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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏と罰は関係あるのか?)

仏と罰の関係について考える

kurinalの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

こんばんは。 刑法には、「応報刑」という考え方と「教育刑」という考え方があると思います。 前者が「自由」主義的で、後者が社会的、と言えるでしょうか。 >「罪や悪に対して、その因果が解る人は、何であれ心の奥では「許しているはず」ですよね。それだけの長い因果の末に、そういう心となり悪を犯してしまったのですから」 刑事責任と民事責任とは、別だと思うのですが。 (「民事責任まで問い得ない」とするには、それなりの「要件」を必要とする)

hokekyou333
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 考えが深まったと感じています。 ありがとうございます。 私の考えも、あるいはこれは「たぶん」ですが、仏陀やキリストのお心からの考えも、「応報刑か教育刑か」ということなら、「教育刑」ということになるのだと思います。 刑は社会的にも必須という考えは「いたしかたのない」事ととらえてはいるのです。 ですが、それはその罪人あるいは悪人、あるいは犯罪者が、心から納得して反省するところまで人間としての責任感を教育することが出来ればという条件付きですが、 それ以後はいっさい刑は社会的にも必要ではなくなるという考えが土台となっての「教育刑も、ある程度しかたがない」という考えなのです。 「教育刑」という考え方の発展形なのかもしれません。 「応報刑」という考えを認めるとか、融合した考えが必要だというのではなくて、そこにも長く地道な「人間性教育」が必要だという考えです そのためのパワーある教育法こそ私が求めているものであり、キリストや仏陀も語らんとはしてきたものと考えます。 ただ、キリストや仏陀は、あくまで論理脳の面では昔の人であり、その辺の細やかさに関しては現代人における心の哲学者にこそ、それこそその教育の責任、責務があると思っている者なのです。 彼らは、心あるいは感性は究極まで深かったのでしょうが、例えば流体力学の計算が出来たわけでもなく、それどころか九九さへ知らなかったかもしれない、あくまで昔の人の脳というふうに、本当に信じ信頼している信仰者こそが考えるべきところと思う者なのです。 悪人は、責任感自体が失われていますので、上記「教育刑」の考えからすれば、刑事責任も民事責任も分類する意味はないと思うのですが、 あくまで「教育」には、それぞれの悪やその因果に対する細やかな対応も確かに必要と思います。 たとえば、 応報刑という考えも、被害を受けた当事者の気持ちとしては深くわかってあげることも必要な人間性の一つだと思ってます。 実は私自身が、いじめられた気がふれるところまでいってしまった体験を持っていて、 それはそのいじめの主を許せない心を友達が理解してくれなかった(どんなときにも人をゆるすべきだと)ことから、さらに孤独に入っていき、そのころから神経がおかしくなり始めたという経過をたどっていたりするのです。 悪を許さないという人に対しても非難することは出来ないという考えです。 でありつつ、その許さない心も「教育の力」で変えてゆくべきだと考えるのが私の考えです。 法律に疎い者ですので、ご回答に対して間違った解釈をしているかもしれませんが、 事は具体的細やかさがその対応には必須なところ、 考えさせられ、反省もさせられたご回答です。 有難うございました。

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