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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏と罰は関係あるのか?)

仏と罰の関係について考える

michael-mの回答

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  • michael-m
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回答No.1

基本的にはその通りだと思います。 でも、まず、罪とか悪とかも許すとか言う物ではなく成り行きです。 山の水が海に注ぐように、今の行動の結果でしかなく、その行動が自分や他人、社会に対する影響を罪とか悪とか呼んでいるに過ぎませんから許す許さないの問題ではありません。しかしその行動が個人や社会に及ぼした影響の責任は正しく受けなければなりません。教えの罰と法の罰が全く別物ですから。 それに子ども扱いというより、仏に権威を与えたほうが広めやすい、喜捨を受けやすいというほうが大きいと私は考えています。 直すというよりも、真理を述べていればそれでイイと私は考えています。強引に変えれば抵抗があります。 真理だけを述べていれば自然に増えていくということでしょう。 私はそういう立場ですけど、やはり積極的に変えていくべきだと考える人が居れば、それも是非も無いです。

hokekyou333
質問者

お礼

ベストアンサーの判断基準を考えるのは難しいですね^^。 ですが、ここは、 方便にも深さがある点、性急な批判には問題がある点などを私の心にとどくように示唆してくださったそちらに感謝の気持ちをこめて、 ベストアンサーを差し上げることにしました。 他の人たちも見ている質疑回答の世界ですので、解りやすい、すっきりした形を求めました。 おそらくすべては、ケースバイケースなのでしょう。 性急さは避ける努力はしつつも、また多方向に注意深さは必要でも、積極的であらざるを得ない人間は、、 さらなる中道の模索はしつつも、 やはり自己の中軸にしたがい、そのまま積極的に進んでいくつもりです。 ありがとうございました。

hokekyou333
質問者

補足

michael-mさん、ご回答ありがとうございます。 すぐれた回答だと思いますし、考えさせられ反省させられたところもありますが、であるがゆえにこそ、回答の中で解りにくかったところへの質問と、こちらの質問の補足を付け加えさせていただきたくなりました。 よろしければ再回答お願いいたします。 》でも、まず、罪とか悪とかも許すとか言う物ではなく成り行きです。 山の水が海に注ぐように、今の行動の結果でしかなく、その行動が自分や他人、社会に対する影響を罪とか悪とか呼んでいるに過ぎませんから許す許さないの問題ではありません。《 のところなのですが、 《「成り行き」により、あるいは状況次第で、人は必ずどんな人も悪を犯してしまう》というお考えだというふうにもとれる文だと思えたので、まずその辺を質問させてください。 そのように解釈された場合、その人その人の゜精神的落ち着き、社会的安定、穏やかさ、そして何より「物事をみつめる脳」゜の違いによって、同じ状況下でも「今の行動」は異なってきますし、その行動の「結果」も当然異なってくるわけです。 もちろん、そこをそのような精神の因果まで含めて考えるなら、すべての結果は、その「長い長い成り行きの結果」というふうに考えることはできますので、その解釈の場合でも、大きな観点からは間違っていると言っているわけではありません。 その大きな観点からの意味では、確かに山からの水が海に流れてゆく必然と同じということは言えるでしょうから。 しかし、人間にとって具体的に細かく考えうる範囲にこそ価値ありとも私は思っていますので、そこを、さらに具体的につっこんで書いていってみます。 どんな人間であっても感情に関してはかならず時間曲線を描くという意味では、人間一応にそういう曲線を大なり小なり描く必然をその感情に宿しています。 しかし、例えば怒りにしても、それを「見つめる」ことが出来る人は、実際にはその怒りの対象にその感情を向けないことも不可能では無かったりします。 それによって落ち着いて対処できたりもします。 一方、極限の戦争状態の時には、人の神経は恐怖によって長い間にまったく変わってしまいます。そこまでの因果によっては、その人の人格を越えた必然性、成り行きの力というものがその人の行動と結果に現れてしまうことも事実だと私も思っています。 人間は、さまざまな弱さという限界も抱えていて、その意味ではまるで木の葉のようでもあるわけです。 でもだからこそ私達に必要なのは「教育」だと思うのです。 過去に関してはすべてを許し、その未来の可能性に向かって、いわゆる悪人に対しても、色眼鏡を捨て、同じ人間としてその未来を開いてあげる教育の姿を私は人間の在り方の理想と考えるのです。 できればmechael-mさんとは論議を深めたいという気持になっています。 もしこちらの解釈自体が間違っていたら、話は正しく進展しません。 ですので、これをもとに、そちらのさらなるお考えをお聞かせいただければと思ったしだいなのです。 次に 》法の罰《 というところなのですが、社会的に規律をあえて厳しくする場合はあると私も思っています。 「刑罰の必要性」という点を全面否定はしていないわけです。 ですが、同時に悪い癖からとても抜け出せそうもないような人をも教育の力は、その人を深く信じて、その人の長所を伸ばすパワーの積み重ねの努力により、変えてゆくことは絶対可能だと私は、人間脳を信じているのです。 刑務所から出てきた人達の更生教育施設や、生活の保障の場があまりにも少なすぎるのも問題だと思います。 それと、そうした悪の因はすでに抱えている荒くれ者をむしろ、規律面で教育しているのが日本における「ヤクザ集団」でもあるところ、そのへんを無視してのヤクザを追い詰める暴対法にも問題はあるでしょう。 でも、まずは、「心の教育」を私達哲学者宗教家たちが、その場をつくり実践してゆくべきだと私は思っています。 ですが、確かに それは徐々に理解をさそってゆくべき問題でもあるのでしょう。 私は、前科のある人達や、ヤクザからさへ見捨てられたような極端な悪人とけっこう深く付き合った体験があり、それでそのせつせつとした気持ちからなのですが、 すこし焦りすぎていたかもしれません。 宗教は宗教で、今でもそれなりの方便は必要なのかもしれませんしね。 ただ、 哲学や哲学教育の場では、やはり誰かが強力なまでに、この点の真実を語り始めるべきだという考えは、私の中からはぬぐえないところとなっているようです。 補足させていただきましたが、 もし、こちらの、そちらのご回答に対する解釈が間違ってると思われる場合には、 是非今一度再回答お願い出来ればと思う次第です。 宜しくお願いいたします。

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