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美しいものを美しいということに意味はあるのか?

それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?

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  • ベストアンサー
  • cyototu
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回答No.13

俳推理小説の手順なら、俳句なんかよりもっと凄いのがある。川柳だ。ありゃ謎解きばっかりだ。時代背景が解らなくちゃまるで解らない。  品川の客はにんべんあるとなし 侍と坊主だ。  丹波の鼠京へ出て馬を喰ひ 光秀は子年生まれ、信長が午だ。  もののふをやめ百人の列に入り 西行さんだ。  可愛い坊さんだよなう花の朝 坊さんはてるてる坊主。江戸の女性は花見と芝居見物が最大の楽しみだった。  花の宵所々に坊主の首くくり てえのもある。  延命のそばへ短命這って行き 賽の河原の地蔵和讃だ。美しい詩だから全部紹介しておこう。 これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと) 親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩

kusa-mura
質問者

お礼

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。白状すると僕の教養がついていかなくて、どう気の効いたことを言おうかと思ううちに、仕事が重なってお返事しそびれたのでした。他の欄でもお詫びしますが、お許しください。 先生を見かけなくなってから読むと、本当に、見事だなと思います。この回答が、美しいと思います。地蔵和讃を示すことで、どうだ、この美しさを分析して見せよ、分析しないまでも、こうした美を凡庸と言って切って捨てられるかい?ということなのだろうと思います。なかなか、そうはいきませんね。

kusa-mura
質問者

補足

【質問を締めるにあたって】 途中で僕がスレッドを放り出す形になって、申し訳ありません。短い質問だったので、かなり自由にお答えいただけるかと思いましたが、説明不足を責める声もありました。 今回の問いに正解は無いのですが、凡庸な世界を描き出して見せる詩歌を示すことで、おい、おまえはこれが凡庸だから美しくないとでもいうのかい?とたしなめられた、という風に考えています。描く対象が凡庸であったとしても、そこにはレアリスムの美とでも言うべきものがあるはずです。僕は視野が狭く、この点を十全にふくらますまでに至りませんでした。議論を望ましい形で盛り上げることができず、お詫び申し上げます。

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その他の回答 (26)

noname#156094
noname#156094
回答No.6

感性によって得たものを言語化することによって確定しておく、といった意味があるのではないでしょうか。 失いたくない情報を、いつでも取り出せるように整理しておくといった事のように思います。 それは感性による照合の新鮮さを保ちたいという心の現れかもしれません。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。俳句など、その最たるものですね。

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noname#176957
noname#176957
回答No.5

こんばんは。 珍しく短い質問ですね(素直に)。 なんとなく、長い質問を読む楽しみが減ってしまって残念な気もしますが、逆に緊張感が増す気もします。 どう答えたらいいのか、頭悪いんで当てずっぽうですけれど、 凡庸が故に尊い。 その凡庸さこそ、人が繋がれる可能性の大きさだからだ。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。いろいろあっただけに、いらしてくださると、尚のこと嬉しいです。えーと、長い方がいいんですか? ははは。では次は覚悟しておいてくださいね。 このご指摘もまた、簡潔ではあるが、深いですね。凡庸さが尊い。確かにそうなんですよね。奇妙奇天烈なことを言うより、ありふれたことを、自分の信じる形で主張することが、とても大切なんですよね。そうした考え方が古典というものを作っていくのであり、古典が共同体の基盤になるやもしれません。 しかしこの設問では、少し他の回答者の方の様子を見て、脱線し、多様なお考えを伺ってみることもしてみたいと思います。というのも、残念ながら、古い共同体とそれにまつわる価値観は崩れる一方です。新しい共同体を再構築することが日々、様々なところで、求められている時代ではあると僕は感じます。 これなら動機をちゃんと書いておけって? でも直接的にそうした議論をしなくても、何かそうした問題のヒントになりそうなお答えがちらほら出ているなという印象です。長々と質問の動機を説明して直接問うか、間接的に問うて自由に意見を出してもらうか、どちらがいいかといえば、両方やってみるにこしたことはないというのが今の僕の「直感」です。知的武装をしないで参加できる問って、いいじゃありませんか。

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noname#144675
noname#144675
回答No.4

美しいもの というのを 想定します。 美しさを感じる心があるとします。 対象としての美しいものは、 個性的な事物です。 そういう意味で「もの」です。 出来事です。 出来上がっているものです。 出来上がろうとしていることです。 「もの」 と 「こと」の違いは何でしょうか。 ものはそこにありいます。 こと は わたしものです。 ことばです。 うつくしいものを 美しい と いう のは 意味があるのでしょうか? あるのは つまり こころだけです。 しかし こころは 存在しません。  存在するのは個性だけです。 いみとは、 自分には個性がないのに 購入して 手に持っている もの を 通じて 自分に個性を与えようとしている 愚民たちです。 個性は食べ物だとおもい もっていればいつかは自分のものになると思っていることです。 凡庸ではなく 迷信です。  意味とは 自己を味わうことであり、 痕跡を生き返らせることです。 誰にでもできることではないので前提を変化させる必要があります。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。詩のように深いお答えですね。シンプルでかつ、先の先まで議論を進めてくださいました。これ自体で完成されていますから、僕が下手なことを書きくわえるのはやめにしたいと思います。しかし自己を味わうこと、痕跡を生き返ること、前提を変化させること――見事な表現ですね。

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noname#177363
noname#177363
回答No.3

「美しいと思う気持ち」は人それぞれです。誰がどう見てもそれは美しいだろうと思っても、そうは思わない、あるいは興味を示さない人がいるということはあり得るものです。 なので、その人が美しいと思ったのであれば、そう思う気持ちを表すことは何ら意味のないことではないと思います。 ただそれが文学的表現などであれば、少し事情が違ってくるかもしれません。 以前小説家の渡辺淳一氏が、「美しいものをただ美しいというのでは何も伝わらない。何がどう美しいかを伝えるのが大切だ」と言っていました。 そういう意味では、ただ「美しい」と言うのは平凡で、そこには何もないという気もします。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですね、時と場合によりけりですね。恋人を褒めるとか、友達の絵を称賛するのなら、やはり褒めても褒めすぎることはないかもしれません。しかし公的な場で語るとなれば、ありきたりのことを言っても、ふーん、当たり前じゃん?と言われて終わってしまいますね。

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  • 22880925
  • ベストアンサー率19% (11/56)
回答No.2

誰にでも出来る事ではないから意味があるのです。例えば骨董品はどうですか?違いわかります?貴方はわかるのですね?某鑑定的な番組みてても100%わかります?正直私は無理です。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。ははは、「美」っていっても、お前はわかんのかよ!わかんねぇだろうが!謙虚になれよ!ってお答えですね。

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  • dddmmgrru
  • ベストアンサー率64% (24/37)
回答No.1

その時代の世情に迎合した「美」を美しいと云うのはまさに凡夫のなせる業でしょう。 そういう「美」について語っているなら回答はここで終わります。 しかし、求める「美」がつねに「隠されてある」ものなら話は違います。 隠れた「美」を「美しい」と云うのはとうてい凡夫のなせる業ではないし、まして「凡庸」とは真逆の知的営為でしょう。 ところで質問者さんは「正しく」問いを発しているという確信はおありかな。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。No1から、なかなか重いお答えですね。シンプルが一番重い、と。 >求める「美」がつねに「隠されてある」ものなら話は違います。隠れた「美」を「美しい」と云うのはとうてい凡夫のなせる業ではないし、まして「凡庸」とは真逆の知的営為でしょう。 そうですね。僕もそう思います。問題は、どこに隠れているかだと思います。そして誰が、どのようにして見出すのか。醜いものの中にも美があると僕は言いたいところですが、これは勇気がいりますねぇ。 さて「正しく」問いを発しているか?という点ですが、シンプルが一番深いとお答えしておきましょう。どのようにでも解釈できるように作っていますから、どのようにお答えになっても可というタイプの問いなのです。「お前の問いは~~と解釈した。故に――と答える」でいいんです。

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