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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:権利と義務という次元を掘り下げることはできないか?)

権利と義務の掘り下げ

amenhotep2000の回答

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回答No.22

bragelonneさん、こんにちは、ユーチューブでクラッシックを聴きながら、読書しながら、この問題について思索していたら、回答できるくらいある程度まとまったので、回答を投稿します。 トマス・ホッブス(1588~1679) ジョン・ロック(1632~1704) ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778) アダム・スミス(1723~1790) ショーペンハウアー(1788~1860) マルクス(1818~1883) 哲学は時代によって思想家たちが影響し合ってますから、年代順に並べました。 私はホップスやロックの本は読んだことがありません。 しかし、かなりヒットしたので多くの人の手にあると思いますが、「国家の品格」 藤原正彦著の68ぺージに簡単に著者の見解が述べられています。 「究極の自由とはホッブスが言った自然権です。「各人が自己生存のためになんでもする自由」のことです。しかし、この自然権を認めたら万人の万人に対する闘争が始まり、 無秩序と野蛮と混沌となる。これを万人が放棄してある機関に委託する。この機関こそが国家である。」 ロックは「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」と言ったそうですが、藤原さんの見解は否定的です。 さて話しは飛びますが権利について憲法第25条について私の私見を述べます。 第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 これを考えるにあたり哲学のルソー、アダム・スミス・ショペンハウアーの意見を私は肯定します。 ジャン・ジャック・ルソー「人間の不平等の起源と根拠についての論文」より抜粋 「他の人々(プフェンドロフとロック)は自分の所有するものを保持するという、各人が持っている自然権について語ったが、所有するということを、どう解しているのかを説明しなかった。、また別の人々(ホッブズ)は、まず最強者に最弱者に対する権限を与え、すぐに権威とか政府という言葉が人間のあいだに存在できるようになる前に、経緯したに違いない時間を考えなかった。((結局、みんなたえず、欲求や貪欲や迫害や欲望や傲慢について語って、社会の中で得られた考えを自然状態へ持ち込み、野性の人について語っているにも関わらず、社会人を描いていたのであった。))」 と見解を述べ、この論文の中で、 「憐れみは自然の感情であることは確かで、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」 と見解を述べてます。 書くのが疲れますので省略いたしますが、アダム・スミスも「道徳感情論」の中で人間の本性は憐れみの心と述べています。 ショーペン・ハウアーは、ニーチェは否定しましたが、やはり同情(Mitleid)を自己の倫理学の基礎としでます。 私も人間の奥底には憐れみ(同情)の心が備わってと思ってます。自分が苦しい体験をしたら他人の苦しみもわかるものです。 ですから憲法25条は当然の権利として守らねばならない。 憲法を守るのは市民ではなく権力者(政治家)であると池上彰さんが、憲法についての番組で最近のべてました。 さて義務ですが、私は、マルクスの考えを取り入れ、労働の義務があると思います。 労働しない人はマルクスが使った「疎外」であり、人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何者であるかを規定し返す。生産関係の中で作り出したものを媒介して、人間はおのれの本質を見て取るというのがマルクスの考えのようですね。 生活保護やフリーターなどの非正規社員と正社員の格差社会の中でもう一度、マルクスを考え直しても良いのではないか? 日米安保闘争の経験をされた世代の方に回答をいただきたいです。 あー疲れた。今日の労働はおしまい(笑)。 bragelonneさんの見解もお聞かせください。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷ2000さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▼ (藤原正彦) 究極の自由とはホッブスが言った自然権です。「各人が自己生存のためになんでもする自由」のことです。  ☆ これは そういう想定をするということだと捉えます。そしてその想定は まづありえないものだと わたしには思えます。    なぜって それは 《人間は 自分の好き勝手をどこまでもおこなう生物だ》と見てしまっているからです。  人殺しも詐欺偽りも何でもおこなうという人間像です。    だから  ○ ひとは人に対して 狼である。Homo homini lupus.  ○ 世界は 万人の万人によるたたかいBellum omnium contra omnis. である。  といった想定も派生します。つまり ホッブズ流の人間像にもとづくなら なるほど  ▼(藤原) これ(* 何でもありの自然権)を万人が放棄してある機関に委託する。この機関こそが国家である。  ☆ ということにもなるのでしょう。絶対主権のような存在としての国家 ということだと思われます。  ところが――いまでは 主権は 国民ないし市民に在るとうたってもいるように――  ★ ロックは「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」と言ったそうですが  ☆ というごとく 最小限の生存の権利は 誰も国家にゆだねたわけではないと言いました。言いかえると 人びとが自然権を国家に対して放棄したのは その一部であるに過ぎないと。  だったら 権利義務の体系の制度としての成り立ちの前に(それ以前に) 自然なふつうの市民的な生活があって そこには《権利以前の権利》のような実態もあるであろう。と帰結されるのではないでしょうか。  この点について みなさんにここでは問うています。  ▲ (ジャン・ジャック・ルソー「人間の不平等の起源と根拠についての論文」) 憐れみは自然の感情であることは確かで、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している  ☆ ここでおそらく《あわれみ》は Sympathie / Sympathy のことで 《もののあはれを知る》そのことだともまた《思いやり》のことだとも捉えられますが これが 社会文化的かつ権力体系的な《権利・義務》の仕組みの以前に 《自然の感情》としてあるのだ。となるかと思います。  《自己愛の活動を和らげ》とは 利己心を 相手のそれとの互いの競合や衝突の具合いを考慮して うまくゆづりあう といったことではないかと思います。  この J.-J.ルウソの Sympathy は確かに A.スミスにあっては 《同感の原理》にまで用いられたと言われます。  ★ アダム・スミスも「道徳感情論」の中で人間の本性は憐れみの心と述べています。  ★ ショーペン・ハウアーは、ニーチェは否定しましたが、やはり同情(Mitleid)を自己の倫理学の基礎としでます。  ☆ わたしは ショーペンハウアーは読んでいないので知らないのですが sym- ( syn-) pathy = Mit- leid = 〔together-feeling 〕という言葉の対応としても見て取れるのではないかと考えます。思いやりだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私も人間の奥底には憐れみ(同情)の心が備わってと思ってます。自分が苦しい体験をしたら他人の苦しみもわかるものです。  ですから憲法25条は当然の権利として守らねばならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 基本的人権のその法的な決まりなどの概念体系の以前に 自然の生活感情としての《あわれみ・思いやり》がある。ということですね。苦しみ( pathos ≒ Leid )を共にする( syn- ≒ Mit )と言っているようにだと思われます。    ★ 人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何者であるかを規定し返す。  ☆ 海から獲った魚介類であったとしても それが食べ物として安全であるかについて その漁労従事者やけっきょく社会全体が 責任を持ちます。持たなくなったなら それは 生産行為〔やそれをつうじての社会的な共同生活〕からみづからを疎外してしまったとなると思います。そういうことだと見ます。    食物についての安全を確保するのは 義務であると同時に 自分たち自身の生活のためでもあるからには 権利でもある。と同時に さらには そもそも初めに生活をしているその次元において 自然にふつうに《思う》ことである。しかも 社会的な共同生活をいとなむからには 相手のあることであり そういった人びとのことについても《思いやる》。  かくして 《あわれみ・共生・共苦・同感・仲間意識》もじゅうぶんに現実である。  ○ 権利と義務のみなもとは 思いやり・あわれみである。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  生活保護やフリーターなどの非正規社員と正社員の格差社会の中でもう一度、マルクスを考え直しても良いのではないか?  日米安保闘争の経験をされた世代の方に回答をいただきたいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者からも そのお願いを同じくする意味で かかげます。

bragelonne
質問者

補足

 べストアンサーかな。  ただし 西欧の人間の論理的な議論だけではなく 生活の中に根差してその実感をも感じさせつつ 思いやり≒あわれみ≒共生の感覚などなどをさらに明らかにして行くこと これを高望みしてみます。  つまり 権利と義務なる世の中のそれとしての現実ともじっさいにからみ合ったそういった人間と社会との理論および実践 こうなりましょうか。どうでしょうか。

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