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なぜ 偽善がこの世に生じてしまうのか?

miko-desiの回答

  • miko-desi
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回答No.12

調べれば調べるほど辻褄が合わない南京大逆説?ですが、 私はアジア旅行中にタイとシンガポールでは綺麗な日本語を話す老人に逢ったことがあり、 日本人が好きといって、日本人というだけでよくして貰ったことがあります。 インドでも現地の英雄はガンジーではなく二人のボース スバス・チャンドラ・ボースhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9とボ ース・ビハーリー・ボースhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9 と日本軍人の藤原岩市さんです。 日本人は昔から日記や手紙をよく書いていたので出版の資料として沢山残っていて 当時の外国人記者も負傷者や難民が戦死したことは認めていますが、 日本軍による大殺戮が行われた事実はないとあります。 子供は「未来表象能力=>未来からの圧力っていいですね」 などが大人より優れているかもしれません。 思考回路には自分で空想や工夫することが情報源になります。 しかし、危機感を植え付けたり、無用な感情論に終始するだけの皮相な情報 で思考が埋め尽くされると、 真理など追いやられ意図的でないのに勝手に思が閉じられるようになります。 好物ばかりを摂取しては病む因子も増します。 体と心に必要なもの、それは多くを必要にもせず、 必ずしも名物とされたり、必要ですよと、仕向けられていないかもしれない。 「善意が勝つべき」は偏見を含んだ発想です。何かと関連つけるのも人の性。 喜んで負けていく善意があったら、だからこそ、 その儚さに美しいという実相を抱いてしまう人のも人の性。 偽善が生まれるのは、大好物(同情や親切であれ)が過剰に定着してしまい、 同類である他の生活者に必要なものまでを脅かすからでもあるんじゃないかと思います。 朝から取り急ぎ、どうしても書きたくて、書きましたのでそっけなく お礼が遅れました。 こちらこそ内容をよく咀嚼してくださり、私こそ刺激を多く頂けました。 ありがとうございます。

iwamahico7
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 藤原岩市さんという軍人は、 当時英国からの独立を願っていたボースたちとインドの民衆の強い味方となるインド軍を創設した人として知られいるようですね。 そうした 外国人からむしろ慕われいた軍人や また国際関係も戦争にもかかわらずあったわけですが、  また そのへんの日本人の日記その他の史料とかは かなり想像できますが、 私が聞いた中国の南京でのお話は、 とても記録など残せるゆとりを失ってしまった日本兵たちの心の内のお話でした。 過去の罪自体、それは未来への肥やしにこそなるべきところ 恨みつらみを出来うる限り 前に向いて建設的に考えるべきが未来の子どもたちのためですし、 まさに兵隊さんたち自身に罪は無いところが大きいのが戦争ですが、 戦争の無い世界も それを願うだけでなく その実態を手に入れる一歩一歩の、未来への前進抜きには意味ありませんよね。 「未来表象能力」 これも 教育者でもあるアランの言葉なのでしょうか? 確かに子どもたちには そのへんの空想や工夫を生かす力の可能性(好奇心などの)が 宿っていると思いますし、 またそれが》情報源となります《というご指摘には深い示唆を感じます。 感性の研究者であり教育者でもあったアランの思想の片鱗なのでしょう。 しかし、今の教育は その好奇心などの芽を摘み取ってしまうところがあります。 そここそは、感性教育や その土台となる実力教育の大改革が今の情報社会でこそ 求められるところ、 さきほどの 情報源のお話ではないのですが、 私は 未来の教育は 子どもたちが世界をむしろ写真などを通して旅をしてその藝術や記録の世界に親しみ、考古学などのフィールドワークのある部分は子どもたち自身が 課題学習で 自ら考えならが開拓しても行く そんな教育の世界、 今からではイメージも難しいような^^な大きな変革が必要と思っています。 そうすれが みずからむしろ大人には無い豊かな情報源ともなり、 好奇心も失われず、 自ら考える力もつき、 すばらしい大人になってゆけるかと思うのです。 学校では歴史という言葉での史料の世界の暗記の世界を学習しますが 実際にもっと大きな人類史の観点、土壌(フィールド)に子どもたち自身が立って、  その上で 自ら歴史の誤りがどこにあったかを 子どもたち自身が考える学習であれば、 南京などの戦争史とかも  未来への創造の力にのみ変えてゆけるでしょう。 》「善意が勝つべき」は偏見を含んだ発想です。《 というところ以下の文は なるほど たぶん、かなりとり急いで、でも》どうしても書きたくて《書いた文という感じはしますが^^、  まさにミコさんらしい、 本質を突いていると思います。 海外を旅しておられるスケールの大きさの中での思索と感じます。 大きなスケールの場ではとくに、 腹芸というか、 善悪を超えた地点も把握しておかないと、  物事の正しい選択の《見通し》が見えてこないときもありますね。 そのへんのところを こちらこそ 刺激を受けるご回答です。 これは、 できれば、未来の子どもたちの教育を 大きく変えてゆきたいとかいうスケールの夢を持っている者にとってはとても参考になるご回答でした。 いよいよ アランを 私も勉強したくなりました。 ありがとうございました。

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