• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏と罰は関係あるのか?)

仏と罰の関係について考える

tumaritou1の回答

回答No.2

宗教の原点まで戻るなら、貴方の言う『哲学からの宗教改革』は必要なくなると思います。そこでその原点を書いてみます。 宗教の原点は『魂の救い』と思います。それは今生きている人にとっての救いであって、死後や生まれ変わる時の為の救いではないと思います。 聖書による裁きとは、人間を天国から追放する事だと思います、『人間が神を疑って(背いて)食べてはいけないと言われた『知恵の実』を食べた事です。この意味を考察する事で『誰でもがもう一度天国で、安楽に過ごせる事を伝える事が』聖書の役割であり、魂の救いと言う意味が完遂されるものと思います、それも生きながらです。 釈迦の教えも同じです、『生病老死』の苦しみからの開放が釈迦の教えの全て、と言う意味です。 そこで両者の共通点と、その背後にある人間の『普遍的な弱点とも言うべき、心の頼りなさと言うべきか、或いは分かり難いかもしれませんが、人間には『宗教が生まれるべくして生まれた人間としての土壌としての、宗教文化を育みたいとする、宗教心が、内在している事を科学的に証明したいと思います。 キリスト教も仏教も共に幼子や、嬰児が、人間が求める天国に住める条件としていますのでその理由を書いてみます。 幼子には『心が一つしかないからです。』その科学的な証明されている理由は以下の通りです。ウイキペデアからの引用です。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この場合での左脳に存在する意識は『言葉で考えている、算盤付き(損得やみ返るを求める)の機能から成り立っています。 他方右脳の意識は『言葉を理解しながらも、言葉を持っていない事が特徴です。』 この意味を把握するために、或る動画を載せてみます、この意味は左脳と右脳の機能が全く違っている事を証明するためです。脳卒中のために生きながら死んだというか、死の淵で全てを諦めていながら、返って幸福感に包まれた体験です。 誰もが死の淵で『全てを諦めた瞬間に、笑いながら幸福な心持でこの世から旅立ってゆく事を証明していると言う意味もあります。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 この動画の中で語られている内容が『宗教体験』です。禅で言うなら『見性成仏』を、しているっ真っ最中と言う意味です。 キリスト教的な表現で語るなら『神と会って和解している最中』と言う意味です。 何故このようになっているのかを説明します。それは脳内に神や仏が内在しているからです。その神や仏とは『右脳の意識=右脳の機能=生命の発生装置兼生命の維持機能』だからです。仏典から言葉を借りるなら『仏性』です、聖書から言葉を借りるなら『神』という事になります。 今風の言葉で言い表すなら『自分自身を働かせている、自分の生命の働き』と言う意味になります。 幼子を誰もが経験していますので、その幼子の説明をする事で納得出来ます。 誰でも『生まれる前に、何も習わなくとも、全てを知り尽くして生まれています。』例え自分が、何も知らないと思っていたとしてもです。 今生きている人達は全て『細胞分裂をする順番までも知り尽くして生まれています。』その順番を一歩でも間違っていたなら『生まれる前に死んでいたからです。』 そうして生まれた時既に『生きるための知恵は全て備えています。』その証拠は『一つでも不足するものがあるなら、その時点で死んでいた筈だからです。』 人間の生命の機能には、その大元は同じとしても、大別する事は可能と思います、只、便宜上大別したとしても、その大元が繋がっている事から、自ずからその分けた筈のものでも分けきれない部分は当然在ると思いますが、ともかく三つに分けて説明したいと思います。 一つは『身体に対しての生命維持機能です。』心臓が血液を送る仕組みや、肺が必要に応じて身体に酸素を送る仕組みや、必要に応じて汗が出る仕組みや、必要に応じてホルモンの分泌が適宜になされる機能や、神経系統がその都度うまく働く機能などをひっくるめにした全ての『生命の身体に対しての反応全て』働かせている機能です。 この機能に背く(疑いを抱く)時、人間は天国から追放されています。それは『意識地獄(漠然とした不安)』と言う形で『失楽園に行った事を』実感しています。具体的には『身体の機能にも脳の機能にも異常が見つけられない状態』自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、原因が分からないとされている、難治性の心身症などです。 一つは『心に対しての生命維持機能です。』この場合では更に二つに分ける事が出来ます、『沸き上がる考えと、沸き上がる感情』と言う具合にです。沸き上がる考えに対して『違和感を抱く時』沸き上がる考えの所有者が分かり難くなります、或いは自分の行動で『自分の脳が指令を出しているにも関わらず、誰かに操られている感覚になったり、自分の考えを盗まれていると錯覚をする場合もありかも知れません。自分の中に沸き上がる考えの所有者が分からなくなったり、沸き上がる考えの正否さえ疑うような症状です。自己の心が一つと言う幼子とは全くかけ離れた状態で、天国から追放された事を意味します。 もう一つの『沸き上がる感情』に違和感を抱く場合では欝という感情と躁という感情に違和感を抱いたり、不安感に違和感を抱いたり、恐怖心に違和感を抱いたりしています。自分自身に沸き上がる感情に違和感を抱いています。感情障害や、社会不安障害や、恐怖症と言う症状名になります。 もう一つは『行動に関しての生命維持機能です。』幼子が手の動かし方でも、笑い方でも全て知っているのに対しての『自分を疑う行為です。』幼子のようにするなら何も問題が何にもかかわらず、自分自身に疑いを持つ時です、この場合では『行動の自在性に関して、その自在性が出てこなくなります。』字を書く事も、笑う事も、話す事も、人前に出る事さえ『自分の自由にならなくなる場合も在ります。』神経症等での症状になります。 『自分自身の生命の源』と仲違いする事を意味しますので『生き難い想い』が当然付いて回ります。この生き難い想いが『罪の意識や、業』に当たります。 動画にあるように『自我意識の計らいが尽きた時』生き難くさせていた者の正体と出会う事があります、この体験を動画は語っています。 余談ですが、禅問答なるものがありますが、この問題は『言葉を司っている、左脳』には解けないように出来ています。この場合に言葉を使う自我意識が『計らう事が尽きた時(自分は出来なかったとして、降参する場合では)此処でも『右脳の意識との出会いがあります。』 この様を『今更お前は誰かと、聞く必要など無かった』と、古人は残しています。 仏性=命の働きは、元々生まれた訳ではない事から、滅する事もありません。その出会いは『自らの永遠性に気付く事を意味しますので』生や死にあたふたと、慌てふためく事がなくなります。この心境を『生死の問題が解決した。』と表現しています。 此処まで来た場合では、『心を病む事と、自律神経失調症等も、神経症も』自分自身の心の対立や矛盾を悩んでいたことが分かります。今の医学の対処の仕方の間違っている部分もわかるようになります。

hokekyou333
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 長文かつ重要な内容を含むご回答ですので、 補足質問させていただきたいのですが、今生業の方が忙しくネットに向かうのは夜遅くからなってしまいます。 脳科学者で自ら脳のほとんどを失ったという特異の体験をされたことのあるジルボルテーラー女史については、 テレビでも見ましたし、youtubeでもいくつか見ています。 その体験は「涅槃」の体験だったとも彼女は言っていますよね。 涅槃ということは仏の体験ということにもなりますよね。 その体験が現代における仏の体験であるのなら、その実際を映像で見ることが出来ることは、あまりにも貴重な事になると思います。 しかし、テーラー女史や仏についてのそちらの説明はなかなか解りがたい難しさを感じさせられました。 それでいくつか再質問させていただきたくなったのです。 明日なんとか書ける状況が出来そうですので、どうぞよろしくお願いいたします。 ほんとうに丁寧なご回答ありがとうございます。 宜しくお願いいたします。 有難うございました。

hokekyou333
質問者

補足

補足質問させていただきます。 ★ジル・ボルト・テイラー博士の語られた脳卒中によって脳の機能のほとんどを失った体験は、彼女ご自身からは「涅槃(ニルバーナ)」の体験とされていますよね。 涅槃ということは、仏陀が最後にたどりついた至福の境地の体験ということですよね。 動画を見てもそのような体験としか言いようがないことは解ります。 まさに貴重なご体験だと思う者です。 ですが その涅槃の状態を私は別に「生命の発生装置」とか「生命の維持機能」といったふうに神秘的には考えていない者なのです。 》嬰児や幼子《のような心あるは魂を持っていたと思われる「まだ言葉以前の森の中を生き抜いていた素朴な人たち」のように大自然につつまれてイキイキとした感性で生きている人たちが、ではなぜそれでも病気にはかかり、大怪我もし、老衰もし、寿命も今より短かったのでしょうか? また、嬰児や幼子が一番健康と言い切れますでしょうか? おそらくtumaritou1さんは、ご自身がいきなり嬰児のような心になれ、それ以来至福が消えていないため、 その体験を他の人にも伝えたくて、そこから宗教の分析をしているため、論理的には飛躍があるのではと思えます。 その姿勢は人間的であたたかい心ですが、その論理は、必ずしもたくさんの人をその至福に導くことは難しいと思うのです。 哲学的にもう少し、いい意味での緻密さが(他の人にとっては)必要かと思えます。 宗教改革が必要だと思われるのは、そのへんなんです。 例えば仏教哲学の中で、一番緻密で神秘性に頼らない論理と思われる「阿頼耶識論」にしても、 何度も多くの著者によって書き表された歴史の中で、 自我の分析にすぎない論理の途上に、いきなり、宇宙エネルギーと心とが結びつく論を展開している著者もいたりします。 これが、仏が罰も与えるという超能力の論理になっている根拠であり、 私は、現代人の仏教徒ならば、そうした超能力のような神秘の力をニルバーナと一緒に語ることを否定すべき勇気が必要だと思っているのです。 仏陀もキリストが、私も含め私達よりはるかに豊かで深い感性の持ち主だったことを私は信じています。 しかし、同時に神や、神秘的な存在、あるいはなんらかの超能力者とも思っていませんし、 それどころか、 もちろんなのですが、例えば現代の流体力学の計算も出来なかったどころか、もしかしたら九九の計算さへ出来なかったかもしれない論理脳の昔の人の脳だったとすら推理しています。 もし彼らが 論理脳も現代人よりもはるかに超えた天才とするならば、 その愛の深さから考えてみてください、 キリストなら自ら筆をとって多くの書を、コンピューターの世界へのアドバイスまで含めて書いていたのではないですか? そしてとっくに世界は平和で豊かで病気の無い世界が生まれていたのではないでしょうか? 仏陀にしても、面倒な長時間をかけての法華経の時代を設定したりしないで、一気にその真実を実現できたのではないですか? しかも私が信じている法華経は、まるでお茶を濁したようなそれ自体神秘的な設定にしてしまっています。 (法華経は後の世の人たちの創作という論議もありますが、今ここではその論議は略しています) おかげで、私自身がたしかに末法の時代の仏と信じている日蓮大聖人すら罰論を応用した御書を書いてしまっています。 彼らの論理脳が私達現代人より優れていたというわけではないはずなのです。 あくまで、tumaritou1さんご自身のご体験(文章からの推測ですが)のような、深い感性の体験、静寂の至福体験をされて、その頂点を極められた方たちだと思うのです。 そのように冷静に見つめた上でそのことに謙虚になることこそ、私は現代における信仰の在り方だと考える者です。 論理面に関しては、厳しい言い方をしてしまったかもしれませんが、これはそちらのご体験の深さを信頼しての言のつもりです。 より多くの悩んでる人や精神的に参っている人たちを助けるための同志として書いているつもりなのです。 右脳と左脳についての思索は、まさにシンプル・イズ・ベストの感もあり、大勢の現代人にとって解りやすい仏性の世界の説明となるものだろうと私も思うのです。 でも、だからこそ、そこから神秘性は出来うる限りはぎ取った論理にしてゆく努力が必要なのだと私は思います。 そのへん、どう思われますか。 また、罰論は神秘的なおとぎ話にすぎないという私の考えについては、どう思われているのですか? もしそのへんについてもお考えがあればお聞かせください。よろしくお願いします。 ★ 「仏と罰は関係あるのか」という質問なのに、》宗教の原点にさかのぼるなら《という起承転結の起の文の起こしで、そうとうにたくさんの内容を詰め込まれていますね。 それぞれが意味深な内容ですので、全部について再質問していたら書き切れません^^。 神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。 そのへんも、現代ではもっときめ細かな表現が必要な所と思うところなのです。 また、自我についての考え方も、私の考えは阿頼耶識の論理ともまた違いますし、そちらのお考えともズレが生じてしまうところです。 しかし、ここは、そちらは「宗教の原点に戻るなら」という「文の起こし」でご回答をされていますので、 こちらも、つぎには、その点に絞って再質問させていただきますね。 私は「宗教の起こりは それほど深く崇高なものでは無かった」と推理しています。 言葉が発達し、いよいよ物事を分析、分類して、その論理面では反省し進化する能力を得たことで(「知恵の実」というのはその意味があるのだとは思っていますが) 確かに、感性の面では、森の木々の緑の深さや、吹き抜ける風の音の静けさや、心を打つ美しさなどを感じる心の方はむしろ衰えてしまったのが現代人という面も否めないと思うのですが、 がゆえに、村と村の利益の衝突(水争い)のような場で、争いが頻発するようになり、それはやがて憎しみともなり、憎しみの連鎖もはじまり、社会的には、それを中心にあらゆる犯罪や悪徳がパンドラの蓋を開けたかのように広がり始め、そこに政治的規律を越えた道徳の権威化が必要となった時代がやってきて、 そこから宗教が生まれたというのが宗教の起源についての私の考えです。 しかし、その道徳の権威化だけでは人は二重人格になりがちです。心の奥では「舌をだしている」状態となってしまい、道徳は権力の餌食とも、隠された形でなっていき、宗教組織自体が曲がってしまうことも起こってきました。 そこに、その反逆者として、真の宗教を訴えるべく、感性の深いキリストや仏陀たちが立ち上がったのが、そちらの言われる》宗教うの原点《ということの意味合いであり、言いたかったことだと思うのですが、 キリストや仏陀を絶対視し、神秘化する観点からでは無く、冷静にその論理脳の面を分析した上でも、 彼らの言葉だけで、すべてが救われると思われるでしょうか? あるいはそちらのご体験のような至福が大勢の人に伝道できると思いますか? やはり私自身は、「哲学による宗教改革」が、彼らへの感謝のためにも、その本当の信仰のためにも必須に思われるのですが、 その点、上記を熟考された上でも、「哲学による宗教改革」は必要ないとお考えでしょうか? その点、再回答いただければ幸いです。 宜しくお願いいたします。

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