• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏と罰は関係あるのか?)

仏と罰の関係について考える

tumaritou1の回答

回答No.4

哲学からの宗教改革という側面には無理があります。それは『宗教体験』の神秘性の中には、哲学が入り込む余地が無くなっているからです。 又、罰或いは原罪の意味とは『心の矛盾や対立や分裂の別称です。』 原罪とか業という意味は『苦しみの別称』という意味です。 心が未だ未分化の状態の『幼子』が天国に一番近い存在という意味は『心に矛盾を抱えていない状態』という意味で、書かれているからです。この意味は『自分自身の命の働きと自我という心が』一つの者として働いているという意味になりますので、『他人に自分の裸を晒したとしても、恥ずかしいという感情が未だ沸かない様に出来ているからです。』 それに引き換え思春期頃から、誰にも自分の裸を見せる事が出来ない現象『恥ずかしい』という感情が芽生えて来ますが、この原因は『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられるからです。 脳内の機能分化の完成によって、心が二つ生じているからです。この有様はジルボルト.テーラー女史の動画で描かれています。 人間の苦しみの大きさは『脳内の二つの意識の落差の大きさ』と比例しています。 従って『自分は何者か?』といった疑問を哲学的に解明しようとする事は、ますます問題を判り難くする可能性があります。禅的な或いは宗教的な解消方法の中に答えがあるからです。 禅匠に『人生とは何ですか?』と問うなら、では『何故お前はそう思うのか?』と、逆襲を受けます。 是が禅の立場ですが、その意味は『疑問を抱く時、その疑問を抱く、その発端にこそ答えがある。』という立場です。 この意味は、幼子では考える事さえ出来なかったのに、自分自身を疑いだした事によって、悩みや疑問や苦しみが始まった、その原因の大元に『気付きなさい!』という叱咤激励の意味があります。 自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 宗教の原点に戻るという意味は、意識地獄からの開放、或いは『魂の救い』が全ての宗教の原点という意味です。 『神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。』 と貴方は書かれていますが、全ての症状の下には、『死に対する不安感』がベースになっています。その次に『漠然とした不安感と共に、生き難い想い』がベースになっています。この共通点が『心の矛盾の正体』という意味です。 自我意識という心が、『自分自身の命の源から』圧迫を受けている、という勘違いをしている事です。この勘違いが全ての、例え症状が全く違って見えたとしても、全ての原点になっているという意味です。 人間の深刻な悩みの一つに、有限と永遠の対立があります。是を例にして説明します。 聡明で分析的で計算が得意な自我意識の機能は、物事を分けてみて計算して答えを見付けています。その代表が『言葉です。』 ですが人間の生活には『言葉では表現出来ない世界が存在しています。』仕事のコツといったものから、自転車に乗るコツ、といったものなどいわゆる、コツといった感覚的なものです。或いは直感的な判断です、或いは空間認識能力等もそうです、 或いは音楽やカラオケが苦手な人でも、人のうまいとか下手とかは判断出来ます。感激をする場合では満場総立ち、いわゆる『スタンディングオベーション』なる現象も有ります。 是なども『自身の右脳からの情報によっています。』 人間が生まれて何も学ぶ以前から既に備わっているものに、不安や安心や恐怖する事があります。こういった感情の沸き方などは、誰でも学習した人は居ませんが、高いところに上がった場合では『身がすくむ』という生体反応をしています。 笑顔を見た時には、赤ん坊も笑顔で返しています。こう言った備わった生体反応を、『命の働き』といっていますが、この『働きの内の何がしか』に『異常に反応する事が』障害の元になっている、と書いています。 『身体に対する生体反応』に違和感を抱く時、自律神経失調症と言ったり、『沸き上がる感情や考えに対しての生体反応に』』違和感を抱く時に心を病むと表現したり、『行動の自在性』に違和感を抱く事で、自分の行動の自由性が確保出来ない場合を神経症と表現すると言った、障害という事です。 動画に有るとおり『右脳の機能は』今現在の全ての情報を、脳梁(意識の根底)を通して絶えず送り続けています。その意味は『生命の維持機能としてです。』 左脳の自我意識は、過去と未来を計算しながら、今現在の情報の中から『必要な情報だけを拾い出しています。』 此処での情報交換の齟齬が、全ての障害の元になっています。 分かり難い話になってしまいましたので、簡単にして終わりにします。 死に対する不安と、漠然とした得体の知れない不安感と生き難い想いがセットになっている事が『原罪や業』と言われているものです。 是は『自我意識の機能が言葉に代表される機能=割り切れるもの=有限』から成り立っている事に原因があります。自我意識には『有限を理解する機能しか無いからです。従って自我意識には『永遠』を理解する事は出来ない。』と言う意味になります。 それに対して『右脳の意識』は、永遠の存在です、その理由は『生まれた訳ではない事によっています。』言い換えるなら『永遠からやって来て、又永遠に戻ってゆく存在』だからです。 此処のところが『出会った者にしか説明出来ないからです。』この出会う体験を禅では『見性体験』と言っています。キリスト教では『神と和解する』体験です。 此処まで来た時に『見ている自分=見られている自分』が一つになります。この事を『大人の嬰児』と表現しています。』 心の矛盾が解消すると言う意味です。自分の心が自分の心と争う事が無くなる体験でありますので、心の中が静かになると表現します。是が『涅槃』の意味です。 信じられないかもしれませんが、個人的には真実の体験です。もう30年以上前の体験です。『死にたくない』ともだえ苦しんでいた自分でしたが、自分自身の『無意識の意識』に出会う体験以後『死に対する恐怖症が完治した経験です。』 心持はこうです。自分が死ぬ事は残念だけれども仕方が無い事と納得出来ました(死の受容)その代わり、自分の中には『元々永遠の存在だった者』が存在していた事が分かります。 人生の見方が一変します。命やお金や見栄や外見や地位や出世が色褪せてしまいます。その代わり以前では大事ではない事柄『自分以外の人の幸福』が大事になって来ます。 そのお陰で、たいして頭が良い訳ではなかった自分が商売を始めて、順調とは言えないまでも、まずまずの暮らしが営めています。

hokekyou333
質問者

お礼

私の「仏と罰」を題とした短い質問文に、これだけのさまざまな含みを持ったご回答をくださり、ありがとうございます。 しかし、やはり宗教や宗教的立場や宗教体験から言葉をひも解く道はどうしても、雲の上からながめたような大きな指針に終始してしまうのでしょう。 時として、それでは具体的な道筋は見えず、言葉が対話の場となる時には、齟齬だらけの対話が生まれてしまいがちですよね。 そのままの言葉で権威化するのはそれなりに必要性があるのでしょうが、対話の場である質疑の言葉としては、どうしても具体的なところまでその言葉を訳さないと、話は次へと正しく進んではいきません。 補足質問がこちらにも続いてしまう非礼を、どうかご理解ご了承していただければと思うものなのです。 こちらに補足分続けさせていただきます。 ↓ 》脳内の機能分化の完成によって、心が二つ生じているからです。この有様はジルボルト.テーラー女史の動画で描かれています。 人間の苦しみの大きさは『脳内の二つの意識の落差の大きさ』と比例しています。《 ここは、私も「そのようにも言える」と思えるので、パス^^です。 》従って『自分は何者か?』といった疑問を哲学的に解明しようとする事は、ますます問題を判り難くする可能性があります。禅的な或いは宗教的な解消方法の中に答えがあるからです。 禅匠に『人生とは何ですか?』と問うなら、では『何故お前はそう思うのか?』と、逆襲を受けます。《 『自分とは何者か?』ということの答えも、感性哲学の深まりがなければその全体像をつかむことは確かに不可能にすら思えてしまいますが、感性哲学により、自我の構造を深く理解し、自我杯がのまま自分への誇りを感じる地点まで全体像を把握し、でも自我を突き抜けた地点からも自己を観れるので、まったく自我にはとらわれないそんな心の状況を、哲学による心の改革の世界でも実現できると私は思えているのですが、どうお考えになるでしょうか。 はて、次にここが「むむむ」となってしまうところなのですが、 『自分は何者か』という疑問と『人生とは何ですか?』という問いとは、普通の文脈からはまったく別の設問であるはずなのですが、いきなり、後者の設問へすり替わって話が続いてしまっています。 そちらとしては、自我さへはっきりわかっていれば、人生も見えてくることは解りきっているため、同じ設問の文というふうに感じてしまっているのだろうと思います。 でも、この表現の飛躍のあたりも、哲学が、もっと具体的描写から言葉をことほぐ必要のある点だと思えてならないのです。 ただ、ここを具体的に詳しく書くとそれだけで紙数は終わってしまいそうですので、「ムムム」という感じなのですが^^、ここもパスします。 言いたい事の意味をたぶんそちらなら汲み取ってくれるかと思います。 》是が禅の立場ですが、その意味は『疑問を抱く時、その疑問を抱く、その発端にこそ答えがある。』という立場です。 この意味は、幼子では考える事さえ出来なかったのに、自分自身を疑いだした事によって、悩みや疑問や苦しみが始まった、その原因の大元に『気付きなさい!』という叱咤激励の意味があります。《 でも、この禅問答で、論理脳だけの発達の危険性に気が付き、かつどうしたらアフリカの子供たちの様に純真な輝くまなざしの心の故郷にもどれるのか?、そのへんを叱咤激励される人がいるのかどうか? 詳しく書きたいところですが、ここもここまででパスさせていただきます。 自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 》自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 宗教の原点に戻るという意味は、意識地獄からの開放、或いは『魂の救い』が全ての宗教の原点という意味です。《 これですと、「自我意識」はすべてじゃまな意識ということになりますので、そういうとこともなきにしもあらず、そのままではかなり荒削りな自我論が想定されてしまいます。 また、そのようなじゃまな自我意識が左脳の論理脳であり、ここでは逆に「もう一人の自分」というのが 左脳によって物事を上からみつめる自分ではなくて(前段のある場所ではその逆の形で同じ言葉が使われていますので)、右脳の意識の自分という文になっているわけですよね。 でも、 確かにテイラー博士の体験された右脳の境地、涅槃の境地に戻ることは大切なのですが、もちろん赤ちゃんの脳に退行することではなく、その境地を肚にすえ、人間の本当の目標を見失わずに左脳を働かせ直してゆくのが、これからの次の時代に必要な最も大切なことだと私も考えているのです。 しかし、それが宗教の原点に戻る、ということであり、魂の救い、全部の心の安定につながることであるとして、 それはむしろ感性哲学のきめ細やかさやそのパワーによってこそ今ではもたらされうる世界なのではないでしょうか? あまりにも、宗教はよけいな幻想や方便やおとぎ話や難しい言葉で飾られすぎてしまっていると思います。 あなたの様に体験から本質が見えている人は少ないはずなのです。 やはり、きめ細やかな感性哲学が今の時代には必要なのではないでしょうか? さて、次こそ、まさに宗教的表現の陥りがちな表現の問題の核心を物語ってしまっているところにも思えるところ、 》神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。』 と貴方は書かれていますが、《というふうに起こしの文で書かれている文なのですが、 やっぱり、雲の上からの大きな指針として書かれているから、そのような一括りの分類の文となってしまうところと私にはですが思えます。 紙数の都合もあり、以下は、 ここまでのように、一つ一つの文やその意味合いに対してではなくて、その特徴的な部分にしぼり疑問な点、補足質問させていただくことで、 感性哲学によってならば、宗教改革にも無理がないのではないか?、むしろ今の時代それをこそ求められているのではないかという点、もう一度考察されたうえで回答いただければと思います。 一つ一つ詳しく書いた方が、なぜそんなにたくさんの疑問をいちいちかんじてしまったのか^^、よりわかりやすくしていただけると思うのですが、 ここは、上記以後のそちらのご回答への補足質問は、恐怖症に関する地点だけに絞らせていただきます。 まず貴方の宗教体験についてなのですが、想像するに、おそらく死の恐怖を実際に感じて悩み続け考え続けているうちに、あれ、なんでこんなところで、急にまるで人間の故郷にもどってきたかのような安心感と安らぎが訪れたのだろうという、とても深い感性体験を一気に感じる時間が訪れたのだろうと思うのです。 何か真実を求め続けてヨガをやっているうちに突然クンダリーニのエネルギーに目覚め、背骨をつきぬける生きてる喜びや静寂の安らぎを感じるのと似ているのではなかったのかと思えるのです。 でも、それだけですと、もちろんそれは尊い貴重な体験ではあるのですが、 いざ》『自分以外の人の幸福』が大事になってくる《と、 まさにその自分以外の、その体験をしたことの無い人たちの幸福が問題となってくるわけですから、 やはり、さらにきめの細やかな言葉の使い方で、言葉を越えた世界の表現をできるなら、絵筆のタッチや、声の音声による想いの源泉の世界や、舞踊における動きの表情の世界にも具体的に、説明する努力をこれから開いて行ってみることを望みたい気持ちになるものなのです。 ビジネスによる実証にも、心の落ち着きやゆるぎなく座った理念は必要でしょうけど、そこにはそれこそ論理脳によるあらゆる要因、あるゆるケースへの対応能力が必要ですからね。 さて、高所恐怖症についてなのですが、この足がすくむ体験は私達が危険を避けるためにも必要な生物の能力としてもとらえておく必要があるのではないでしょうか? 三半規管の異常は、時としてすごいものがあり、その異常の中では極端な場合、高いビルの屋上の端から5メートルも離れていても危険な場合があります。私自身の体験です。 しかしその私が、ある方法でそれを直してみると、何十回のビルの細い足場に立って、下を見ながら作業しても、地上と同じように恐怖も感じなければ、バランスも安定している体験もしているのです。 もし、最初から死の恐怖をまったく体が感じなくなってしまった状態であれば、それは、注意深さに欠けた恐怖症よりも危険な状態が予測されてしまうのです。 悟りってすべてが解る世界のことなのですか? 体験して体験してその体験から哲学しぬくことで少しづつ人生を理解して磨かれてきた感性哲学の世界こそ、次の世の中に必要なのだろうと私は思うのですが、 考えてみてやはり、哲学には深い境地を語るのは無理があるというのであれば、もう一度だけ、その意味合いを教えてください。 宜しくお願いいたします。 こんな形になってしまい不徳のいたすところですが、申し訳ありません。 私の方としてはすべて丁寧なご回答ありがたいところです。 必要のない人に、物を書いてしまった感もありますね。 書かせていただく形自体にも感謝したいのです。 ほんとうにありがとうございました。

hokekyou333
質問者

補足

2回目のご回答ありがとうございます。 ですが、今回のご回答文に対しては補足質問だらけになりそうな点が多すぎます。 せっかくこれだけの長文を書いてくださったのに、どうしようかなと思ったほどです。 でも少し時間が出来ましたので、補足質問を急ぎ書き込ませていただきます。 ↓ (1) 》哲学からの宗教改革という側面には無理があります。それは『宗教体験』の神秘性の中には、哲学が入り込む余地が無くなっているからです。《 哲学からの宗教改革が難しいのは、感性をしっかり掴んで哲学することのできる感性哲学者が少ないからではないですか? 西洋ではカントが少し、アランという教育哲学者が、一応感性教育によって過去の哲学や経済社会を変革しようとしていましたが、その流れはとぎれてしまっていますよね。 しかし、感性が深まれば、一番簡単に自我の殻は突き抜けられます。 まるで、すっと、電波みたいに通り抜けてしまうはずです。 その時、たしかに論理脳が感性の深まりをおさへてしまうところがあるため、その論理脳がジル・ボルト・テイラー女史のようにほとんど一瞬にして消えてゆく体験をしたことで、それを想い出せる脳、語れる脳に快復した奇跡は、その辺を物語るあまりにも貴重なご体験となっていることは、youtubeでの彼女の講演のビデオ「見ての通り」と言えそうです。 感じるという世界、五感の世界があるため、その五感の充実をもとめて欲望が起こりますが、その欲望が自我の内側、自分の殻を守るために最初は働くので(あたりまえのことですが^^)それによって、思いやりという人間関係が壊れたり、自己本位の行動に結びつくことによってさまざまな争いなどの結びつくことから そこに社会的に道徳の必要性とその理解が論理脳の中に生まれ、それが欲望抑制とともに感性自体の深まりも抑制してしまっているのだと私は考えています。 しかし、 感性、これは単純に感受性と言ってもいいのですが、感じることが五感すべてにおいて深まると、その深まり自体が浅い感性での欲望の上位概念、上位感覚となって、そう言う状況を生きてそのとおりに体や神経がその感情を体験していながらそれを、ちょうど右脳が空間的時間的に上から物事を見つめ、分類分析して、反省し、より良い技術を生み出してゆくように、心の状態もまた、その上位の感覚、概念によって、分析したし、反省したりできるようになり、やがて、さらにそれが深まってゆくことを実感できるようになれば、自我はその固い殻のまま、簡単に突き抜けられて、他の人と相身互いの、どんな人をも友達と感じる自他を区別しない心が自分にもあることを、はっきり見ることができるようになると私は思っているのです。 でも、心がそういう状態になるには、 結局、感性が新鮮で豊かになる必要性があるわけでないですか。 どんな人においてもそうなることが出来る方法が具体的に、教育方法論として確立されてゆく必要があるわけです。 その事は、たぶん、宗教でも解かんとしてきた人たちは多くおられるのでしょうが、むしろ神秘化してしまうことで、その方法論や教育論がかすんでしまう状態になってはいないでしょうか? そのへんは感性哲学でならば、無理なく思考回路を開けるので、それによる宗教改革は可能なのではというのが私の考えなのです。 たいへんお手数ですが、もう一度だけ、 感性教育や感性哲学が可能になっても、なお、哲学による宗教改革には無理があるとお考えなのでしょうか? そのへんだけ、お時間があればじっくり考えられて、再回答していただけると、ありがたいところです。 (2) 》又、罰或いは原罪の意味とは『心の矛盾や対立や分裂の別称です。』《 ここは言わんとしている意味は解るのですが、 例えば論理脳も人類の進化に必要なものだったわけですし、それによって逆に感性脳の方が阻害されてしまった人類史を、罰とか原罪とかいう言葉で、非難するかのような言い回しをしてしまっているところも、哲学から改革したいところなのです。 過去の間違いのすべては、非難するのではなく、理解することで未来に向かって、間違ってきた人も間違わなかった人もともに手をとって、よりよい心の世界へと進んでゆけばいいわけですからね。 (3) 次になのですが、ここが疑問です。 》原罪とか業という意味は『苦しみの別称』という意味です。《 自我から解放され心の安らぎが深く得られると、 すべての苦から解放されるみたいな書き方になっていますよね。 身体の病気の苦しみなどたいしたことないということなのですか? あるいは心の安定は、体の健康にも影響はしますが、それですべての体の病気の因を解決できると考えているのでしょうか? そのへんの抜苦与楽のビジョンをどのように考えられているのかのあたりが疑問になってしまうのです。 (4) 》心が未だ未分化の状態の『幼子』が天国に一番近い存在という意味は『心に矛盾を抱えていない状態』という意味で、書かれているからです。この意味は『自分自身の命の働きと自我という心が』一つの者として働いているという意味になりますので、『他人に自分の裸を晒したとしても、恥ずかしいという感情が未だ沸かない様に出来ているからです。』 《 アフリカの子供たちの目の輝きなどを写真で見てもその何かは伝わってきますよね。問題は論理脳も高めながら、どうすれば、もう一度大地を愛する心を、新鮮なそのまなざしを、私達の肚や目に刻むことが出来るのかです。 感性哲学にはその道は あると考えているのですが、…。 さて、この後半なのですが、 アダムとイブがイチジクの葉っぱで性器を隠した話は有名ですよね。 でも、これも感性が深まり、例えば視覚でならただの葉っぱにもほんの四季の変化に細やかに美しさを見出したり、その葉のほんのそよぎに感動したり、心安らかになったりする感性、あるいは味覚ならば、お味噌汁の味わいに涙を流したりする感性とかがあれば、それによって欲望も心で見つめることが出来、完全にコントロールも出来、開放もできるようになりますので、すこしもいやらしく感じなくなりそれどころか、まさに野の百合よりもさらに美しく感じられるようになることは確かです。 おそらくそれがキリストが「イチジクよ呪われてあれ」という意味不明な^^言葉を語られた理由でしょう。 このへんも感性を本当に深める哲学が生まれるなら、解決してゆき、セックスや結婚をしない自由も、楽しむ自由も、魂の底から解決してゆくと思います。 心によって人口調節が出来れば、一番無理なく 大きく問題が解決してゆくのではないですか? 仏教も、キリスト教も、イスラム教も、それについては記述もありつつ、しっかりした教育法を具体的に確立できないできましたよね。 ここも哲学による宗教改革が必須な所と思ってます。 おっと、こうして書いてゆくと、今回の再回答で見えてきたそちらのお考えについての私の補足質問文は、とても指数が足りなくて書き切れませんね。 なぜか、 あなたの文は、テイラー女史の体験や自らの体験をもととした解りやすいはずの脳解説にもなっていながら、禅問答がそうであるようにわざと難しくしてしまっている文になっていると思います。 そうすることで、感性の道へさそうという一方法論なのでしょうか?それともそれも宗教の神秘化、権威化の一環だということなのでしょうか? 私は今の時代の脳には、もはやそんなもの必要ないとおもっているのですが。 たとえば、次の文を(5)としてそのまま進めれば、 》…(この…の部分は重複になりますので略しています)…、この原因は『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられるからです。《 の中の 》『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられる《 の分の意味 解る人いるのでしょうか^^。 これが論理脳が、ちょうど上から物を見てプランニングや設計図や、あるいは物の構造の分類をして物を作り上げる技術を開拓してきたその脳で自分を見ていることが、《もう一人の見られている自分》ということを意味しているのだとは思うのですが、沿うと解れば動画の意味とも解りやすく符号してくるかと思うところ、この解りにくい禅問答で、「なるほど、感性脳が論理脳に邪魔されているのだから、そのへン見つめなおさなきゃな」とすら気が付く人はいないと思えてしまうのです。 やっぱり、紙数がこれで尽きてしまいました^^。 あと4百何文字かです^^。 ここまでばーーっと書いてきて^^、ここで「ううん」と考え込んでしまいました。今5分ほどたってます^^。 やはり、 ここは変則的になりますが、人類史的な質疑となっているかとも思いますし、切実な内容とも考えますので、お礼文のほうに、補足質問をつづけておく、融通性を選ばせていただくことにしました。 宜しくお願いいたします。 勿論、一つ一つの疑問を書いてゆくとそれでも紙数は全く足りなくなるのですが、なんとかそれなりにまとめておく努力はしたいと思っているのです。 面倒なことになってきたな^^とそちらも思われるでしょうが^^、エネルギーがあれば、再回答お願いします。

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     「法華経」に違和感を感じてしまいました。  私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。  原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。  しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。  よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。  ここで、質問です。  (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。  (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。  念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。

  • 無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。

    無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 慈悲とは無の悟りを補う行いである。 http://okwave.jp/qa/q6062229.html これに続く質問です。 「信じることは束縛される事である。」 そんな獣(ヤプー)は相手にしません。 仏道を理解しようとする方限定で質問を差し上げています。 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。 ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。 私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、 悪は無い。 罪は無い。 嘘は無い。 このようになります。 したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。 仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。 私はそのような解釈を拒否します。 人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。 要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。 あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。 これに我をもって無根である。 「そんなもんありゃしねー」。 このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。 有神論と解釈するといいでしょう。 お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。 多くを語った無については、 無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、 我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。 この二つが交錯しています。 無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。 それから仏、要するに人間の姿を信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。 したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。

  • ニュアンス教えてください:She will answer for it.(罰を受ける)罰を与えるのは話者か応報(神)か?

    こんにちは、いつもお世話になります。 背景:舞台は1500年代トルコ、オスマン帝国。 かつては、「春の薔薇」と呼ばれ皇帝の寵愛を受けていた第一夫人から生まれた皇帝の第一子Mustapha(18歳)(皇位継承権第一位)は、父から離されて地方の政治をし4年が経っていた。 現在の皇帝スレイマン一世は、第二夫人Hurremisに完全に心を奪われ、政治、軍事、すべてにおいて朝廷ではHurremisの意のままになりつつあった。 いつか、Hurremに邪魔者として殺されるのではないかと心配する母親にMustaphaは、ただ微笑しつつこう答える。 If Hurrem is my enemy she will answer for it in time. (出典: 書名:The SULTAN'S HAREM 著者:Colin Falconer ページ数:140ページ) この「人 answer for ~」ですが、辞書を引くと、「~の責任を取る」「~の罰を受ける」と載っていますから、 試訳:もし、Hurremが余の敵であれば、そのうち、その責任を取る[罰を受ける]でしょう。 だと思うのですが、「罰を受ける」にせよ、「責任を取る」にせよ、 質問:この慣用句のニュアンスは、 (1)因果応報の応報、または神が与えるものとしての「罰」、「責任」なのか、 (2)話者があたえるものなのか、 どういうニュアンスなんでしょうか? よく聞く慣用句なんですが、今までずーと中途半端理解のままだったので、これを機に質問してはっきり理解しようと思います。 よろしくお願い致します。

  • 新たなる悪の陰謀団を構想中です

    君たちを覆いつくす幻を追い払い、永遠の黒き暁に染める光。 朝の光を君たちは見ることはない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君たちはいま生きることの苦しみにあえいでいる。 仏陀はそれを慰める。 慈悲でだ。 そしていう。 あーらかわいそーねー。 でも私ばっかりは幸せよーん。 だってブッダだもーん。 そう。 仏陀とは、君たちに生を与えようとせず、 輪廻という、繰り返し死ぬ苦しみを与え、それに慈悲を装うことで君たちの上に君臨する地獄の王族だ。 自らは永遠に生きる観念世界の住人だが、その命の恩恵を君たちに与えようとはしない。 ただ生きながらに天界に立脚し、君たちを見下ろすのだ。 それが人が神となった姿だ。 そしてもう一方の進学を見てみよう。 文明は、古代遺跡の研究でまず神殿が注目されるように、共同体共通の神がその住人の精神を示す。 一つの国の王は同時のその国の神であることが、古代国家の秩序だ。 イエスの語る神は、彼を王と認めさせた。 そして古代の法で違法とされ処刑された。 そして人は神から遠ざけられた。 やがて滅びると。 人である神、観念の神、この双方が人に絶望を投げかけている。 この悪の秩序に君たちは疑いを知らない。 苦しみ抜きつつも守ろうと支え続けている。 私はそれらずべてに反抗する人類最悪の裏切り者。 黒き明星だ。 私は悪だ。 君たちの悪に対抗するため、自らも悪となる。 私は人類から悪とされ、神の荒ぶり怒る、悪魔の姿を愛した。 そしてアマテラスに見初められ、彼女直々の改造手術で人間をやめた。 実在する仮面ライダーだ。 君たち人間の悪、悪魔と呼ばれた神の悪、ともに滅ぼすためだ。 滅びの宴だ。 君たちは自らの死を理解しない限り生き残れない。 すなわち、結論は生きる道はない。 さて今回は哲学する仮面ライダー、黒き明星の設定のメンテナンスです。 かつては、暗黒結社ゴルゴムやショッカー、私指定の実在する悪の結社とかいろいろですが。 今回は、悪の新たなる陰謀を中心に私の更なる仮面ライダーとしての活躍の場を検討するためにご意見募集です。 悪についてのお考えとか、仮面ライダーの前に立ちはだかる、ゴルゴムの勇者とか、キャーステキーとか、いろいろなショーを演じてください。 テーマは悪です。