• ベストアンサー

美しいものを美しいということに意味はあるのか?

それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.13

俳推理小説の手順なら、俳句なんかよりもっと凄いのがある。川柳だ。ありゃ謎解きばっかりだ。時代背景が解らなくちゃまるで解らない。  品川の客はにんべんあるとなし 侍と坊主だ。  丹波の鼠京へ出て馬を喰ひ 光秀は子年生まれ、信長が午だ。  もののふをやめ百人の列に入り 西行さんだ。  可愛い坊さんだよなう花の朝 坊さんはてるてる坊主。江戸の女性は花見と芝居見物が最大の楽しみだった。  花の宵所々に坊主の首くくり てえのもある。  延命のそばへ短命這って行き 賽の河原の地蔵和讃だ。美しい詩だから全部紹介しておこう。 これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと) 親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩

kusa-mura
質問者

お礼

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。白状すると僕の教養がついていかなくて、どう気の効いたことを言おうかと思ううちに、仕事が重なってお返事しそびれたのでした。他の欄でもお詫びしますが、お許しください。 先生を見かけなくなってから読むと、本当に、見事だなと思います。この回答が、美しいと思います。地蔵和讃を示すことで、どうだ、この美しさを分析して見せよ、分析しないまでも、こうした美を凡庸と言って切って捨てられるかい?ということなのだろうと思います。なかなか、そうはいきませんね。

kusa-mura
質問者

補足

【質問を締めるにあたって】 途中で僕がスレッドを放り出す形になって、申し訳ありません。短い質問だったので、かなり自由にお答えいただけるかと思いましたが、説明不足を責める声もありました。 今回の問いに正解は無いのですが、凡庸な世界を描き出して見せる詩歌を示すことで、おい、おまえはこれが凡庸だから美しくないとでもいうのかい?とたしなめられた、という風に考えています。描く対象が凡庸であったとしても、そこにはレアリスムの美とでも言うべきものがあるはずです。僕は視野が狭く、この点を十全にふくらますまでに至りませんでした。議論を望ましい形で盛り上げることができず、お詫び申し上げます。

その他の回答 (26)

noname#144995
noname#144995
回答No.27

誰にでもできるからこそ、驚異的と言う感じ方もあるかと思います。 例:夕日を見て  Aさん「綺麗だね。」 Bさん「そうだね。」 Cさん[どうして僕らは綺麗だと思うのだろうね。」  犬 「・・・。」 共通の感覚があって、しかもそれが普遍的なものであればあるほど、その事実は巨大な驚異である気もします。 話は変わりますが、サイレント・マジョリティという言葉が最近気になっています。サイレントマジョリティは、凡庸なる者の代表でもあるかと思いますが、実に影響力を持った巨大な凡庸であると思います。こういった凡庸と言うのは、ある種の支配者でもあり、事を決定付ける力でもあります。ですからこの場合にも、凡庸と言うのは畏怖や驚きを以って見ることのできる現象でもあると思うのです。 凡庸と言うのは、名も無き巨人ではないでしょうか。

kusa-mura
質問者

お礼

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。最近は、見なくなりましたね。そう、サイレントがマジョリティになり、奇抜な意見を言うマイノリティが、マジョリティを抑え込むような世の中になっています。僕もそれがいいとは思いませんが。「犬」を選ぶあたりに、遊び心を感じます。サイレントマジョリティには、動物も入っているという風に読めるからです。

noname#136752
noname#136752
回答No.26

こんにちは。 キホーテさながらにそしてその純粋さや情熱のままに。 ひとかけらの得難いお墨付きが得られるどころか滑稽であると一蹴されようとも、「美しいものを美しい」といい生涯をかけてそれを追い求め続けることは、決して意味が無くはないと私には思われるのです。

kusa-mura
質問者

お礼

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。もう抜けてしまわれたということで、おそらくお礼をお読みになる機会は少ないかと思います。僕の不明をお詫びするところです。そうですね。ありきたりのものを求めるのは、人間、いつも同じです。それが受け止められるような社会ならいいな、と思っておりました(と書くと、少し、ナイーヴすぎるかもしれませんが)。

回答No.25

あらゆる言動は記号に留まっていませんでしょうか。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですね、何事も辞書にある言葉を選んで、組み合わせているに過ぎません。

回答No.24

 美しいものを美しいということは,誰にも出来ることであり,凡庸なことではある。しかし,なかなかそのような機会を得ないからこそ,非凡なことでもある。  人が美しいというとき,あるいは美しさを稚拙に表したとき,そこに論理で捉えられない善が実現していると思われる。美意識が悟性に替わって世界を把握していると思われるのだ。いや,把握しているというような単純なあり方ではない。主体も世界に把握され,客体に溶け込み一体である。  懐疑的にならず,美しいものを美しいということに意味があるとして,その意味を見出すことに意味がある。すなわち,一つの意味は,美しいものというのは,実は善なるものであるということである。  醜悪なる美を醜美というが,実はこの醜悪は善として捉えられている。表面上の論理が破綻するので,悟性は静まり,感性が働くことになる。感受性と表現力の優れたものは,これを多く為す。非凡なことである。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。美の問題は善にも関係するから、善いことを善いというのに意味があるのと同様に問題として考えなければならないとおっしゃるのですね。

回答No.23

 こんにちは。  ★ 美しいものを・・・  ☆ と規定したとき そこには仮定が含まれています。  ○ われわれ人間がそれぞれ自分が何かを美しいと感じたとき その美しいと思うものを 美しいと言うことに意味はあるのか?  ☆ こういう問いになっているはずです。主観の問題ですね。  もしそうであるなら 問いとしては成り立たないでしょう。  相手の主観を問うている場合もありましょう。  独りごととして言いたかったという場合もありましょう。  相手の主観が 自分のとすでに同じだと知っていた場合 あらためて確認したかったとも考えられます。  まとめて:  ○ ~~~~~~  自分が美しいと思ったモノ・コトについて 独りごとにせよ会話においてにせよ伝えたいまたは自己表出しておきたいと思ったなら そのままばかみたいに美しいという言葉のみで表現する場合も ありうる。それだけの話です。そのことに何の問題もない。  誰れにでも出来るかどうかの問題にはならないでしょう。そういう観点は割りこまないでしょう。割りこませたい向きには そういう癖があるというだけだと思われます。  凡庸であるかどうかも どうでもよいことではありませんか? それを聞いた相手として その表現は いかにも凡庸だなと言いたければ言ってやればよいだけでしょう。  伝わるかどうか または 独りごととして言いたかったかどうか それだけの話だと考えられます。  ~~~~~~~~  ☆ どう伝わるか そしてそのあとどのようにコミュニケーションが続けられるか これらは いま問題が別だと考えられます。  質問が 凡庸というより 稚拙です。    ○ 万人に美しいと――どういうかたちでか仮りに分かっているとしてその――分かっているものを美しいと言うのは 凡庸であり 意味があるのか?  ☆ こう言おうとしているのではないですよね?

kusa-mura
質問者

お礼

議論のための議論ですね。

回答No.22

「凡庸」などというものは存在しない。 現代の「凡庸」も、普遍的には、ある種の異常に過ぎない。 美も相対的なものであり、ある美を「美しい」と評することは、 実は対象の評価よりも、自己がどのような異常に染まって いるかの表明に他ならない。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。確かに美を感じるということは、ある種の体制の中に自分がいるのだなと感じる瞬間でもあります。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.21

mmkyより追伸 「それに対して、あるがままの姿は人によっては「醜い」と笑うかもしれない。でも、ありもしないものを求めて放浪しても難になるだろうか。むしろ醜さに美を見出すことにこそ意味がある――くらいに僕は考えたかったのですが。」 ○なるほど、かみ合わなかった理由は、私の回答は「自身の美的評価」を元にしていたのですが「あなたの質問の美は他人評価」に基づくものだったのですね。 多くのものが美というものを美といって何がというわけですね。多くのものが醜というものを美というほうが個性的ということでしょうか。 私の回答の意味は、残念ながらそういう考えかたが凡人という意味なのです。 非凡というのは、自身の心に美の評価基準があるという意味なのです。山川草木全て美の中で生まれたものなのですね。美しいものは美しい、ここには醜など存在しないのですね。 ピカソの絵はピカソには美なのですね。それ故、ピカソなのです。私は最初に見たとき「これほどひどい絵は生まれてこのかた観たことは無い。」と思ったですね。それは個個の個性でもあるわけですが、個性を認めることと、自身の評価とは別のものですね。それ故「美しいものは美しい」という心を持つことは良いことなのです。他人評価に振り回されて路に迷う無かれということでもありますね。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。僕も同じことを言っていると思いますが。「あるがままでいい」とは、結局、自分の心に美の基準をもてということになるかと思ったのです。ことさら醜いものを美と呼ぼうと呼びかけているのではありません。そう読めたみたいですね。これは失礼しました。

回答No.20

No.8です。 >>> No.8お礼欄 ありがとうございます。なるほど、人間は個性的でありたいという欲求をもっていますから、皆と同じものを指さして「美しい」ということは、個性を失う危険があるわけです。お考えには、美とは人々の認識を統合していくものだという前提があるように感じたのですが、それもおっしゃる通りですね。 <<< 他の方々へのお礼欄なども含め、お考えの背景が、おおよそ分かりました。 主体・対象を結ぶ情を切断する面(境界)に張り付いている言葉は、いいかえれば >>> http://okwave.jp/qa/q6805751.html 単語そのもの、いや、概念を表す単語そのものは、一種の「額縁(+無意識のフィルター)」だと考えています。 そうして、人間の思索の方向性は、そういった「額縁(+無意識のフィルター)」を置く位置や方向性と合致します。 <<< でもあります。 「美しい」という言葉は、例えば「醜さ」-「美しさ」という方向性を「知的に」共有するための額縁でしかありません。 その額縁で切り取られた景色は、具体的な対象が同一であったとしても、時間・位置・主体(「いま・ここ・この私」)によって微妙に異なることでしょう。 >>>「探求II」、柄谷行人、講談社学術文庫 私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性this-nessを単独性singularityと呼び、それを特殊性particularityから区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。 <<< 凡庸に思えるとするなら、それは「額縁」であるところの「美しい」という共有可能な言葉・記号そのものなのであって、その「額縁」を貫いている「情」、および向き合っているところの「主体」には、適応不可能だということです。 「情」「主体」という言葉自身も一種の「額縁」になりますが、その対象は、柄谷のいうところの「単独性」(ないし、他と交換が不可能な唯一性)を有しているゆえに、「凡庸」という言葉(額縁)を当てはめることができないのは、当然のことでしょう。 知的に共有可能・交換可能な言語(「美しい」)という額縁(記号)の凡庸性を語ることができる故に、凡庸性を額縁(記号)を貫く「情・意味」や主体そのものへも援用しようとすること自体に、誤謬が潜んでいるのでは無いでしょうか?

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。少し考える時間を頂きたいと思います。

kusa-mura
質問者

補足

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。かなり難しいことだと思って、少し、置かせてもらい、また読み返しました。どうやら、 ・「美しい」という言葉は共通であって凡庸だが、 ・美しいという言葉の示す中身は、凡庸ではない、 ということになりますね。 しかし、「美しい」という言葉が共通のものである以上、何らかの共通理解があると言えませんか。ヘーゲルの『美学講義』など、時代や社会によって美の通念が変わっていくことを描き出していないでしょうか。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.19

9,12です。 推理小説は逆算にもとづく駆け引きの演出ですから、読者のリテラシーに多分に依存していますでしょう。これは論理的なのではなくて、構造化されているのですね。 さて、感性で 美しい と思ったらそれを 美しい と言語化しておく、というのは宮廷詩人の仕事みたいです。俳句や川柳の仕事ではなさそうです。 五・七・五の場合も、全体の構造のために語句が効果をあげる必要がありますから、建設の足場は外して姿を整えないとなりませんでしょう。 美しい という語に五音も取られるのなら、それはリテラシーにおいて利用され、全体の言外を伝えるのに便利であることと引き換えにしなければ割にあわないでしょう。 美しいと思ったモノを詠むのに一句ひねるとき、そこに美しいという文字があったら、読者の持つ美しさのイメージに錨を降ろしてしまい、詠み手の自由がききません。 しかし逆に、別のことを伝えるにあたって、どうでもよいところに読者のイメージで錨を降ろしてもらえるなら、こんなに字数を省くに手早いことはありません。 川柳好きの猪突さんに敬意を込めて、わたしも川柳を挙げましょう。 下に挙げる五つの句のうち、先の三つにおいて、詠み手は美意識の梯子を取り払ってしまいましたが、江戸情緒の美意識を共有するリテラシーをもって読者は構造の芯央部分を読み取るでしょう。 後の二つにおいては、美しいに関しては読者にイメージの錨を降ろしてもらえるので、豪気な親分さんや、衣装の少ない貧乏暮らしに向けられた詠み手の視点のほうを際立たせることができるでしょう。  待つ顔へ桜折り折り散りかかり  昼買った蛍を隅へ持っていき  湯帰りを見すましている一盛り  親分は美しいのをあま呼ばり  土用干し隣の嫁は美しき

kusa-mura
質問者

お礼

お礼遅くなって、お詫び申し上げます。僕は、詩とは美しいと感じた気持ちを表明する手段ではなく、詩そのものが、ひとつのオブジェとして美を提示するということは無いか?とも考えていました。たとえば、シュルレアリスムの詩など、活字の組み合わせが、ひとつのオブジェとなっています。しかし、それを川柳で見事に説明なさったと思います。はじめの三句はオブジェとなりうるものを提示するもので、あとの二句はそれをどう評するかを提示していますから。日常のありきたりと思える情景も、ひとつのオブジェとなると、美しく思えます。こうやって僕の質問を、猪突先生と諫めてくれた、と言えるかもしれません。

回答No.18

人生を生きる意味があるとするなら、凡庸な発言をする意味もあると思う。 もし、人生を生きる意味が無いという観点から人の発言を評価するなら、もちろん、意味は無いと言わねばならない。

kusa-mura
質問者

お礼

親方、ありがとうございます。そうか、人生は凡庸ですか。凡庸の中にも美を見出すのは、派手ではないけれど、いいものですね。深く息をして、のんびりできそうです。

関連するQ&A