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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人の強調性は 稲作農耕という経験から来たか)

日本人の強調性は稲作農耕という経験から来たか

noname#189246の回答

noname#189246
noname#189246
回答No.13

お礼ありがとうございます。  ☆ なかで《利他》なる行為は 相互利己なるおのれの意志行為だと思うのですが だとすると 利他愛による協調性は 相互利己としての助け合いであり そういった生存および共存のための行動の傾向であるように思いますが どうでしょうか。 ★まさにそこなのです。人間の意識は個に分かれているため、自分主義、自分勝手に陥りがちです。これを仮に狭義の利己主義と呼びます。ところで、私の認識では現世を離れれば、人間の意識は個に分かれておらず、意識が通じ合っていると思っているのです。だから全ての魂をひっくるめて自分と呼ぶことも出来るのです。これを類魂と呼びます。全ての魂が自分であるという視点に立った時、利他愛は広義の利己主義である、という言い方も出来るのです。 ここで前回答に立ち返ると、、人間の成長は、狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるということなのではないかな、という話だった、と言い換えることが出来るのです。 類魂とは、審神者による幽明交通によってもたらされた概念に過ぎません。だから類魂を科学的に実証することは出来ていません。 とは言ったものの、利他愛が究極の利己主義であるということとは綺麗に合致していると思われるのです。 生存本能とは、ダーウィン進化論によると、あくまで同じ種の中でもある個性が生き残っていくことによって他が淘汰されて行くという仕組みです。全体が生き残ったら進化が無いことになります。ので、人間全体の種の保存という意識が生存本能なのではない、と私は感じております。あくまで自分と言う個が生き残るための本能です(狭義の利己主義)。そして、他者を命がけで助けるという時、自分と言う個の生存本能の可能性が排除されるということは、それは利他愛(広義の利己主義)であると思われるのです。自分と言う個の生存本能に従うならば、他者を命がけで助けるということは矛盾していますね。  ☆島国なら 大陸における社会生活とは違った亜種のような心性や性格が生まれるのだろうか? とか。  島や人口がどのくらいの大きさにおいてその島国人間の特徴は 現われるのか? 同じような島国としての条件なら 同じような性格が出来上がるのか? とか。 ★自然災害だけの問題ではないでしょうね。日本は人口密度も世界一ですから、協調する機会も多いということが出来るでしょうね。世界を見渡すと、地平線まで同じ風景が広がっていることが良くあります。人が視界に入ってきません。しかし、日本国内は山以外どこへ行っても農村か市街地です。少ない平地に人間が群がっております。そして国土の多くが山であり、世界一の人口密度がさらに部分に凝集します。だから他者に遭遇する機会も多いわけです。 宗教的特異性は無いのか、とも考えましたが、神道は単なる審神者の儀式のようで、「協調せよ」という教義が特にあるということでもなさそうですが…  ☆自然災害に遭うこと またその災害の種類や程度が同じようならば 同じような性格が出来上がるのか? ★今までの論筋だとそういうことになりますね。災害の種類や程度、人口密度などの程度が同じ島国が存在しないので何とも言えませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 何で11時さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ここで前回答に立ち返ると、、人間の成長は、狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるということなのではないかな、という話だった、と言い換えることが出来るのです。  ☆ これは そういう仮説においていちおう成り立つと思います。  ★ 全ての魂が自分であるという視点に立った時、利他愛は広義の利己主義である、という言い方も出来るのです。  ☆ といった仮説を前提にした場合です。  そう思いますが そうですね じっさいの行動を採るときには おのおの《わたし》は利己主義ないし利己心の広義と狭義とに必ずしもこだわらず その相互利己(?)の思いから行動におよぶものと思われるのです。  ということは そのつど今回の救出劇のような事態に遭遇した場合には みづからの自然の思いに応じて振る舞うということではないか。  それとも 《類魂》といった理論に合わせて そのつどの事態に当たっても   ★ 狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるという  ☆ 人間の成長を目指すことになる。――こうお考えでしょうか?  それから はっきりものを申しますが  ★ 生存本能とは、ダーウィン進化論によると、あくまで同じ種の中でもある個性が生き残っていくことによって他が淘汰されて行くという仕組みです。  ☆ というときのそれとして正式の《本能》については 人間はそれがほとんど残っていないとわたしは考えています。  動物であることの名残りとしては 大きくほかの動物とこの本能という衝動ないし欲動を共有すると思われますが それがじっさいにはたらくか? となると あまりそうだとはわたしは思っていません。やはり理性ないし理屈ないしさらには打算計算がはたらくのではないかと捉えています。  言いかえると 理屈で捉えた方程式のようなかたちにおいて たとえば《社会的な自然淘汰》が起こると計算したりする。また その淘汰という法則に合わせたかたちを採るかのように そこへと追い込んだりする。とは思いますが じっさいに現実に 勝ち組と負け組とに分けられたからと言って それが本能としての生存競争をたたかって勝った・負けたとなったのだとは見ません。  たとえば 人間は 動物とちがって《ゆづること――さらには ゆづりあい――》をすすんでおこなうことがあるからです。  生存本能を自然のかたちでむき出しにした社会的な(スペンサーとかいった人の説の)自然淘汰が そのままに人間の社会において繰り広げられるとは 思わない これです。  むしろ――言葉を存在が時間的なものであるからには 時間的な過程の中で・つまり歴史という舞台において用いて生きる人間としては―― ウソ・イツワリを初めとするアザムキをとおして淘汰〔という言葉を用いるとするなら〕されるのであって 本能の勝負だとは見ません。  その勝負は しばしば悪知恵のはたらくほうが勝つ場合が多いようですから――そういう意味において 人間論や世界観といった理論の問題ではなく ただただチカラの方程式によるところの社会力学の問題であるようですから―― 生物学的に動物としての本能という行動形式をあてはめたい誘惑にかられるとは思いますが やはりそうではなく 文化的な仕掛けによる知恵どうしのたたかいではないかと考えています。  お尋ねしますが どうして次のようにふたつの極端な場合に分けて議論をすすめていかれるのでしょう?  ★ あくまで自分と言う個が生き残るための本能です(狭義の利己主義)。そして、他者を命がけで助けるという時、自分と言う個の生存本能の可能性が排除されるということは、それは利他愛(広義の利己主義)であると思われるのです。  ☆ 利他は 相互利己であり 利己でさえ その利己の行為が間接的に社会関係の構造をつうじて利他になっている部分もあるはずなのですが やはり相互利己である。というふうに おそらくそれがふつうの見方だと思われるのですが 捉えるということを 人びとは どうしてしないのでしょう?  何だか 何百年かのあいだ・われわれのまわりでは 《慈悲》だとか《さとり》だとかの文句がそこら中に看板が立てられたり誰のだか知りませんがあたかも CM やコマーシャルソングとして流れて来たりしていて 人びとはどうしても《利他》だとか《無私無欲》だとかといったことを 二言目にはつぶやかなくては さげすまれるというような強迫観念になやまされて来たのではないか?  ★ 自分と言う個の生存本能に従うならば、他者を命がけで助けるということは矛盾していますね。  ☆ いや 分かりませんよ。《本能》は あたかもそれになぞらえた理屈と打算とがあるのみだと捉え返すのですが それを除けば ひとは咄嗟の判断で 赤の他人を命がけで助けるということを けっこう平気で(というよりも 意図や意識はなかったでしょうが)やってのける。かも分かりません。  あとは 日本の置かれた地理的・自然環境的な条件をめぐっての確認だと思います。  何だか論議がはじまったかのようですが 取り敢えずこのように考えて お応えとします。

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