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”偽善”批判に意味はあるのか

偽善批判に意味はあるのでしょうか。 善意につけ込んだ募金詐欺とかなら分かります。詐欺は悪行ですから。 そうで無い偽善批判に意味はあるのでしょうか。 そもそも、正解の存在しない人間の「心」というものについてどうと語っても、客観性が無く、結局答えはまず出ない気がします。まして凡人は宗教家でも哲学者でもありませんから、心のあり方がどうと言っても一個人の意見でしかありません。。 もっと言うと、私は心自体には善も悪も存在せず、善悪があるのは言動の方だと思っているので、偽善批判の意義が分からないというのがあります。 これは恐らく偽善批判をする人には理解されない思考だと思いますが。 忌憚の無い意見をお願いします。

noname#209715
noname#209715

みんなの回答

  • manmanmann
  • ベストアンサー率12% (535/4296)
回答No.10

偽善であれどうであれ、結果がすべて。そう思います。

noname#209715
質問者

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ありがとうございます。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15359)
回答No.9

 我が社に居た馬鹿から感じた事ですが。  見返りを求める善が当たり前だと思っています。ただし他人には見返りを求めるなという考えも持っています。自分は見返りを求めるから、相手が見返りもないですることは間違い、分からないという考えのようです。それと、良い事をして自分をよく見せようとする傾向が強く、相手が拒否しても押しつけるタイプでした。  私も見返りを求める事もあります。ただし実費分プラス感謝の言葉です。それ以上は自分から求めません。    募金活動とかで自分が犠牲になるという考えは無い人は偽善と自分と違う考えの人を批判するのです。それは分からないからです。  本人は良い事をしたいと思っているけど、手段とかあまり知らないようで。間違った方法とかで良い事をしたと思い込むこともあります。知識不足も多いです。  俺は募金しないからあなたもしないで下さい。私が悪く見えるから。という心理もあります。だから募金させないために色んな意味不明の妨害をします。その為の理由が24時間テレビのギャラがとかにつながってきます。タレントがギャラをもらって、そのお金を募金に回せば良いだけだし、タレント独自でボランティア活動をする費用にもなります。外国のケースを持ち出しますが、彼らは日本人のタレントより遙かに高い金額のギャラをもらいます。無償でしても問題はないし、事務所費用とか気にする必要も無いだろうし。  まぁ、偽善でも善。善の行動をする限り問題はない。文句だけで何もしない事こそ問題。

noname#209715
質問者

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ありがとうございます。

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (740/5646)
回答No.8

意味はあるかも知れないが、私にはわからない。 偽が付こうが付くまいが、善にかわりない。 純粋な善でさへも批判する者は批判する。 気に入らなければ批判するものだ。 まあ、偽善批判は私には目障りな存在ではある。 偽善批判を批判しなければならないのがつらい。

noname#209715
質問者

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ありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.7

>”偽善”批判に意味はあるのか 偽善とは何か?という考察そのものも「偽善批判」とされることがあります。カントの「純粋理性批判」などの例の通りです。そういったものが世にあるかどうか知りませんが、興味があります。なので、これはあってもいいのでは(意味がある)とおもいます。 ここではおそらく偽善批難 の意味で仰っておられるのではと思いますが、これについても考えてみます。ここでは「偽善」は悪いのか?何も悪くはないのではないか?という疑問がこの質問になったように思えます。 ある善行には裏があって、何も実体を伴わない、善行にならず、なした当人の表面的な美化にしかなって居ないというような場合、これは偽善というより詐欺行為、あるいは悪行になることもあるかもしれません(特に彼自身がそれを確信的に認識していた場合ですね)。 しかし、当人が本当にそれを真心からなした場合は偽善とはいえません。もともと悪人であっても、そのときだけは裏がなかったばあいもあるはずですね。質問者様は、傍観者にはそのひとの心が読めないのだから、原理的に批難することが出来ないはずだといわれますが、心があるかどうかはともかくこれは意議がないというのではなく、それに白黒つけるのは不可能だ、ナンセンスだ、無意味だということでしょう。 そうかもしれません。しかし、それが本当に偽善だった場合、それを批難するのは無意味とは言えないと思います。少なくとも確信的に偽善をなした当人の心を反省へ導くための力にはなるでしょう。 こころにもなく、自身を飾るために善行をする、それは純粋な善行ではなく、大部分が利己的商行為です。その行為によって実際社会利益が発生し相手が利益を得たにせよ、その利益のかなりの部分を”善行者の地位向上”のエネルギーとしてペイバックされていくはずです。 しかし、それの量は原理的には当人にしかわからないので、それを批難することによって”善行者”の取り分が減ることはあっても、善行による社会利益が目減りすることはありません。そういう意味でも批難は無意味だといえるわけですが、嘘も死ぬまでつきとおせば真になるといわれるとおり、偽善者が同じ”善行”をやりとおして心を明らかにしないまま死ねば、結局それらは善行になる。そんなことを質問者様が主張しておられるのならそれはいえると思います。 人間の心は他人には見えない。それは真でもあり、そうでもないと思います。少なくともある行動を取るときの意味を当人はしっかり分かって居なければならないし、そうでなければ人間とはいえません。宗教で「偽善」をきびしく戒めているのは当然だと私は思います。

noname#209715
質問者

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ありがとうございます。 >質問者様は、傍観者にはそのひとの心が読めないのだから、原理的に批難することが出来ないはずだといわれますが、心があるかどうかはともかくこれは意議がないというのではなく、それに白黒つけるのは不可能だ、ナンセンスだ、無意味だということでしょう。 分からないから批判することは出来ないとも思いますし、 批判以前に人間の心には答えが無いのだから批判も反省も無いだろうとも思いました。 もう一つは本当捻くれた言い方ですが、偽善批判者の言うことがただの嫌がらせか何かでは無いかと思う事があります。

  • 2012tth
  • ベストアンサー率20% (1889/9435)
回答No.6

50代♂ 何にせよ意味など無い…答えに至る過程に過ぎない 総ては、行動による結果で決まる。それだけ…

noname#209715
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.5

> 偽善批判に意味はあるのでしょうか  意味はあります。だから、偽善批判、「偽善者だ」という批判は消滅しません。  どういう意味があるかと言えば、「そのような行為をしない自分を正当化できる」という意味があります。  例えば難病の人に寄付をしている人Aがいる。BはAの寄付を「偽善だ」と叫ぶ。すると、(寄付したAを悪者にすることによって)寄付をしない自分が正しいことになります。  寄付しないことについて、後ろめたく感じなくて済むようになるわけです。  本心を言えば、寄付を「悪だ」と言いたいのですが、寄付が「善」であることは否定できない(それくらいの判断力はある)ので、「偽善」と評価します。  で、間接的に自分を正当化します(寄付しない自分が正しいのだと自分が納得したいだけ)。  Bが「偽善だ~」と叫ぶと、ほかの人は「Aはどんな善をしたんだろう」と注目してしまいますので、逆効果。寄付しないBにも注目が行きます。  ですから、本来はそんなことを叫ぶ暇があったら、自分はもっと高額寄付をしたり、たくさんの人に寄付をよびかけたりして、Aの寄付を埋没させてしまうのが効果的なのですが、Bにはもともと寄付なんて善行をする気はないのです。  でも、「本当の善行ならするのだが、する力もあるのだが、これは偽善だからしないのだ」と自分を納得させることができます。B本人だけには、おおいに効果アリです。

noname#209715
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.4

仰る通り、どちらの意見も一個人の意見にしかなりませんので、 どうでも良いように思いますな。 偽善者気取りで一見、立派な事を言ってる風でも、その実 単なる自己中でしかない場合も多かったりするわけです。 ここでもそう。 それは見た人が判断するわけで、意見が正しいと思う方が多ければありがとうも多いですが、それが気に入らんと言う人も居るわけです。 2ホーマーもおりますから、中々難しいです。

noname#209715
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.3

偽善=本心からではない、上辺だけの善行 ってことは、偽善者のふりをすることが出来ますね だから「偽善者のふりをした」人の言うことに素直に従えないのが現実ではないでしょうか?

noname#209715
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#209583
noname#209583
回答No.1

意味はある。 偽善でも何もしないヤツよりはマシ。

noname#209715
質問者

お礼

ありがとうございます。

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