• ベストアンサー

なぜ 偽善がこの世に生じてしまうのか?

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.2

人にとっての価値とは、意志の達成=精神的充足感であり、 生きる目的は、法に従う事でも物を得る事でもなく、精神的 充足量の最大化にあります。 そこにおいて、社会生命化(分業・組織化)において、自己の 生命性が社会的に拡張される上で、それを自覚的に意志化 する(助け合いとしての社会行動=愛による労働)ための 認識的発達を怠り、お金や出世といった“馬車馬の目の前の ニンジン”によって他律的に社会行動を導く方法をとった結果、 その“アメ”と共に、“ムチ=法規やモラル”も発達したのです。 つまり、善悪の概念自体が、人に非自覚的に社会行動をとら せる=生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)とは 無縁な、次善の策であり、必要悪に過ぎません。 その本質的に空虚なデコイにとって、さらに偽善であっても、 何ら問題はありません(元々形骸的なエセ価値なのだから)。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 壮大な実際の社会改革の魂(たましい)を感じます。 》つまり、善悪の概念自体が、人に非自覚的に社会行動をとら せる=生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)とは 無縁な、次善の策であり、必要悪に過ぎません。《 この「善悪の概念」というのは 「道徳としての善悪の内面規範」ということですよね。 するどい端的さを持った文内容だと思います。 つい 自分で考えて道徳の善も 自発的にしていると思い込みがちですが、   まさに》精神的充足《が  相手への当たり前の思いやりを生み相身たがいの気遣いあう社会への《ゆとり》を こころにも宿すということなのですよね。 そうでない場合には、 無理に「何かに従っている」だけなのに  気が付いていない状態だとのご指摘なのですよね。 》精神的充足量の最大化《 これは 常に そこへむかう一歩一歩の過程をも含んだ柔軟な考えが 裏に豊かに思索されていることを連想させるところだと思います。  今 情報化社会が生まれ  分業化されても 適材適所と真の教育機会均等の実現(現在とても実現できてはいない)とで、 真に お客さんの「精神的充足量」までを考えたビジネスは可能になりつつあると 私も考えています。 ただ、 言葉の理解力が足りないからだと思うのですが、 「意志の達成」という言葉の意味あいが 》意志の達成=精神的充足感《 とか  》生きる真の目的である精神的充足(=意志の達成)《 という文脈からだけでは わたしには読み取れませんでしたので そのへんだけ 補足質問させていただきます。 今 きょうはもう時間がなくなりましたが(ワーキングプアーの変則的なネットの使い方ですので)  できるだけはやく、補足質問させていただきますので、 よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

補足質問ですが、 》意志の達成《  というところの意味を教えてください。 「意志の達成=精神的充足感」 というふうには とても思えないような解釈がいろいろ出来てしまうところ、 極端な話が  悪人が権力を達成するにしても そこには意志の強さが必要だったりして、 その闘いを乗り越え、 その権力を達成した時には「精神的充足感」は それなりにありえるかと思えます。 そうしたマイナス面すら想定されてしまいます。 おそらく 助け合いとしての社会を実現する意志が達成される過程にある精神的充足感、ということではあるのでしょうが、 一番解りにくかったところがその「意志の達成」という文でしたので 補足質問させていただきました。 物事を大きな視野から捉えてそれを文章化すると、 当然具体的な面は 説明抜きには 人には解らない文章となるのは しかたがない面だと思います。 こうした御回答文の場合、 もしかしたら 質問者側が さらに質問する熱心さを試されているのかもしれません。 であれば 是非、まず「意志の達成」について その具体的内容の説明をお願いしたいところになるところです。 他にも 抽象的表現と思える言葉はたくさん使われていますね。 大体は 解るところなのですが、そのへんお 一応できましたら説明していただけるとありがたいところです。 「社会生命化」 これは文字通り 「個人の命が他の命との共同作業で 個人個人が幸せになるように働く社会への進化」を 「生命」に例えたものだと解釈できると思われます。 また、その意味合いの端的化として 一つのすぐれた表現力としても解釈できるとことかとおもいます。 がその内容のあたりも (分業・組織化)としか書かれていません。 そこで その内容の説明も欲しくなるところとなります。 その時に 》(分業・組織化《 の「分業」 というのは 生命化してゆく社会全体にとっての必然ということなのでしょうが、 また 適材適所の意味合いのものだと思うのですが、 後者の「組織化」というのは 同じ適材適所でも 教育による可変性もあり かつチームワークも個人プレーも進化してゆく組織のリーダー性が必要といったことでしょうか?( すみません、 私の考えは単純で スポーツとかにかなり価値をおいているもので、ついこうした言葉づかいになります) 次に、 》ムチ=法規やモラル《というところなのですが、  すみません、少し前に お礼文で私が書いた「道徳」という言葉は 又少し ニュアンスのあたりは違う言葉かもしれません。 例えば 愛は 最高道徳としても語られてきましたが、 これは内的規範であると同時に 自然なものとしての愛の醸成をも 道徳の名で尊んできたところがあるかと思うのです。 つまりアメとムチから発達したものではありつつ ズレも すでに庶民の中でよい方向にずれている面もあるところ、と そんなふうにも思えます。 しかし、 それだけでは やはり肝心の最高道徳は 弱いものとなってしまいますよね。 まず自分自身が 最高に充足するところから生まれる 当然他の同じ様に生きている人たちへの尊敬と感謝と気遣いの《ゆとり》パワーが必要となるかと思います。 結局  》人にとっての価値とは、意志の達成=精神的充足感であり、 生きる目的は、法に従う事でも物を得る事でもなく、精神的 充足量の最大化にあります《 という最初の文に戻ってくるところかと思います。  肝心の 精神的充足と=で結ばれた 》意志の達成《 という意味合いに ここにさらなる 何を意味しているのだろう?という強い興味、関心をそそられることになるのですが そのへんがそのあたりを特に 再質問させていただいた理由なのです。 是非とも、よろしくお願いいたします。

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