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我は無いは無神論ではないか

我は無い。の立場として 神のみぞある。 であれば有神論の究極ですが。 「無」である故、神とは係わりがない。 となれば、虚無主義ではないか。 これが質問です。 多分ヨーロッパなどとの交流で仏教研究家さん達には多い質問ではないかと察します。 定番の模範回答でいいからご享受ください。 年末なのでお礼は遅れると思います。

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noname#135843
noname#135843
回答No.1

 いつもお世話になっております。Hidocchiです。 > 多分ヨーロッパなどとの交流で「仏教研究家」さん達には多い質問ではないかと察します。  以上のご見解を踏まえて、「仏教」の観点から、ご説明したいと思います。 > “我は無い”  これは“諸法無我”からきた言葉かと思われます。 「“諸法無我”:仏教の用語の一つであり、三法印・四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91 からでございます)  さらにその後に、以下の記述も見られます。 「“諸法無我”はそれ(=「私は私であること」)こそ“我執”であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。この意味で、“諸法無我”は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、「縁起」の事実を生きぬくことを教えるものである。」  つまり、“我は無い”とは、基本的には、「“我執”を退けるためのもの」 かと考えております。 > 「無」である故、神とは係わりがない。  仰るとおり、神とは関わりがないと考えています。 > となれば、虚無主義ではないか。  原則、仏教では、虚無主義を排しております。確かに、竜樹の中観派の後期、また世親の唯識派(中観派の「空」思想の影響を受けています)の時代にも、虚無主義に陥る人たちもかなりおられたようです。  おそらく、これは、「空」の概念が“無”と解釈されたことに起因すると考えられています(通説)。つまり、「空」は元来「縁起(相依性)」を意味するものであり、また、<<“無”でもなく“有”でもなく、それらの「中道」なるものが「空」>>とされています。これが、誤って「空」を“無”と解されてしまったわけでございます。  従いまして、虚無主義ではないか? との問いに対しましては、虚無主義ではない。と断じたいと存じます。  ご参考になれば、幸いでございます。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答はわかりやすい言葉で明白に書かれていて読みやすかったです。 でも中盤以降は理解が行き届きませんでした。 >虚無主義に陥る人たちもかなりおられたようです。 仏教を経験するならこの虚無主義への陥りやすさは流行り病ではなく慢性病に近いのではないでしょうか。 そのような考え方で虚無主義からの脱却の具体的道しるべは、なにせ素朴な疑問として投げかけられる事が多いであろう昨今では、必要な教養の一つではないかと考えます。 個人的な経験では、神の前で我は無であるとする立場に終始して敬意を払いつつも何も願掛けをしない普通の生活をしていたら、気が付いたら「神のみぞある。」これをやらかす「無」が理解できました。内訳は「無」ではなく「完全非思考」と表現した方がいい様な感じです。 私の考えでは、お釈迦様が人間であったなら「無」ってのはやはり方便だろうなと考えます。

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  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.3

No.3です >>我執がある故に我は無いとするならば、生への執着がある故に俺様はくたばっちまっている。とでもなるんですか。 えーと、きっちり書くと回答が長くなりそうなので、簡単に書いてしまったせいか、なんか変な誤解をさせてしまったようですね。 もう少していねいに書くと、無我とは、キリスト教にもありますが「己の欲する所、人にも之を施せ」つまりは、愛他、利他の精神ともいえます。「自分のためではなく、人のために生きよ」が無我の思想ですね。 ただし、パソコンの操作で悩んでいる人を救うには、自分は相手の倍以上にパソコンに詳しくないと指導して救うことはできません。なので、自分の能力を磨く必要があります。これは、「我を磨く」といえるかもしれません。救済力アップのためには、修行が必要なんです。傍からみていれば「あいつは、パソコンの資格をとって自分の給与を上げようとしている」つまりは、自我を強くしているけど、それは、パソコンで困っている他人を救うための勉強でもあるわけです。 逆説的ですが、「我」というのは、なくさなければならないものでありながら、同時に磨かないとならないものなんですね。 >>輪廻が無いとすると精神生活に何か支障でも出るんですか。 それはとても大きな支障となります。「因果の法則」が無効になってしまいます。つまり、他人のために必死に努力したが、信じた人に裏切られ破産したとか、殺されてしまった場合、その努力の成果はゼロ、いやマイナスになったといえるでしょう。逆に、権謀術数を駆使し、権力を得るまでに数百万人を殺したが、死ぬまで酒池肉林で贅沢三昧した人間は、「やったもん勝ち!」で、何の罰も受けることが無いとなります。 そうなれば、ほとんどの人が利己主義になり、「ばれなければ、どんな犯罪行為もOK、OK!」という考え方になります。 また、70歳、80歳という老人になれば、「あとは死ぬだけ」ってことで、生きてゆく気力も無くなるでしょう。 でも、転生輪廻があると思えば、「今世の努力が報われなくても、来世、あるいは来々世に報われる」とか「今世の犯罪がバレなかった場合、来世、あるいは来々世の人生において罰が下る」という考え方になり、「ばれなければ犯罪もOK」なんて考えることはできなくなります。 また、70、80歳から新しいことにチャレンジしたが、その努力が報われることなく死期が来たとしても、その努力の成果が来世、あるいは来々世の人生において報われると思えば、どんなに年を取ろうと、体が不自由になろうとも、努力する気力が湧いてきます。 なので転生輪廻が無いとするのは、精神生活とか人生の価値観にとても大きな悪影響を与えます。

noname#117439
質問者

お礼

なるほど奴隷やバター犬の類なら輪廻と言うありもしない褒章で生涯を支配するのもいいかもしれませんね。

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  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

No.1さんが三宝印の「諸法無我」に触れられていますが、このことを「我が無い=転生輪廻する主体が無い」と誤解し、さらに演繹して「転生輪廻する主体が無い-->死んだらお仕舞い-->この世がすべて-->仏教は唯物主義」という誤解が広まっているようです。 これは、最近のことではなく、釈迦没後に、インドでも広まった説だそうです。そのために、宗教心あるインドの方達が「仏教は唯物論だ!」と非難し、仏教の勢力がインドで低下する原因にもなったそうです。 なお、先日、親戚の葬式があって最後に、坊さんのお話を聞いたのですが、「亡くなった方の魂は、宇宙に四散し「千の風になって」の歌のように散らばっている」というようなこと言われていました。「ああ、このお坊さんも誤解しているなあ。唯物論なんだなあ・・・」と思ったものです。 釈迦の言われた「無我」は、とりあえずは、「ワガママ」というか、金や物に執着する「我」のことを無くせっていう意味で、決して「転生輪廻する主体が無い」ということではないんです。しっかりと、死後も魂、あるいは霊というものが残って、「あの世」で生活します。しばらくすると、また「この世」に生まれてきます。 ちなみに、普通の人は、強制的に生まれ変わることを要求されますが、「悟った人」は、生まれるか、生まれないかの決定は自分自身で決められるそうです。 売国奴で無能な民主党が政権を取り、日本が「中国の属国になるかも?」というような国難を迎える状態の時には、多くの人々を救おうとして、悟った方達が、「俺たちの出番だな!」と、生まれ変わってきたりするんでしょうね。(まあ、今から生まれたんじゃあ、間に合わないでしょうが・・)

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一応聞いてみます。 我執がある故に我は無いとするならば、生への執着がある故に俺様はくたばっちまっている。とでもなるんですか。輪廻が無いとすると精神生活に何か支障でも出るんですか。

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