• ベストアンサー

生きるということの本質は何だと思いますか。。

生きる 生きている。。 どんなときのそんなことを思い 何を感じ 生きてるって何だと思いますか? また どんなことを思って生きてきましたか? そして生きるってどういうことだと今思いますか? ・

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

子供を産み、育てることです。  それ以外は時間つぶしですね。時間つぶしも楽しいけど、、、。

agripapa
質問者

お礼

時間つぶしですかww 今を生きてる もったいない? 贅沢な? 満ち足りた? ものたりない。。 そのうち何かやりたいこと見つけそうですね(^_^)v ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (38)

回答No.29

 こんにちは。  ★ 生きるということの本質は何だと思いますか。。  ☆ 自由です。自由であること。自由に生きること。です。  おのれの自由を実現するためには 他人もその自由をすべてまったきかたちで実現しているということでなくてはなりません。  だとすると 人間の個人の自由は つねに工事中です。  ところが その工事中の過程ですでに めぐみの多かる者は おのれの欲するところを生きるという現実があたえられて来ます。  これが 縁起共生としてのでもある人生であり 生きるということです。  * めぐみは 人間としてのおのれの能力と努力によってだけでは 何も成ることはないというさとりと一体でありましょう。  そのヒラメキとしてあたえられるさとりは それ自体は思考や認識になり得ますが 能力や努力を超えていると自覚するのですから そもそも非思考です。  この非思考としての信仰は めぐみ〔がさづかるといったこと〕へのおどろきと きよらかなおそれのことです。おどろきは 哲学を芽生えさせました。  きよらかなおそれを知らない場合は――つまり言いかえると むしろ同じ人間に対して必要以上の恐れをさえいだくように仕付けられて来る場合―― さとりやめぐみを 観念としてあたまの中にきざみつけ これをおのれの非思考の体系としがちです。  つまり 人間どうしの恐れを何とか克服しようとしての観念体系です。これが 宗教としての神です。ブッダもそうです。精神論などとしていかに観念のブッダが多くはびこっていることか。  この種のタコツボの中においてであっても 生きていると実感すると言う人もいましょうか? どうでしょうか? 生活が経済的に安定していることも大事でしょうから。

agripapa
質問者

お礼

民主党が言ってるような政策群とは地方分権化、外国人地方参政権付与という法的に国を解体させる土台を作ろうとしている 君が言ってるのはインタムライズムとかで地方から国を解体させようとしてる 貴方はどこの国の人なのか知らないけれど、かつてキリスト教宣教師が世界に派遣され国家侵略の先兵として機能してきた、そのものの精神構造になってしまっているということ 相手を尊重するということは相手を生かすということでもあり キリスト教の立場で仏教の解体を言うこと自体、唯一神系が陥りやすい独善になってしまっている 貴方がキリスト教系にいてキリスト教会は解体する必要があるというなら、それはそっちの勝手で貴方がそのようにキリスト教系に働きかけていけばいいだけの話なのではないですか? キリスト教会は解体すればいいと考えている だからと言って仏教も解体すればいいという話にはならない 国家の中でいろんな宗派がそれぞれ排他的にならずに共存している状態で、日本の国家の中で誰もが住みよい社会になるような国を創ろうという一点を見ながら存在している状態であるということができる これを可能にしているのが山川草木悉有仏性という考え方 何故限られた器の中で平和的に共存状態にある体系にあるものをわざわざ解体する必要があるのでしょうか このことから言えるのは むしろ自称キリスト者の君はその教義が似ていることから浄土真宗に帰依するべきところなのだと考えられる ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.28

> 懐疑すればいいんじゃないですか? ええ、宗教とか統一理論的なビジョンに懐疑的なのです。

agripapa
質問者

お礼

:本質とか、わかりませんが、視える展望があったならむしろ懐疑します 見える展望と宗教とか統一理論的ビジョンとどう関係があるのやら 懐疑? そもそもが。。 なんだね ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.27

生きてるとか、死んでるとか、愛してるとか、 便宜的な言葉ではないですか。 本質とか、わかりませんが、視える展望があったならむしろ懐疑します。 生きる思いなのかなとおもうのは、 夕暮れや夜景を見る時に、地上の生活の匂いや手触りに心が波打ったり、 朝を迎えると新しい一日だと感じるところ。 闇のなかに居続けた経験は、ないけれども、 寄る辺ない気持ちを持て余す自分はずっといました。 いま子育てをしていると、寄る辺ないということはありませんが、 それでも期間限定の繋留のように感じています。 カナカナ蝉の響く山が黒い影に暮れてゆくのを眺めた日々や、 ラッシュアワーの電車が火花を散らしてカーブを入ってくる夜景をビルの窓から見下ろした日々や、 夜明け前の空港のコーヒーショップでフライトを待った折々が、 どうして自分の中で一つに結びついているのか、謎ですが、 たぶん自然においても、都会においても、どんな方向性であっても、 知覚したり学んだり感じたりしたことがらを、蓄積したり廃棄したり構築したりしながら、 朝と夜を繰り返しているというのが、わたしの生き様なんだろうと思います。 このまえ、旅先で早朝、成長しすぎて食べられない牛蒡の木に生った実を てのひらに乗せて、自然農の畑を歩きました。 でたらめに蒔かれてでたらめに生えたようでありながら、 自然の秩序のとおりに関わりをもって、互いにそこにある作物たちは、 食べ物を栽培するには非効率的な反文明的なありかたですが、 人間もそんなふうに、関わって、適材適所に、役に立たないということのない競合のしかたであることが、自然農主義者の願いのように思われました。 でも偶然と闘争に満ちた畑ですから、関係と調和の陰に淘汰されるものたちがあり、 そうしたこともまた、環境情報を蓄積したり廃棄したり構築したりしながら、朝と夜を繰り返す営みなのかもしれないと思います。 3歳か4歳のころ、雑草まじりの芝生で、 雨上がりのまるい露玉にあたりが映っているのを覗きこんだとき、 たとえわたしに見えなくてもここに全世界が映っていると言ってよい気がしたものでしたが、 何か、生きて存在することの果てに、約束が待っているというような気持ちは、そのときからあるかもしれません。 夜を越える約束のような、夜に灯りがある約束のような、やっぱり、陽がのぼって沈むのに従うような気分かもしれません。

agripapa
質問者

補足

懐疑すればいいんじゃないですか?ww ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • sibat0901
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.26

これをどうぞ(^^♪

参考URL:
http://www.youtube.com/watch?v=va9mhIMbBxc&feature=related
agripapa
質問者

お礼

けっこうです(^^)/~~~

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#156094
noname#156094
回答No.25

言葉をお借りします。 >花の命は短くて >虫に命はあるのかな 花びらは散っても花は散らない (松原泰道さん) 虫は見えなくても命は伝わってきます 小さな生き物とどこが違うのでしょう。 動くという仕草の中に同じ命が宿っている。 教えてくれるものはいっぱいあります。 心の花は散らない 声が命の証です 感傷ではない観照の中に命を実感できればいいと思います。 そうした感性を持ち続けたいですね。 そこから自分の命を見ることも出来るように思います。 やっぱり大切なんだな・・・というような

agripapa
質問者

お礼

顔洗って出直してきて。。 ね? ・

agripapa
質問者

補足

横から入ってきてその言葉だけを切り取られて 絡まれてもね やり方がこ汚い みたいなww ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#176957
noname#176957
回答No.24

再答。 生きることは、 殺し続けること。 奪い続けること。 「この国では、同じ場所にいようと思ったら、思いっきり走りつづけなきゃならないのよ!」 (赤の女王「鏡の国のアリス」)

agripapa
質問者

お礼

よみ違いだな ・

agripapa
質問者

補足

そんな身も蓋もないような言い方を。。 命を頂いて私どもは生かされております 感謝 合掌。。 ぐらい言ってっ みたいなw ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.23

再回答ですが、 Ano11とAno18とは別な視点からの回答から書き直してみたいと思います。 まず 私自身がどんな時に 「生きている」と感じたかについて 書いてみます。 その記憶の世界についてです。 最初は 子どもの頃の事、  3歳の頃も私は死にそうになったそうですが、 外国からペニシリンが入ってきてぎりぎり助かったそうです。 その前と後では 写真の顔も違います。  もとは、丸々と太っていました。    でもこれは別の人に摩り替えられたわけではないことは 推理で解ります。 しかし、 それ以前の記憶がまるで無い時には、   その記憶の無い時の話しを 近所の人から聞くとまるで別の人の話を聞いているようです。     その時 私は 生きていたのか?とさへ思ってしまいます。 ここからも 生きるということと脳の中の記憶領域(海馬など)への興味がわいてきます。 つぎに、 3歳をすぎた頃からの記憶に 私の場合 大きな特徴的分裂があります。 都会での生活は 小学生以前はまるで憶えていないのです。   しかし生まれ故郷の 千葉の九十九里の近くのとある岡の上の家での、夏休みのことは 3歳の頃から憶えています。 幼い子どもにとっては 大自然が生きている証とも言えるかと思います。 しかし その後  ある都会の学校へ 転校(何度か親の関係で転校)したことで、私はいじめに合い(これは大人からのいじめなのですが) それが因となり 体を壊していきます。 なぜかやせていても極端に頑丈な体だったのが、 やがて 何度も重い肺炎で死の床をはいずるようにもなりました。 ちょうど 親が買ってくれた自転車に夢中になっていた頃 ある死を意識した床では 死にたくない=せっかくこれから世界中を自転車で走れるのに、という気持でした。 これ ひとそれぞれ何が その生きたい気持の全部を支配してしまうか その時どき 解らないことを示している端的な例だと思います。 ただの自転車が 命ほどの重みをもった瞬間でした。 そこからも、私は 人の欲という事の裏に さまざまな人生の豊かさをも想像するようになりました。 次に 一番苦しかった死の床(肺胞が全部全滅しかかった)を 峠を越えて助かった時のことですが、  実際にはまだ苦しい息の中だろうと思うのですが、 窓からの空気や小鳥の声とかが なんともさわやかだったことは思い出します。   ただ これはあまりにも苦しかった時との対比の必然、 生きている凄さを感じたのは はるか後の体験となるのです。 その後 心まで 二度ほど 気がふれるようなことまでありました。 いじめを両親さへ信じてもらえず(泣いて話してもだめでした) 孤独と恐怖がやがて そこまで追い込んでいったのだと思います。 これは その状態の渦中はまったく苦しくもなんともないのですが、 はっきり記憶に残るので はっと気が付いたときが惨めです。  子ども心にも今自分がどうなっていたかわかってしまうからです。 まさに その頃は地獄でした。 しかし とうとう両親も気が付くときがきて ぎりぎりで私は 廃人となりきる前に  ある海辺の虚弱児施設に入ることが出来たのです。 おおらかで明るい その頃の先生方や くったくない元気な友達たちの中で そのは最初から天国のようなものでした。 「21の瞳」という映画が似ているかと思うのですが 私はまだ観ていません。  しかし おそらく私自身には さらに 楽しい子ども時代だったかと思います。 後から計算すると4ヶ月しかいなかったはずなのに 4年はその施設で過ごした記憶となっています。 楽しさは ストレス解消程度の わーーーっと発散する楽しみであればむしろ短い時間感覚となると思います。 でも 新鮮で安らかで いきいきとしている時の楽しみの世界は、 豊かな豊かな長い時間として感じられるのだと思います。 大人のスポーツの楽しみ  これ、たしかに  両極あるでしょう。  多くの場合 今現在までのところで言えば 前者の世界なのでしょう。    しかし 私のスポーツブログで求めているのは もちろん後者のつもりです。  長い長いその闘いの始まりです^^。 やがて 私は 20歳の頃なのですが、 それからもいろいろありましたが、  ふと 生まれ故郷を訪れてみたいと思いたったことがあるのです。 最初は のんびり気分、旅行気分の軽いのりで、 しかし まず道を間違えたりしてやっと  今度こそという道を曲がったとたん、  私はまず立ち止まってしばらく動けなくなる感動をおぼえました。 ここだ  この道を 子どもの頃妹といっしょにはだしで海までかけぬけていった この道だ!(妹は おぼえていない^^) … それから その細道の少し奥にある丘に登る竹林のさらに細い坂道を登ると あの懐かしい家の屋根が見えてきたのですが、 感極まって、 確かに家があったことだけ確認した後、そこから回り道をして  歩き回った懐かしい小道をすぎ 岡の裏の大自然の砂の滑り台までたどりつきました。 あの時のそのままの 転げまわった砂場に 私は なりふりかまわず どさっと寝そべっていました。 空の雲がちょうど雄大でした 遠く山がこれも懐かしく心に響きます。 やがて 背中が 「生きている 生きている 生きていたんだ 生きていたんだ」と歌いだすのを感じました。    おそらく 私の人生でも最大の「生きている。。」と感じた瞬間でしょう。 ここから 私は 人は どんな時にどんなに深く生きていること自体を感動できる時があるか解らない生き物であるということを学びました。 そうそう 例の虚弱児施設での想い出は、書き出すと全部がなんとも 豊かな楽しさで満ちていて おそらくそれを読んだ人もとてもたった4ヶ月の出来ごとは思えないような内容のものとなるかと思いますが、 その中でも 消灯後の寝る時間に、放送室から流れてきた トロイメライとかアンダンテカンタビレーとかユーモレスクなどのクラシック音楽は  その故郷体験に勝るとも劣らない  その細かい音のひだまでもが 胸の奥の奥にまでしみこむような感動を私に与えてくれたのです。 この二つと もう一つ 恋の体験が  最初の私の 踊りの世界への出発点となっています。 踊りの心の面の追及の始まりです。   それから40年以上も そればかり考える求道の人となってしまったということです。 その後 ある寒村で 恋以上に  心の触れ合いだけで さらに男女が心通じ合う時の凄さ(安らぎともいえないし すごい命の何かとしか言いようがないのですが)も知り  そこから そのことと 表現との関わりの求道も始まっています。  ( いまだに まだ 表現の道ははるか高く 私はまだ そのふもとを旅しているようなものだとおもいますが) で こんな人間にとって  では 生きる とは なんなのでしょう。 もういいよ、自分のことなんて という気持になりますよ。  それより、     世界に目がいきます。 とくに子どもたち、  ストリートチルドレンたち、 病院の子どもたち、 北朝鮮(今でも 鬼対ももたろうの鬼の国というイメージがあったり、 世界で一番まずしい国の施策なのに狼少年と言われたりする、太陽政策も 裏では電球程度で うまく扱おうという見え透いた民族融和政策だったり 問題の国ではあるところ それらすべて 私はひっくり返して 助けたいです)の子どもたち、  とかとか 静かな安らかな地で 音楽を聴いて欲しい。 この大地の太陽がどんなすばらしいか  感じるゆとりを見つけられるようになって欲しい。    スポブロって  過程ですよ。  目的ではないです。 が 生きるとは 私にとって今  スポーツ以上のその闘いです。 これは、そんな視点も あるというお話でした。 (脳の海馬領域と生きている感覚との話は また別の機会に)

agripapa
質問者

お礼

疎にして雑 ざるだな ・

agripapa
質問者

補足

あんまり言っちゃ悪いが 哲学カテだから 敢えて言わせてもらうと

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • ekopon
  • ベストアンサー率10% (111/1076)
回答No.22

私の場合ですが、 山の頂上で絶景を見たりすると「生きてる」実感は涌きますが、 普通の生活では「生かされている」としか感じません。 生まれてこのかた独りでは生命維持(衣食住含めて)できませんから。 「おかげさまで」の気持ちで生きてきたいです。 死ぬ間際に「生きてきた」意味がわかればいいや…と思います。

agripapa
質問者

補足

そうですね。。 そういう気持ちって大事なんでしょうね。。 でもこの情報化時代に見て見ぬ振りって感じも無きにしも非ずで だからそういう言い草がかえって今は自己中に映る?。。 みたいな きつくて御免ね。。 みたいな ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.21

Ano11とAno18のイワマヒコです。 スポーツ文化、特に日本のスポーツ文化のイメージは、まだまだ確かに大味でしょう。 そののりでの社会改革なんていうのは うどの大木をイメージさせるのでしょう。 いきなり核心を突く 端的な短い言葉、  ありがとうございます。 サッカーで言えば いきなりシュートに近い位置にボールを蹴ってみるテストパスに当たるのでしょうか。 シュート自体もまた、 その思いっきりの瞬時の判断にて 確率を意識してのテストでもある性格を持っています。 そうしたボール軌道は、 哲学で言えば、 普段多くを考えられているところからの 直感直球と言えるものかもしれませんね。 そのへんの手際を 見せていただいた思いとなります。 学習させていただきました。  ありがとうございます。 また そのへん私の回答の文章も 大雑把だったと思います。 別な側面 別な視点からの回答も可能と思われるそちらの質問内容ですが、 今は スポーツの側面か もう少し筆を伸ばさせていただきます。 今でも 体育会系と 文科系といわれる分裂はあるでしょうし、 マスコミ騒ぎは けしてスポーツの価値をしっかり捕らえていません。 健康という、個人にとっても扇の要(かなめ)となる価値についても 詳しい系統的解説をしているスポーツ解説もみあたりません。 先ほど昼の弁当を買いにコンビニに寄ったところ、 スポーツ新聞には「なでしこ五輪出場」の文字が前代未聞なほど目立っていました^^。 しかし、 私のスポブロでは、 今回女子サッカー特集を組んでいません。 逆に ちょこちょこと、 他の特集の合間にも、 「今回はアメリカに勝って欲しくなかった」とか、とんでもない非国民的なコメントを入れていたりします。   マイナーを卒業できないわけです^^。 でも アメリカの子供の時からのスポーツ英才教育の流れをすべて肯定するのではないのですが、そこでは 精神面も含め 健康には徹底して気おつけるトレーナーの伝統もあり、 その上で選ばれた人たちが代表となっています。 逆に 日本は 女子サッカーのチームが無いために男子といっしょにやってきた人とかいたりする まだそんな状況、 これって 無理が重なる危険があります。 幸い なでしこは、 いい意味での明るいユーモラスな心であふれたそんな若さがあります。 常に どんな大きな障害障壁に転がされても、 落込んだりストレスを抱える前に即 新しい工夫を笑って模索し始めるといった明るい空気があるのです。   おそらくこれで すべて何とか乗り切っていっているのでしょう。 おっと ここはスポーツブログではありませんでしたね^^。 ともかく このマスコミののりは いただけないと思います。 (なんて書くときらわれてしまいそうですけどね) 実は イワマヒコというハンドルネームの由来は、 岩間合気道の初代道主 斉藤守弘先生に偶然お会いしたことがあることから  イワマ(岩間)という名前をとっています。 私自身は 踊りの心の世界を長年追及してきた者ですが、 63歳にして 実際の舞踊の技術の世界にも開拓の道を広げ始めたところ、 そこでその技術の基本となったのが なんと 若い頃めぐりあった齊藤先生の教えだったのです。 戦後 20数年は 岩間でさらに追及され磨きをかけられていたのが 植芝合気道だと思うのですが、 今のほとんどの合気道は 戦前に数年修行した弟子たちが引き継いだもののようで、 齊藤先生のように、戦前から 戦後の最後まで道祖をともに寝起きして その技を受け継いだ方はいないはずです。 でも これが、 八百長的な気楽なところが少しも無い教え(本来あたりまえですが)だったためか 合気道界からのけものにされてしまいます。 日本武道の真髄である剣の理合いも 当身八割の道理も こうして今の合気道界からは失われてしまっています。 しかも  足を悪くされ 体を壊して若くして亡くなられた齊藤先生の葬儀も 無視された形です。 こんなことなら 私が弟子になって すべてを 合気道にささげるぐらい修行しておけばよかったと思います。 齊藤先生は 合気道の本質を「絶対的安定性」と言いました。  その大地の上には 武道だけでなく あらゆる個性の花が とくに藝術面で自然に花咲くとも言われました。 これは 凄いスピードで走りこみ ぶつかってしまった瞬間には大男たちが 投げ技を使っているわけでもないのに 大きくふっとんでしまったり 転げまわってしまうような激しいサッカーでの ボールコントロールの世界でも  言えること、 それをサッカーでは「身体バランス」と言いますが、    これが スピードスポーツ時代において さらに重要な 微妙な要素(大味ではないです^^)となり  なんと 今後は すべてのスポーツにおいて 音楽のドラムを越える拍子のイメージのあたりから進化をし始めると思います。 音楽では 音符という便利な音の長さをイメージできる記号があるため、 拍子の細かい位置移動のスピード化が無くても  正確に音楽を奏でることが出きるようになっています。 この細かいリズムを きちっとチームワークで、 数分の一秒も狂わさず トスをアタックしてこそ スピードバレーボールの さらなる進化があるわけです。 音楽とは別の拍子のイメージ化とそのスピード化 正確化が必要となるわけです。 そして 実は その上での スポーツの世界は、 安定性においてもただの身体バランスを越えて行きはじめるばかりではなく、 音楽のような藝術的強弱のメリハリや 細かい感性の世界とも合流してゆくことになると思っています。 また 同時に 意思決定のスピード化のあたりにも アメリカの応用スポーツ心理学の域を超えて 役立ち始めるとも 思っています。 経験と知識と技術を よりすばやく総合化し そこに藝術の感性の香りまで交えた 新しい時代の理念を見つけ、 そこから計画をたて、 計画にもとらわれない自在性をももって 意思決定が  そのスピードスポーツのように行われるようになれば、  まさに鬼に金棒です。 そこからは すばらしい明日のリーダーがどんどん育ってゆくと思うのです。 また 時間がなくなりましたが ともかく 大雑把な イメージは、 こうしてネット自体には 庶民の知恵で一歩一歩  変革してゆくしかないと思います。 では、また 機会があれば

agripapa
質問者

お礼

チャライ系 生きる本質から目を逸らさせてるんだよ ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.20

あと数年で、停年になります。年金生活まで、十年くらい働くつもりです。 ほとんど何も考えずに、生きてきました。 もうすぐ、両親に、お迎えがくるでしょう。 ときどき、夜中に目が覚めます。外に出て、星をながめると、落ち着きます。 今朝も、数分か、十数分の間に、流れ星が数個見えました。 願い事もなく、ぼんやり見ているだけです。 明るくさっと輝いて、すぐ消えるもの。薄暗いけど、長く流れるもの。 みんな個性があります。 浮世とは、憂き世ですね。 今年は、天変地異が激しい年です。何かの前兆なのか? 仕事と、食料の買い出し以外に、外出しません。ごみ出しにいきます。 もう、どこからも、だれからも、お呼びがなくなりました。若いころは、 準備完了、どんな仕事でも、やる覚悟でしたが、必要がなかったようです。 自分と向き合って、自分にしかできない仕事をなし遂げて、静かに余生をおくる。 なにか、忘れ物を、どこかに置いてきたような、心残りがあります。 時間は、たっぷりあります。宿題を、じっくり片付けます。 今年の3月11日に、なにか、覚醒したような気がしました。

agripapa
質問者

お礼

言葉が地に足をつけて生きてるって思いが伝わって来るかのようです。。 ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 本質から愛せない。

    僕は本質から人を愛せません。 付き合った人に対して、彼女はそれで十分なはずなのに、もっと良くしようとしてしまいます。お互い成長しようとかいって、彼女の本質を否定してしまいます。 友達もそうです。相手の弱い部分を正面から否定します。 僕は、そういう部分が相手に見えると、云ってしまうんです。 だけど、云うからには真剣にいいます。 中卒の元カノには高校にいかせました。 友達には資格を取らせました。 僕はいつも上から目線です。 でも云うからには私は努力しているし、過去の自分に負けないように頑張るし、自身があります。ゆりぎのない信念があります。 「私は貴方と出会って変わった。」といいますが、出会って良かったのか悪かったのか? 結局彼女にはもう限界だと云われてふられました。 私はもてます。友達は君のそういう勝ち気で自身に満ちたところに惚れるんだとか云ってきます。また、芸術面で評価され、雑誌によく載ります。 しかし、一年も付き合えば、相手は疲れ、結局お別れです。 今度、好きになりかけた子もそうです。お互い成長しようとかいって、彼女を否定しています。誰も僕を否定しないのに、そうして僕は相手を否定するのでしょうか? 私はこういう性格なんでしょうか? どうやったら治りますか? 原因は恐らく独りでいた時間が長くて、独りで考え、自分を守り、どんどんナルシスト化していったのだと考えます。

  • てぃぴぃぴぃの本質

    米国はモンロー主義で引きこもり中国と対峙できるが日本は米国の支援が不可欠であるという情勢において、日本の権益を米国に譲渡して護ってもらう・護ってやるという駆引きがTPPの背後にあると思います。 ただ、動産や換金可能な権益を譲っても防衛という義務の履行を保証するものではないですからTPPは最悪手になります。 とすれば、核や空母の毎年のレンタルと使用料の支払いこそ良い手と思われます。論理哲学にどうでしょうか?

  • “本質”を見たことはありますか?

    人間生きていれば、多かれ少なかれ、真剣勝負をしなければならない時がありますよね。 皆さんは、真剣勝負で相手の“人間”を見たことはありますか? 僕は、どうやら人よりはカンが強いのか、洞察力があるかは分からないけど、見えてしまうことが多く、つらいです。 そしてそれは、だいたいにして近しい人に多い。

  • これ、本質を突いていると思いますか?

    http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20120508-567-OYT1T00690.html 「就職活動失敗を苦に、自殺」   正社員という名の奴隷になるよりも、死を選んでいるのではないでしょうか? もちろん、早まった行為です。     なぜなら、「戦うことを忘れているからです」(自分の道は、自分で切り開く)   何とか学会に所属する卑怯者よりは、マシですが・・・・・。     ご意見、お待ちしております。

  • 「敬う=下げずむ」は本質的か?

    「敬う=下げずむ」は本質的か?

  • 本質を見抜くには

    これは難しい質問です.ずばり「ものの本質を見抜くにはどうしたらよいか」です. 私は,大学院で情報数学を専攻していますので,勿論自分なりに本質を見抜くということを追求してきたつもりです.ただ,それはノウハウとして体系化されていないですよね.最も,体系化できるのであれば,苦労しないとも思いますが.私が考えるに, 1.わからないことを自分の脳の中で繰り返し反芻すると内容がほどけてきて,本質の発見などに結びついたりする. 2.物事を批判的に見ることにより,駄目な点を洗い出す.これにより本質をつかむためのきっかけが見えてくる. 3.紙に図形的に書いてみて,自分の理解度を試してみる. などでしょうかね.しかし,こう書いてみると当たり前ですね(笑).他に何かあるのであれば,意見をお願いいたします.

  • 彼の本質は…?

    「俺には別れるって選択肢はないよ」 あまりに自身の情報をくれない彼に不安が募り、話し合いをしても変わらない彼に別れを切り出した際返って来た言葉です。 その日はすぐに話し合ってくれ、多忙・連絡不精・一度に色んなことが出来ないことを改めて彼の口から聞き、私も理解したい気持ちがあったのでもう一度彼を信じてみようと思いました。 彼も 「少しずつお互いを理解していこう」 と言ってくれました。 ですがコミュニケーション不足が否めません。 話し合い後も相変わらずめったに連絡は(返信も)来ない、電話に出ない、更にドタキャンが増えました。 やっと会えた彼は疲れて気が立っていて、ある私の行動が「見逃せない」と責められました。 本人は疲れを癒やされたかったそうですが、私は突然責められ困惑でしょげたり泣いてしまい、余計彼を疲れさせてしまいました。 近い内に日を改めて会うことになりましたが彼からまだ連絡が来ません。 彼はどういうつもりなのでしょうか。 彼(32)、私(26)で交際10ヶ月(距離置き2ヶ月)です。 自分なりに歩み寄る努力をして来ましたが手詰まりです。 単にマイペースなだけだなら良いですが…今回の件でマイペースとはちょっと違うのかなと思いました。

  • 大学の本質

    今、工学部の大学に通う大学3年生です。 今まさに就職活動の真っ最中ですが、最近ある悩みがあります。 就職活動で私の所属している某大手企業から来た教授なのですが、その教授に「大手の会社で理系で得する部門ってあるのですか?」と質問したところ「品質管理などは学部で入れるけど研究や開発は院生でないと入れない。経営などは文系も来るから激戦区になるし製造は高専しか取らない。」と言われました。 私は元々大学に入る気は無かったのですが、親が大学の理系に行けば就職で良い所に入れるからという言葉で入りました。しかし、そんな考えで入ったので大学は理系でも2流か3流の大学です。 それだからか知りませんが、先輩の入社した大学を見ると知らない会社ばかり。 今の時代でも人で採用すると言っても、まだ学歴の高い理系が得をするのでしょうか? 先輩の就職の欄を知って私は、今の世の中は理系=就職が良いという時代は遠の昔の話しではないかと思っています。 それならば、田舎で女子の少ない理系の大学より都会の女子と男子の比率が半々の文系の大学に行った方が青春時代を楽しめたのかと後悔しています。

  • 本質と申しましょうか…

    本性と申しましょうか… 様々な形で気づかせて頂けましたとき 当たっておった感覚から ス~ぅッ と 爽やか気分になりますのは 不自然 でございましょうか^^。

  • 本質

    科学とは何の為にあり、何を目的とするものですか?また、最終的に何に到達するのでしょうか?