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「愛」と、好き(愛する?)の違い。
日比野 暉彦(@bragelonne)の回答
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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回答No.7
くりなるさん お邪魔します。 互いの話し合いつまり合意にもとづかない《利他》はあり得ないでしょう。 また利他という内容が仮りにあったとしても それは 自己の生きるためにおこなうことでありましょう。 それを簡単に言ってしまえば ひとは利己のためにこそ もしそうとすれば利他なる行為をおこないます。 あるいは 利己の行為こそが 社会的な関係構造においてまわり回ってほかの人びとを利することもなあります。 言いかえると 好きだからでもよく嫌いだからでもよく いづれにしても自己の欲するところを生きることが 社会という観点に立って大きく基本的に《愛》です。 その程度でよいという意味です。 定義の《ただしさ》は 単なる妥当性であって一向にかまいません。それが 人間の社会行為です。 それ以上のただしさを求めることは ひとを生物か動物と同じ状態と見ることでしかなく もしくはただの機械として規定しようとすることでしかないでしょう。 それは よくもわるくもアマテラス科学語の虚構であり しばしば虚栄として繁栄することすらあります。でもその時代は すでに終わっていましょう。
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bragelonneさん、ありがとうございます。 >好きだからでもよく嫌いだからでもよく いづれにしても自己の欲するところを生きることが 社会という観点に立って大きく基本的に《愛》です。 ・・・石原都知事が言ったように「父性が足りない」というような状況においては、どうでしょうか? もっとも、母性も十分なのか?とも思ってしまうのですが。 >その程度でよいという意味です。 それはつまりたぶん、自身を「裁かれる側」とするものであって、「裁く側」とするものではないのであろう、と思います。 >「それ以上のただしさを求めること」 「上意下達」という環境において、というのと、(以下ry