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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人の強調性は 稲作農耕という経験から来たか)

日本人の強調性は稲作農耕という経験から来たか

NemurinekoNyaの回答

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回答No.7

☆ こういった研究とその成果というのは 人間にどこまであてはまるのでしょう? ◇あまり当てはまらないと思います。 所詮、サルです。人間にもっとも近いチンパンジーでさら、その行動様式はまったく違うので。なのですが、ある程度のことは、その研究からわかるといった程度だと思います。 ~~~~~~ ◇ 協調性は、脳に組み込まれた基本的な能力と考えるべきなのでしょう。 ☆ わたしは 人間の意志行為だと考えます。するかしないか。その意志があるかどうか。だと思います。 ~~~~~~ 何から何まで共感やミラーニューロンで説明しようとは思っていません。 ただ、共感が根源的人間性の形成において非常に重要な役割を果たしている、といいたいだけです。 人助けという行為をしようとするのは、人間の意志のなせるワザです。 しない選択の自由も人間はもっています。 そのことは否定しませんが、 人助けをしようとする選択の背景に、共感、《惻隠の情》といったものがある、と言いたいだけです。 ホームに落ちた人を助けるというのは、理性による計算ではなく、もっと人間の根源的な部分によるものだと、わたしは考えています。 ~~~~~~ ◇ 共感 ☆ は 心理的な・うわっつらの心としての気持ちであって わるく言えば一時的なうつろいゆく情感だと捉えます。 ~~~~~~ たぶん、 共感の解釈が、 bragelonneさんとわたしでは異なっていると思うのですよ。 ───────── 共感性がたとえば友情を生み出す。友人になったきっかけは、「何となく」であることが多いが、「何となく」の本性は、共感性である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F ───────── この「何となく」というのは、意識表層に現れない無意識・潜在意識のなせるワザだと、わたしは考えています。その分、根深い。非常に強い。 ただ、無意識・潜在意識に起因する何かなので、その本人には「何となく」と感じられてしまう。 しかし、 それは決して浮ついたものではない。一時的で浮ついた感情ではない、 とわたしは考えます。 ☆☆☆☆☆☆ NO2で《水の確保》について書きましたので、 http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kagaku/03/22.html 水を巡って、血で血を洗うような凄惨な《水争い》が過去に何度も、繰り返し起きております。 旱魃などで深刻な水不足に陥ると、 稲作狼さんに早変わりして、村という群れは一致団結して、他の群れの狼さんに襲いかかります。 記録にないだけで、 皆殺しにしたこともあったと思いますよ、わたし。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  水争いの歴史にかんして素通りしてしまって申し訳ありません。  ◇ 水を巡って、血で血を洗うような凄惨な《水争い》が過去に何度も、繰り返し起きております。  ▲ (水争いと《農》の秩序) ~~~~  http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kagaku/03/22.html  水をめぐる争い ─── いわば集落全員の生死をかけた争いです。待っても待っても雨は降らず、太陽がジリジリと照りつけます。土にヒビが入って稲も枯れ始めます。どこかの集落が耐え切れず、夜中に上流の堰を壊しに行きました。   ・・・(中略)・・・   何百年におよぶ水争いや山争いを通して、様々な約束事ができたり、証文が交わされたりして、村々の「農」をめぐる秩序ができ上がっていったのです。  ・・・・  したがって、この秩序は、水利システムをコンピューターで操作する現在でも変わっていません。今でも大渇水になると、江戸時代の古文書の証文にしたがって水を分けたりする地域はたくさんあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 稲作農業にかんして水利の問題があり これをめぐっては 旱魃と洪水といった自然災害がおそうときには 人びとは互いに《協調性》を発揮しうるかについて言わば試練のときを持った。それを乗り越えるようになるには 何百年という学習過程を経なければならなかったのかも知れない。あまり知られていないとしたら それは 人びとが味わわねばならなかったつらくかなしい歴史であったと。  次の《共感》という主題と言い 何だかたいへんな問題に入って来たような感じです。    ▼ (ヰキぺ:共感) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F  § 2 情動的共感と認知的共感  マーチン・ホフマンによれば、幼児期における共感の発達段階として、自己を投影して相手も同じことを感じているであろうとする段階(いわば自己中心的な共感であり、ヒトや場合によって状況が異なる可能性を考えない)を経て、やがて自分の境遇とは異なる相手の様子を推し量る段階に達するとしている。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この項目についてヰキぺはまだ《書きかけ》であるようですが この《情動的共感と認知的共感》を経験するといった成長過程をあゆむ。これが 《共感》についての基本になりましょうか。  《認知的共感》は 《同感》とも言うべきものでそこには《意志行為》をともなっていて ひとはこの意志による判断を重ねることによって成長するものと考えられます。  もしこの共感経験と同感成長の過程を経ないと 次のような問題が生じるとすれば なおさらそれが基本を成すと考えられます。  ▼(同上) ~~~~  § 3 共感の欠如  ヒトの自然な発達段階において阻害されると、共感することを欠如するようになる場合がある。 また、一般に男性は女性より共感性が低い傾向がある。  病的な見地からは、自己愛性パーソナリティ障害や自閉症やアスペルガー症候群の代表的な特徴とされる。  精神医学ではまだ厳密に定義されていないが、先天的に極端に共感性が低いサイコパスと呼ばれる人達もいる。  ~~~~~~~~~  ☆ サイコパスという一度話題になった問題にまで来てしまった格好です。次も話題であることが重なったようですね。  ▼(同上) ~~~~~  § 1 荘子の考えた共感  しかしながら、実際に共感によって他人の感情がわかるのか、は永遠の謎である。  論理的には、他人の感情は他人のものであり、それを確認する方法は実在しない。  中国の思想家である荘子の著書に「知魚楽(魚の楽しみを知る)」という小編があり、そこでは橋の上に立って魚を見て、「あれが魚の楽しみだ」という荘子に対して「君は魚でないのに、なぜ魚の楽しみがわかるのか」とくってかかる恵子の姿が描かれているが、論理的には恵子の言葉に反論するのは不可能である。  にもかかわらず、共感は感情を共有する方法として機能している。  実際には本当に感情そのものを共有しているのではない点は重要である。たとえば俳優は偽りの感情を創造することで観客の共感を引き出すことが可能である。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん同感ともよぶ《認知的共感》の場合には 一方で《身と心》の仕組みの基礎として 《情動的共感》が――これは おのおの《わたし》の内に――はたらくのを汲み上げており 他方で相手があってその相手に向き合う場合には《心と心との通い合いなる人間的交通(コミュニケーション)》として ここが重要と思われるごとくあたかも感情ないし情感を互いに確実に共有しているかどうかにかかわることがなくても 意志行為としての互いの自己表現をつうじて 意志疎通を図る。――つまり《協調性》は 成るとすればそのようにして成ることになる。  ◇ 人助けをしようとする選択の背景に、共感、《惻隠の情》といったものがある、と言いたいだけです。  ☆ というご見解をしっかりと受け留めえなかったとすれば 申し訳ありませんでした。  わたしの言いたかったことは  ◇ ホームに落ちた人を助けるというのは、理性による計算ではなく、もっと人間の根源的な部分によるものだと、わたしは考えています。  ☆ というとき 《人間の根源的な部分》というのは ふつうに《自然本性》としての感性のはたらきだと見ればよいと思ったことです。(《潜在意識》という見方は受け容れています。無意識というと 議論があいまいになると思っています)。    同じく《理性による計算》も ごくふつうに意志行為として――つまり電車の車体を押すという行為をすでに咄嗟の感性による判断のみによっておこなった場合にも 事後においてそれをおのれの意志行為だと認識するかたちにおいて―― 全体として伴なわれている。こうも言いたかったのでした。  むろんこのような場合 いちいち理性によって理屈をつけることは要りませんが その行動がわが意志行為によるものなのだという事後的な認知をおこなうに当たって 初めの感性による咄嗟の判断だけにして置かずあらためて見直しこれを理性もが認識し直しておくと考えられます。――これが 全体としてのわが実存の一端であるというふうにです。    自分の内なる感性としての《何となく》( a )と自分による〔・ときには事後の〕《お墨付き》( b )とが――それでも あやまちうるかたちにおいてながら―― わが実存を全体として構成するのだと。  ( a )◇ 人助けをしようとする選択の背景に、共感、《惻隠の情》といったものがある、と言いたいだけです。  ( b )◇ 人助けという行為をしようとするのは、人間の意志のなせるワザです。  一件落着でよろしいでしょうか。

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