仏教とイスラム教の根本的な違いとは?

このQ&Aのポイント
  • 仏教とイスラム教の根本的な違いをまとめると、仏教は人間の人格を高く評価し、自己の成長や悟りを追求することを重視します。一方、イスラム教では来世と現世を分け、モハメッドの命令に絶対的に従うことが求められます。
  • 仏教の教義では、人間の心の持ち方や行いが重要であり、他者への施しや精進などを通じて自己を成長させ、悟りを開くことを目指します。一方、イスラム教では、モハメッドの教えに従わなければならず、来世での裁きを受けることが重視されます。
  • また、イスラム教では個人の人格よりもモハメッドの命令が絶対的であり、個人の意志や自己成長よりも信仰の従順さが重要視されます。これに対して、仏教では自己の成長や悟りを追求することが中心であり、個人の人格が重要視されます。
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仏教 イスラム教、根本的にどう違のでしょうか?

以下の教えは、「般若心経の本」:Books Esoteria 発行人大沢広彰 によります。 「般若心経 深波羅蜜多(パーラミラー)とは 布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧」  布施―惜しまず施す .持戒―身を正しく保つ 忍辱―どんなことにも耐えること 精進―常に努力し前進する 禅定―どんなときでも心を乱さぬこと 智慧―物事を正しく認識すること 「仏教の 世界観 一切皆苦」 パーラミター=六波羅蜜多 「パーラミターを会得し 極限で 涅槃に入る人はいる?」 般若=智慧 「般若心経 悟りを否定し 無明から生まれ 無明に死すと」 「無無明とは、人生は濁流に流れる 藻屑?」 「ただ 施しがあることを 望むのみ」 「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテイ ハーラーソーギャーテー ボジソワカ」 「行きましょう、行きましょう、彼岸の岸に さあ皆で努力して 行きましょう と」 「他者救済の智慧の実践を完成させる と」  「不説過戒―他人の過ちを説くなかれ と」 「不妄語戒―嘘をつくな と」  「輪廻断ち切りれば パーラミター 涅槃なり?」 般若心経 「仏説魔訶 般若波羅密多心経」 「魔訶」:偉大なる 「観自在菩薩」:この世のすべてを知る観世音(アヴァローキャーテーシュヴァラ)=救いを求めるあらゆる人の声を聞き分け、すべてを心の目で見透かして、救済の手をさしのべる存在である。) 「行深般若波羅密多時」:「深」は6番目の智恵を含めて6つの項目すべて、「行」実践すれば少しずつ、悟りの世界 に近づく と <「照見五蘊皆空」:[五つの集合=精神的作用+物質的現象]:月光が地上をくまなく照らすように空であることがはっきり見ることができると 「肉体を含むすべての物質(色蘊)、感受作用 (受蘊)、表象作用 (想蘊)、意志作用(行蘊)、認識作用(識蘊)の五つしか、人間には見つからなかった と。」 「度一切苦厄」:観世音はどんな苦難も例外なく取り除いた 「舎利子」とは、シャーリープトラで智恵第一と称賛されていた人で位の位置づけは、釈尊>観自在菩薩>舎利子」 「釈尊は霊鷲山で瞑想に入っており、パーラミター(六波羅蜜多)を全宇宙に偏在する超越的な場で実践し悟りを開いた観自在菩薩を通じて、釈尊の瞑想が、地上にいるシャリープトラに、広大無辺の響きをもって電磁波のように発せられた と」 「色不異空、空即異色」:あらゆる事物は母なる無の空間、あらゆる事物にその実体はない、母なる無の空間は、あらゆる事物と一体である」 「色即是空、空即是色」:すべては空である。あらゆる事物は、この流転の場の現象である。空がすべてである。流転の場をはなれて現象するものはない」 三法印とは    「緒法無我」+「諸行無常」+「涅槃寂静」---仏教思想の根幹     「緒法無我」:位置により性質が変わってくる。ゼロの位置が1の位か10の位かまたは100の位かで数が変わる。諸法:我々が知覚し認識するすべての事物、それらは決して関連なくして存在できない。おかれた位置によって、内容を変えるだけ。碁石の石が、その碁盤の位置によって、強くもなり弱くもなるように。   我欲が良いとか悪いとか言われるが、それがなければ生きる意欲が無くなってしまう。しかし固執しすぎるといけない。中道でなければならない。 「諸行無常」:すべては変化するという客観的な事実をいう 「受想行識、亦復如是」:目に見えるもの、心に浮かぶこと、やろうと意志すること、自分はこうだと認識していること、それらの自我の全体は、これもまた空である。    五蘊皆空を繰り返している。五蘊とは、色、受、想、行、識       色(肉体)ーーーー(心)受ー感受作用ー楽しい、苦しい、痛い                     想ー表象作用ー好きだ、愛しい、憎いや空想                     行ー意志ーある方向に心が働いていること                     識ー認識作用ー知識、五感を通じてものごとを認識すること    ひとはそれぞれの気質や生育歴を通じて、ある一定方向に人格を形成していく。これはそれぞれの世界観、価値観によって形成される。大切なことはその世界観、価値観に矛盾を生じさせずに、一つの人格を形成すること ここまでで仏教とは、人間の人格を高く評価している点に特徴があると考えます。 一方イスラム教とは、人格を認めているのでしょうか。 イスラム教では、来世と現世をはっきりと分離し、来世では裁判があり、地獄行きと極楽行きに分離されると言われています。 そしてモハメッドー予言者の命令は絶対であることを強要されます。 このような状態では、個人の人格は認められるのでしょうか? ウサーマビンラディンは、予言者に対してはどのようなスタンスで自分を認識されていたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • bakiboko
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回答No.4

>イスラム教典に、なにか矛盾したことが、書かれているのでと考えたわけです。 そりゃあ矛盾したことは書かれていますよ。なんせ本来イスラム教は仏教と同様に殺生を禁じていながら条件付で殺生を認めていますから、もう矛盾の極みです。 しかし、同じような歴史を仏教やキリスト教もたどってきたことは、質問者様はもうご存知のはずです。 私自身は、テロはイスラム教の根本的矛盾が体現されたものというより、人間の道具(ツール)としての「宗教」一般のもつ根本的矛盾の体現であると考えています。 >ほんとうに宗教の自由は保証されていて良いものかです。 正直に言うと、本当は宗教なんてない方が世界は平和なのでは? と思います。しかし「宗教を持つな」という思想もまた「宗教」となりうるという矛盾があります。また「弾圧」はかえって信仰心を深めてしまうといった傾向もあり、やはり宗教の自由が保障される社会の方が健全であると考えます。 >イスラム原理主義は、その一つではなくて単なる邪教と一蹴してしかるべきだと主張されるでしょうか。 >イスラム教の腐敗も進行していないでしょうか? 残念ながら、私はそこまでイスラム教に詳しくないのでこの件についてはなんとも申し上げられません。ただ、一般論として異文化や異なる宗教について、はじめから拒絶・拒否的態度をとることはあまりよろしくないのではないか、とは思います。

koban22
質問者

お礼

有難うございました。 >正直に言うと、本当は宗教なんてない方が世界は平和なのでは? と思います。しかし「宗教を持つな」という思想もまた「宗教」となりうるという矛盾があります。また「弾圧」はかえって信仰心を深めてしまうといった傾向もあり、やはり宗教の自由が保障される社会の方が健全であると考えます。 その通りだと思います。宗教は難しいです。

その他の回答 (3)

  • bakiboko
  • ベストアンサー率28% (31/108)
回答No.3

私自身は日本人にありがちな無神論者です。しかし、その無神論者からしても、 >自爆テロを見ていますと、個人の人格も否定されているのかな~と考えたのですが、そうではないのですか? この見解はイスラム教徒及びイスラム教に対して少々気の毒に思います。 地下鉄サリン事件(=テロ)を起こしたオウム真理教は、自らの教えを仏教であると自称していましたが、それをもって「仏教徒はテロを起こすのだから、仏教において人格は否定されている」と海外のメディアが報道したらどのように思いますか? 勿論質問者様は「オウム真理教は仏教ではない」という立場をとるでしょうし、私もそう思います。しかし、だとしたらイスラム教徒にも「テロを起こす集団はイスラム教を自称しているだけで、真のイスラム教徒ではない」という言い分を認める余地があるでしょう。(実際、公式にはメジャーなイスラム教の指導者は「テロはイスラムの教えに反する」という声明を出しています) イスラム教徒は世界中に13億人ほどいると言われていますが、テロを起こしたりテロを支持したりしている人はその中のごくわずかでしょう。 また、仏教とイスラム教は成り立ちも系統も違いますが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の系統は同じです。キリスト教で「隣人愛」が強調されるように、イスラム教では相互扶助の精神が重要視されています。

koban22
質問者

お礼

有難うございました。 >実際、公式にはメジャーなイスラム教の指導者は「テロはイスラムの教えに反する そうなんですか。知りませんでした。失礼しました。 >キリスト教で「隣人愛」が強調されるように、イスラム教では相互扶助の精神が重要視されています。 そうなんですか。知りませんでした。失礼しました。 >それをもって「仏教徒はテロを起こすのだから、仏教において人格は否定されている」と海外のメディアが報道したらどのように思いますか? それは面食らうでしょうね。 イスラム教典に、なにか矛盾したことが、書かれているのでと考えたわけです。 仏教では、鎌倉時代日本では、僧兵なるものが、浄土真宗の一揆のときに、ちゃんばらやっていましたよね。その後今でもお東さん、お西さんと分裂しましていますよね。 仏教典にも、なにか矛盾したことが書かれていて、ああなっているのではないか調べる必要があると考えたわけです。 そもそも仏教には、宗派が万とあるわけです。仏教典に照らせば、一蹴されるようなしろものではないでしょうか。なぜ万と存在が許されているのでしょうか? イスラム主義にも、そういうわけで宗派が万とあるのではないかと考えます。イスラム原理主義は、その一つではなくて単なる邪教と一蹴してしかるべきだと主張されるでしょうか。 ほんとうに宗教の自由は保証されていて良いものかです。 自分の宗派が一番正しい、葬式はこちらにしないと駄目だとか、 ろくに経典も知らずに私は真の仏教徒だと言っているのです。 創価学会しかり、日蓮宗の分派ですよね。あげくに政治の世界に 公明党として権力を伸ばしてきているわけです。 そして仏教だからと、税金のがれしているのが、池田大作ですよね。 無信論者から見まして、仏教の腐敗は奈良時代から進行していると考えます。イスラム教の腐敗も進行していないでしょうか?実態を知りたいものです。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.2

釈尊は最初に神と霊の話しを禁じましたので神を仏教の話であるというのは仏教で無いです。 仏法は究極との同化です。 宗教はイスラムも含めて神への隷属で人間同士の人格はあっても神からは隷属です。

koban22
質問者

お礼

有難うございました。 >釈尊は最初に神と霊の話しを禁じましたので そうなんですか。知りませんでした。 イスラムでも人格は存在するのですね。 自爆テロを見ていますと、個人の人格も否定されているのかな~と 考えたのですが、そうではないのですか?

回答No.1

もっとも大きな違いは 多神教と一神教の違いです。 多神教は、許容量が大きいのです。 一神教は、唯一絶対神に服従を強いられる 妥協を許さないという特長があります。

koban22
質問者

お礼

有難うございました。 一つ疑問なんですが、仏教は多神教なのですか。 キリスト教は多神教なのですか。

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