• 締切済み

なぜ、「哲学」を「探究」しようとするのか?

「探究」の姿勢こそ格好いいと思う風潮って今の世の中にありませんか? より深くを洞察するというか、見えないものを開拓するかのような、 向上心に対しての姿勢を優れているとする傾向に疑問を感じました。 私にとって哲学は「人が豊かになる為に考えさせる」学問だと思います。 そして、これは私たちが「哲学」を考える上での素朴な疑問です。 「科学的に分析する」=「探究」という姿勢、 これは東洋哲学を理解するにそぐわないと考えます。 「木を見て森を見ず」という言葉が日本語にあり、 これは「木」も「森」もどちらも大切でその姿勢を説いています。 私はこうしたことから「哲学」の本質は 世の中の「ありのまま」である真実を見抜くことだと考えています。 しかし、何もかもが全てであるとか、人の見地ではその全ては分からない。 「ありのまま」という立場を受けいれる姿勢が馴染み易いかと思います。 「探究」という言葉に目を向けたとき、 それは人の我欲の表れを示しているように思います。 好んで「探究」という言葉を使う時は、究めたい(よう)とする我欲に陥ります。 人の「心」というものを知ろうとする時、 曇った眼で真実が見えてこないのと同じで、 我欲は人の「正しく考える」知恵を曇らせてしまいます。 確かに西洋哲学には「超越」という境地があります。 しかし、真実というものは「超越」するものではなく、 「そこにあることに正しく目を向ける」ことにあるのではないでしょうか。 自らが見つけた一つ一つの真実、 そこに捉われずにさらに進んだところに目を向けるようにすれば、 私たちはより深くものごとを知ることに繋がると考えています。 日本思想や文化は「侘び寂び」といった「あるがまま」に対する 「ものの憂い」といった精神から育ってきました。 それは私たちが私たちであるというアイデンティティと呼べると思います。 私たちが「想うがまま(侭)=わがまま」にならないことに、 一番に目を向けてきた誇りだと呼べると思うのです。 感覚的に何かを置きっぱなしになっているような気がして、 それが「哲学」を「探究」するという姿勢を不適切に思わせます。 飽くまで「ことば遊び」に過ぎないので、 「探究」という言葉の価値自体を否定する気はないのですが、 この辺りについて、西洋哲学や東洋哲学といった枠を越えて、 ご意見をお待ち申し上げます。

みんなの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

探求について、追伸まで 「進歩と調和」、「自由と平等」、どちらも「矛・盾」しているでしょう。 進歩を推し進めれば調和が崩れ、調和を推し進めれば進歩がなくなる。 「自由と平等」も矛盾してますね。自由を推し進めれば差別が生まれ、平等を推し進めれば不自由になる。大いなる文明実験もありましたね。 自由と平等を別々に追求した自由主義と共産主義のことですね。 振り返って、なぜ人間はこんな矛盾の中に置かれているのかと考えることも哲学ですね。その領域は宗教と呼んでもいいですね。 「進歩と調和」、「自由と平等」という「矛・盾」の常識に「何故」と切り込むことは「探求」と呼んでもいいでしょうね。 「進歩と調和」が実はこの大宇宙を統べる「法則」であることに気づくかもしれません。 平和な状態も戦争の状態も「進歩と調和」の調整の状態であることをね。そういう目で現在のイスラム圏をみるとまた違ってみえますね。 当然、経営も「進歩と調和」の法則から逃げられるものではないようですね。 つまり「探求」はどの分野でもおろそかにしてはいけないんでしょうね。 参考程度に

ganesha_me
質問者

お礼

お礼が遅くなりました。 まず、捕捉において「学問」を「探究」する姿勢は正しいとするご意見、 ありがとうございました。 私もその辺りは納得できてきました。 (特にANo.4のruehasさんの回答が良かった。) 私が知る東洋哲学は、 仏教哲学から来る理論実践にあります。 その為、信仰という要素も必ずしも含むでしょう。 (「あるがまま」というものはそうした全体を) 私の述べる「哲学」を「探究」することの違和感は、 こうしたところにあるように思います。 「信仰」に対し「探究」という言葉を用いるならば、 明らかにこれは人間性の崩壊へと繋がるでしょう。 ちなみに「矛盾」とは「矛」と「盾」が対をなし、 熟語となって成り立つ言葉です。 もし、ここで書かれるように、 「進歩と調和」、「自由と平等」をテーマにするのであれば、 両者を比較することの前提には、それぞれにおいて 文化や社会における「イデオロギー」という存在があることを忘れてはなりません。 私たちは、現代生活において資本的自由主義を営んでいますが、 その実、心は「仏教」や「神道(土地にまつわる民俗信仰)」といった、 世相や風土で生活しています。 毎年お盆に帰省し墓参りをし、 その後、私の知る地域では「お地蔵さん」が開催されます。 正月にはしめ縄をして一年の始まりを祝います。 お子様の名前を付けるのは神社で行い、 また亡くなった方を弔うのは菩提寺です。 ここで語られる日本思想には、資本的自由主義の観点とは、 少し離れた質感があるように思えます。 恐らく本質問において、この辺りが直結の鍵であるように思われます。 (今は私こと若輩故に鍵のままでよいと感じております。 こうした理論は実践に伴ってくるものと考えます。) 以上においては補足で示すように重要です。

ganesha_me
質問者

補足

科学思想を生み出した西洋哲学、 仏教や中華思想から訪れた東洋哲学。 文化レベルにおいて、「哲学」を「探究」しようとする際、 学問として探究は正しい見解だと思います。 しかし、私たちは西田幾多郎先生や九鬼周造先生などにおける、 東洋哲学無くして現代社会は成り立たないと考えています。 理由は現代の中小企業体そのものが 何らか多く東洋哲学の風潮を受けているからです。 (訪れた会社の企業理念などや社訓を見ていると・・) また、私たちの身近にある文化は東洋の遺産であり、 今なお西洋文化の一面は未知とする世相があります。 これはANo.2回答者のadaypajimyさんが云われるところと同じく、 ITを志す者にとっての課題であります。 東洋哲学もまた私たちの身近であるべきでしょう。 さもなくば、いずれ固有の文化は崩壊し、 世界のグローバリズムは破綻します。 ここOKwaveはgooなどとも提携していて、 今や年商5億円という巨大情報サイトになっています。 それ故、私は情報の質を求めています。 しかし、このサイトを拝見して、 哲学というテーマに関わらず上滑りの回答が多いように感じます。 (具体的には、「空」と「無」についての議論など) もしくは論文の直接引用だったりと・・。 逆に例えば、私たちの食に対しての疑問などは ここで溢れるほど、しかもかなり科学解明された 理論的かつ的確な回答が成されています。 飽くまでネットという限られた情報交流の場においてですし、 詳細は図書館にでも通わないと手に入らないとは理解していますが、 このギャップが余りに日本人であることを 疎かにしているのでは?と感じるところです。 ネットの普及率とメディアの姿勢をみていると、 どうも現代における「知識」がひとり歩きし、 世相が知識というものに振り回されているように感じます。 (一人の伝統工芸作家としてもそう思います・・。)

noname#80116
noname#80116
回答No.5

ganesha_meさん お邪魔します。 質問というよりは 答えも分かっているけれど 問いを深く掘り下げることによって 答えをも中味の濃いものにしようと――もしくは 答えさえすでにしっかりしているが 表現の問題として より一層明らかなかたちにしておこうと――されているように思われます。 さすればということで 参加いたします。 Q:【「探究」の姿勢こそ格好いいと思う風潮って今の世の中にありませんか?】 A:意外でした。芸人が知識を競うというような現象のことでしょうか。 Q:【確かに西洋哲学には「超越」という境地があります。/ しかし、真実というものは「超越」するものではなく、/ 「そこにあることに正しく目を向ける」ことにあるのではないでしょうか。】 A:直接の答えではありませんが パスカルを引き合いに出しますと かれは 一つには 合理思考による《探究》を促すと思われる《幾何学の精神》と共に そうではなく 《繊細の精神》をも讃えています。《感覚的に何かを置きっぱなしになっているような気がして・・・》とおっしゃるとき 後者の精神は かすかな(?)見込みはあるようです。 《あるがまま》という表現には 焦点を結ばない何でも有りの広がりがあって 有効に用いるには 難儀しますので これは今 措くとして 《「侘び寂び」》や《もののあはれ》ですが これらをも 後者の《繊細の精神 l'esprit de finesse 》は 言い当てているかとも思えます。少なくとも 相手に対しては 寛大にその可能性を認めてやるべきでしょう。(それか はっきりと批判をしておく)。 あるいは もう一つに 神の〔――つまり おっしゃるところの《超越》の問題ですが――その神の〕幾何学の精神による論理的な証明によりも 《あはれなるものに感ずるこころの神 Dieu sensible au coeur 》というようにも 言っているようです。東洋哲学や日本人のこころに 響くものがあるか・どう響くか分かりませんが どちらをえこひいきしても いけないとは思います。 この議論は 長くなりそうです。 わたくしも 《「探究」という言葉の価値自体を否定する気はな》く 《木も森も見る》のがよいと思うのですが 一つに 探究が 《科学的な分析》という側面にだけ傾き そしてさらに《我欲》によって縛られているとなれば それは 真実を明らかにすることに支障を来たすでしょう。 もう一つに やはり探究には 普遍的な人間であることが重要だというだけではなく それぞれの民族としての存在の側面 つまりまたこれとしての歴史的な《アイデンティティ》に立つわたしであることも 哲学にとって大事だと考えます。 なぜ哲学かと なぜ《探究》かと 二つの主題の間で 身動きが取れなくなってしまいました。またいづれもその一つに絞っても 話しは長くなるようです。中途半端になりますが こんなふうにて。

ganesha_me
質問者

お礼

心中までご察し下さり恐縮です。 ここに来て哲学談義なお蔭で睡眠不足です(笑。 せめて、精一杯の気持ちでお礼を書かせて頂きたいと思いました。 (そして、ここに書き込んで下さった方にも感謝です。) ようやく難しくなっていた気持ちが落ち着きました。 ここで補足を書いたのはbrageloneさんのご回答がなければ、 書かなかったかも知れません。 回答いただいたことに頭が回ってゆけず、私も中途半端になってしまいますが、この回答も間違ってはいないと感じています。 不思議なもので真理とは手にとって届くかのように、 直ぐそこにあるのに全くといって遠く掴めないものだと感じました。 東洋哲学も西洋哲学も、実は同じところ(近いところ)の大切さに 気づいていて、思想と科学を、厳密に分けようとするから、 訳のわからないところで絡まったりするのかも知れません。 これは信仰と思想を分けることも同じかと思いました。

ganesha_me
質問者

補足

brageloneさんありがとうございます。 実は含ませた疑問この質問の作為は、 「哲学」を学ぶ人や「探究」する人にとって、 「日本」の思想を遠回しにし、目を向けない我々日本人に対して、 「日本」とは何かを問いたかったのです。 人は身近なものから普通は学ぶのに、 どうして遠くのものに惹かれ私たちが持っていないものに憧れるのか。 自らが編み出した私たちの文化を誇れない我々の姿勢、 それが自己主張できない日本人像を作ったのではないかと一つの設問を出しました。 できれば率直な感想をいただきたかったので 実は質問文にもお礼文にも、重点だけ残し他は省いていました。 (「そうですね。」と相槌を打ってうっかり安易に同意してしまえば、 主張を持った質問の意味が失われますから・・。) この件について回答下さった方に冷たいと見られたかも知れません。 考える方向性を誘導したのも、 身近なところで日本人ということに意見を求めたかった。 「一体、自分が何であるか?」 時に優れた思想家さえもそのことを忘れ、我見に陥ります。 けれども私見なくして世界を語れないのも現実です。 物事には「理論」と「実践」がつきものです。 それ故、哲学という学問から私は一旦退きました。 日本人の心得に「実践」は伴っているか? さて、ここまで来てようやく入口になります。 brageloneさんの率直な疑問にお答えするには、 私自身の疑問に至るプロセスを紹介する必要があります。 私にとって「実践」とは、 現実の「仕事(ここに文化を守ることも含む)」や「仏教」への帰依にあります。 この一問一答のサイトを訪れたのも、 テレビでOKwaveの社長さんの過去を知ったので、 どれぐらい知恵者がここに居るのかを知りたかったからです。 ここは知識は溢れるほどありますが、どれだけ豊かな知恵が育まれているのか、 インターネットの可能性と日本の伝統を目指す者として、 どうしても気になったのです。 ちなみに私は、伝統やデザイン、日本人といったものをもって、 ITの現場で色々と企画やプランニングを練っています。 また経営も意識する傍ら、今後はこうした理念を 経営哲学へと代えるべく自分を高めて行きたいと考えます。 ここを利用される多くの方々が、 どれぐらい真剣に自分の日本を捉えておられるのか知りたかった。 私の疑問は思ったより深く、 どうしても一言で問えないものでしたからこのような質問になってしまいました。 私は日本のために「哲学」や「探究」を 実践されている方の意見を聞きたかったのですが、 結果として私は「唯識」における「観念」の罠に陥ってしまいました・・。 ある議論で自滅して疑念が晴れました。 理論武装をして気を強く持って挑んだのですが、 策士策に溺れるといいますか・・自滅です。私もまだまだです。 思わぬ方向からの攻めで我城が崩され、 むしろ晴れやかな気持ちにさえなってしまいました。 これでは今のこの質問は意味を成さない。 また「円成実性」の先を見せられたような心境です。 「大乗仏教」の教えの本質を忘れておりました。 実はどうやらこれが私の求めていた「答え」でした。 私よりも遥かに高く志を持っている方から、 課題である「日本人らしさ」を見つけてしまい、 そしてこの質問は「まだ視野の狭い私如きが語るべきではない」 そう感じさせる瞬間でした。 悟りとは一瞬の閃きのようで、いつまでもその境地が続きません。 ・・それ故人はやはりあらゆることを考えるのですが、 私は今後、経営哲学を学ぶことにしばし落ち着きます。 このように愚かではありますが、 質問は残しておきたいと思っています。 これを読まれて何か自分なりの回答をお持ちの方はご記入ください。 補足などがあれば(エポケーが解消され次第)その都度書き込みます。 お付き合い頂いた方には本当に感謝しております。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 哲学を探求するというひとはいないと思いますよ。 「哲学」というのは「物事を探求する」ということです。ですから、探求されなければならないのはその対象となる「物事」であり、別に哲学を探求しているわけではないですよね。但し、哲学を研究することによってその手法を確立したり、また古人や歴史に学ぶということは幾らでもできます。 では、なぜ哲学的な手法を以って物事を探求する必要があるのかといいますならば、それは哲学でなければ解決できない問題があるからですよね。そして、哲学でなければ解決できない問題といいますのは、即ち「思考以外では解決することのできない問題」ということになると思います。 「哲学的な探求」といいますのは事実を基に真理を導き出すということです。 「事実」とは科学的な手法や観測によって成立するものです。ですから、その結果といいますのは我々の思考によって左右されるものではありません。まして、まさか観測事実を曲げてしまうというわけにもゆきませんよね。ですが、それがどうことなのかといった判断は科学では下すことができませんので、これには必ずや「思考という作業」が必要となります。 ならば、今そこにある事実を受け入れ、これに基づいて客観的な考察の成されたものが「真理」であります。では、事実を証明するのは科学でできることですが、「真理」といいますのは思考を行わなければ求めることができません。そして、これを扱うのが哲学ということになります。 良く、哲学とは人の心を扱うものであると考えるひとがいますが、これは間違いだと思います。哲学というのは思考という作業によってありとあらゆるものを対象とする手法であり、思考を研究する学問ではないはずです。 「我々はどうしてそう思うのか」、これはもはや哲学ではなく、現在では脳科学や神経生理学で解明されるべき問題です。そして、この事実に対して判断を下すのが哲学の役割です。では同様に、「人間が我欲的である」というのが科学的、観測的な事実であるとしますならば、哲学はそれを受け入れ、これに対して客観的な判定を下さなければなりません。 思考による判定を下すだけならば結果は主観の数だけ存在します。ですが、これが真理だといって人間の行動や世の中の流れを否定するのが哲学ではないですよね。哲学というのは「主観的な良い悪い」に留まらず、果たして「人類の利益・不利益」を決定するものでもありません。それは飽くまで客観的な考察を以って「無二の真理」を追究するということであります。ならば、そのためにはまず全の事実をその通りに受け入れる必要があります。 では、質問者さんの仰る通り、「目を曇らせてはいけない」「そこにあることに正しく目を向ける」というのは、「そこにあるものを客観的な事実として受け入れる」ということになると思います。事実を事実として受け入れ、一切の主観が許されないということでありますならば、辿り着ける場所は唯一、真理しかありません。ですから、洋の東西を問わず、これは誰がやっても同じ結果になるはずです。

ganesha_me
質問者

お礼

こんばんは 私も学問は探究するものではないと思います。 「哲学」がはっきり「物事を探求する」ことにあると示された点において、 ここでの骨子を的確に捉えています。 西洋哲学の問題点は実証理論における知識に埋没してしまう癖にあると 考えているのですが、我々が身近にあるべき東洋哲学でどのように考察するか。 その辺りの意見もいただきたかった。 私は「唯識」は人の思考を研究する学問だと考えています。 科学とは、少し異なる分析の仕方が東洋哲学における重点だと考えています。 ともあれ深い洞察や世界に触れさせていただけたことに感謝しております。 私は頭の回転が早い方ではありませんので、 より素早くずっと鋭く先を見据えた方々が、 答えて下さると幸いです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「哲学」の本質は「進歩と調和」の狭間で、時代に即した「正しい道、心のあり方」を模索することなのですね。「ありのまま」という立場を受けいれる姿勢は「調和」をあらわすことでしょうが、これだけでは他の一面の進歩という動きを調整することができないのですね。「調和」は「老荘思想」で代表され「進歩」はニュートンから始まる科学万能思想で代表されるものですね。どちらも形の違いはあれ幸福の追求でしょ。どちららも間違いではないが、それをどのように調整するのか、あるいはどの状態であれ幸福とは何かを明示する必要があるわけですね。 太公望はあるがままの世界で毎日、えさもつけずに釣り糸をたれています。絵にはなりますね。それは絵でしかないと山を切り崩しマンションを建て、新しい環境を作っている人々もいます。例えば、明治維新はこの狭間にゆれた時代ですね。黒船は容赦なく迫ってくる、さあ太公望よどうするですね。あなたならどうしたでしょう。太公望のままで土地を奪われ、釣りもできなくなってどう生きるのでしょう。それが中国でしたね。その時代に太公望をすて進歩を受け入れ果敢に挑戦したものもいました。過去と未来の狭間でどう判断するか、その判断がまた未来を決めていくのですね。このときの判断を提示すべきものが哲学と呼ばれるものですね。単なる言葉遊びではありませんね。その判断基準によっては歴史的、民族的に大きな幸福も不幸も招くこともあるのですね。 参考程度に

ganesha_me
質問者

お礼

まず、安易に「遊び」という言葉を用いたことお詫び致します。 哲学を「単なる言葉遊び」と考えたことはありませんので、 誤解を招いたのであればご容赦下さい。 「哲学」が人の生み出した学問である以上、 「進歩と調和」の狭間で揺れ動く。 その模索こそが人という幸福に繋がっているのだと分かりました。 ここで問われた表現について、 私は国民として「文化」を守ることに命を尽くします。 その覚悟の程をもって自らの道を判断をするでしょう。 民族的にとかは私の意識の渦中のことです。 (但し、上記のような二者択一の場合ですが・・)

回答No.2

ギリシャからはじまった哲学がなぜ西欧で発展したのかというと、日本と異なり島国に囲まれて防衛しやすい土地柄ではなく、異民族どうし敵との争いが耐えなかった西欧人は普遍的な価値観を共有する必要に迫られたからです。西洋哲学史を編纂したヘーゲルは東洋思想をドクサ(憶見)にまみれているので「哲学」に分類しませんでしたが、その時代には言葉で定義できないものだったからでしょう。(ヘーゲルも日本思想という位置づけで済ましたことは、西洋至上主義という先入観によってドクサを見抜けなかった哲学者と言えるのかもしれませんが←こういう部分を質問者さんは哲学が胡散臭く感じる所以でしょうが、これは西洋哲学のほんの一面に過ぎません)ヘーゲルの誤ちを検証して考え探求するのが後世を生きる現代人の義務ではないでしょうか。 アイデンティティという言葉を使用していらっしゃいますが、現代がグローバルな時代だからこそ、アイデンティティの独自性を、他者と比較して考える哲学がいま非常に重要なのだと思います。探求なくして、日本思想は素晴らしい!じゃ、お話になりません。あるがままの思想さえ大切にすればいい!!という保守主義では、発展性がありません。現代を相手にできません。言葉によって探求し続けなければなりません、これは思想による手続きでは、単なる思い込みになってしまいますから、哲学的に言葉で考えるしかないと思うのです。(自国の文化を学ぶことや精神世界などを否定しているわけではありません)(ちなみに科学は検証と研究のことで、哲学はより広がりのある抽象的な考察です)

ganesha_me
質問者

お礼

風土論について、ひとつ訂正があります。 ギリシアがポリスという城壁都市を築いたことで豊かな文化思想が発展した、 この辺りは間違っていません。 しかし、ローマ帝政の辺りからキリスト教が国教となり、 ユダヤの民による絶対主義的な砂漠思想が 西欧において自由な思想を奪ったと解釈しております。 ヘーゲルの誤ちは近代にまで引き継がれています。 未だに現存する古いヨーロッパの哲学者は現代思想に そぐわない考えを持ち出してきます。 私はそれが東洋思想より優れているように一般で誤解されるのが、 まるで日本人としての誇りを汚されている気がして、 ひとつ云わなければならないと思いました。 グローバルな視点に立った時、 私たちのアイデンティティは揺れ動いています。 世界各地で一部の文化や伝統が失われつつあることも考えられます。 独自性と全体性、どちらをも残して行ける道をITは歩むべきです。 言葉で考えるのは実践の一部として、 何かの方法で人に伝えなければ失われます。 何かを伝える姿勢が大事とする回答者のご意見、 共感できるところがあり参考になりました。

noname#40981
noname#40981
回答No.1

時の流れの中で 浮き沈みする葉っぱのように 人の想いが回帰するところは故郷

ganesha_me
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人の心得はふるさとという拠り所に起因するものと考えます。 また、それも時代の移ろう中での小さなものかも知れません。 しかし、私は木の葉の浮かぶ間の「人」である時間、 探究し実践したいと考えます。

関連するQ&A

  • 東洋哲学ってどんな感じ?

     大学に行ったら哲学を勉強したいです。それで、最近東洋哲学に興味を持ち始めました。でも、東洋哲学って、西洋哲学のようにみんなで論議しあったり真実を追究しようとかそんな感じではない気がするんです。もっと宗教的な感じで、悟りを開くみたいな感じ。だから現状を打破しようとか、積極的なな考え方が生まれてこないような気がするんです。東洋哲学において、議論や思索はできるんですか?あと、ユングとかが東洋哲学に注目してたらしいけど、どうしてなのですか?

  • 西洋哲学>東洋哲学(東アジア、中国など)ではない?

    私が思うのは、西洋哲学や宗教>東洋(東アジア、中国など)哲学や宗教という式を考えた人をしらなくて、欧米至上主義の人が実際勝手に式を作ったらダメかと思ってます。 東洋(東アジア、中国など)の関係性の社会では、関係を破たんさせる人は遠ざけたり、淘汰したりするかと思います。 まだぴんときたりするものかと思いますけど、こういう感覚は東洋哲学からのものかと思ってます。 個を最大にとか、コネってきたないっていいますけど、現在関係が希薄化していて、つながりなど言葉があったりもしますけど、西洋哲学、宗教>東洋哲学、宗教でもなくて、実際そうとは言えないよう思えます。 実践されないのは大きな人口などだからとかで、哲学宗教など考え出されたもの自体が西洋に負けているとか思えないのですけど、どうなのでしょうか?

  • 哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

    哲学することでは、悟りの世界には到達できないか? 言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。 非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。 西洋で生まれた哲学。 東洋で生まれた瞑想、禅 アプローチの違う二つ。 哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか? 主張とその理由を述べてください。  

  • 「森を見て、木を見ない。」

    西洋近代の要素還元論の在り方を譬えまして、 「木を見て森を見ない」という表現が過去にはよく使われていましたので、 其処から伝統的な東洋哲学の在り方を類推しますと、 「森を見て木を見ない」という譬え言葉が当て嵌まりそうにも思われます。 然し乍ら、東洋思想の分野には、 「天人合一」なる用語もが存在しております故に、 認識主体さえもが森の中へ没入していくべきだ、と言われていますので、 『「森を見」てもいないのではあるまいか』と思われます。 従いまして、確認の為に、此処で質問をさせて頂きます。 『自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は、 果たして既に可能になっているのでしょうか?』 御忙しい中への御邪魔を致しますが、何卒宜しく御願い申し上げます。

  • 東洋と西洋の違いについて

     哲学で東洋と西洋では地理的にどこでわけたらいいんでしょうか?  また、世界で初めて東洋、西洋といった人は誰で、いつ、どの書籍で言って いるのでしょうか?  最後に東洋と西洋の哲学は自然の接し方で違っているといわれていますが、 どう違うのですか?  わかる人は教えて下さい。

  • 哲学の目的は何ですか?

    哲学というとなにやら難しいイメージがあります。 そもそも哲学というのはどういう学問で、その目的とは何でしょうか? 人は何のために生きるのかとか、どう生きるべきかなどと探るのが哲学でしょうか? それとも自分が存在する理由を見つけ出すのが目的なのでしょうか? 何かの真実を見つけ出すものでしょうか? 宗教との決定的な違いは何でしょうか? 哲学は、科学的なものですか? 物理学などの思考実験との違いは何でしょうか? 哲学者は、統合された哲学ともいうべき「究極の哲学」を目指しているのでしょうか? それとも宗教の宗派の違いのように、全く別々の流派に分かれているのでしょうか? また宗教って楽しい学問ですか? 初心者にもわかりやすい入門書などあれば教えてください。 ちなみに哲学というと西洋のイメージが強いですが、日本の歴史のなかで哲学と呼ばれるものをはじめた人はだれでしょうか? いろいろ質問してすみません。哲学について何でもいいですから教えてください。 よろしくお願いします。

  • 哲学の意義について作文しました添削してください

    哲学を志す方々は存知かと思いますが、書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が自分で独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法で仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事です。 なぜなら自らの信仰心からしか神に言葉を伝えることはできないからであり、人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 だからこそ信仰を問うことが、日本人として自らの考えを正す姿勢と言えます。 そのように哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いが出てくるのですが、それは同一であり、知性とは神を問うことにみにあります。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • 真理の探究とは近代の命題であり、仏教にはない

    真理の探究とは近代の命題であり、仏教にはない 溶け出す活火山。 男のマグマ攻撃。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 さ~て、宗教や哲学の研究目的を真理の探究に据えている人は多い。 仏教研究科さえ同じだ。 それ、勘違いだよ。 西洋から渡来した考えであり、仏教の目標には含まれない。 無の境地とは現代語で臨死体験であり、禅宗の座禅は仏教の経典が編纂されたシャカ入滅後500年を経過した時期の命題である「空」を「無」より重視している。 座禅で到達する瞑想状態とは、過去のそうして座禅を組んだ僧侶たちとの、自我を超越した一体感であり、交霊術だ。 自己以外の記憶に触れる「追想」と言っていいだろう。 西洋からの神学が渡来する前は、それで十分だったのさ。 ところでその、「追想」で獲得する「悟り」は、要するに真理の概念が適用しないなら、書き換えてもいいということになる。 過去記憶を霊的手法で追想する交霊術だからね。 僧侶の免許とはそうして継承されていくことで「絶対」の概念も当てはまらない。 真理に関して言っておこうか、木々のざわめきに触れ「万物流転」「森羅万象」これを感じるとき、日本人はすべて受け入れた。 西洋人は疑い抜き納得しなかった。 そこで発展したのが自然科学だが、科学万能教の神官たちは、自然に疑いでなく真摯な好奇心を向ける人々によって切り開かれたのだろう。 思考において、疑うという構えでは成果が出ないことを心得たまえ。 科学神官は西洋でもごく一部の優れた人々であっただろう。 そうして、新たに神となる役職が誕生した。 こういうやつだ↓ http://y-watch.info/book/uso.html このポストは、人類の退化を未然に予防するために、応急処置で、かなりいい加減に、大幅な手抜きで、神に昇華した。 信奉者は宇宙人の存在を祈るほどに信じる人々だ。 この神様とも、西洋人は交霊術を行っているらしい。 アメリカ人の神は現代では宇宙人だ。 さて何が質問かというと、宗教的儀式は大体こんなもんだと、了解できたことを書き出してくれ。 ここは学問カテゴリーで、研究の助けになる回答募集だが、同時にこの場所は、男磨きの闘技場 オカマバー クラブヴァルハラという哲学を面白くするための涙ぐましい努力の一環としてショープレイする場所だ。 イロモノ回答大歓迎。 アニキなツンデレでお迎えしよう。 通常は危険を冒さなければ楽しめないオカマ相手の痴話げんかが気軽に楽しめる自由特区だ。

  • 哲学の意義について作文しました。添削してください

    前回はコレ↓ http://okwave.jp/qa/q7711979.html どのくらい読みやすくなったか評価して助言してください。 わたしは普段簡潔かつ断定的に短い文章で考えを述べてこそ、そも明白さが知性の表れなのだと考えて実践してきました。 このように言葉を膨らませて柔らかくする事は不慣れです。 どちらかと言うと国語的な質問ですがよろしくお願いします。 書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する個人的見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。神と個人の関わりの限りでは哲学であり、広く、神と人とのかかわりであればそれは宗教である。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法でありながら日本人としての信仰の風土を尊重し、仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事だ。 なぜなら自らの信仰心からしか神に問いかける事はできないからであり、それこそが人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 そのように信仰を問うことが哲学の前提であり、日本人として自らの考えを正すために西洋から哲学を学ぶとすると、自らの信仰を明らかにする必要がある。 哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いがおのずから出てくるのだが、それは同一であり、哲学の起源から知性とは神を問うことに生かされ神の発見が人間知性の起源ではないかと類推します。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • 西洋心理学とは

    こんばんは、私は、西洋心理学と東洋哲学の研究者のもとで学んだ者たちが、自主的に活動しているボランテァグループに所属しています。体、心、社会、仕事をベストにするために学びあっていますが、このグループの先生は、多くの人を幸せにした実績をもっているとのことです。その先生の体から出るエネルギーで、歩けなかった人が歩けるようになるわけですが、その先生が研究している。西洋心理学、東洋哲学とは、どのようなものかわかりますか