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なぜ 偽善がこの世に生じてしまうのか?

noname#154561の回答

noname#154561
noname#154561
回答No.7

こんにちは。 善か悪かという見方は「誰にとって?」という視点抜きには 意味を成しませんよね。 誰かの利益(精神的充足も)に与するものは、その人には 感謝してもらえますが、その人にとっては善、ということでしか ありません。 利害が対立する者、例えば感謝している人の敵から見れば 当然敵が喜ぶ行為は、悪としてマイナス感情の対象になり得る。 小さなスケールでの善悪は単純に立場の問題に集約されます。 善意が一人二人の少数に対して行われている間、その動機は 概ね余り深く考えられずに単純な好意として短絡的に行われます。 だから、善意、はあくまでも自分の利益を主な目的とするので なくて、誰かを幸せにしたい、誰かの役に立ちたいという、 素直な心情に対しての言葉です。 文字通り、善の意、です。 純粋な善意、というものは無思慮と表裏一体で心の中に ぽっ、と顕れます。 その段階では偽善が生じる余地は一見無いように思えます。 腹黒い人が偽善的な思考をすれば、その時点で純粋な善意に なりえないからです。 現実には、多くの人と善悪の観念が全く相容れない異質な 倫理観念を持つ、いわゆるサイコパスが存在するため 彼らが思うところの善意、というものは時に危険な倒錯を含み ますので、ここでは除外します。 「善意=人の痛みを感じ、人の苦しみを取り除こうと思う心」、 その基本が壊れてしまいますから。 さて、一度善意が行為となると、それは「善行か否か」という 別な評価を受けることになります。 良かれと思ってしたことが裏目に出る、という短絡的な行動で 無思慮な判断が相手にとって害になった、ということもあります。 善意は心の中の純粋な形では、その存在は証明できません。 言葉や表情から良心的であることを伺うことは出来ますが、 具体的に善意を他人が知るには、善行を通じて、或いは善意の 発言を聞いて善意と受け取るしかありません。 ですから、「善行」に対して誰かがそれを善意によるものと 解釈出来ない!と判断した場合、偽善という指摘が生まれます。 ただし、単なるコンピュータソフトが善悪など感じないように、 理性的な思考には、偽善を指摘するという「感情的な拒否感」は ありません。 純粋な論理的な考えは、その行いが、それを取り巻く世界で どのような意味と価値を持つのかを数値化し、計算し、動きとして 捉えるだけだからです。 様々なパラメータが変化する限り、 論理的な思考の結果も柔らかく変化することになります。 「偽善」とは「善悪」という「快・不快の超拡大解釈」の中で 一見理性的な批判・否定として振舞われるのですが、根本的に 感情的な快感と不快感の二極に他人の行いを分類することに 他なりません。 なので、他人の意見に耳を傾けることも、沈思黙考することも なく、どうしても独善的で断定的なものになってしまいます。 善行は基本的に利益を受ける者との対話によって行為の内容を 決めるものではなく、利益を与えようとする者の一方的な考えで 行われるものです。 それゆえ、一方的です。 それが時々独善的な無思慮の善意となり、裏目に出ることに なるわけです。 感情の発露であり、短絡的で無思慮、一方的で独善的。 単純に理屈だけで考えていくと、偽善と指弾する心と、善意は 正反対の心情でありながら共通する点をいくつも持っている事に 気づきます。 他人の善行を偽善と指弾する人の多くは、非常に苛烈です。 徹底的に相手の人格を否定せずにはいられない。 そこには、自分と同じように様々な人生を重ねて築かれた 自分以外の人格を、冷静に深く理解しようとする思慮は無く、 相手を、決して自分と並び立たない水と油のように拒絶する心理 ・・・盲目的な敵愾心、恐らくは心の底に滓のようによどむ、 自分についての自信のなさ、自分が取るに足りない存在だと 感じさせられてしまうことへの強い恐怖・・・存在不安に根ざす ヒステリー心理が強く伺えます。 偽善、という言葉が意味するものは否定であり倒置です。 ありていに言えば、他人への無償の善意と言いながら、 自らに利する下心が動機だと決め付けることに他なりません。 皆、騙されるな!そいつは社会に有益な価値ある人間じゃない! 私は今は手探りで、存在感を示せずにいるが、少なくとも 自分はそいつなんかと違って真実という絶対的な価値がある 人間だと、確信しているんだ! などと言葉で書けば痛々しい限りですが、当たらずとも遠からずに 思える人を沢山目にします。 例えば、乙女の恋心は美しいものですが、恋敵を窮地に陥らせる 未必の故意を隠した善意ならば、それは恋の戦いに属するものです。 彼女達にとっては時に弱肉強食の生存競争となる恋愛の一部で しかありません。 でも、女性心理に懐疑的な人の目には偽善的に映るでしょう。 彼女達が闘うとき、善悪や偽善という観念は単なる武器に 過ぎない場合があります。 恋愛を成就させるためなら恋敵を人間的に潰してしまうことさえ 厭わない・・・生物としてはごく普通の生存活動の一環とも 言えるのです。 各々の人が、自分の価値観や行動原理に従って行う行為が 完全無欠の利他行為であることは、実は考え難いのです。 何故なら、利他行為を善とするポリシーを守る、という自分だけで 完結している価値観に従った行動だからです。 それが善であるのか悪であるのか、すべきなのかせざるべきかは シェークスピアならずとも煩悶の中の自問自答に閉じ込められて 容易に答えはでないでしょう。 つまり、誰かに自身の偽善の有無を問い詰められた時に 「純粋な善意」を誰に対しても完全に証明し得るかについては 極めて困難だと言わざるを得ないのです。 (無論、人の価値観ばかりを追いかけていても善悪の判断は 付きませんが) 他者の利益を純粋に願って為される善行も、その行為だけを 取り出してみれば誰かにとっての悪行となりうる。 ゴミを拾っただけでも、ゴミ拾いを生業にしているホームレスから すれば、ショバを荒らされたことにもなるわけです。 「善」の反意は「悪」であり、行為をなそうとする心情そのものは 明快な二極化に分類し得るでしょうから、純粋な善意というものは 当然存在します。 しかし、それは行為にならない限りは社会では 不可視の虚像とも言えてしまう。 しかし、行為そのものの是非を問うた場合は、先に述べたように 視点を変えれば姿を変える、立体的に社会の中に存在する、 実像として評価の対象になります。 所で、それを「悪」とする対立する他者がとても沢山いたならば 特定の個人なり団体という少数にのみ利する善意は反社会的な 行為となりうるケースも当然起きてきます。 癒着や賄賂、いじめや暴力も、極めて少ない特定の個人・集団に とっては善とされますが、当然社会的には罪悪とされます。 例えば、暴力団組織においてはヘタを打った組員がエンコを 詰められたりコンクリ詰めにされて海に投棄されるのは、 彼らの組織利益を守るためなので「当然」とされます。 すなわち、善悪を規定するための利と害、それ自体が様々な 綱引きや条件付き交渉、妥協やネゴシエーションの産物なので 非常に流動的に変化するものになってしまいます。 これをスケールアップして考えるにつれて、本質的に異なる 疑問が浮かび上がってきます。 ●その善行が少数の人々に害となり、多数の人々の利益に 寄与する場合はどうか?(例えば成田空港の土地問題) ●逆に、その善行が多数の人々に害となり、少数の人々の 利益になる場合はどうか。(例えばタバコ販売) ●長期的な理想や展望に従って、現実的な害悪を将来的な 投資、と考えて進められる政治的行動はどうか。 (ダム・道路の公共事業投資問題から果ては戦争まで) 偽善、という言葉を常識範囲を超えて考えれば、善として 民衆に認知されるように仕向けられ、民主主義という多数派 システムで目的を達成するために周到に用意された様々な 戦術の一つに過ぎない、という解釈が成り立ちます。 冒頭で述べましたが偽善だと批判したい気持ちは、純粋な 「善意」と同じく極めてプライベートな感情です。 独善的で一方的で短絡的で無思慮だから。 他者の善行が自分の存在を脅かすように錯覚するのは、 自分の中で自分が「善」ではない、という根深い不安感、 自分が偽善的であるという自覚から生まれます。 それが時には、自死を選ぶような絶望として心を満たす ことも、理解出来ないことではありません。 その意味で、自分が苦しい人は、誰かを偽善者と批判せずに いられないのです。 しかし、もう一方で悲惨な境遇にある人に同情し、 人の尊厳を踏みにじる理不尽な暴力に憤慨して、 つまり昔風に言えば義に感じて行動する検察官の情熱も この「独善的で一方的で短絡的で無思慮」な正義感から 発露するものでもあります。 決して人間賛歌をするつもりではなかったのですが、 状況を観察しながら次々に答えを変えていく機械的な 「純粋論理思考」だけでは人間の動機になりえない。 その意味で、偽善と思う心もまた、諸刃の剣として 自分を、他人を動かしていく動機の元となるものだ、と 野良猫は思慮しているところなのです。 動機は意思の源となるものです。 偽善、というキーワードは、人のアイデンティティに 深く根付いているかのようです。 ごめんなさい。 指が止まらなくて・・・。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 フレキシブルな 指が止まらないほどのスピード思考^^、    その通り としかいいよう無いですし^^、 このような人が政治家になってくれたら、という感想だけにしておきます^^。 私は 政党政治には反対です。 政党政治でなくても すぐれたスピードと 相手の長所を すばやく読み取り 議論をリードしてしまう議長が  豊かな結論をすばやく引き出しつづけてゆければ、  そういうい議長がいれば、  そのネット民主会議政治は けして衆愚政治にはならないと思えているからです。 私は 彼方のように頭は早くないですが^^、 もしこれが間違いないなら 彼方が是非いつか その議長になってください。 キーワードは  偽善を包みこむだけでなく 人を認める 人を知る、 そして尊敬できているか。 というあたりですね。 最高です! ありがとうございました。 勇気付けられます。

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