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無の境地に至る簡単な方法を教わりました、科学的?

negigiの回答

  • negigi
  • ベストアンサー率60% (86/142)
回答No.5

やっぱり勘違いしてますね。 あなたがぶっちゃけたので私もぶっちゃけますが、「あなた、私の回答読んで(理解して)ないでしょ?」 「無の境地」はあなたが使ったから、便宜上、私も使ったまでで、別に「hogehoge」でも「tanasin」でも「あっちょんぶりけ」でもいいんですよ。要するに「無の境地」=「感じて忘れるという極限の速さの繰り返しを行う事によって達せられる感覚」について、主観でなく「客観的な(定量的、定性的な)データ」を示してくれないと、回答のしようがない、って言ってるんです。 別にあなたの質問に答えるにやぶさかではないんです。適当にそれっぽい回答を「でっちあげる」事は出来るんですよ。「α波が出てる」だとか、「脳を酷使することで、感覚をつかさどる神経が疲弊している」だとか、「特徴的な脳への刺激によって、脳内にエンドルフィンだとかドパミンだとかが分泌されている」とか。 上の内容で、「それが科学的根拠なんですね」って言われる前に、もう一度、端的に言っておきますね。 「知らんがな。データ出せ、データ」

oryaaaaa
質問者

補足

試してみればいいでしょう。ともかく私の友人らは全員2時間程度で、この境地にたやすく到達した。守護霊の存在が未来だというなら、未来の技術ということになる。だけど現代科学で既に証明されている状態かもしれない。 その線を聞いてるのに? なぜ非科学的根拠を振り回すのですか? 私にとって、その、あなたの関心事が大変不思議です。 それでは平行線のままですね。 だれか脳の研究をしている第一人者に直接、手紙を送って聞いてみます。 私は無知なので、「データ出せ」というぐらいなら一人ぐらい知っていると 思って聞いてみます。

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