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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人の強調性は 稲作農耕という経験から来たか)

日本人の強調性は稲作農耕という経験から来たか

noname#189246の回答

noname#189246
noname#189246
回答No.14

改めまして、何で11字と申します。これは、ハンドルネームが10文字しか入力出来ないのに、11文字以上の人が存在するから、「何で」ということで決められました。その件に関してはだいぶ前解決しました。 相互利己の内容を分析しているかどうか、という問題だと思いますね。相互利己には自分の身を守るための、あるいは利害、名誉、名声などを打算的に目論んだ「お互い助け合う」ということと、誠の利他愛の「助け合い」の2種類があると私は考えています。どちらでも「相互」「利己」ということにはなるのではないでしょうか。利他愛でさえ、究極的には利己だという立場に、私は立っているのですから。 しかし、実際には善行にはその2種が両方混じり合っていると思われます。人間の心はそんなに単純ではない、二つ以上の動機が行動させていると思われます。「相手にとって良いこと」と「自分にとって良いこと」を動機としているが、どんな比率でそれを発揮できるのか、ということで精神性の進み具合が決まるのではないかと思っております。 善意が自分の心に湧いて来た瞬間、注意深く自分を内観して見て下さい。それは本当に完ぺきに、相手のためなのでしょうか。「自分が良く見られたい」などという打算が、全く無い自信がおありでしょうか。おありならスゴイことですが。たいていは入り混じっているものなのですよ。自然の想い、というけれども、細かく見て行けばその心は必ずしも完全利他ではないのではないでしょうか。 「相互利己」という言葉も細かく分析すれば色んな度合い、色合いと言うべきかな?があるのではないかな、と思います。 成長ということは、常に人はし続けております。だんだん自分都合の行動から、真の、相手を思う気持ちへと成長して行きます。どうしてそう成長するのかは性(サガ)であるとしか言いようが無く、人間の理解を超えます。 私は打算、利己主義と言ったものは動物時代の名残だと思います。大脳新皮質を少し剥けばサルになり、もっと剥けばどんどん下等生物に劣化して行くでしょう。つまり、人間とは革命的に変化した動物なのではなく、塗り重なった動物の歴史なのです。大脳新皮質の巨大化、それだけで他の動物と一線を画しているのです。ということは、動物性は人間には無くなっていないことになります。理性はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです。 つまり生存本能は動物時代から無くなったのではなく、脈々と受け継がれ、現在も人間の行動する動機の大きな要因になり得ます。そのとき理性はそれを達成するためのコンピュータとなるのです。 ウソ・イツワリそのものは理性上で練られたものかもしれないけれども、それの発端が脳の動物部分に付き従ったものなのか、それとも大脳新皮質で純粋に考察されたものなのか、という分別が生まれるのです。 脳の、古い動物部分に従った動機で無いとしたら、その時大脳新皮質は、魂に使用されていると思われます。動物部分の生存本能と関係ない何かが、脳というコンピュータを使用しているのです。 実際には魂と脳の動物部分は複雑な関係の、大脳新皮質というコンピュータの、共同使用者なのだろうと思います。 私の意見はこういった認識の元に発せられています。 スペンサーという人が言うところの、自然淘汰が無い、というのは、実際人間には自然淘汰が無いんでしょうけど、それは「相互利己」上、社会上の結果であり、その根拠・要因であるところの理性の発達が、必ずしも「人間には動物性が無いのだ」ということにはならない、ということなのではないかな、と思います。 厳密に言えばこの格差社会において、若者の結婚、出産率が落ちているのだから、自然淘汰は存在することになりますが。 「極端な2つ」 脳の動物部分に従うのか、魂に従うのかという選択が顕在意識に許されています。顕在意識とは恐らく、大脳新皮質に癒着した魂の部分です。大脳新皮質に癒着していない部分は潜在意識として有ると思われます。これは物質より幽(かす)かなものですがこの空間に漂っているんだろうと思われます。相互利己というけれども、動物部分に付き従った動機と、魂の潜在部分に従った動機ではまるで別です。魂には神性が宿っているからです。 結果は同じでも動機が違えば実情はまったく別です。現世の人間は現実の結果で全てを決めつけるものですが、幽かな世界では現世の結果は関係なく、動機が全てなのです。動機がそのままその人のレベルを決めるのです。結果とは現世だけのものです。だから私は相互利己という結果が同じであるということを軽視しているのです。ただ、これらのことは科学的には実証されていません。私の信じるところということに過ぎません。 私にとってこの認識は自然な自分を説明したものであり、特に強迫観念とは思いませんが…

bragelonne
質問者

お礼

 何で11字さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  お名前のことが分かりました。ありがとう。《時》とまちがえました。  ★ 利他愛でさえ、究極的には利己だという立場に、私は立っているのですから。  ☆ ここの議論としては それほど違いはありません。たとえば    【Q:《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?】  【Q:利他って何ですか?】  というふうに設問をももうけて 問い求めて来ていますので。  くどくなってもよいとすれば  ★ 相互利己には自分の身を守るための、あるいは利害、名誉、名声などを打算的に目論んだ「お互い助け合う」ということと、誠の利他愛の「助け合い」の2種類があると私は考えています。  ☆ というふうに何故 ふたつなら二つの概念に分けてから 考えをすすめようとするのか? です。  人間の意志行為は おおむね自己や身内のためになることを思っての利己的な部分が基礎になっていると考えますが そこで ほかの人びとのためになることを考えていないというわけでもないと思われます。とっさのときには 利己心をかえりみず ほかの人のためになることをおこなう場合さえあります。  もしこのように《利己心を基礎としつつ 利他的なふるまいや助け合いをも ときにはすすんでおこなう》ということが おっしゃるところの前者すなわち《自己保身としての相互利己》だとすれば つまりはどうしてそのほかに後者を別建てで立てるのだろう これです。  すなわち後者とは 《誠の利他愛〔としての助け合い〕》といった どう言いますか 純粋概念のことですが どうしてこれを持ち出して来るのでしょうか。  つまり いわゆる慈悲です。それも 一般に人びとが成し得るところの衆生慈悲や法縁慈悲ではなく まれにしか実現し得ない無縁慈悲といった概念 これのことです。  むろん そのことにも触れておられます。  ★ しかし、実際には善行にはその2種が両方混じり合っていると思われます。  ☆ ですが 実際くどいように取り上げましたのは それがやはり言わば対立する二項に初めに分けてその前提を 最後まで保とうとして議論をみちびいて行くこと ここには どうしてか? という疑問が持たれます。すなわち  ★ 「相手にとって良いこと」と「自分にとって良いこと」を動機としているが、どんな比率でそれを発揮できるのか、ということで精神性の進み具合が決まるのではないかと思っております。  ☆ つまりやはり《比率》を気にしておられる。  ★ 人間の心はそんなに単純ではない、二つ以上の動機が行動させていると思われます。  ☆ という背景としての事情や事態を捉えておくだけではなく その前提を最後まで一つの基準枠として用いていくそのやり方です。  すなわち  ★ ~~~~~  善意が自分の心に湧いて来た瞬間、注意深く自分を内観して見て下さい。それは本当に完ぺきに、相手のためなのでしょうか。「自分が良く見られたい」などという打算が、全く無い自信がおありでしょうか。おありならスゴイことですが。たいていは入り混じっているものなのですよ。自然の想い、というけれども、細かく見て行けばその心は必ずしも完全利他ではないのではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ 微妙な違いは わたしの場合は 《完全利他》という理念のような想定を――主観として自由に持ってもよいが 理論としては――持たないということです。《打算》と《相手のことを思う善意》とが入り混じっていてもよいという見方です。ふつは そうだと見ると言っています。  なんで理想概念? という問いです。  《協調性》を発揮するとき――その現場において―― 《慈悲》だとか《完全利他》だとかの理念は要らない。のではないか? です。  つまり  ★ 「相互利己」という言葉も細かく分析すれば色んな度合い、色合いと言うべきかな?があるのではないかな、と思います。  ☆ と言うにとどめておくという理論です。  ★ 私は打算、利己主義と言ったものは動物時代の名残だと思います。  ☆ そう思い それにもとづきあたらしい人間論を打ち立てるなら 協調性はさらに高く深く発揮されるようになる。ということでしょうか?    ★ 動物性は人間には無くなっていないことになります。理性はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです。  ☆ ぢゃあ その《動物時代の名残り》が いつでも――ホンショウを表わすように――現われて来るということでしょうか? だから 《完全利他》なる理想をつねに スローガンとしては 言っていなくてはならない。こういうことでしょうか?  けれども そうは言いますが ヒトはすでに 欲望が衝動的に起きて来ても それを もしそうだとしたら 《むさぼり》であると認識しうる動物です。しかもその認識は かなりの程度において 行動を拘束します。  極端な例を出すなら レープを頭の中に思いついたとします。ですがこれを 相手の意志を踏みにじる不法行為としてのレープだと認識し得るし そのことが一たんとしてでも 心や脳裏をかけめぐります。  つまり言いたいことは 動物は 本能にまかせて――本能のみによって――行動するのみなのです。ヒトは 認識を経て たとえそれが善くない・マチガイだという認識内容であったとしても もし実行しようと思えば意志がそれを敢行します。という具合いに成っています 行動の形式として。  動物は一たん立ち止まるということはありません。獲物を取るために よりよい方法を考え出そうとするために立ち止まるかも知れませんが そのいまおこなおうとしている事を認識しいちど利己か相互利己かなどなどといういわゆる善悪の判断や それを経たあとの意志決定といった過程を経ることはないでしょう。  ★ 理性(* むしろ善悪の判断は 感性であり 理性はそれを確認するだけであり 問題は最終の決定として意志にある。こうだと見ますが)はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです  ☆ だとしても その一枚のメッキの皮は とても動物が埋め合わせることのできる差ではないと言わねばならないでしょう。  そういう人間が考えておこなう《利己ないし相互利己》なる意志行為である。こういう理論であるのですが そうであれば わざわざ完全性を 理想概念としてのように 想定する必要はないのではないか。こう問うています。  敢えてさらに言えば 《動物時代の名残りであるかも知れない打算や利己主義》のうちに――つまりは そのような動機で行動しているところで―― 広く社会全体を見渡せば そこそこの互いの助け合いや秩序と安定した成長が得られることがあり得る。こう考えます。  繰り返しになりますが  ★ 脳の、古い動物部分に従った動機で無いとしたら、その時大脳新皮質は、魂に使用されていると思われます。  ☆ どうしてこのように 互いに相容れないと見るかのような対立するふたつの事柄に分けなければならないのでしょう? 分けてもいいですが その区分が最後まで理論の上でも保たれて 両者はどうしても相容れないのだと言おうとしている。むしろ そう言うことを目的としているとさえ見られます。    ひとよ おまえは あかるくあたたかそうな心を見せるときがあって   それにもとづき おとなしくやわらかな考えを持った知性の人であると   いうが じつは仮面をかぶっている。    そうではないか?    おまえなどは 一皮剥けば 動物なのだ。    四足で這いつくばって そこここで餌をあさっているただの動物である   に過ぎないのだ。思い知ったか。  とでも言いたそうな気配です。何のために?  わたしは  ★ 「人間には動物性が無いのだ」  ☆ とは考えていません。生理的な欲求とそれの充足行為は 動物と同じものを共有しています。  ただし 動物と違って そのことの認識とどうすべきかの判断力をも持っています。上にレープの問題ですでに考えました。  それと 動物の習性を ひとは今度は認識し得てそのことを 理性と意志とであたかも再現しようとすることがある。これを 経済的なあるいは政治的な競争の場にあてはめると あたかもそのありさまは 動物の自然淘汰と同じようないきさつが繰り広げられている。けれども それは 社会的な自然淘汰ですらなく そうではなく あくまで人間の意志行為としてのたたかいである。こう捉えます。    すなわち  ★ 厳密に言えばこの格差社会において、若者の結婚、出産率が落ちているのだから、自然淘汰は存在することになりますが。  ☆ とは見ません。共同自治としての政策の不備であろうと考えます。意志行為の問題であると。  ★ 魂には神性が宿っているからです。  ☆ その神性――ないし仏性とでも――を活かすのは 理性と意志が むしろ感性の知覚するがままのオシエを忠実に果たすかどうか ここにかかっていることでしょう。  そのとき  ★ 幽かな世界  ☆ は関係ありません。それを人間は知り得ないのですから。  知り得ないものを持ち出して つねにその理念から思惟をはこぶのは 《強迫観念》です。

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