場合。  (う) 人については 視覚を超えてその人の人柄など心で受け留めて感じる場合。  ということは うくつしさが よい・わるい 真実・ウソといった区別の問題とも どこかで交わっているかも知れない。・・・のですかね。  ★ 人知れず人助けをするとか、慎みで以って人間関係を護るとか、そういう徳のある事が人間的な美しさなのではないでしょうか。  ☆ 見てくれの美しさの人も あるいはさらに人工美の人も ひょっとすると そういった陰徳を積む人であるかも知れませんよ。と言いたくなるのは まあいぢわるの虫の所為か または これでも見方にバランスを保とうとしてなのでしょうか。・・・  ★ で、そのような徳としての美しさの起源は何処であるかというと、無私ではないかと推測します。  ☆ という主題を提起していただいたと思うと 変な見方をも出してみたくなります。  すべて利己のために自己顕示欲を満たすためにおのれの宣伝のために 《徳のある行為》を うつくしくもなく・むしろみにくい恰好でおこなったら それは どういうことか? どうなるであろうか?   弱者のために資材を提供するといった場合。弱者たちは こばむだろうか? それは あまりにも醜いゆえに。  こばまれず 受け取ってもらえたなら その行為は・行為じたいは うつくしいか? 《無私》による同じ行為と どう違うか?     あるいは無私の場合には 陰徳であって 人知れずおこなうのだから くらべられることすらないものか。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

3、うつくしい・みにくいと よい・わるいとは どう違うのか。同じ要素もあるのか?     ↑ 美は、脳で感じます。 では、どういう現象に出会ったときに脳は美を 感じるのか。 健康な人は病気の人よりも、若者は老人よりも 美しいです。 つまり生命エネルギーにプラス方向に働くとき に美を感じるのです。 だから、カントは美は生命感情の高揚だと 説明しました。 この美に対して善悪は人工的色彩が強いものです。 人間は社会を造らねばどうしようもない動物です。 しかし、社会を造り集団化、組織化すると神のような 力を発揮します。 デュルケームは、この集団化した人間こそ神である としたぐらです。 この集団、つまり社会などの秩序を守るために 善悪という概念が造られました。 秩序にとってプラスのモノが善で、マイナスが悪 です。 このような概念が何処でもいつでも受け入れられた のは、人間の脳には、利他の精神ビルトインされて いるからです。 4、真実かそうでないかと 美しいとそうでないととは どう同じでどう違っているか?     ↑ 真実かどうかは科学の問題であり、客観性 再現性、論理性の問題です。 美しいかどうかは、感性の問題です。 人間の脳は、本能を司る部分と、理性を司る部分とから なっています。 美は、本能を起点として理性で感じるのです。 だから、時代や人種、民族などで差異が生じますが 基本的な部分では一致するのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 美は、脳で感じます。  ☆ よく聞くのですが どちらかと言えば うたがっています。    たぶんそれがマチガイだというよりも 感覚が一次的に起きればそれでよいというかたちで ただいまは保留とします。(脳で感じるのと からだで感じるのと 乱暴にでしょうが 同じだと見てすすみます)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  健康な人は病気の人よりも、若者は老人よりも  美しいです。  つまり生命エネルギーにプラス方向に働くとき  に美を感じるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。第一次の知覚反応を大事にすると言った手前 言いにくいのですが 若者の中にもいろんな姿があり 老人の中にもやはりさまざまな姿があるというように思ったりします。  つまり 若さないし《生命力にあふれた》姿を見てうつくしいと思うこともあれば それは 若さとしてのうつくしさであって 美一般とは少し違うと思ったりすることもあります。  老人が生活力にあふれているのを見ると 美を感じることもあるかと思います。でもそれは 《生命エネルギーにプラスの方向に働》いていると言うよりは 老人としてのそれなりのエネルギーではあるが それでも 落ち着いた安定したチカラが見て取れるといった姿に 美があると思えるときもあります。  なるべく一般理論をめざしていますので こういった天の邪鬼みたいな疑問・反論をならべています。  ★ だから、カントは美は生命感情の高揚だと説明しました。  ☆ 老若男女を問わず その歳や性に応じた生命感情の高揚があるという見方を提出して 先へすすみます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  この集団、つまり社会などの秩序を守るために  善悪という概念が造られました。  秩序にとってプラスのモノが善で、マイナスが悪  です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。細かいことは言わないとして でも ややいぢわるな見方をひとつしてみます。  すなわち 先ほど歳相応に生命力のあふれた姿に美を感じると言ったとき その美の姿は 社会をおそらく《よく》推進するのにもはたらくのではないかと考えるわけです。  うつくしく生活していることは 社会の秩序にとって よいことなわけだと思うのです。  と考えるなら  ★ 美に対して善悪は人工的色彩が強いものです  ☆ というその程度は それほど大きくない。かも知れない。あるいはつまり 両者の突きあわせでは 《人工的色彩》は程度問題であるかも知れない。  生命力にあふれた姿は ちょっとやそっとで 悪のほうに片向くこともないであろうとも考えられますまいか。  いまは反対の見方をふつうに思いつく場合に 提出しています。  ★ ~~~~~~~~~~~~  美は、本能を起点として理性で感じるのです。  だから、時代や人種、民族などで差異が生じますが  基本的な部分では一致するのです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《基本的な部分で一致する》という点を じつは知りたいのですが なかなかむつかしいようでもあります。  つまり   ★ ~~~~~~~~~~~~  真実かどうかは科学の問題であり、客観性  再現性、論理性の問題です。  美しいかどうかは、感性の問題です。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということだと思うのですが たとえば《ウソでも うつくしいか》という問題もあり得ます。  もし美が《本能〔的感性〕を起点として理性で感じるので》あるなら おそらくその美を感じる対象は その成り立ちが 真実であることも必要であるかも知れない。・・・といった重箱をつっつくような議論も引きずり出そうと思えば 出て来ます。  真実性と美とは 領域が違うでしょうが その対象となっているモノについて 真実であることと美をもつこととは 共存しているかも知れません。整形による人工の美というのもあるのかも知れません。    おそらく  ★ 人間の脳には、利他の精神がビルトインされている  ☆ といった存在論・人間観も 関係して来るのでしょうね。  ・・・といった具合いで これは なかなかまとまらないかも知れませんね。とりあえずこういった探索を残しておきたいと考えます。ありがごうございました。    

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回答No.1

美の主要因である色彩の起源が、美の起源につながる。 「色」は、連続的な電磁波の波長の変化であり、物理的には 「色」の実体である、などというものは存在しない。 可視光線の領域は、赤外線から赤を経て黄、緑、青、紫外線 へと一方的に波長が短くなるのであり、そこに「三原色」が あったり、「色環」を成したりするのは、それぞれに対応した 3種の色覚細胞があるという、受け手の側の都合による。 「赤は青の反対」などといった色彩の特性も、普遍的な根拠 はなく、個別の特性に過ぎない。 「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した多次 元の経験の蓄積による特定の波長に対する条件反射的な (その波長に伴う経験の)印象が付加される事で、“多彩”さ は生じているのです。 「赤は暖かい」や「青は冷たい」といった色の根拠を分析する と、赤は火(地球の低い酸素濃度での燃焼温度の色)、血や 肉(酸素を運ぶヘモグロビン(鉄)の酸化した色)、花や果実 (緑(葉緑素)の葉っぱの中で目立つ色)といった、原因の 異なる長い波長の光に基づいた経験の総和、青は空(気体 分子は短い波長を乱反射する)や水(液体分子は長い波長 を吸収する)といった、原因の異なる経験が先入化していると 推察できる。 脳の、「五感の相関した経験の蓄積において、次の先行的 感覚の感受(光や音)に対して広くニューロネットを活性化す る(予測的な感情)」という総和機能によるのだ。 (こうした「経験的に大雑把に捉える」という機能は、不確定 性原理において絶対化(=無限発散)せずに表面的に捉える 事によって有限な性質を生じる、という存在の起源も成す) この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和 における、視覚的刺激パターンが「美」である。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の 少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界 各地で美的センスは異なるのだ(砂漠地域では青や緑が 好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くすといった)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  小学生のごとくに問いを問い続けます。  ★ 3種の色覚細胞があるという、受け手の側の都合による。  ☆ それの《都合》は なるほど〔美をめぐる〕世界の一般的な事情を反映していないと考えられますが 翻って考えるに そういった片寄った事情に応じた美の感覚も 人間にはあるということになる。のではないか。つまり それとして 美を感じる仕組みを表わしているように思うのですが そういう見方をしてはいけないのか?  まづこれが ひとつの問いです。  つまり  ★ 「赤は青の反対」などといった色彩の特性も、普遍的な根拠はなく、個別の特性に過ぎない。  ☆ というその個別的な事情が かえって人びとの美観をかたちづくっていると言えるのではあるまいか? です。    そのあと読み継いで行って はたと止まったところは 次のくだりです。  ★ この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」である。  ☆ なるほど経験の蓄積つまり慣れや癖で 美の感覚が決まる――とは思うのですが そもそもその経験が始まるのは どういうふうにしてか? という問いもあると思うのです。  つまりは   ★ 快適な経験  ☆ とは何か? というところに ひとつの問いは しぼられます。なぜなら この《快適さ》が 美の要素であると捉えられているからです。  このクダリに到る過程ではまだ 美の要素(質料や形相ではなく ととのったかたちなどと言った美の要素)については触れられていないと思われます。    また いわゆる善にまつわる《よさ》とくらべるためには まだこの《快適さ》という要素のみで議論するカッコウとなります。  そして 質料および形相から成る物理的現象については その認識のただしさをめぐる真実性については 触れられています。つまりただしそのあと 《真実さ》が 美を感じるに際してどのようにかかわっているか? の問いもあります。  この点が 申し訳ないですが まだ触れておられないところだとは考えます。  それにしても 《快適さ ないし 心地良さ・気持ちよさ・たのしさなど》が 美の感覚にどうかかわって そして他方では 善や真実とは あまりかかわらないのかどうなのか。こういった論点も残っていようかと考えました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  脳の、「五感の相関した経験の蓄積において、  次の〔* =あたらしく起こるモノゴトについて予期するような〕  先行的感覚の感受(光や音)に対して  広くニューロネットを活性化する(予測的な感情)」  という総和機能によるのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく物理的な現象としては こういった仕組みとして説明がなされるものなのかなと思います。  ただし 赤や青をめぐるそういった説明にもとづく事実認識のただしさと そしてそのあとの美の感覚如何については まだ分からない。というようには思いました。  (これは 《視覚的刺激パターン》といった捉え方で あとのほうで一定の説明がありました。ただし どうでしょう。事実認識やそれとしての説明事項と 美の感覚との区別もしくはつながりは どうなのでしょうとは思いました)。  こういった生物化学物理的な現象の仕組みについては さらに:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (こうした「経験的に大雑把に捉える」という機能は、  不確定性原理において絶対化(=無限発散)せずに  表面的に捉える事によって有限な性質を生じる、  という存在の起源も成す)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった《起源》の問題にも触れておられます。  これは 大きな問題であるようで 簡単に通りすがりの考察で済ませるわけには行かないようです。  ただ言えることは 《存在の起源》にもとづくなら 《美を感じるというときに ものごとを経験的に大雑把に捉える》ことが 人間存在にふさわしいということなのですね?    惜しむらくは その《大雑把に捉える捉え方》において 美の感覚に特定した場合は どのようなさらに細かい仕組みであるのか? これの解明が 望まれ俟たれるかも知れません。(快適さだけでよいかなどをもです)。    ★ この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」である。  ☆ そうですね。ということは この《快適さ》とそして《善にかかわる良さ》や《事実についての認識の真実さ》などとの照らし合わせが 望まれ俟たれるかと考えられます。  もう少し勝手な考えでツッコミを入れるとしますと 《快適さをめぐる視覚的刺激パターン》が 次のような事例として確認されるとのことですが この《視覚的刺激パターン》が そのまま《うつくしいと感じる》こととそのまま一対一に対応しているか? といったいぢわるな疑問をも持ちましたと ひとこと余計な反応をもつけ添えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、  世界各地で美的センスは異なるのだ(砂漠地域では青や緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くすといった)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらくこれらの《美的センス》は 美を感じさせるものの基礎や土壌をかたちづくっているのではないか? という貪欲な問いを持ってしまったのですが いかがでしょう。

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     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?

     (α) 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?  (β) あるいは 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か?  (γ) すなわち みな誰もがほかの人からおそわりつつあらたな知見を得るというに過ぎないではないか?  (δ) ほかの人からおそわりつつも その知見の内容に納得するのは おのれの知解能力によるのではないか?  (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?  (ζ) あたらしい知見を得るのに他人に先を越されたからと言って くやしがるのは――そのこと自体は 向上心の現われとしてのぞましいが いつまでもただ悔しがるのは―― あまりにもおのれの知性を買い被っていることではないか?  (η) あとの者が先になり 先の者があとになる。と言うではないか。       *    読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  (θ) 一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか?  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力とその場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は:   (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか?      つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立するのではないか?   でした。  これには もう少し 先もあります。  早い話が:   (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。       *  さらにひと言多く。  《ここは どこですか?》とか《桶狭間へは どう行けばよいでしょう?》という問いに対して 地名や道順をおしえるのは 知識項目の授受であり伝達です。  桶狭間が どの地であるかを比定するのは 歴史学の仕事であり その研究成果をおしえるというのは おそらく 歴史資料をどう判断したか・その推論の妥当性を示すことに主眼があるでしょう。定説を聞いて それを暗記することは 学問にとって おそわることとは言えないでしょう。  信長は どういう決断で臨んだか? あるいは 今川義元となぜ戦わなければならなかったか? これらの問いのたぐいは まだ 歴史学の問題領域です。では   (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  このたぐいの問いになれば 哲学の分野です。  ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。ここで:   (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  こういう質問の趣旨になっています。  思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。か?  この問いをめぐっての質問です。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわします。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (つまりたとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることであり ここでは エポケーとも言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 《空》観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなオシエのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび強迫観念にさえ成りかねない固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) エポケーなり現象学的還元なりなどということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • 哲学の意義について作文しました。添削してください

    前回はコレ↓ http://okwave.jp/qa/q7711979.html どのくらい読みやすくなったか評価して助言してください。 わたしは普段簡潔かつ断定的に短い文章で考えを述べてこそ、そも明白さが知性の表れなのだと考えて実践してきました。 このように言葉を膨らませて柔らかくする事は不慣れです。 どちらかと言うと国語的な質問ですがよろしくお願いします。 書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する個人的見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。神と個人の関わりの限りでは哲学であり、広く、神と人とのかかわりであればそれは宗教である。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法でありながら日本人としての信仰の風土を尊重し、仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事だ。 なぜなら自らの信仰心からしか神に問いかける事はできないからであり、それこそが人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 そのように信仰を問うことが哲学の前提であり、日本人として自らの考えを正すために西洋から哲学を学ぶとすると、自らの信仰を明らかにする必要がある。 哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いがおのずから出てくるのだが、それは同一であり、哲学の起源から知性とは神を問うことに生かされ神の発見が人間知性の起源ではないかと類推します。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する

     最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。  ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」     産経新聞 11月3日(月)13時0分配信   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol  ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに  ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと  ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。  ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。:   事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心)   ____________________   SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》       《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。  つまりは:  ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する  この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。  つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。         *  もう少し細かく趣旨説明します。:  知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。  ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。  むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。  ここまでは おそらくふつうの事態です。  問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。  いまの事例で言えば:  1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。  2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。  3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。  4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。  5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。  6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。  7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。          *  先ほどの事例には おまけの話があります。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~  これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。  この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。  この仮説をめぐって問います。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲光のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (たとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることを ここでは エポケーと言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 空観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなおしえのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) 現象学的還元などということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。