• ベストアンサー

善悪と善行悪行とは違う

善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。 善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。 「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • k-5ya8ro
  • ベストアンサー率32% (21/64)
回答No.2

すみません、編集途中で送信してしまいました。 悪意のある善行:鼠小僧(実在人物)の場合  鼠小僧次郎吉が【博打の遊び金欲しさに】商家から盗んだ千両箱を中身の金が重たいので  屋根伝いに逃げる際に中身の小判を(自分の必要分以外を)ばら撒いて逃げた為に  通り道の住民に臨時収入があった。  この場合、住民にとって次郎吉の行為は善行だが、行為の動機は悪意。 善意のある悪行:鼠小僧(講談:フィクション)の場合  鼠小僧次郎吉が【住民に施しを与える為に】商家から千両箱を盗み  屋根伝いに逃げる際に中身の小判をばら撒いて逃げた為に  通り道の住民に臨時収入があった。  この場合、行為自体は悪行だが、動機は善意。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

早速、ご回答いただきまして、ありがとうございました。 なるほど。面白い例示だと思いました。 「善行のばら撒き(施し)行為」と「悪行の窃盗行為」において、 悪意たる「善行のばら撒き(施し)行為」は、盗品軽量化目的の自己保身でもあり、また、気まぐれな弱者救済で不労所得を期待させてしまっては、結果的に逆効果かなと思いました。 また、善意たる「悪行の窃盗行為」は、商家の不当利得糾弾、幕府重臣の場合は、贈収賄糾弾の勧善懲悪的な面も支持されたのでしょうし、手段は悪いが、目的は良いという例なのでしょうね。 しかし、同じばら撒きでも、定額給付金ほど不人気な政策はなく、大義どころか、史上最大の選挙買収という悪意が前面に出ていて、悪意のある善行だと連想しちゃいました。まあ、野党が宣伝してたのは、悪意の面だけで善行だとは言っていませんでしたが・・・。でも、くれるのなら貰っておきますよ。庶民ですから。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (13)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.14

善悪はたくさんある『物差し』の一つですね。 お察しのとおり善悪という二元論で世界を理解することは無理ですね。 物差しが無くても行為そのものは存在しますので善悪の判断は必ずしも必要ではないと思います。 私個人としては善悪という物差しを使わずにその行為が正しいものかどうかを判断する必要があると思います。 但し、正しい=善とはならないように注意しないといけないですね。 人はとかく行為(例えば殺人)に対して善悪をつけたがりますが行為そのものには善悪は無いです。 行為は物理現象ですからそれに善悪をつけるのは地球の公転に対して善悪をつけるのと同じじゃないでしょうか。 だから正しい行為というものはありません。 まずは善悪とは何かという話にけりをつけないと行為の評価方法としての善悪に振り回されることになりますね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 全く賛成です。 善悪判断は恣意的であり、その意味で基本的には独善なのだと思います。 ですから、絶対的、普遍的な善とか悪はなく、素朴な二元論では幼稚だとshift-2007さんも考えておられるし、僕もそう思います。 そして、これにて締め切ります。 皆様、ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.13

A No3です。 確かに私の発想は独善以外の何者でもないと思います。 そして『独善』という言葉すら、『偽善』や『悪行』あるいは 『悪意の在る善行』『善意の在る悪行』と全く同質のものです。 つまり行為者以外の他者からの評価上にしか存在し得ない言葉なのです。 もちろん『俺の行為は独善だけど、あえて~をやるよ』という 使われ方ならばありえますが、これを正確に言い換えるならば 「(一般的に見れば)俺の行為は独善だけれども~」という意味でしか ありません。そこに本人の真意は無いのです。 やりたいことをせよ、というのは常に反社会的行動を取れ という意味では無いです。そういった明らかな社会悪=社会の視線からの悪は、 現代においては法によって断罪されますよね。 つまり「道徳的であれ。」というこの強制命令はすでに道徳ではないのです。 世間や宗教がいくら道徳的であると賛美する行為であっても その効果には意図しないものが介在し、あるいは元の基準があやふやなため "社会を円滑にする"とは真逆の効果をもたらすことがあるのです。 質問者さんは給付金の例を挙げておられますが、この効果についても 私はある足かせ(つまり財源を将来の増税とした点)のみを解消できれば 効果があると考えています。 このあたりを政治学・経済学の範疇になりますので、ここで論ずるつもりは ありません。ただし、私の道徳的基準においては、この給付金も許容の範囲 であり、質問者さんとの基準とは明確に逆の立場であるわけです。 このとき道徳的であれ、という命令は効力を失います。 なぜなら世界には異なる基準が存在するのですから。 その上で。 例えばあなたが電車で席を譲りたくなったならば、周りからいくら 好奇の目で見られ偽善と蔑まれようと、自らの独善を貫くべきであるという意味です。 世には他者を「偽善」「独善」「行為悪」と分類する人が居るかもしれませんが そういった人々に対し、私はなんら恥じ入る必要すらないと考えています。 なぜなら私は独善的なのですから。 題意からかなり離れるかもしれませんが、 せっかく回答いただきましたので政治についてです。 政治家に必要なものこそ、その「独善」です。 議会制民主主義においては、完璧な個人が完全な 善政を敷く必要は実は全くありません。 政治家は「独善」により主張を行う。 有権者はその「独善」の正当性の評価を行い、 有効な政策と判断すればその政治家に投票を行う。 すなわち、政治家は単なる選択肢で良いのです。 昨今、この独善は「政策」と呼ばれます。 もし、完璧な個人であれ、神の地上の代行者たれ。 という漠然とした要望のみを民衆の側が為政者に求めるのであれば、 それはすでに民主主義ですらなく王政以外の何者でもありません。 選挙とは政策・理念に対しての選択であって 個人への全権付託、言い換えれば単なる人気投票であっては ならないのです。過ちを認めて、従来の方針を180°転換させる という必要すらないのです。なぜならば、代わりはいくらでもいるのですから。 誤った指導者に方針を転換を転換させ継続させる必要性は全くありません。 もしあなたが為政者誤りを感じたのならば、従来から反対の主張をしていた 人間に国政を任せれば良いでしょう。 個人の能力に頼らない。それこそが民主主義と考えます。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

再度のご回答、ありがとうございました。 全く反論ありません。 やはり、独善だったのですね。 納得しました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • ishiid1
  • ベストアンサー率0% (0/11)
回答No.12

聖書の中では、まさに人類の最初人間アダムに神が命じられた善悪について書かれています。 *** 聖8‐参 創世記 2:15‐17 *** それからエホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせた。16 また,エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。17 しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。 哲学に関しては、用心すべきものとしてパウロは以下のように書いています。 *** 聖8‐参 コロサイ人への手紙 2:8 *** 気をつけなさい。もしかすると,人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがってキリストにしたがわない哲学やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません。 聖書は哲学を人間の愚かな知恵として扱っていて、本来は宇宙の創造者であり、人間を造られた神が善悪についても基準を設けて判断されることを教えています。 加えて、だれが善い者なのかについて、イエスはこう言われました。 *** 聖8‐参 マルコによる書 10:17‐18 *** [イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。」 聖書によれば、アダム以来行われてきたことですが、善悪の判断基準を人間が決めようと試みること自体が不可能であり、そもそも間違っているようです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>善悪の判断基準を人間が決めようと試みること自体が不可能であり、そもそも間違っているようです。 人は、善悪が分かるから、その積み重ねで、判断基準を一部推定できていると思いますよ。そのような善悪も分からないようでは、おそらく人間失格です。もちろん、善悪を超越したり、判別不可能なこともありますから、何でも判断できるという状況にはありませんけどね。 それと、ここは哲学カテなので、思考停止のすすめは止めてくださいね。 哲学は、カント風に言えば徹底的な「批判」であり、ウィットゲンシュタイン風に言えば徹底的な「探究」です。 哲学妨害は、破壊工作員と同じですから、次回から排除します。 以上、忠告します。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

これこそ、独善的な善意の悪行の例示です。 思考停止(信仰)の推奨は、余計なお世話なのです。 一種の思想テロでしょう。 テロは排除します。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.11

qsxdrfvgyhさんは 《真心の善の世界》と《道徳の善の世界》を 一度 区分したことはありますか? そのようにして “真心とは何か”を明確にしておかないと、実は“道徳の価値の根拠”も不明確となってしまうということを考えたことはありますか? まず、真心とはということを明確にしていってみることが大切と思われ そこから回答を試みてみます。 一般的にも言えることと思いますが、 通常の楽しい体験とか 一方での苦しい体験とかには、  楽しいからそれを他の人にも分かち合いたい という気持ちとか、 こんな苦しいことは誰もがして欲しくないとか同じ苦しんでいる人をなんとか助けたい気持ちに すぐつながるとは言えません。 それどころか その逆の心も生まれてしまう時があります。 楽しいことは独り占めにし、 苦しいことは 人もその苦しみに引きずり込みたいという心、冷たい無慈悲な心を生んでしまうときもあるということです。 はっきり言って そのような苦楽の生み出す心は 差し引きゼロとも言えてしまう世界であり、  真心の地点は 動かなかったりします。 針が動くのは、感動の積み重なりの世界からとも言えます。 あるいは 大人の通常の楽しみには、子供が大自然と触れ合う時のような新鮮な気持ちが失われていて ストレス発散のように時間がむしろ短く感じられるような楽しみの世界であり、  ほんとうに豊かな充実した時間として感じることができなかったりするのですが、  その素朴な子供達の充実した心のような世界も 真心の針を 動かします。 では、ここでかりに真心の針が 差し引きゼロの状態を仮に便宜上設定して  道徳の世界を眺めてみてください。 * すると見えてくるのが 嘘の善?の世界です。 自己の保存とか自己資産の守り、とかともかく自分のためのビジネス上、社交上の信用のためにのみ道徳があるというような そんな心もそこに存在しえることが解かってきます。 秩序を自ら訴えるかもしれません。 しかし それは自らの権威づけのためであるだけかもしれません。 そして権力が確定し安定したら もう小さな秩序の方はどうでもよくなるかもしれません。   法を破っても権力に守られるならば 何をしでかすか解からないような人たちのことです。 権力という小さなそして満たされることのないそれなりの充実に そういう人たちはさらに“しがみつき”ます。 つまり「悪意の在る善行」は積み重ねもするのですが、 真心がないので信用は失わないようなするい仕方にては 悪行はかんたんになされてしまう姿です。 もし 共産主義のように社会全体の秩序を そのような人たちが一手に握ってしまうと、 善が目的だったはずの社会は 簡単にくずれてしまいます。   巨大な悪が その善の革命の結末には待っていたわけです。 粛清は 権力にしがみついたその守りのための行為としての必然だったのでしょう。 この悪意が 結果 善の結果となるような、過程もまた 存在します。 これはたくさん例はあげようと思えばあげられることとおもいます。 しかし、この場合 人間の善の意志という持続反省の世界はそこにともないません。  シャボン玉みたいな善の結果でしかないですし、 悪はそこに別に生まれづ付けます。  悪意が その人の中にあり続ける限りはです。 * また、 道徳の中では、「善意の在る悪行」というものは 本質的には存在しません。 みんながおいしい魚を食べるために握っている常識という名の網を握る手と手の絆こそ 秩序の源泉と考えてください。  その集団的強制力を文書化し法制度化して強力にしたのが法律であり、 その無意識的強制力をより強力に物語るものが道徳です。 他人への思いやりや、配慮心、優しさ、その幸せを祈る気持ちがひとかけらもなくても、 常識を守ることが心身にてなんらか益になれば その人はその範囲での善はします。 しかし、 その逆の 善意はあっても 非常識な行動(みんなから非難される行動)というのは道徳の範疇を越えてしまう善になるかと思うのです。 これは、真心と 知識の深さが時として可能とする行為 これが「善意の在る悪行」です。 非常識を思われ 時にはその迷惑行為によって社会的罰をうけようとも、 それでも これはその人、またはその人たちのためになることだと信じることができる時、その行為は 通常の善よりさらに深い真心をともまうことは充分考えられるところかと思います。 * たしかに 善と悪とは複雑なのが 現代文明の中での必然だと思いますが、  しかし、ここにこそ逆に(シンプルにも)真心の存在がいかに大切かがみえてくるかと思います。 そしてそれ自体は、まさにシンプル・イズ・ベストな状態で いついかなる時代にも 同じように大切なものでありつづけてきたし、 そしておそらくこの今の時代にこそ よりはっきりとそのシンプルな真実を自覚すべき時です。 * では どうしたら、そのシンプルな真実である「真心」を私達は つかむことができるのか? この問題は、ここを充分理解するのでなければ、 何一つ理解していないに等しい問題かもしれませんね。 わたしの考えでは そこを理解した上は、この問題は 大勢の人がじっくり時間をかけて 感性の成熟の問題として 考え抜いていくべき問題だと思うのです。   ゆっくりじっくり 一歩一歩です。 しかして、この問題は 感性、あるいは情ということを抜きにした知の世界にては もはや 袋小路に陥るだけのそういう知性の問題だと私は思っています。 ここでは、 そこから先の私の回答は 一応略しますが、 どうか そのへん今までの西洋哲学が 大きくなぜか見落としてしまった世界?を 一緒に考えて欲しいところなのです。 * qsxdrfvgyhさんは、 お味噌汁は好きですか? 昔 スペインの旅行家が 日本の旅館で心のこもった味噌汁でのおもてなしを受けて それを一口飲んだら 涙が なつかしくてなつかしくて溢れこぼれてきた というお話を聞いたことがあります。 五感のうちの そんな舌の感覚ですら 科学ではやっと 表面のテイストをテストできる基準を捕まえたばかりです。  舌が 深い出汁の味わいをキャッチする時に、時どき存在する 全存在からの充実感とかそのひと時の世界を 科学はまだ少しも実験可能な段階にはたどりついていません。 五感の奥に 無意識を想定するのが、はやってきましたが、 それは普段きづかれない五感自体の深みに すべてが収まってもいるはずの意識なんです。   はるかなる仏界とかいうのも 同じんはずです。 同じ五感の中の奥深い感性の はるかなる地点であるはずです。  それとも仏陀って生物ではなくなってしまったんですかね。 そんなのがオシャカ様なんですかね。 だったらそのまま オシャカなお話ですけどね^^) いったい何故 五感それ自体、感性の世界の探究が こんなに遅れてきてしまったのでしょう? わたしなりのその回答はありますが、  そちらの質問への私からの回答としては、 哲学の歴史へのその疑問の提出を持って回答としておきたいと思いました。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

大変示唆に富んだご回答をいただきました。 ありがとうございます。 多分、真心は神道系で特に大切にされている概念なのでしょうね。 僕は、これまで徹底的に探究する対象として、真心を意識したことが ありませんでしたので、気の利いた返答ができないですし、 「私欲を離れた誠意」くらいのイメージしか思い浮かびません。 真心は、知的な探究をほとんど必要としないくらいに明らかではないかと思われますし、 その重要性は分かっているつもりです。 そして、道徳との厳密な区別が必要だとは思えません。 「善意の在る悪行」が、道徳にはなく、真心にはあるというあたりが いまひとつ理解できていません。 そこは問わずに、「善意の在る悪行」の例示を教えていただきたかったわけです。 趣旨に賛同いただけましたら、投稿してください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

「善意も悪意もない善行、悪行」があるんじゃないの事例について参考まで 「善意も悪意もない悪行」 わき見運転による事故、スイッチを押し間違ったことによる惨事、人ごみで押されて、相手に当たり相手が転落したなど、悪意でも善意でもないのに人命を奪ったり、大事故になったりする結果的「悪行」の事例はたくさんあるわけです。これを総称して単に「不注意」と呼びます。この不注意は単一の事象としては善意も悪意にも分類できません。刑法上も「過失・・」といってますね。 「善意も悪意もない善行」 これは「わらしべ長者」の例ですね。御伽噺ですが、気ままに交換していたら最後は長者になったという話ですがこれなどは「善意も悪意もない善行」に近いんでしょうね。 つまり、単に単一の事象をみても判断できない事例はたくさんあるということですね。原因結果の時系列連鎖を鳥瞰して初めて分類できるという場合もあるということでしょう。 例えば、不注意は其の原因をさかのぼると大体「悪行」に行き着くので悪意はないにしても悪意に分類される場合があるのですね。 酒の飲みすぎによる寝不足、働きすぎによる過労、勉強不足によるものなど、本来してはいけない状況で行うからミスが起きると考えられるからですね。(客観的見方)、一方、人間だから過ちもあるのが普通と考えれば、善でも悪でもない(主観的見方)ともいえますが、繰り返せば「不注意も悪」ですね。飲酒運転による事故は今では不注意ではなく悪意による悪行とされてますね。これなどよい例ですね。 つまり、善意・悪意・善行・悪行は原因結果の連鎖のどの時点(前後)で判断するか、どの範囲(連鎖)で判断するかによって違ってくるものだからでしょう。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど。No.9に関連した回答ですね。 ありがとうございました。 「善意も悪意もない悪行」・・・「不注意」、「過失」に起因する事故 は、そのとおりだと思いました。 そして、 >飲酒運転による事故は今では不注意ではなく悪意による悪行とされてますね。 も、全くそのとおりで、「轢き殺してやろう」という積極的な悪意がないにもかかわらず、結果責任から逆算するように悪意を推定しているようにも思えますが、「善意悪意を問わずに、単に悪行として」ということかもしれません。そのことをmmkyさんは書いたのだと思いました。 「善意も悪意もない善行」・・・「わらしべ長者」 は、ちょっと疑問です。おそらく、相手側のご厚意を善行と考えているのでしょうね。また、「気ままに交換していた」者の方には、お役に立ててくださいという善意があったと思います。 そこで、思いついたのが、経済学で出てくる「外部効果」です。 果樹園を始めたら、養蜂家に喜ばれたというような場合です。 養蜂家を喜ばせようとして果樹園を始めたわけではないですからね。 意図せずに、お役に立てていただけですからね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • sakusya
  • ベストアンサー率18% (6/33)
回答No.9

 理解しているとは思いますが、善悪というものは非常に区別がしにくいものです。とりあえず、俺の思う善悪を区別するうえでの考えを種類別に分けて書いてみました。 1.総意的なものの場合 総意的に善悪を判断できる範囲とは、当事者(善行、悪行を受ける人)にとって、結果利益になっているかどうか位ですが、事実として善行か悪行か捉えるのならば極めて適していると思います。総意的なものである以上、当事者達の恣意的な考えは除外されます。つまり総意的な以上、善行か悪行かは判別できても、善意か悪意かまでは判断できないわけです。そうすると、善行=善意、悪行=悪意と判断せざる負えなくなるわけです。つまり、善意、悪意の是非は結果イコールということになり、「善意ある悪行」、「悪意ある善行」は否定されます。  しかし、この考えでは事実として捉えているのはあくまで善行か悪行かであり、善意か悪意かの判断はできていません。善意、悪意は、なにかを他人にする上で必ずあるので、総意的なもので考えるのは間違っているのでは? と書いているときに思いました。 2.恣意的なものの場合 恣意的なものの場合、当事者たちの考えが重視できます。実際にはもっと複雑な状況はありますが、今回は「行う人」とそれを「受ける人」の二人で書いていきます。  ある人が、とある人に善行を行いました。そして善行を受けた人は助かりましたが、どうもその人のやり方が癪だった。つまり「悪意がある」と判断したのです。この例え話の場合、「悪意がある善行」があることは肯定され、その逆である「善意ある悪行」も肯定されます。  ただ、事実として判断できるのは、お互いに半分ずつです。つまり、善意か悪意を事実として判断できるのは「行った人」で、善行か悪行かを事実として判断できるのは「受けた人」といった具合です。それはつまり事実として捉えることが、お互いに中途半端にしかできていないということでもあるのです。善意か悪意、善行か悪行かを判断することが可能になりましたが、それはあくまで当事者達にとってであり、しかもお互いに片方ずつでしかないのです。 結論を申しますと、「善意ある悪行」、「悪意ある善行」はあると思います。しかし、それは当事者達の事実誤認で生まれるものですが。つまり実際にあるのでしょうが、判断できないので、「当事者達の事実誤認で、是非は判断できる」としか結論を出せませんでした。書いていて、何とも矛盾しているように感じましたが。 あと、これはついでの話ですが、俺は最初の総意的なものの話のとき、「善意、悪意は、なにかを他人にする上で必ずある」と書きました。あれ、例外もあるんじゃないか、とふと思いました。何というか、「善意も悪意もない善行、悪行」があるんじゃないか、と。つまり、善意、悪意を持つ場合、とある事柄を意図的に行わなければなりませんよね? でも、意図しないところで思いがけず誰かを助けたり困らせたりすることもあります。その時、そこに結果(事実)として善行、悪行はあっても、善意、悪意はなかったことになりますよね? まあ、総意的な考えでいうのならば、そこに善意と悪意はあると判断するかもしれませんが。 結局、どっちやねん! てことになるんですが(汗)。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど、なるほど。 きちんと場合分けできていますし、詳細に検討されていて、 大変良い回答だと思いました。 そして、迷いも分かりやすく表現できていますね。 質問欄で例示した単純モデルに収まらない複雑な周辺状況を 表現できていると思いました。 また、実際問題として、善意や悪意が表出していない場合が多く、 結果とか外形から推測しているだけかもしれませんね。 読んでいて、そのように思いました。 そのような面も考慮して、面白い具体的な例示があればと思いました。 よかったら、後でまた投稿してください。それでは。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

mmkyです。この場をおかりして、k-5ya8roさんのご指摘「【私は貝になりたい】は実話じゃなく小説ですよ。」の件、そのように訂正します。 同時に、「例示としては、フィクションでも有効です。」とのQsxdrfvgyhさんの寛大さにお礼申し上げます。 【私は貝になりたい】という気持ちや実際の事例は他にたくさん存在しますが、映画の件はフィクションとして議論の例としてとっていただければ幸いです。 実例としては、例えば、新撰組の人々の処遇、戦時中の多くの事例、ベトナム・ソンミン事件などがありますので【私は貝になりたい】という気持ちをもった兵がいたこと自体はほんとのことです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど。 フィクションではあっても、全くのファンタジーではなく、 ねた、話の種は、そこここに実在していたわけですね。 僕もそう思います。 創作物は、ねたの寄せ集めとちょっとしか加工・修正だったりします。 その脚色次第で、感動の効果が大きくなるでしょうし、 そこは作家の腕として良く評価されるわけですし、 楽しみでもあります。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

イメージし易い例示としては、 アウシュビッツのガス室担当看守(ドイツ人)は、 良き夫であり、二人の男の子の良き父親であり、 かつ、自らも国のために疑いなく尽くしていた ということでしょう。 (ドイツ人戦犯の話をTVでやっていたと記憶してます。) 鬼畜の行為も本人にとっては崇高な思想による善行でなされるということですね。 ・・・そういえば・・・http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407292.html​ を覚えてますか。 qsxdrfvgyhさんが基準を明確にしろと口火を切ってますね。 ごもっともです。 家畜の屍肉を食らいながら、家畜の命の重さを平気で語る逆立ちしたくなるような 自己分裂 も善意の在る悪行なんでしょうかね。 この本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

さらなる投稿、ありがとうございます。 そうですね。 罪無き者など、何処にも居ないということだと思います。 罪とは無関係だと誰もが思いたいにもかかわらず、皆罪びとです。 ご回答いただいた悪行の二例が、「善なる意思」と言えるかどうか、僕には分かりませんが、ただ、独善的であると言えそうではあります。 リンク先の質問の件は、種別の命の比較とか優劣とかは、誰も決定できないでしょうと言いたかったわけです。ですから、絶滅収容所の行為は集団的で独善的な悪行だと思いますし、肉食でも草食でも独善的で罪ありと言わざるを得ないと思うのです。ただ、もしかすると善悪を超越していたり、善悪判断不能なのかも知れず、発言に自信がありません。 bananasandさんに限らず、今後の回答・投稿で教えていただけたらと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

少しだけ、補足します。 >本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。 そうだと思います。 罪びとでありつつ、善行もなしている者でもある。 対存在という以外に、適切な表現が思い付きません。 決して、純然たる「罪びと」だけと思ってはいけないのだと思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.6

おはようございます。 存在、善と悪、善行悪行、等々を考えるとき、論理性で判断する 善悪といわゆる善意、悪意、のような精神性によるものを分けないと 混乱すると思いました。 まず、「存在」ですが、ここでは最大限広く、真の「無」以外を 存在とするならば、善と悪は、どちらも存在の中にあり、 同時に、正しさの基準(方針、理念、戦略、目的等)が その善悪の発生前に(少なくとも発生と同時)「存在」しないと 「善」「悪」にならないですね。 これは、個人の内心とは無関係に基準にてらして論理的に 善悪が審判されるわけです。 「善」であるといったときには、それを「善」たらしめる基準とその対極にある「悪」が原理的に想起されます。善行、悪行もぎりぎりこの基準の範疇で審判して良いのではないでしょうか。 さらには、この正しさの基準が思想、場所、時代、状況変化等々によって多数存在するのだということを付け加えなければならないですね。 一方で、善なる者とか、善意、悪意となると、道徳、倫理等の中であっても精神性の部分が主となり、まさに内心そのものを問題にします。 優しく、慈悲深く、他を生かすような心が善であって、 自己の利益の追求、うしろめたさ、他を殺すような心が悪に なるのでしょうか。内心の何が善であるか否かは、まさに独善です。 その内心が善と感じたことが善であってそれ以外にはなりようもありません。 悪意ある善行、善意ある悪行は、上述の論理的に帰結される善悪並びに善悪を審判する基準が多数存在すること、及び、そこに自他の内心の善悪が絡み合って複雑な様相を呈するということではないでしょうか。 要するに善とは何かを探求するとき、愛とは何か、美とは何かと同じように哲学するなら、善≒愛≒美、悪≒憎≒醜であるかの如き、あるいは、これ以外にはないというような間違いに陥り易いようにも 思いますね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

再投稿、ありがとうございます。 ただ、今回の質問では、「存在」はテーマにしていません。 存在の一部である「対存在」とか「善悪判断可能領域」だけで探究していたつもりでした。 「善悪超越領域」とか「善悪判断不可能領域」とでも名付けるべきもの・ことは、必要最小限なものを除いて、対象外にしていたつもりです。できれば、イメージし易い例示をお願いします。抽象論はできる限り避けたいと思います。 よろしくお願いします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • k-5ya8ro
  • ベストアンサー率32% (21/64)
回答No.5

ひとことだけツッコミ。 【私は貝になりたい】は実話じゃなく小説ですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%9D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84 概要 理髪店を営む一人の男が、戦時中にアメリカ兵捕虜を殺害しようとした罪(実際には怪我をさせただけ)を軍隊から復員した後の裁判で問われ、BC級戦犯として死刑にされるという悲劇を描いた作品。テレビ草創期の時代に制作され、“ドラマのTBS”の礎となった作品として、日本のテレビの歴史に語り継がれている。 ストーリー自体は橋本による創作で、架空の物語である。しかし劇中の主人公の遺書が、元陸軍中尉で自らも戦犯として裁判を受けた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」[1]の遺言内容と酷似していた。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%9D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84
qsxdrfvgyh
質問者

お礼

「本当の話」と書けば、実話と理解されてしまいますから、 架空の話、フィクションであると、はっきりさせておくべきだと 僕も思いますが、例示としては、フィクションでも有効です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 善悪と善行悪行は違う(続き)

    http://qanda.rakuten.ne.jp/qa4598442.html で、後日の投稿をお願いしながら閉じてしまいましたので、 続きとして、開きます。よろしくお願いします。 質問は同じです。 善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。 善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。 「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。 (補足説明)前回、人は善であると言っても、独善なのだという方向に傾きました。そして、善悪の判断は、絶対的でも普遍的でもなく、まったく恣意的なのであるという点を確認できました。ゆえに、善悪は、独善的かつ恣意的な判断基準であることを前提にして、面白く・興味深い例示を教えてください。

  • ”偽善”批判に意味はあるのか

    偽善批判に意味はあるのでしょうか。 善意につけ込んだ募金詐欺とかなら分かります。詐欺は悪行ですから。 そうで無い偽善批判に意味はあるのでしょうか。 そもそも、正解の存在しない人間の「心」というものについてどうと語っても、客観性が無く、結局答えはまず出ない気がします。まして凡人は宗教家でも哲学者でもありませんから、心のあり方がどうと言っても一個人の意見でしかありません。。 もっと言うと、私は心自体には善も悪も存在せず、善悪があるのは言動の方だと思っているので、偽善批判の意義が分からないというのがあります。 これは恐らく偽善批判をする人には理解されない思考だと思いますが。 忌憚の無い意見をお願いします。

  • 人の本性は善か悪か

    授業で「性善説」と「性悪説」というのを習いました。 ◎「性善説」 孟子   人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ ◎「性悪説」 荀子   人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ これを聞いて私は、難しくて一概には言えないけど、 性悪説の方がしっくりくるなと思いました。 人は子供の頃は善悪の分別がつきませんし、 だからこそ残酷なことも平気で出来るわけですが、 成長とともにしっかりとした教育を受けて、分別のある大人に なるのかな?と思いました。 なので性悪説の方を支持するのですが、皆さんはどう思われますか?

  • 善行はなぜストレスがたまるのでしょうか?

    道徳心、倫理に基づいた行動をするとストレスがたまるのはなぜでしょうか?。悪いことをしてはいけない、人に喜ばれることをしない。というのは小学生でも知ってることですが、社会に出れば、思いやりの国と言われている日本でさえ、仁徳を率先して行う人というのはそう多くないです。 法律とは、すべての人間が平等に暮らし、かつその権利を不当な理由で奪われないためのいわば人間としての道理ですが、いくら刑罰をかしたところで破る人は破るし、自らの私利私欲のため、法を掻い潜る人もいます。時には正義、論理を大義名分にしている警察や、国家でさえ、自らの利己心のため、権力を駆使して、国民に圧制を敷いたり、犯罪に手を染めたりする輩が後を絶ちません。まともな政治家というのは、ほんのわずかです。ではなぜこうも法を犯したり、自分のエゴを満たす人間が多いのでしょうか?。善行はすばらしいものだとされているのに・・。なぜ正義は建前でしかないのでしょうか? これは、私の仮説ですが、自由意志と、ストレスのせいだと思います。一つ目の自由意志ですが、人間は進化の過程上、脳が他の生物より飛躍的に発達し、生殖、食事、排便、睡眠以外のことにも興味をむけるようになった。これは皆さんも知っていることだと思います。 今まで人間の自由意志で作り上げてきたものは、音楽、建築、農業、船、車、飛行機、本、宗教、映画、家電、コンピュータ、ロボット、会社、学校、など、これは人が進化の過程で手に入れた素晴らしい贈り物だと思います。 ですが、同時にデメリットもあります。他の生物と違い自由意志を持った人間は、、生殖や、出産に興味を示さず、自分の中の探究心に従って、自然の生態系に外れた行いをしてきました。 それは上に書いたとおりのいい一面ばかりではなく、森林伐採や海水汚染、自然界には存在しない科学物質の流失、資源の大量発掘、魚や鳥などの乱獲、生存に関係のない殺戮、地形規模の民族抗争=戦争など、不の一面をもたらしてきました。こういう悪の一面も、人間が持っている、探究心、知識欲から派生した欲望により発生したものです。こういう負の遺産的な物を生む出すから欲望は悪だとされているのだと思います。 私は人間のエゴは探究心、知識よくから派生して生まれたものだと考えています。 2つめのストレスですが、他の動物や魚にもストレスがありますが、人間含む霊長類は、知能が高いゆえに、痛みや精神的感覚が敏感であり、自分のストレスが思うように発散できないと欲求不満や自慰行為に及んだり、ひどい場合には精神的ショックで死ぬことすらあります。 そして宗教、法によって美しいとされる善行は、自分を責めたり、欲望を抑えたり、相手に分け与えたりといった人間の持つストレスを真っ向から否定し、たたただ苦痛を伴うものです。 価値観の違う人間を受け入れる、他者を愛し尽くす、弱い人を守る、、おいしいものを我慢する、禁欲する、怒りを抑える、こういった仁徳は、善を行うものには何のメリットもなく、幸福を求める人間にとっては、苦痛、ストレス以外の何ものでもありません。 それに人は、周りが幸せになるためには、まず自分が幸せになる、またはしてくれることが前提なので、相手だけ幸せになり、自分は、損する自己犠牲的な行いはできないのです。 多くの人間にとって一番大切なのは、本能に従うわけでも、道徳を守るわけでもなく、ただ自分のストレスを発散させ、自己の欲望を満たすことが前提であり、生殖や善行はその2の次なのです。 人の多いところに集まったりするのも、子孫を多く残すためではなく、ただ自分のためです ここに書いていることは、すべて憶測ですが、世の中のほとんどの人が利己主義、エゴイズムなのに、いまだに宗教や国家、法律などは建前上は正義を語っています。なぜですか?。みんな正義はないと分かっているのに人としての道理を語る必要があるのでしょうか? ※議論を目的としているわけではありません。だれかその分野の知識に優れている方のご意見を聞きたいです

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 善悪論と善人悪人論とは まったく違う。

     善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。  ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。  そのように捌くことができるというおまえさまは いったいなにさまだい。  を問います。賛成票をもどうぞ。  人は 自然本性なる善を基礎として 心のへそ曲がりを 止む無くにしろすすんでにしろ・多かれ少なかれ おこなって来た意志行為とともに自己形成して来ている存在である。時に悪をも引き受けている全体を成す人格としての存在である。  善人と悪人とに いったい誰が分けるのか。  善人なほもて往生をとぐ いわんや悪人をや は揚棄されるべきである。  善人ゆえにだいじょうぶだとか いやいや悪人ゆえにこそすくわれるのだとか そのレッテル貼りから自由に成らざるべからず。

  • 日本の甘い顔が韓国をつけ上がらせた

    16世紀、イタリア・ルネサンス時代の政治思想家マキャベリはこう言っています。「人を率いていくほどの者ならば、常に考慮しておくべきことの一つは、人の恨みは悪行からだけではなく善行からも生まれるということである。心からの善意で為されたことが、しばしば結果としては悪を生み、それによって人の恨みを買うことが少なくないからである」 京城(ソウル)の地下鉄は東京の次に建設された、京城帝国大学は名古屋帝国大学より先に開設されたことを知っていますか。そのように日本は朝鮮統合後多額の資金を投入して学校教育の普及、インフラ整備、植林など環境の整備、日本人と同等の選挙制度、諸悪の根源であった両班、白丁などの身分制度の撤廃などの政策により急速に近代化を進めました。日本の善意が今日韓国の悪意によって報われています。 このように日本の善意に対して、反日に狂奔している現在の韓国の姿はマキャベリが喝破したとおりになりました。これをどう思われますか。また今後このような民族・国家に対して如何に対峙していくべきと思いますか。

  • なぜ、「哲学」を「探究」しようとするのか?

    「探究」の姿勢こそ格好いいと思う風潮って今の世の中にありませんか? より深くを洞察するというか、見えないものを開拓するかのような、 向上心に対しての姿勢を優れているとする傾向に疑問を感じました。 私にとって哲学は「人が豊かになる為に考えさせる」学問だと思います。 そして、これは私たちが「哲学」を考える上での素朴な疑問です。 「科学的に分析する」=「探究」という姿勢、 これは東洋哲学を理解するにそぐわないと考えます。 「木を見て森を見ず」という言葉が日本語にあり、 これは「木」も「森」もどちらも大切でその姿勢を説いています。 私はこうしたことから「哲学」の本質は 世の中の「ありのまま」である真実を見抜くことだと考えています。 しかし、何もかもが全てであるとか、人の見地ではその全ては分からない。 「ありのまま」という立場を受けいれる姿勢が馴染み易いかと思います。 「探究」という言葉に目を向けたとき、 それは人の我欲の表れを示しているように思います。 好んで「探究」という言葉を使う時は、究めたい(よう)とする我欲に陥ります。 人の「心」というものを知ろうとする時、 曇った眼で真実が見えてこないのと同じで、 我欲は人の「正しく考える」知恵を曇らせてしまいます。 確かに西洋哲学には「超越」という境地があります。 しかし、真実というものは「超越」するものではなく、 「そこにあることに正しく目を向ける」ことにあるのではないでしょうか。 自らが見つけた一つ一つの真実、 そこに捉われずにさらに進んだところに目を向けるようにすれば、 私たちはより深くものごとを知ることに繋がると考えています。 日本思想や文化は「侘び寂び」といった「あるがまま」に対する 「ものの憂い」といった精神から育ってきました。 それは私たちが私たちであるというアイデンティティと呼べると思います。 私たちが「想うがまま(侭)=わがまま」にならないことに、 一番に目を向けてきた誇りだと呼べると思うのです。 感覚的に何かを置きっぱなしになっているような気がして、 それが「哲学」を「探究」するという姿勢を不適切に思わせます。 飽くまで「ことば遊び」に過ぎないので、 「探究」という言葉の価値自体を否定する気はないのですが、 この辺りについて、西洋哲学や東洋哲学といった枠を越えて、 ご意見をお待ち申し上げます。

  • 司法書士の問題について

    ネット上で司法書士の問題を見つけましたが (3)番もあっているでしょうか? 私にはよく理解できないもので、、、。 宜しくお願い致します。 詐欺・脅迫 正しいのは、(1)と(2)である。 (1)詐欺によって保証人になった者は、そのことにつき善意の相手方には対抗できないが、脅迫によって保証人になった者は、対抗できる。 (2)詐欺によって保証人になった者は、そのことにつき過失によって知らない相手方には対抗できないが、脅迫によって保証人になった者は、対抗できる (3)詐欺によって保証人になった者は、そのことにつき重過失によって知らない相手方には対抗できないが、脅迫によって保証人になった者は、対抗できる あなたの答え:「○」  ◆◆ 不正解です! ◆◆ 悪意の相手方にのみ、対抗できる。すべて正しい。 脅迫の場合には悪意・善意を問わない。 第三者による詐欺によってなされた意思表示は、相手方がそのことにつき知っているときに限り、取り消すことができるので、過失・重過失においては取り消すことができない。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

食洗機で重曹を使うと削れる?
このQ&Aのポイント
  • 食洗機で重曹を使うとプラスチック部分が削れる可能性がある
  • 重曹は研磨剤のような役割で汚れを削り取る
  • 重曹を使い始めてからこびり付いた汚れの塊も取れるが、経年劣化も考えるべきかもしれない
回答を見る