無神論から始まった仏教は有神論と接点がある
- 無神論から始まった仏教は有神論と接点があり、慈悲とは無の悟りを補う行いであると説明されています。
- 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因と関係しており、人間存在は自然の摂理にかなっており、悪は存在しないと主張されています。
- 仏教の解釈においては、無我を体現し悪意をふっ飛ばし他者をぶっ飛ばすことが求められると述べられており、有神論との交錯が存在します。
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無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。
無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 慈悲とは無の悟りを補う行いである。 http://okwave.jp/qa/q6062229.html これに続く質問です。 「信じることは束縛される事である。」 そんな獣(ヤプー)は相手にしません。 仏道を理解しようとする方限定で質問を差し上げています。 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。 ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。 私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、 悪は無い。 罪は無い。 嘘は無い。 このようになります。 したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。 仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。 私はそのような解釈を拒否します。 人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。 要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。 あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。 これに我をもって無根である。 「そんなもんありゃしねー」。 このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。 有神論と解釈するといいでしょう。 お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。 多くを語った無については、 無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、 我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。 この二つが交錯しています。 無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。 それから仏、要するに人間の姿を信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。 したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。
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>あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 良い心がけです。それが日常生活の中でも、街中でもできるようになったら本物です。 尚、真実と個人の趣向はなんの関係もありません。
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- AXIS_
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>あんたの痴漢行為にもダメージを受けているよ。 修行が足りん。 >そのねちねちした性分はいかにもあんたらしい。 最近オコリザルをいぢめるのが生きがいになってたりして
お礼
思索の進展のため締めるよ。
- 勢十郎(@Arrogance1)
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確かに善悪はないが、それはもう相当に古くからある認識ですよね 善悪は相対的ということです 簡単には 知能の低い生物には己が善であり対象は悪になる 人間は社会というコミュニティーで公平性を…理性的な平等という幻想を追い求めてルール…法律などで自由の範囲を限定しています その社会性の枠をはみ出せば悪と認識されるのもやむを得ない 善はともかく『ソレは悪』の判断がなくては人間たりえない あくまでも社会の中…人々の関係性にあらゆる問題が潜んでいるため 現実社会を逸脱する宗教だけでは救いはない(これは日本の政教分離に対して) 世界規模になれば話は変わるが… とにかく現実を無視しての理想論の垂れ流しは、お子様と目されるのはとうぜんでしょう 政教分離も現実社会を無視したお子様論理です
- 勢十郎(@Arrogance1)
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論理には、まったく必要ない感情をこれほど出しているのは獣らしいですね 獣が獣を蔑んでいる
お礼
やあ、あんたは面白いね。
補足
空欄を利用して補足するよ。 無駄口がそれなりに役に立った事をありがたがれ。 縁起と因果について。 縁起とは関係が明白でつながった世界観。 自然の摂理そのもの。 因果とは情動に左右されるか、または情動で味付けされた世界観。 弊害として一般には欲望などにも影響されることになる。 悪因もその一つ。 情動に置いて縁起が納得できないで不平不満を垂れるならそれが悪因。 したがって自然界には悪は存在しない。 無我の無と、 我の無は、 この解釈がさかさま。 悪因を人様のせいにしたお釈迦様は救いと言う方便で償いをする必要があった。 私には誰も救う必要が無い。 救い何ぞ思いもよらない。 我は神であるは伊達じゃねーぞ。
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お礼
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補足
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