• 締切済み

【倫理】権利の拡張の根拠とその根拠に基づく適用範囲

何者かの権利は時代を下るにつれて拡張されていっていますが、その権利の拡張は何を根拠に拡張されているのでしょうか? 権利の拡張とは例えば、奴隷制などが廃止されたり、女性に選挙権が与えられると言ったことです。個人の意見ではなく、もしあるのであれば、コンセンサスが取れている根拠に限って教えて頂きたいです。つまり、ある人権宣言の一項やある法律の一項などの正当化の作業において実際に使われ、効果があると社会に見なされた根拠です。こういう物は話し合いの末に決めたと思うのであると思います。 また、その権利の拡張の根拠に基づけばどこまで何者・何かの権利を正当化することが可能なのでしょうか?人間、人工知能、動物、植物、微生物、無生物…などの生き物・物の持つ権利はどのように差別され適用されうるのでしょうか? もしその根拠により定められる権利の拡張の適用条件を動物も満たしている時、現代が「動物の福祉」を超えて「動物の権利」まで認められることがない理由はなんでしょうか?もしあるのであれば、こちらもコンセンサスが取れている理由でお願いします。倫理について詳しくないので愚問故に心象を悪くさせてしまいしたらすみませんm(_ _)m

みんなの回答

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.1

111235様、おはようございます。 「民主主義は、永久に、未完」という表現が、有ります。 権利というのは、広く人権を含めて、「調整」するものだと解釈します。 その上で、「それは、無いよ!」と言うことが出来る、そして、(人権を侵害しない範囲で)多数決で、物事が定まっていく。(・・・韓国では、最高裁判所が一番偉い、のだとか?) 法律的には、こんな感じですかね。お粗末さまでした。

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