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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:答えを出されてしまったことがそんなにくやしいか)

答えを出されてしまったことがくやしい理由とは?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.9

No.5です 「哲学(愛・智)とはこういったものである」という認識は、それぞれでしょう。 なぜなら「愛」という概念自身が場合によっては排他的になることがあるからです。 博愛を「愛」とする立場からすれば、排他的な「愛」は間違っていると指摘したくなるものでしょう。 だからといって、他人の寝室のカーテンやドアを相手の意志に反して取っ払ったり、公の元に晒すというのもいかがなものかと思う方々もあると思います。 自身にとって「それは哲学ではない」と思うような態度や行為が見受けられたからといって、あからさまに「それは哲学ではない」と公言するのなら、 >>> 優劣とか、やっかみとか、くやしさとか、そういったことを考えること自体、不思議な気がしています。 どうなんでしょ? <<< と同等の行為に走っているようにしか見受けられないということも意味しています。 閉ざされた扉は、いつの日にか開くものです。 永遠に閉ざされ続けることはあり得ません。 また、逆に、閉ざされた扉を無理矢理こじ開けたら、扉が壊れるだけではなく、本来あるべき姿も見えなくなってしまうでしょう。 どこかで聞いたような話ではないのでしょうか? 天の岩戸はどうすれば開いたのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 要するに 相手の抵抗や反発を最小限におさえて ものごとに当たれということですね。  じねんさん――そう言えば なつかしいですね( toki さん= ri_rong さんのあととして)―― あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  もっとも早い話としてわたしのお応えはこうです。  ★ 天の岩戸はどうすれば開いたのでしょうか?  ☆ 人間は 一人ひとり個人としての内面における思いがあり人間関係としての外面の事情がある。ゆえに 一概にモノゴトは答えが見つかるものではない。これです。    もう少し説明を広げます。  ○ ~~~~  天の岩屋戸に雲隠れした人は へそが大幅に曲がっています。  (たとえば 実の弟がいとまごいに自分のところにやって来るというとき それは自分の領土を奪いに来るのだと頑なに思って 男装・武装をし戦いに臨んだと言います。  そのあと 弟の心の清かるか清からざるかを掛けてウケヒという勝負までをおこなっている。うんぬん。  おそらくわたしがアマアガリ・シンドロームと呼ぶそれとしての障害に罹っていると見ます)。  従って そのときの対処法は 当座と長期とのふたつの観点から採るべきでしょう。  ひとつには 岩屋戸の前で みんなが寄り集まってどんちゃん騒ぎをする。雲隠れしたアマテラスも たのしそうだと思い仲間に入りたいと欲するようになる。――つまり神話の語る筋道です。  ひとつには お山の大将でいなくては生きて行けないという欲動がはたらいていると見るならば・つまりつねに脚光を浴びていないと息も出来なくなるという症候群に罹っていてこれを治すことが大事だという長期の(基本的な)見方に立つならば たとえば放っておくしかないでしょう。  要するに 自省のときをじゅうぶんに与えるという方法です。  またそれには きちんとその症候群の中身をおしえてやっておくことも大事だと考えます。  つまり 《そのあなたの思想(生活態度)は 人びと互いの交通においてきわめてその流れを阻むようにはたらくものである。なぜなら 人びとはあなたの気をそこねないように気づかいをせねばならなくなっており あなたのこねる駄々を溶かしてやってそのあとやっとふつうの仕事にかかるようになっているから》と・つまり《それは 哲学ではないですよ》とはっきりと知らせておくことも大事だと考えます。  そうしておけば 雲隠れをしても それは本人の勝手であり純粋に(?)本人の問題であるとなります。  ~~~~~~~~~~  ☆ さてこのときに――つまり わたしがこのように述べた方針であゆんでいるときに―― そのわたしの行動方針について疑義が立てられているということですね。いわく:  ★ ~~~~~~  自身にとって「それは哲学ではない」と思うような態度や行為が見受けられたからといって、あからさまに「それは哲学ではない」と公言するのなら、   >>>   優劣とか、やっかみとか、くやしさとか、そういったことを考えること自体、不思議な気がしています。   どうなんでしょ?   <<<  と同等の行為に走っているようにしか見受けられないということも意味しています。  ~~~~~~~~  ☆ つまりこの疑義に従うならば このわたしも《批判点についてるる説明したあと まったくのかたちで相手を放っておく》という対処の仕方を採るということは 相手と同じように《優劣の判定や やっかみや悔しさをほんとうは内にかこっているのではないか》ということですよね?  これは 見方によりましょう。人それぞれでしょう。そして そこまででしょう。  その意味は 次のように表明された命題についてのわたくしの考えとつながっています。  ★ ~~~~~  閉ざされた扉は、いつの日にか開くものです。  永遠に閉ざされ続けることはあり得ません。  ~~~~~~~  ☆ 考え方が違うというその中身としてわたしの考えるところは   ○ 《いま・ここなる〈わたし〉の動態としての〈現在時〉こそが 永遠の現在というかたちにおいて その〈いつの日にか〉である》。  ☆ なのです。ぶっちゃけた言い方をすれば 《扉の閉ざされたまま どちらかが死ぬ》という事態もあり得るということです。  ですから じねんさんのここでのいちばんの誤解は 次のお考えです。  ★ また、逆に、閉ざされた扉を無理矢理こじ開けたら、扉が壊れるだけではなく、本来あるべき姿も見えなくなってしまうでしょう。  ☆ わたくしの行動方針によれば 《扉を閉ざすな》と殊更言っているわけではありませんし また《閉ざされた扉をわざわざ無理やりこじ開けよう》などとこれっぽっちも思っていないということです。《間違いを説明したあと 完全に放っておく》と言いました。《完全に》です。つまり 相手がどうなろうと――死ぬまで――完全に放っておくという意味です。  《アマアガリ・シンドローム》は それほどの――というよりも 千五百年もの長い間の――病いなのであり いま・ここで完治を目指すよりほかにナホビのミタマにあずかる気づかいはない。こういう考えからです。  タカマノハラとトヨアシハラとは たとえ二階建てになっていたとしても ウツシキアヲヒトクサ(現実の草の根の人びと)のために・生活のために・共生のために成ることであれば 互いに助け合って世の中をいとなんで行けるのです。  アマアガリしたアマテラス公民の間には・その内面では ひそかにかおおやけにかは知りませんが 自分たちの無謬性という神話がはびこりその心を溶融させていると見ます。ウツシキアヲヒトクサの心はメルトダウンさせられてしまっています。ほんとうはそうではありませんが 人びとは 憐れみの心からお二階さんの状態と同じようになって 自分たちも炉心溶融の姿を装っています。  ここで 人びとはアメノウズメのようにどんちゃん騒ぎをやってもよいのですが むろん人びとは対症療法ではなく完治を願っているということではないでしょうか?  わたくしのいま採っている行動方針は――行為形式ではなく行動方針ですから より一層変わり得るものです―― 以上の考え方にもとづくものです。  闇の中にいる人が光を見ることができるようになるには・・・。

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