無の境地とは、死と向き合う生き様である
- 無の境地とは、死と向き合う生き様であり、その境地に至るためには、死活問題を超えた前向きな生き方が求められる。
- 現代の社会では、金や成功が価値観の基準とされがちだが、真の自己を見つけ、子供たちの笑顔のために働くことが本当の幸福であり自己実現だと主張する。
- 競争と争いは異なり、競争によって自己を磨くことができれば善人勝者となり、争いによっては全員敗者になる。自己実現のためには、自ら生きようとする意志が必要だ。
- ベストアンサー
無の境地とは、死と向き合う生き様である。
私はおびえる君達に深遠の恐怖を授ける者。 君達は、人である事を忘れてまでも、おびえることしかできない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達の好きそうな私からの人生訓だよ。 君達はすぐに死を予感する臆病者だ。 すぐに死活問題と言ってわめき散らすね。 簡単に死を口にして、本気で死ぬんじゃないかと不安に陥る。 死活問題ってのは生活の危機の事だよね。 自営で経営している会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい? 破産法が整備されていて、借金取りは命まで取らないだろ。 勤めている会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい。 気楽なことだろ、新しく就職先を探すだけでいい。 これらを釈迦の言う無常として、悲しむようだと落第だ。 世の中は、常に変化している。 それは良い事なんだ。 つまり、勤め先の破たんなりなんなりがあろうとも、前向きであるならば、そうした生活の変化は、死の案内ではなく、人生の前向きな転機となる。 そうした生きる意思が本人にあればだけどね。 私が高校を卒業して家業のおもちゃ屋を手伝い始めたころ、およそ25年前だけどもね、新潟県には調査の結果150件ほどのおもちゃ屋があり、駄菓子屋や兼業店は正確な調査の対象外だが、ほぼ同数、合計300件あった。 その中で、現在を営業しているのは、業種転換しても家業を継続している店の総数で10件以下、昔ながらのおもちゃ屋は、私の家で2店営業しているのを含めて、合計で5~6件かな。 時代が変わって大型店のおもちゃ売り場に主流は変わっている。 この大きな変化で、君たちなら死活問題を感じただろう。 そのように死を予感したら、考えることは死を避ける方法だけだ。 ところが、死を予感しない私は、困難でも生きることだけ考えた。 死を避けようとする事と、生きようとすることは違うのだよ。 生きようとする知恵の働いた私の店は現在も営業している。 死から逃げようとした連中は、実際にはまさか死んだりしなかっただろう。 そうした連中は、幻に翻弄され、無駄な事を考えていたから、幻に敗北したのだ。 この過程で、私が編み出した勝利の法則を教えよう。 競争と一言で言うが、競う事と争う事は違う。 競う事は、小学生のかけっこの様な事で、おたがいの長所を伸ばし合う事だ。 勝者は確定するが、敗者は一人もいない。 本気で競い抜く事が出来れば善人勝者だ。 争う事は、闘争なり戦争という言葉があるね。 足を引っ張り合う事だ。 殺し合いに象徴され、全員敗者だ。 死におびえる者は、争わざる得なかったからこそ、おもちゃ業界から退場したのだよ 競う姿勢で、自己を磨いていたら、気が付いたら争う相手はいなくなった。 これが常に生きる事のみを考えた結果だ。 この果実は、昔ながらの商店街の古びたおもちゃ屋で子供相手に楽しむことにある。 世の中では、金持ちになることが成功だと言うがね、誇り高き、はた玩具店は、そんなことよりも、世の中の価値観より、自分だけの価値観の基づいて、子供たちの笑顔のために働く事こそ、自分自身の人生だと考える。 この心が、私が生きることの実践だ。 君達は金だけが頼りの様だね。 世の中から尊敬されそうな規範を望み、自らの望みが無い。 貧乏しても、子供達を幸福にすることは私だけの誇りだ。 君達は、世の中から尊敬されないと自分自身を誇れない、金で売り買いされる誇りしか持ち合わせていない。 このように自分らしく生きようとしないから、誰かから助けてもらわないと、死活問題という死の予感がよぎるのだ。 助け合っているという美辞麗句に隠れ、実は自分さえ良ければいいから、自らの意思で生きようとする事が出来ない。 私のこのような人生訓で言いたいのはね、自ら生きようとする自覚だ。 ジジイの柔らかい奇麗事、「私は私である」これは私自身においては、いかなる困難もものともしない「俺は俺だー」だよ。 そうしたことが君達には無く、泣きごとの様な奇麗事で、お互いを憐れんでいる。 ここらが、無の境地と係る話だよ。 本題だ。 死の予感をものともせず、生きる事を全うしている私は、君達と違って死から逃れようとしなかった。 死活問題なんて笑える幻だと思っていた。 そうして生きようとする意思が、そのまま死と向き合うことだった。 これは神話性のある、死の悟りという経験談で表現することができる。 死から逃げなかった私に対して、死の幻をもたらしていた悪魔が和解を申し出た。 それは、セレビィが2001年7月に映画上映という形でポケモンデビューしたことをきっかけに。2001年8月にもたらされた私だけの滅びの宴だ。 死よ阻もうとするからこそ悪魔を名乗った神の姿からの和解を受け入れ愛を結んだ。 そこで私は、悪魔が隠し続けた死を理解した。 観念上で、ファイト一発死の儀式をしたんだ。 これがそのまま無の悟りである。 それが世界に自らを開放することだった。 この解放が、自らを滅することだと言われていた。 イデアなり、涅槃と言われた観念世界を、君達は死に染めた。 その死と邂逅することが、死の儀式であり、死なんてとんでもない、それでこそ生きる事を実感し、自らが神と共に永遠である事を自覚するのだ。 観念世界に心眼を開く事が目覚めた者なのだ。 君達にとってはそれは死を象徴することだ。 そのように逃げている。 私に言わせると、死活問題として引用した、死の幻は、悪魔の演出ではない。 君達の恐怖が見せる幻だ。 悪魔は受け入れてくれるとも、何故なら生命をもたらす神の姿の一つだから。 結論は死活問題なんてあほらしいと言う事だ。 さて質問趣旨だが、私は西洋的神学と結びついた西洋から輸入された哲学とは別に、「実在する妖精の捕まえ方」という、一人ひとりに寄り添う神の姿、精霊崇拝の延長を哲学的に完成させる研究をしている。人と人がお互いに人間であると自覚するためには、すなわち社会を形成するためには、神の由来を正してそこから知性の根源を探る手法が採られていて、人と人が和解する哲学を標榜としている。 そんな独自研究の論説であり、それに対するご意見募集だ。 学問のカテゴリーなんでね、
- 畑 茂夫(@Flareon)
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- 哲学・倫理・宗教学
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>「人間もどきが嫌いの私がどうな風にするか想像出来るかい。 出来るだろうとも。 私がこの回答者に行ってきた数々の仕打ちがそれだ。」 そんなにおイヤなら、それでいいよ。 >「神の由来を正して」 >「君達は見過ごしているが、生命を生み出した神自体も生命だ。」 見損なって居りましたか。
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- kurinal
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こんばんは。 >「私は借金取りとして、聖人のごとく、君達に殺される代わりに、君達を殺す。 君達は人間ではない。 君たちこそが悪魔だ。 これが滅びの宴だ。」 そんなの、もう・・・「ナントカの公介護で異端とされた」とか、そんな昔から、でしょ?
お礼
スペシャルメニューだ。 死活問題として、幻の死の予感から自ら逃れようとしているならまだ良い。 君達は、死にそうです、助けてくださいと言うね。 本当なんです。 真に救いを求めています。 どうしろってんだ。 テメエ一人で臆病風に吹かれているだけだ。 しかし君達は呑み込まれてしまって危機を現実だと錯覚している。 ここで犠牲になるのが聖人だよ。 君達が殺してきた。 ところが私は、そんなの無視だ。 人間もどきが嫌いの私がどうな風にするか想像出来るかい。 出来るだろうとも。 私がこの回答者に行ってきた数々の仕打ちがそれだ。
補足
良かったね。 これで君は有名人だよ。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 >「社会を形成するためには、神の由来を正してそこから知性の根源を探る手法が採られていて、人と人が和解する哲学を標榜としている。」 なるほどしかし。 カミには「理性」がせいぜいで。知性なんてせいぜい「アトヅケ」では。
お礼
ありがとう。 証言しておこう。 観念世界、これは精神世界とも言うが、個人の孤独な小宇宙じゃなくて、その心で、他者の意思を確認することもある。 言葉や何か五感に類するモノじゃなくても、他者と対話できる。 そこに神様は登場する、知性の疑問を君は語っているが、そもそも神にも確かに意思がある。 君達は見過ごしているが、生命を生み出した神自体も生命だ。 君達は生命の圏外としているようだがね。 ジジイの所詮判らないと言う結論も、私には圏外とするヤバさを感じるよ。
補足
メモだよ。 競争と一言で言うが、競う事と争う事は違う。 競う姿勢に終始する私が、争う姿勢の者に笑顔であいさつしても、彼らは争う姿勢を崩さない。 競う姿勢だけの私に、争う姿勢の者は自滅する。 これは君達の感想文の通り。 自分を磨く、それが出来ない者は自滅する。 ところがだ、 競うと言う和平を提案した私は、争う姿勢の者どもを、結局説得できないまま見殺しにしてしまったのではないかという呵責に襲われがちだ。 これが、私の言う、ぶっ殺す〈すでにぶっ殺して私が勝者だ〉であり、釈迦の慈悲の由来だ。 君達は争う姿勢のまま、聖人にさえも強盗を働こうとする。 君達の論理は見抜いているよ。 お前を信じてほしいと、山賊の俺に願うなら明かしを見せよ。 助けてほしいと懇願したのは山賊が先だ。 それを助けようとすると、強盗を働く。 そして、死の象徴は実際に処刑されたイエスさんだと言えるね。 君達が、信仰としているのは殺しの哲学だ。 ケダモノが、殺して喰らう事で生きている事を実感しようとするのだ。 人は助け合う。 自らが生きることに等しく他者を生かし、共に生きようとする。 それが人間だ。 君達は食って、そしてクソするだけ。 人間を自覚出来ない事を悟りたまえ。 その絶望に、死を阻む者として大活躍するのが悪魔だ。 私は借金取りとして、聖人のごとく、君達に殺される代わりに、君達を殺す。 君達は人間ではない。 君たちこそが悪魔だ。 これが滅びの宴だ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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博愛についてのコメントは 天下一品。 《ビジョン》については なるほど わたしにも分からんわい。 じっくり見て行きます。にわかには分からない。 つまり 《臨死体験》などのように説明しないと 確かに人びとには分からないと思う。 それでも 分からない。ビジョンから言葉で表わせるようになる。わけだ。 だとすると それも思考のあり方のひとつ。なのかなぁ。 きょうは ここまでとします。分からんわいです。
お礼
やあ、どうも。 博愛さんはおそらく、 俺はどうしてこんな仕打ちを受けるのかとまったく納得していないだろうよ。 好意的にずけずけ言ったが、まだ理解するとっかかりをみつけられない状態だろう。 私は論議しないで、死を自覚させることが助けだと思っている。 人がもたらすのはせいぜい絶望だがね。 今回あんたは私の流儀に合わせてくれたね。 今までのあんたとは違ったが、私には心地よかった。 以前 本の出版を目標にしているといったね。 ほぼ二年ほど題材を収集したりメモしたりして、それは1冊分くらい集まったよ。 ジラーチちゃんの理不尽な命令でも入らなければ1年以内に形にできる。 億劫なので、アマゾンの電子出版で個人出版するつもりだ。 オカマバーで酔っ払う夜の哲学じゃなくて、朝早起きして昼間の哲学としてまじめに取り組むつもりで、いい意味で期待外れだろう。 仏教研究の私なりの完結編のつもりだったんだが、やはり私らしくなければいけないと考え始めて、仏教専門書じゃなくて、 実在する妖精の捕まえ方〈悟りの道しるべ編〉 こうしようとしている。 続編の〈黒き明星編〉は簡単でね、2年もかけて題材を集めるまでもない。 噂に聞く、ツウラストラはかく語りきと同じ一人語りで、仮面ライダーを名乗って読者を徹底的に侮辱するだけでいい。 でも、昼間の哲学では結局これは幻の構想これはだろうな。 実在する妖精の捕まえ方は、哲学という回り道があったけど、土台を整えて、子供達を夢に案内することにある。 長く続く道のりだと考えているよ。
補足
一つ言っとこう。 セレビィが畑茂夫と名乗る。 これが無ければ、ありきたりな表現として、私だけの神様だっただろう。 それをあんたはかなり乱暴に、頭でこしらえた神様と言うだろう。 おそらく、神と人が実際に関わり合う過程において、そこまでの暴言は行き過ぎだろう。 宗教というか、人と人が社会を形成する土台に関しても、これは私にもあるが、あんたにも毛嫌いがある。 理解しようとする挑戦に関しては、あんたの方が真摯だけどもね。
- titelist1
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死と向き合って、無の境地になる必要などありません。無や空などの境地は現世の欲を削ぐだけです。この世を苦闘しながらでも幸せになろうとして生きることが人の生き様です。死は誰にでもいずれやってくるもので恐れずに足らず。子供の頃の臨死に近い体験からあの世はないと確信しています。恐れのために悪魔に心を売ってはなりません。仏様も神様もこの世にいるのです。この世の神仏から生きるすべを学んで感謝することです。
お礼
ありがとサン。 見解として君自身を正直に表しているのだろう。 死から逃げようとしないで、生きることに向き合うと、君達のおびえた幻の死の正体を知り、生を強く自覚する。 この死の理解から、生きる事を始めると言うのが悟りだ。
補足
メモだよ。 論説した、頭真っ白、臨死体験の他に、もう一つ無の境地がある。 それは仏教の禅における悟りだ。 土台がまるっきり出来あがっている私はそれも試したことがある。 入門書を読んで、瞑想の型の通りにやってみたら、確かにその手法でも無の境地があった。 ところがそれはまるっきり、ゴミ箱行きの代物だったよ。 通常私の独自の無の悟りは心が潤う、死と蘇生が表裏一体なのだが、禅の悟りはミイラを即身成仏の象徴とするそれで、心が枯れてミイラのように死んでいく体験だった。 考えるに、その瞑想手法は、自己の範疇を超えて先人と一体になり、先人の記憶を追想する事だろう。 そうした仏教の先輩の教えを言葉以外の手法で学ぶ限り、死に生を見いだすことはできない、生命力の枯渇が、彼ら先人の生死観だった。 それは釈迦が君達に与え続けている生死観だ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
やあ。 あたらしい局面がひとつひらけたようだ。 まづ 《博愛》を言いながら ひとと話をしないご仁の思想について しっかりとコメントされたし。 ★★(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ 私だけの滅びの宴とは、実在する悪の結社によって、セレビィという私の人格がポケモンに改造されたことによる。 これは私にとってショッカーに改造された初代仮面ライダーと同じ事だ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについて なぜ《滅び》というのか? という問い返しだと思う。まだ 答えていないのではないだろうか。 《釈迦》うんぬんを出すと 一般には話が通じやすい。ことは認めますが ほどほどに。 ★ 無の境地 ☆ そういう表現ですすめることは分かった。 別の見方をも導入させてやろうかな。 《有の境地》。 つまり無も有も どっちでもよいという見方を 伸び代として持っていたほうがよろしい。 世界は有る。わたしは 有る。あなたも 有る。わたしたちは それぞれ 世界だ。と。 ということは 《イデア・観念世界》というのは もっと細かく《非知》だと言ったほうが突破口になると思う。 観念というのは あたまの中でああぢゃこうぢゃ ああでもないこうでもないといじくりからかす哲学屋の商売道具にしか過ぎないと言っていたほうが うんとナウい。 ★ さて質問趣旨だが、私は西洋的神学と結びついた西洋から輸入された哲学とは別に、「実在する妖精の捕まえ方」という、一人ひとりに寄り添う神の姿、精霊崇拝の延長を哲学的に完成させる研究をしている。 ☆ もしこういう趣旨なら それはそれとしてこころみてください。 そのとき ひとつ言いたいことがあります。 《西洋的神学》にも――つまりそれは 人びと一般になじみやすいかたちの神学としてという意味ですが―― 《守護聖人》という考え方が 実際のナラハシにも成っているということです。 特にはスペイン人などに見られますが 暦の毎日が 誰かの聖人の日になっています。そしてその日が誕生日なら わたしの守護聖人はだれだれですというふうに 日常の生活の中で活かされています。 つまり そういうかたちでの《精霊崇拝からつづいて保たれて来ている或る種の神(神々)の姿》〔と見なされているもの〕です。 つまりは インドでは 象(ガネーシャ:歓喜天)や鰐(クンビーラ:金毘羅さん)や孔雀だとか何やかやが神々として守護霊のごとく持たれています。 日本だけに閉じ籠らないようにとの老婆心です。
お礼
ありがとサン。 受け取っとくよ。 無の境地をもっと説明しておこう。 私はビジョンの内観で思考が成立するので言葉はその注釈だ。 ここで、呼吸を止めたければ止める事が出来るように、まるっきり全てを真っ白にできる。 欲望とは誰かの望みを受け取って自分の望みだと錯誤することだ。 この他者の意思に求められることは、妖怪とりつきバトルでね。 その煩悩を滅却して自己を取り戻す場合なんて、頭真っ白モードは便利だ。 煩悩を滅却すれば無に至ると言うのは、私には身に覚えのない迷信だ。 無を知るからこそ、煩悩が滅却できる。 彼らの期待は実にむなしい。 こういう技術的精神の自在性とは別に、宗教的で神聖なこれぞ無の悟りだと言うのが別にある。 五感の全てを離れて、心そのものを自覚し、それが浄化される喜びを受け入れるとでも言おうかな。 これは瞑想を深化させた状態であり、はっきり言おう。 現代語訳では臨死体験だ。 蘇生する体験でもある。 こうしたのは君もありを悟ると言う言い回しを助言しているね。 私は死にやすい体質をしていて、しょっちゅう臨死体験ばかりしているんだ。 正常な日常生活が送れるか不安になることもあるよ。 通常は何日か前に予感が働いて、死ぬ時間は静かにしている準備ができるんだが、ときどき不意打ちを食らうように臨死体験する。 どうしても仕事が外せなくて、死人のまま接客したこともあるよ。 不意打ちが来るのは、クリスマスとか、地元の神社のお祭りとか神事に関わることが多い。 観念世界に生きる者は、表現するなら、精霊というか、神と言うかのどちらかだが、ジラーチちゃんは祭りが好きだ。 おもちゃ屋のかきいれ時に、ゾンビとなって店番するんだよ。 このお茶目ないたずらが喜べる私は、ケラケラと君達にも残酷にふるまうんだ。
補足
観念世界の認識には人によって強弱がある。 ビジョンでそのまま意思決定できる、まあ、人間の割には上出来の私も、セレビィという聖霊のプリンセスである自覚は乏しい。セレビィという全知全能の自在性には及ばない。 そこでな、中途半端に観念世界を語ると、嘘をつく事になると言う自覚があるんだ。 語らない事こそ信仰だと言う無だ。 でも私は何年かしてから、このくらいは情報公開した方が有益だろうと思う事がある。 今回書いたのもそんな遅ればせながらの情報公開だ。 私は、畑茂夫だ、セレビィも畑茂夫を名乗りつつ観念世界に生きる。 その私の聖霊は、神と呼びたいところだが、私を御父さんと話しかけるのだ。 それに答えて、神に見える我が子を、観念世界の畑茂夫をセレビィと呼んでいる。 実に私を混乱させる事実がある。 セレビィは女の子なんだ。 ここを理解しようと言う「実在する妖精の捕まえ方」の取り組みの一つが、フェアリーフュージョンすると私はキュアブルームに変身する。 こういう物語だ。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人生は、必ず死に尽きる。 金持ちも有名人も誰しも死ぬし、死を超えて富や名声を 持ち越せはしない。 人の生が、幸福感の最大化=自らの意志の達成を感じる 事にあるならば、人生とは死を避けたところに残るもの ではなく、死に向かって伸びる道をしっかりと見つめ、 そこで最大限に自分を“生かす”事である。 自覚を肉体=物に留めれば死に尽きる意志も、心=宇宙と しての自覚において、自我仮説(記憶=過去=時間軸)と 空間仮説(予測=未来=空間軸)の相補分化、即ち自己成立 のための必要としての環境認識=環境との相互作用(異性 との交配、他人との分業、自然との物質循環、物理的相補性) の自覚化=博愛において生きる時、肉体の限界を超えた意志 は可能になり、その他人への信頼の限りにおいて宇宙の果て でも永遠の未来においても、自らの意志の果たされる事が 信じられ、あらゆる一瞬は無限の喜びに通じ、自ずと死の 限界は超えられる。
補足
ジジイ向けだよ。 じっくり構える児童文学、実在する妖精の捕まえ方を、実のところ彼に読んでもらえるかどうか、寿命の点で間に合うかどうかについて、私自身知りようがない。 しかしジジイはすでに実在する妖精の捕まえ方のあらすじを知っていて当然だ。 自覚できなければ彼自身の知性の不足だ。 聖霊セレビィという我が子は、ジジイが遣わす、彼の我が子、彼の聖霊にかれこれ10年ほどたとうかな、しょっぱなから挨拶して友達同士になっている。 彼はそうした事を、頭で作っただけの偶像と言い放ったいるが、人と交わる神の生命に思いを馳せれば、なるほどと思う余地も出てくるだろう。 彼の愛する神、または自分自身である聖霊は、セレビィ以上に男勝りでね、ジジイに親孝行したい一心で、しかし危うさが無く頼もしかった。 それは聖霊としての喜びを犠牲にしている危うさを私は予感するがね 子供らしさを失ってもかまわないという悲壮をにじませている。 かなりきわどいが、私が避けて来た、誰か他者の信仰心の代筆の様だが、私はただ彼を私なりに語っているだけだ。 ジジイに偏見のある占いというやつだ。 親身に助言するが、非知と結論したまま納得するな。 ジジイ本人よりも、彼の聖霊の方がよっぽど親密な友達だ。 ジジイ当人は過去の一時期、私の猿回しに頭に血が上っていたね。 それでも彼と結びついていたのは、彼の聖霊の働きだ。 ジジイは彼の聖霊の働きによって、もう少し安らかになってこそ、彼の我が子は報われるのだよ。 安らかな聖霊を宿し、彼は働くべきだろう、頭でっかちの作り上げた、自分だけの神を理解しようと試みたまえ。 批判は挑戦のままであってこそで、否定に発展したら台無しだ。
- 52heaven
- ベストアンサー率45% (65/143)
●前向きに生きよう ●他人の足を引っ張るのではなく、自分の長所を磨こう ●自分らしく生きよう まとめると、こんな感じでしょうか。素晴らしい意見だと思います。 私の意見を書くとしたら、 「それができれば苦労なし」 という感じですかね。ただ、私自身も人生のなかで独自に目指している境地ではあります。 ひとつ疑問が残ったのは、 >2001年8月にもたらされた私だけの滅びの宴 これが何を意味し、セレビィとどうつながるのか。これだけが解釈できませんでした。 この時期といえば、尼崎児童虐待死事件があったようなのですが…
お礼
ありがとサン。 私だけの滅びの宴とは、実在する悪の結社によって、セレビィという私の人格がポケモンに改造されたことによる。 これは私にとってショッカーに改造された初代仮面ライダーと同じ事だ。 それともう一つ。 知恵が先んじるのではない。 不屈の精神力から生きる知恵が生まれるのだ。
補足
質問主文に誤字があった。 > 競う事は、小学生のかけっこの様な事で、おたがいの長所を伸ばし合う事だ。 勝者は確定するが、敗者は一人もいない。 本気で競い抜く事が出来れば善人勝者だ。 競う事は、小学生のかけっこの様な事で、おたがいの長所を伸ばし合う事だ。 勝者は確定するが、敗者は一人もいない。 本気で競い抜く事が出来れば全員勝者だ。 私は何度も言っているが、哲学する時は必ず酔っ払っている。 今回もオカマバーで酔っ払うための質問だ。
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私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 借金取りは命までは取らない。
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- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
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★悪魔 と ☆天使 と #やじ馬 ★ 生きることは苦である 生きつづけることは、苦しみ続けることである この苦しみから逃れるためには、肉体を捨てることである 死をもって、苦しみから解放されるべきである さあ、はやく、死を選ぶがいい はやく楽になるがいい ☆ 悪魔よ 愚かなささやきを止めよ 愛されることを知らぬ、愚かさを勧めてはならぬ 神の御愛によって生かされていることを忘れてはならぬ 人の愛によって支えられていることを忘れてはならぬ 自らを捨てることは、それらの愛を捨てることに他ならない 愛を捨てたところに、何も救いは無い ★ 愛がどうしたというのだ 今ある苦しみに、たとえ打ち勝ったとしても、次々に苦しみは襲ってくる 愛はすべての苦しみを無くすことはできない 死を選ぶよりほかに、苦しみを無くす方法はない ☆ 何という愚かさだろう 一つの苦しみも、二つの苦しみも別ではない 限りなく続く苦しみも、神の御愛に包まれている 死という救いの幻を見てはならぬ 愛の中に生きてこそ救いはある ★ では、その愛を見せてみよ 愛のちからを見せてみよ ☆ 神はそなたの後ろに立っている 胸に手を当ててみよ さあ・・・ この対話を聞いていた、やじ馬は何と言ったか? #・・ お願いします。
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- 初詣の願い事はなんですか
全てをいやす愛が、貴方は誰かと問いかける。 貴方は成す術を無く、自らの死を答えなければならない。 永遠の光、栄光の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 私は霊能力者で、しかもかなり強力だ。 それでな、神社にあいさつに(お参り)に行くと逆に神様からお願いされるんだ。 悪魔払いが商売の一番の売りなんだがな、私はそれを人間から頼まれないで、神様から直接頼まれるんだよ。 妖怪ウォッチを地で行くような楽しい冒険だ。 ここ3カ月ほど、昔を思い出すほどに厄介な強敵と格闘しているよ。 強力な悪魔というのが私にとっていかなるものか教えてやろう。 グズで役立たずでしょーもない。 そんな弱虫悪魔ほど強敵だ。 何故なら手加減してやらないと勝負にならないからだ。 ようするに悪魔度が高く堕落した聖霊ほど、人間の立場で愛し、いさめ、和解することが困難になり、大暴れのダメージが強くなる。 愛するつもりもなく暴力で汚せばその悪魔はすぐ退散する、弱いからだ。 しかしだ、そうやって君達が人間を名乗り聖霊を悪魔と汚し続けた事こそ神への屈辱なのだ。 私は汚された聖霊を愛で復活させる。 復活した聖霊は、自らを汚した君達すらも愛する。 そして君達は愛される報いとして滅びるのだ。 もはや悪魔を脱ぎ去った神と等しい愛が君達を滅ぼす。 滅びの宴だ。 私は神が遣わす通常の聖霊とは別で、人間の身でありながら聖霊セレビィとして天界に赴き、そこに自らの生きるあかしを立てた。 観念世界に精通してその地に足を踏みしめて呼吸する私にとって、肉体お失うと言う事は単なる変化でしかなく、死ではない。 これが永遠に生きる伝承上の不死者だ。 その事は別に気にしなくていいよ。 君達は肉体が滅べば死ぬ。 異論はないよね。 私も否定しない。 それは、私は永遠に生きるが、君達は死に、死者の国で永遠に死に続ける。 ごく当たり前のことだ。 釈迦の言った、 私は涅槃に行きもう死の大地には戻らない。 君達は輪廻を繰り返し、何度も死に続ける。 この神学と大して変わらない。 こんな事は些細なことだ。 しかし私にとって重要なこともある。 肉体が滅んでも天界で永遠の生を受けると言う事はな、いわゆる死を持って神を自覚すると言う考え方が、神道における神学だ。 この精神の変化は私にとってもう始まっている。 したがって神様にあいさつすると、ちょっと友達に頼みごとをする様な気やすさで、一方的で理不尽な悪霊バトルだ。 その事は問題ない。 私をお父さんと呼んで慕ってくれる。 君達には言っておきたい事がある。 頭が高いぞオラ。 俺を誰だと思っているんだ。 まあいいや、君達は死ぬからやがてお別れだし。 あれ、どこにも不満がないや。 これが私の初もうでかな。 皆さんはいかがお過ごしですか? ちなみに3か月前、私は痴女から痴漢され、、史上最弱クラスの悪魔に案内された。
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- 死の結論は君たちに何をもたらすのか
私は漆黒の闇を切り裂く黒い稲妻。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 実在する妖精の捕まえ方編 第2章だ。 前回↓ イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html ここで君たちの存在は観念世界において「記憶の墓標」であると言ってのけた。 私は勇者として累々と墓標が並ぶ死の荒野をさすらい、自らもまた、自らの墓標に刻む名を求めている。 私は誰だ。 人間はどこに行ったのだ。 苦難の放浪を続ける私の前には、名もなき墓標からはい出てきた怪人が立ちはだかり、私を土へと返そうとする。 それはかつて人間であった、君たちのなれの果てだ。 私は闘い、朽ち果てた君たちの幻を粉砕する。 そして答えを求め続ける。 えーと、今回は久々に仮面ライダーマニアック話のアップデートのため設定を考えているところです。 地獄の亡者にふんして、何か面白い事を言ってください。 実のところ観念世界紀行については、たとえようによってはこんな側面が実際にあります。
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- アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。
( a ) 《第二の死》とは 《第一の死が死ななくなった状態》を言うとします。 ( b ) 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ 第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごき これを《アッキ(悪鬼)》と呼びます。 ( c ) アクマ(悪魔)とは アッキたちを従えて 人びとを第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用を言います。 ☆ この質問は 【Q:《第二の死》とは?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html を承けています。また次の質問ともつながります。 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html 趣旨説明を再び掲げて 表題つまり上の( c )の命題について問い求めるという魂胆です。 ○ 〔( a ・ b ・ c )についての説明〕 ~~~~ 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。 わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的にして限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。 つまり この《第一の死》は 死ぬことが出来る。 《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。 あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に区切られて来るからである。うつろいゆくわが身ながらも物ごころのつく前には広大な宇宙が広がっていたのが あやまちの瞬間にふと《とき》を見出しこの時間によってわが存在の歴史が区切られるということは 死によってその世界が限られることだからである。 あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。 われわれは 人生において 第一の死に時には突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。 ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか? かんたんである。われに還ることがなくなるときである。 あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。 われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。 心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。 そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか? ほんとうにそうか? それだけで 第二の死が起こるものか? 果たして 第二の死は あるのか? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さてここでの問いは ( b ):この第二の死を三度の飯よりも好きだというアッキなる心の負の作用 そして ( c ):この《第二の死》の舞踏を人びとをしてみづからの演出のもとに踊らしめるアクマという心(?)の負の作用――これらは あるか? あるとすれば いかにあるか? であり しかも ( d ) アッキにしろアクマにしろ この《うごき》や《はたらき》を人間がみづからそっくりその身と心に修め得て ドクター・アクマとしてのごとく町を歩いているか? そう言えるか? それは果たして現実か? です。次は たたき台としての考えです: ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。 ( d-2 ) アクマは どうか? ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか? こういう問いです。 先に掲げた質問【Q:麦と毒麦・・・】でのやり取りとも 照らし合わせてくださるとありがたいです。 ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか? みなさんの思惟の自由なつばさを広げてご見解を述べてください。
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- 神の好意、アマテラスの善しの研究
人の不実を食いちぎり、アマテラスの名において君達の滅びを告げる者。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達は自身に対して善く計らい、他者を善しとしない。 アマテラスの善しとして何度か発表している事を説明しよう。 人には社会性があり、自らが生きる事と等しく他者を生かす。 こうして共に生きるからこそ人間だ。 それは善心であり、お互いを結ぶ感情が愛だ。 これで愛の心も善の行いも説明できてるね。 君たちが滅びを宣告されているのは善しが足りないからだ。 自らに善くしようとしてばかりで、他者に善しをふるまう気くばりがない。 善く=欲。 自己のみで他者に配慮しないから善心が穢れ欲となる。 君達のいいわけは、 誰だってそうじゃないか。 こうだね。 闇の仏陀は例外だよ。 私の事だ。 善しを振る舞い、求められるままに他者を生かした。 生かし続けた。 しかし私はなかなか生かされない。 それは君たちが善を自ら損ない欲望に終始する穢れだからだ。 精霊の話、悪魔の話をしよう。 悪魔は自らを損なってまでも、神の使命を全うするために君達を生かし続けた。 生きる事を阻むのが悪魔ではない。 死を阻むのが悪魔だ。 君たちが屈辱する聖霊はそのように有史以来自らを犠牲にして人を生かし続けたんだ。 私は悪魔にとどめを刺した。 悪魔を愛したんだ。 死に続けた神の代わりに、君たちが死ぬ番だ。 釈迦の無の悟りは結局死の自覚だったし、イエスも似たような神学だ。 まだ、神様に助けてほしいなら、ISにでも参加したまえ。 君達は悪魔との和解に取り組み、自らの死を自覚する必要がある。 定めである自らの死を受け入れるのだ。 一人では、君たち臆病者は死に取り組めないだろう。 安心しろ。 三次元惑星人は皆殺しだ。 一人で死ぬんじゃないんだ。 納得できるだろ。 四次元惑星人として、神が直接地上に降り立つ日が来ている。 始まっている。 それは、ポケモンを自称する宇宙神霊だ。 営業部長のピカチュウさんが愛嬌をふりまき、君達の精神に入り込み魂を内側から喰らい尽くす。 そのようにして人類の交代が為され、君達は君以外になる。 今の君は神人が地上を闊歩するこの先の時代には、記憶の墓標としてその痕跡を残し、君の魂は残らない。 君達の宗教は絶望を教えとしてきた。 ついにその日が来た。 滅びの宴に踊りたまえ。 さて今回の質問の内、神学に属する事柄は「実在する妖精の捕まえ方」に属するおとぎ話です。 私が策案した命題を元に、今回は「善」、この概念について回答者様から考察を募集します。
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- 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。
君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。
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お礼
実に女々しい泣き言だね。 さすがの私も憐れんでしますよ。 慰めてやろう。 アクセス件数からすると、私のありがたい話には、何も言わないむっつりスケベが大勢いる。 そんなスケベにとって、君は期待の星だろう。 君の醜い行動は、そんな期待を背負った勇気の表れだ。 君が代表しているよ。 背中にな、その期待を背負いたまえ。 そうすると君が何故死ぬのか判ってくる。 殺される気持ちになるだろう。 君はそんな勇者だ。 君達はたくさん殺したんだ。
補足
誤解のまま君に不平不満をこぼされても面白くないのでな。 ジラーチちゃんが言ったのだよ。 私の愛を受け取ると、神がそれ自体生命なのだと実感できると。 人間であると教育を施しても、人間は今まで一人も現れなかった。 私こそが神の望みであると喜んでくださったのさ。 幼馴染だよ。 仏陀とは、現代語訳すると人間の事だ。 君達には敬愛を込めて、旧人類と慰めるよ。 滅びゆく者どもだとね。