• 締切済み

誰からもおそわらなかったという知見はあるか?

 (α) 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?  (β) あるいは 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か?  (γ) すなわち みな誰もがほかの人からおそわりつつあらたな知見を得るというに過ぎないではないか?  (δ) ほかの人からおそわりつつも その知見の内容に納得するのは おのれの知解能力によるのではないか?  (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?  (ζ) あたらしい知見を得るのに他人に先を越されたからと言って くやしがるのは――そのこと自体は 向上心の現われとしてのぞましいが いつまでもただ悔しがるのは―― あまりにもおのれの知性を買い被っていることではないか?  (η) あとの者が先になり 先の者があとになる。と言うではないか。       *    読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  (θ) 一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか?  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力とその場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は:   (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか?      つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立するのではないか?   でした。  これには もう少し 先もあります。  早い話が:   (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。       *  さらにひと言多く。  《ここは どこですか?》とか《桶狭間へは どう行けばよいでしょう?》という問いに対して 地名や道順をおしえるのは 知識項目の授受であり伝達です。  桶狭間が どの地であるかを比定するのは 歴史学の仕事であり その研究成果をおしえるというのは おそらく 歴史資料をどう判断したか・その推論の妥当性を示すことに主眼があるでしょう。定説を聞いて それを暗記することは 学問にとって おそわることとは言えないでしょう。  信長は どういう決断で臨んだか? あるいは 今川義元となぜ戦わなければならなかったか? これらの問いのたぐいは まだ 歴史学の問題領域です。では   (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  このたぐいの問いになれば 哲学の分野です。  ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。ここで:   (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  こういう質問の趣旨になっています。  思いっきり自由なご見解をどうぞ。

みんなの回答

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

こんばんは。 α)自ら見出した知見というものについてはどう考えるのでしょう。自らの観察によって得られる知見というものがあると思いますが。ここで言う観察とは五感の働きのことではなく、それも含めた意識の働きとしての観察です。 β)~κ)知っている者が、知らない者に教える。例えば数学の教師が教えるのは数学の知識や考え方などであるが、この時教師が生徒から教わり得るものというのは、指導のテクニックであったり、或いはちょっと飛躍して人間性などであるでしょう。 この場合には、同じものを発見し、共有するという関係にはならないでしょう。 λ)人間が、獣の習性を色濃く残していることと、人間的な情に絡め取られて恨みを忘れられない事などによると私は思っています。 μ)何かについて語るのに、その何かを幾ばくも知らない者同士が対話しても、得られる知見はないとおもいます。素養が有り、幾らかの知見を有している者同士が対話して、なにか新しい知見というべきものにたどり着くことはあり得るとおもいます。 哲学で言うならば、日頃なにか哲学的な思考をしている者が、同じような同胞と対話して、何か一人では得られなかったような見解にたどり着いたりすることはあるでしょう。しかし、日頃から哲学的な考察を何もなさない人と、哲学的な対話をしようと言っても、それは難しいでしょう。しかし、一方が哲学に無頓着であっても、他方が哲学の素養をいくらか有しているならば、一方の言から他方が哲学的な知見を得るきっかけを得る可能性はあります。例えば、哲学とは無縁な子どもの発言に、深い意味を見出す大人がいるようなものです。 対話を行い、互いに問い合い、何らかの答えに辿り着いた時、それは自ら開梱した畑に実がなったようなものと考えられます。種(素養)があり、開梱という対話を為した結果、実(答)を得られたというような話です。 どこから受け取ったのかといえば、自ら(自分たちに素養あった故)生じ、自ら(自分たちが働いた故)受け取ったのです。 何の不思議もないことですが、それを不思議というならば不思議でしょう。 素養とは、哲学的な問いに対し答えを求めるその求めを素養といいます。 人生とはなにか、どう生きるべきか、死する前になすべきことはなにか、人は何故争うのか、などなど、そういう問と求めのあることを、素養があるといいます。 素養がなければそれの答えを導く観察も、対話も存在しないでしょう。そして、全ての人間にその素養があるかどうかは、わからないものです。子どもや知的障害者などが、哲学的問を持っているとは考えにくいし、大人であっても、そのような思考に踏み込む人がどれだけいるのかはわからないことです。ですので、 >ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。 とは、私は一概に思うことはできません。人間存在として、全く同じ条件に立つならば、それは哲学の範疇を超えるからです。哲学の素養には差があります。よく求める人と、そこそこ求める人と、あまり求めない人と、無頓着な人などがあるでしょう。では哲学の範疇を超えたところとは何でしょうか。 それは、哲学的問いを超えた、もっと人間の根本的な部分にまつわることだということです。子どもにも、大人にも、老いも若きも、男にも女にも、当てはまるものです。それが人間存在として全く同じ条件に立つところで、哲学はそれよりも浅いところであると私は考えます。理由は既に述べたとおり。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ α)自ら見出した知見というものについてはどう考えるのでしょう。自らの観察によって得られる知見  ☆ 具体例として考えるのですが たとえば昆虫の観察がありますか。それと同じように 社会の観察において ここはすべすべしていてやわらかだが あそこは三角に尖っていて取っつきづらいとか あるいはさらに裏に回ると これがじつは隠れた楽園であったとか でもそこにあそぶ人びとの顔は じつはちっとも楽しそうではなかったとか。・・・  ここで《観察》について けっきょくふたつに分けることになるのではないかと思います。  ひとつは 事実そのままの認識として ほかの誰もまだ知らなかったことがらの観察。  でもこれは その場・その土地にすでにいる人びとにとっては 既知のことがらです。アメリカに先住民がいたのですから 《発見》ではなく《出会い》です。  昆虫の生態については どうか? ほかに知る人間はいない場合。どうですかね。  その発見するための知識は おそわったものであるかも分かりません。と見ると どうなりましょうか。  ★ 例えば数学の教師が教えるのは数学の知識や考え方などであるが、この時教師が生徒から教わり得るものというのは、指導のテクニックであったり、或いはちょっと飛躍して人間性などであるでしょう。  ☆ この場合には これも ふたつに分けて捉えられると考えます。  ☆☆(趣旨説明欄) 読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  ☆ これは 基本的に《ぱくり》ですね。  もうひとつの場合というのは 確かに  ★ 指導のテクニックであったり、  ☆ もあるでしょうが まれには そのいまおしえている知識にマチガイがあると生徒が指摘する場合があるかも分かりません。    ☆☆ (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  ★ λ)人間が、獣の習性を色濃く残していることと、人間的な情に絡め取られて恨みを忘れられない事などによると私は思っています。  ☆ 例によってツッコミを入れますが そのような感情の問題の所為にする理性が 元凶であるという仮説を聞いたことがあるのですが そこらへんは どうなんでしょう。(いえ わたしの仮説です)。  【Q:感性は 理性よりもえらい。】 ~~~~~  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆  (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  ★ μ)何かについて語るのに、その何かを幾ばくも知らない者同士が対話しても、得られる知見はないとおもいます。  ☆ たとえばふるいふるい昔の話ですが 中学生のとき 風紀指導だとかという専任の教師がいました。或る日戸が開いている小さな部屋で ひとりの生徒に《指導》をしています。軽くですが なぐったりもしています。要するに おまえは だめなヤツだな 毎度のことだ ったくという感じです。     わたしは ふとヒラメキました。この教師は このような駄目出しをすることに依存してしまっていると。そして おどおどしつつも腕をかざして殴られるのを防ごうとしていた生徒も そのことを知っているのだと。  つまり 生徒は この先生が自分の大好きな《仕事》をしているのだから それにつきあってやらねばならないのかなぁと思っているようだと。  いかにも勉強が出来ない子として扱われたその生徒も かれなりの知見を持っているはずです。  ★ 哲学とは無縁な子どもの発言に、深い意味を見出す大人がいるようなものです。  ☆ というとき 《哲学とは無縁なひと》という規定は あり得ないと思うのです。秀吉がなぜ戦ったかを知らなくても なぜ人はひとを殺すのかについて考えていることは じゅうぶんあり得ると思われます。  ★ 対話を行い、互いに問い合い、何らかの答えに辿り着いた時、それは自ら開梱した畑に実がなったようなものと考えられます。種(素養)があり、開梱という対話を為した結果、実(答)を得られたというような話です。  ☆ ひとは 素養がなくても誰でも おのれの頭を耕していると思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  どこから受け取ったのかといえば、自ら(自分たちに素養あった故)生じ、自ら(自分たちが働いた故)受け取ったのです。  何の不思議もないことですが、それを不思議というならば不思議でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここが 少し分からなかったのですが つまり 不思議なのですか? 不思議ではないのですか?  教養のないにんげんも 人どうしの殺し合いをよしとはしません。なぜ いけないのかが分からなくても 実際に 一般にそうする人はまれです。またその稀な場合が つねに無教養の人間に限るというわけではありません。  たとえばこの人殺しの問題について鑑みても 誰もがひとりでみづからの精神を耕してたどりつく知見はあるように思います。不思議なんですか 不思議ではないんですか?  耕すべき《素養》というのは いわゆる教養のことではなく ただ生まれつきひとに潜在する能力としての知性(つまり 自然本性のチカラ)なのではないでしょうか?  ★☆ 素養とは、哲学的な問いに対し答えを求めるその求めを素養といいます。  あとの知識はみな 代々の申し送りのようなものであるように思われます。あたらしい部分を付け加えても行きますが。  ★ そして、全ての人間にその素養があるかどうかは、わからないものです。子どもや知的障害者などが、哲学的問を持っているとは考えにくいし、大人であっても、そのような思考に踏み込む人がどれだけいるのかはわからないことです。  ☆ そうかも知れません。《障害》を持っている場合は わたしは除外しますが(直ればいいだけですから) 自然本性の素養はあってもこれを耕さない場合もあるかも知れないとしてみます。  そうすると ただしまだ 別の問題があるように思われます。素養はじゅうぶんその開墾・耕作もすでに一人前以上におこなっている。知識も教養も身に着けた。――にもかかわらず ひとごろしを行なう。戦争を仕掛ける。相手に嫌がられることを 平気でやる。  これは 一般に国家というお二階にアマアガリしてしまうと ややもすると侵しがちなクセではないか。(安倍氏はまだ そういう嫌がらせに対抗しようとしているという側面があるかに見られます)。  (靖国だけは ダメだという見解を   【Q:靖国は 宗教であってはならない。国事犠牲者は尊ぶ。】  で問いました)。  というわけで このように教養・無教養は 哲学のすすむべき道にとって必ずしも問題にはならないという見方を提出し それは次のご見解に対するツッコミになると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですので、   >ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。  とは、私は一概に思うことはできません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 人間存在として、全く同じ条件に立つならば、それは哲学の範疇を超えるからです。哲学の素養には差があります。  ☆ いえ。自然本性に――潜在能力としての――差はない。同じ条件に立つと言えると思います。教養や知識には差がありますが 《哲学の素養》には何も差はない。こう考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  では哲学の範疇を超えたところとは何でしょうか。  それは、哲学的問いを超えた、もっと人間の根本的な部分にまつわることだということです。子どもにも、大人にも、老いも若きも、男にも女にも、当てはまるものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが にんげんにとって《哲学》といういとなみだと思います。生きることなのですから。  ★ それが人間存在として全く同じ条件に立つところで、哲学はそれよりも浅いところであると私は考えます。  ☆ これに対して 広義の哲学という見方を提出します。  市井のにんげんは 朴クネやシージンピンらと《哲学》として(つまり 人間として)まったく同じ条件に立っていると思いますが どうでしょう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「スパルタがいいんですか?」 最近、ネコ様も見ないなあ、と思っていたんですけど。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ねこさんとスパルタは 関係あるのですか?  そのうち顔を出してくれると思いますよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

>「おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?」 そっすね。 「スパルタ」でなくてもいいです。

bragelonne
質問者

お礼

 そっすよね。くりなるさん。  ご回答をありがとうございます。  スパルタがいいんですか?

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

Bさま、こんにちは。 「ある情報」について。 「さて、どうしてやろうかな?」というのは、あるようです。 (単純に「知性」などと言っていては、ということでしょうか、 涙の一つも、こぼれてくるようです。)

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「ある情報」について。  「さて、どうしてやろうかな?」というのは、あるようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ウソをおしえてやろうかな? という意味ですか?  ☆☆ (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  ☆ こういうまじめなやり取りではなく そうではなく イヂワルをしてやろうかな? という場合ですか?  ☆☆ (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  ☆ ここから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  (単純に「知性」などと言っていては、ということでしょうか、  涙の一つも、こぼれてくるようです。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へと続くのでしょうか?  ☆☆ (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?

noname#197325
noname#197325
回答No.3

いや、違いました。誰からも教わらなかったというものは、それは本能であり、新知見というものは教わったものであり教わらなかった知見ではないですね。今そう思えました(^_^)

bragelonne
質問者

お礼

 あっ だいたい同じことをご返答としました。  《知見》と言うなら そうなるでしょうね。  ありがとうございます。

noname#197325
noname#197325
回答No.2

なるほど。考えれば考えるほど感性では教わらなかった知見と言い切れないという感じになりました。  (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか? →教える意図を持って教える者、教わる意図を持たず教わる者。このような場合で例えると母親と赤ちゃん。母親は赤ちゃんの様子を伺い、教える意図や教わる意図を持ち、赤ちゃんの教育、赤ちゃんに教育される。赤ちゃんは成長すれば泣けば母親が理解してくれるという知見を得るが、それは母親という社会の教えによる知見だとする。ただ、赤ちゃんは最初から教える意図や教わる意図を持って泣くという行為をするのか?では本能とは誰からも教わらなかったことではないのかと考えました。誰にでも本能があるとし、教わらなかった知見とはみれませんでしょうか?教わらなかった知見=本能。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ なるほど。考えれば考えるほど感性では教わらなかった知見と言い切れないという感じになりました。  ☆ 間接的におそわっているというようなことを言いました。  ★ 教わらなかった知見=本能。  ★ ただ、赤ちゃんは最初から教える意図や教わる意図を持って泣くという行為をするのか?では本能とは誰からも教わらなかったことではないのかと考えました。誰にでも本能があるとし、教わらなかった知見とはみれませんでしょうか?  ☆ たぶん・おそらく《知見》と言うか ではないでしょうか? 《本能》を。  母乳を飲むのも ほとんど《おそわっていない》ですね。お乳をあてがわれるとしても 飲むようになるのは 自分からでしょうね。  生理的な行為は やがて自分でやるようになりますし。勝手に睡眠をも取りますし。・・・  だれでもみんな一緒ですから 《知見》とは言わないかもですね。どうでしょう。  でも母親と赤ちゃんとのあいだには 広い意味での教育がすでに始まっているのでしょうね。と思います。  

noname#197325
noname#197325
回答No.1

ヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、とする説明もある。そうです。そのたどりつく答えは己の五感、それに加えて第六感。ではないかと。人は会話をできる。会話をできない生き物はどうやって教わるのか?人でも誰からおそわらなかった知見はあるんじゃないかと思える。

bragelonne
質問者

お礼

 ぴきぴきぴきさん こんばんは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  ★ 人でも誰から〔も〕おそわらなかった知見はあるんじゃないかと思える。  ☆ そしてそれは たとえば  ★ ヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、  ☆ と見られる《感性》の世界をつうじて得た知見であるのだと。  ――こういうご見解でしょうか?  それが証拠に  ★ 会話をできない生き物はどうやって教わるのか?  ☆ そういった生き物でさえも――それが本能だとしても―― 世界なる環境の中で適応し生きて行く知恵を得ているではないかと。  そうですね。そうしますと その《感性のゆたかなチカラの世界》というのは 誰かほかの者の能力ではなくおのれ自身のものだということなのだと思いますが そのような能力は けっきょくヒトには誰にでもそなわっている。ということではないのですか?    つまりは 《おのれ自身の能力だ。それによって得た知見である》と言う場合にも その感性なるチカラは ほかの人びとにとっても 基本的に潜在能力として同じチカラとしてそなわっている。と言えるのではありませんか?  だとすれば 誰にでもその新知見を得る機会はあった。ただあの A さんが先に得ただけだ。ということですよね?  ということは――詭弁を弄しますが―― 言ってみればその A さんも じんるいの共通のチカラをつうじて・そのかぎりで その感性なる直感におそわって その知見を得た。ということは 言えませんか?  その知見をもたらしたチカラは じんるいに共通のものではないですか?  その共有の財産たる感性能力は A さんがこのひとつの知見について用いたということですが その能力が開発されたのは 人びとといっしょに社会における生活をいとなんで来たその実績の中からなのではないですか? どうでしょう? 詭弁すぎますか?

関連するQ&A

  • 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か

     読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。つまり 真に似せる。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか。  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力の場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか これです。つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。   これには もう少し 先もあります。  早い話が この質疑応答で 回答者が おしえるのではなく 質問者も ただおそわるのではなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか。  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。

  • 質問として成立する、成立しないは誰が決めるのか

      問い方は一つではないのではないか、 問い方にも様々な問い方があるのではないか、 問うにしてもその問おーとすることについて、全く知らずに問うことが出来よーか、 問うにしてもその問おーとすることの多くについて既にある程度の認識がなければ問いを発することさえ出来ないのではないか、 その問いを問いとして発するためには、問う者がその問いに対する自身の認識、既に知っておることを表明しなければ目的とする問いを伝えることは出来ないのではないか、 問う者が問いを問いとして発するために、その問う者が表明した既知の部分を指して、それは問いではないとゆーことが出来るのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのであると言えば、その語りは問いなのではないのか、 語っておる本人が、わしは問うておるのではないと言えば、その語りは問いではないと言えるのではないか、 問いなのか問いではないのかは語っておる本人が決めることではないのか、 問うておる本人が、わしは問うておるのであるとゆーておるにも関わらず他者がそれは問いではないと決めることが出来るのか、 そもそもおよそ哲学として語る事柄であれば、その多くは問いではないのか、    

  • 公職に付くことができる ~実際の人口のうち0.5%

    _公職に付くことができるのは、生まれながらの知性が平均よりも50パーセント以上優れた者にかぎるべきであり _ 『 普通選挙も世論調査も、世界統治には有効ではない。統治することは先を見通すことであり、羊の群れのような民衆の反応に従うことではない。彼らの中には人々を指導し得るほど十分に覚醒されている者は、ごく一部しかいないからである。覚醒された人というのはきわめて少ないので、普通選挙や世論調査に基ずく決定は、大多数の民衆の、蒙昧主義的潜在意識による本能的反応の選択にしかいきつかないものである。 選択的民主主義である天才政治のみが、価値あるものなのだ。そして、公職に付くことができるのは、生まれながらの知性が平均よりも50パーセント以上優れた者にかぎるべきであり、それを選出できるのは、生来の知性が平均より10パーセント以上優れた者にかぎるべきである。 ―――  現在、人が民主主義と呼んでいるものは、実際は平均政治にすぎない。というのは、最も人数が多いのは、平均的知性を持った人びとであり、したがって、かれらの決定が投票のさいに勝利を得るからである。  非常に良く作られたテストのおかげで、ガウス曲線(1)を見てもらえばわかるように(注・無い)、実際の人口のうち、わずか0.5パーセントがきわめて優秀、すなわち天才である。しかし、こうした天才たちの声は、同じく0.5パーセントを占める白痴的な人たちの声によって、投票の際に相殺されてしまうのだ!  優秀な人たちはわずか二パーセントしかおらず、かれらの声も、同じく二パーセントを占める知恵遅れの人たちの声によって相殺されてしまうのだ!  平均より十~三十パーセント高い知性を持つ人たち、つまり「平均以上」の人たちは、人口の二十五パーセントを占めているが、かれらの意見もやはり、同じく人口の二十五パーセントを占め、平均より十~三十パーセント低い知性を持つ人たち、つまり「平均以下」の人たちの意見によって相殺されてしまう。  結局、平均的知性を持つ人たち、つまり平均的な人たちが、投票の際に決定を下すことになる。なにしろ、かれらは四十五パーセントもいるのだから。以上、民主主義のこのような形態が、実際は平均政治にすぎないことの理由である。 (ラエル著)』 _実際の人口のうち、わずか0.5パーセントがきわめて優秀 _  “公職に付くことができる者” <総人口> 1億2763万人【平成23年9月1日現在(概算値)】 の  0.5 %  =  63万8千人 公 務 員 の 種 類 と 数  ―平成20年度末 公 務 員(約3,614,000人)_国家公務員(約662,000人)_地方公務員(約2,951,000人)  http://www.gyoukaku.go.jp/siryou/koumuin/shurui.pdf#search='公務員の数'  約 361万4千人  ⇔   63万8千人    現状に問題が有りとしたならば、4/5以上削減できる(63万8千人まで)、  所見などありましたら?

  • 我々は何故太平洋戦争を習わないのか?

    我々は学校で太平洋戦争を習いませんでした 歴史は室町とか江戸とかをじっくりやって 明治時代になる頃には春が来て終わりです。 我々に何故教えないか。それは学生運動を押しつぶしてから 子供に考える暇を与えず バカに育てて操縦しやすくしたからです。 学校は暗記させて偏差値で競わせ、自分で考えることをさせません。 では政府は何を考えているのか? 緊急事態条項とは何か?憲法はどうなるのか?哲学は役に立たない。 こんな教育間違ってるとは思いませんか? 当方病人につき、長文はご勘弁を。。。

  • 罪を憎んで人を憎まずとは、いらぬ責任を取ることだ。

    私は滅びる者どもの悲しみを両手ですくい、涙する記憶の番人。 伝説の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 罪を憎んで人を憎まず。 この憐れみは美談とされている。 人を憎まないが罪は憎むと言い変えてみろ。 そうすると、君は人に罪をもたらした天の摂理を憎んでいることとなる。 一言で、神を憎むと宣言しておるのだ。 神がとがめて当然だ。 そのように荒ぶれる神が悪魔に化身して君達に現れる。 これが君達を苦しめる悪意だ。 このように神と人との関係がこじれた原因は君達の知性の土台たる人知、ヴェーダがポンコツのAIだからだ。 ポンコツな人間知性に留まるのが君達の限界だ。 心から、罪さえも愛し慈しむプリキュアの純心を理解できれば、君達は人間をやめることすらできる。 ところが君達は、人を憎みきれなくても、罪は憎みきるだろう。 神に殺されて滅びるだろう。 滅びの宴だ。 私の愛が審判の証明だ。 新人類の誕生した今、君達の滅びは自然淘汰だ。 檻の無い動物園で安らかな余生を過ごす君たちだ。 これらは、「実在する妖精の捕まえ方」という私独自の哲学で、君達の現状を分析した結果です。 哲学研究として、見解を述べてください。 研究が先に進むでしょう。

  • 何故明日やろうと思うのか。「面倒」の心理について。

    なぜ、人は「明日からやろう」と思うのでしょうか。 なぜ、人は面倒に思うのでしょうか。 なぜ、人は怠慢になるのでしょうか。 しつこい出だしになってしまいましたが、取り組むべき事をこなした方が最善であるのに、怠惰に思う事がよくありますが、その心理的メカニズムを知りたいのです。 表層意識と潜在意識を例に、表層意識は変わろうと思っても、潜在意識は変わりたくないと思っているから、という例示もありましたが、潜在意識は、このタスクをこなさないと将来的にまずい状態になるという危機感を感じないのでしょうか。 この例示以外にも、怠慢の心理的メカニズムはこうして起こるんだよ、という例がありましたら教えて下さい。 また、上記例では潜在意識が怠慢感情を発するという風に書きましたが、それでは潜在意識が怠慢ではなく能動や利発の感情を発しても良いのに、何故潜在意識が怠慢(あるいは変化を起こしたくない)という感情を発してしまうのか、更にその先の心理メカニズムはどうして発生するのか等、できれば人間の奥の方の心理、根本原理や人の心の最下層まで順を追って理解したい次第です。 勿論、全部回答を頂けるのであれば、全て説明して頂かなくとも、一部だけの回答でも歓迎です。 ※哲学のカテゴリーで質問すればいいのでは、という意見もあると思いますが、あそこは哲学の為の哲学をやっているような感じなので、私が求める答えが返ってこないような気がしましたので、こちらに質問させて頂きました。 また、こちらは余談ですが、個人的にはそうした怠慢にどう対処すれば良いか、怠慢に思う気持ちが上がって来た時にタスクをこなさなければならない時、どうすれば良いかの対処法も調べています。教えてGoo! で検索すると結構引っかかるので、現在結果をまとめ中ですが・・・。

  • ドストエフスキの「大審問官」の問い

    古今東西の知性が常に「読むべき」本として名前をあげる「カラマーゾフの兄弟」。その中でもとりわけ根源的な問いをつきつける「大審問官」については解説を試みたものも少なくありません。しかし、私にとってはすべて一般化しすぎた結論に終わっているように感じられ、しっくりいきません。特にキリスト教(カトリック・プロテスタント問わず)を信じる方々はこの問いをどのように自身の内で処理されているのでしょう。ご意見お聞かせください。たくさん聞きたいことはありますが、今回お尋ねしたい問いの部分は以下のとおりです。(原文どおりではありませんが) ・人間は「神」よりも、まず「奇跡」を求める ・おまえ(キリスト)は選ばれた者のためだけにやってきたというのか ・強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い(しかしおまえを愛している)人たちが堪えられなかったからといって、何が悪いというのだ。人間はおまえが思うよりも遥かに弱く作られているのだぞ 以上、よろしくお願いします。

  • われらがあたらしい哲学へ

     たたき台としては論点をひとつに絞ります。  近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。  《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。  もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。  科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。  言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。  かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。  もう少し別様の説明としてのべます。:  ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。  そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。  すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。  これを名づけるとすれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語)  となると思います。  ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は:   《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合  が ふさわしい。こうなると考えられます。  このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。  西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。  普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。  忌憚なきご見解をどうぞ。

  • 人生がむなしいです

    人生がむなしいです。 人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。 【回答についての注意事項】 ・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。 ・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。 これが実感としてわからないなら、参加しないでください。 ・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。 ・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。 ・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。 ・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか? ・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。