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五蘊の想、行、識がわからない。

非常に基本的なことで申し訳ないのですが、五蘊の色(肉体、あるいは広い意味で物質的なもの全般)、受(感覚)あたりは何となくわかる気がするのですが、残りの3つがよくわかりません。(古代インド人ならすぐ分かるのかもしれませんが。) 五蘊皆空、などと言っても「空とは何か」以前に五蘊がわからないとどうしようもないです。 表象作用、意志作用、認識作用、などと言われても言葉が変わっただけです。 たとえば、識を通常の意味の認識と考えた場合、お腹がすいていて、目の前に食べ物があるというのを、まず視覚や嗅覚で捕らえて「これは食べ物だ」と認識してから、「食べたいな」という心の動き(行?)が出てくるように思えます。しかし、それだと、行と識の順番が狂います。 取りあえず、現代日本人は肉体だけ(物質だけ)しか見ない癖があるようですが、お釈迦様から言わせれば、それは1/5でしかない、ということらしいな、とは思うのですが。 まあ、この3つは感覚でとらえた後の心の働きを3つの塊であらわしたものだ、と考えることもできますが、それだと心の世界が1/3になってしまって重みが変わってしまいます。お釈迦様は、心の働きが人間存在の3/5と、大変重いわけですから。

noname#130082
noname#130082

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noname#135843
noname#135843
回答No.4

 こんばんは、Hidocchiです。 > もしかしたら、別の答えの方もいるかもしれませんので、締め切りは少し延ばさせていただきます。  この機会に、十分に思索をめぐらしてみるのも、妙案かと思います。従いまして、他の回答者様と建設的な会話をなされてみるのもよろしいかと存じます。 > 客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます 私の理解では「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない、と思っていましたが、そこらへんも勘違いかも。  ご質問者様の「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない というのがむしろ正しかと考えられます(少なくとも、般若心経含む大乗仏教ではでございます)。  愚生は飽くまで、事象を認識する“心の働き(以下の”五蘊“の定義をご参照ください)”という点から、“主観的”という表現を使用させていただきました。そしてその対義語である“客観的”を挙げ、説明させてもらっただけでございます。 五蘊(goo 国語辞典 からです) 〔仏〕〔「蘊」は梵語 skandha の訳で、集まったものの意〕諸存在を構成する物質的・精神的五つの要素。色(しき)・受・想・行・識の総称。 色は物質的存在、 受は事物を感受する“心の働き”、 想は事物を思い描く“心の働き”、 行は“心の意志的働き”、 識は識別・判断する“心の働き”。 因みに、十二縁起でございますが、般若心経におけます「無“無明”」の“無明”以下は、この“十二縁起”が省略されているというのが通説かと存じます。 > 五蘊皆空から苦しみからの解放につながるかどうか?という方向が問題なんですけどね。  なお、愚生も同じきっかけでございました(笑)。また何かございましたら、ご返信くださいませ。  それでは、ご参考まで。

noname#130082
質問者

お礼

般若心経では、無色無受想行識、あたりから、お釈迦様の教えそのものも無である、と、壮絶に「無」が出てきますね(^^;。 ここらへんの読み方はいろいろあるのでしょうが、仏教でのたとえだと存じますが、河を渡るときには筏が必要だ、しかし、向こう岸に渡ったあとは、いくら役にたったからといって筏を抱えて行く必要はない、という話に関係あるかな?と思います。お釈迦様の法そのものにさえ執着してはいけない、というような意味合いがあるかと。 ただ、そうだとすると「ちょっと待ってください(^^; いきなりそんな先の話をしないでください。私はまだ向こう岸に行っていないんです」ということになって困ってしまうんです。 大乗仏教関係の本などを読みますと、四諦、五蘊、八正道、その他その他は簡単に済ませて、さらに先の話をいきなりされることが多いのですが、まず、私は、お釈迦様の作った「筏」がどのようなものなのかを確かめたい、基礎をしっかりさせたいわけです。 ただ、お釈迦様は、方便とか対機説法とかを使われるので油断できません(T_T)。一応、十二支縁起さえも方便のひとつかもしれない、という可能性もふまえた上で、筏を知りたいわけです。(縁起の考え方をつきつめれば、「無明」さえ、その原因があるはずですから、その原因は、その原因は・・・とやっていくといつまでたっても終わらなくなるはずです。だから、もしかしたら、要するに「無明」を晴らせば苦しみも解消する、ということを納得させるための方便の可能性もなきにしもあらず、と思うのです。)

その他の回答 (4)

noname#135843
noname#135843
回答No.5

 こんばんは、Hiocchiです。 > お釈迦様の”法”そのものにさえ執着してはいけない、というような意味合いがあるかと。 ただ、そうだとすると「ちょっと待ってください(^^; いきなりそんな先の話を  大乗仏教(中間派)では、実際そのような解釈を致します。つまり、”法”なるものも”空”であると です。  もし、お困りならば、初期仏教(とても素直な思想体系です)の本をお読みになられることをお薦め致します。愚生も「般若心経」から始めまして失敗致しました(涙)。  初期仏教の本では、中村元氏のものがわかりやすく、評判も高いようです。愚生も20年以上も前のことになりますが、NHKでお世話になりました。  それから、中間派の「龍樹」等をお読みになりますと、上座部仏教ー初期仏教(”法有”説)から大乗仏教(空観説・中間派)の経緯への理解が進むと思われます。  得られるものは、確かに愚生にはございました。多少時間を要するかも知れませんが、ごゆっくり取り組んでみてはいかがでしょうか。  ご参考なれば、幸甚に存じます。

noname#130082
質問者

お礼

中村元氏はよく引き合いに出されますね。1冊持ってます。 あと、増谷文雄氏の本とか。「行」も行動の意味もあるとも書かれた文献もあるようで。 龍樹に関しても勉強しなければ、とは思っているのですが、あまり哲学的思想的に考えすぎると(分別知を使いすぎると)、かえって迷路にはまってしまう危険を感じたので、後回しにしています。 質問の意図は、我(アートマン)が存在しないことを五蘊それぞれについて確認する、という初期仏教的な作業を自分でやってみたかったからです。そのためには五蘊を知らないと無理だということで。知的だけではなく体験もまじえなければ偏った理解になりそうで・・・。素直な思想体系だからといって、本当に理解するのは簡単ではないと思います。 大乗仏教でも、例えば道元禅師の「眼横鼻直」も、当たり前といえば当たり前のことですが、わざわざその当たり前のことを何故言うのか?と考えれば、仏教というのは、ちょっとやそっとで分かるもんじゃないなあ、と感じています。 それにしても、五蘊に関心を寄せる人は少ないんですかね。しばらくしたら、締め切らせていただきます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

ちょっと長いけど参考になれば、 以下は12支縁起のとある解説ですが、 (1)無明(無知)によって(2)行(人間の行為を形成する思考。滞在的形成力)がある。この行によって、(3)識(識別作用。心)があり、識によって(4)名色(名称と形態=対象)がある。名色によって(5)六処(六入ともいう。心と対象を結ぶ六つの領域で、眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)があり、六処によって(6)触(心が対象と接触する)がある。触によって(7)受(感受作用)があり、受によって(8)愛(渇愛。渇きに似た欲望、妄執)がある。愛によって(9)取(執着)があり、取によって、(10)有(生存)があり、有によって(11)生(出生、生まれること)があり、生によって(12)老死(老い死にゆくこと)愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生起する。 ● この解説は根本的におかしいんですね。 (2)番の「行」から(3)番の識別作用・心が出てくるのですが心は最初から存在しますからね。(1)の無明は間違った知識のことですからね。 また、(1)から(3)までは、想・行・識で置き換えてもおなじですね。 正しい解説は以下ですね。 (1)無明(無知=間違った知識に基づく考え)があるから(2)行(無明に従った行い・行動)がある。この行によって、(3)識(悪しき習慣が作られる)があり、識によって(4)名色(再び生まれ変わる:苦の転生)がある。名色によって(5)六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官が生まれ)があり、六処によって(6)触(感覚)が生まれる。触によって(7)受(感受作用)があり、受によって(8)愛(渇愛。欲望)がうまれる。愛によって(9)取(いろんなものを手に入れる)があり、取によって、(10)有(心の悪しき傾向性、執着など)が生まれ、(11)老(12)死(老い死にゆく)。 (1)から(3)までが前世の業、それによって再び(4)から(12)までが生まれて死ぬ間の説明ですね。 これは昔の僧が作った縁起による苦の転生の説明ですね。 つまり、縁起で説明するやり方ですね。 「色、受、想、行、識」は5支縁起といって12支縁起の簡略バージョンですね。縁起、原因結果を使っての説明ですから順番に意味があるのですね。 この苦の原因は無明、間違った知識に基づいた考えや行動、つまり生きることですから、まず無明から脱出しないとこの苦の転生から出ることは出来ないということですね。 正しい仏法知識、それにもとづく正しい心のありかたや行動・生き方がその答えですといいたいのですね。 無明をゴミ知識という意味で砂上の楼閣とも、哲学では無知の智ともいいますね。

noname#130082
質問者

お礼

十二支縁起は、まだまだ理解していませんで(^^; 取りあえず、お釈迦様の教えとしては四諦とか五蘊あたりから攻めようかと思っている次第です。 ただ、五支縁起と五蘊はちょっと違うようなイメージを持っているんですけどね。 「愛」という言葉も、仏教とキリスト教ではぜんぜん扱いが異なりますね。もっとも、これは、教えの矛盾というより、日本語に翻訳するときに、違った言葉が同じ「愛」という言葉に翻訳されてしまった不運というのがあるように思います。 無明と無知の智との関係、という問題も面白いですが、取りあえず、まだそこまで考えるのは早すぎる、ということで、後回しにしております・・・。 「無我」と「我思う、故に我あり」との関係、なんてのも、追求したら面白そうではありますが。

noname#135843
noname#135843
回答No.2

 ごさんこうになればと思い、筆をとらせていただきました。  原則、仏教では、客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます(つまり、主観的世界です)。 ・想:知識のようなもので、わざわざ”意識しなくても”知っているはたらきです。私たちは、これは○△だ、自分は○△だ、等々、考えるまでもなく既に知っているもの と考えてくださいませ。 ・行:心の中に「何かをしたい」という気持ちが常にあることがわかります。それがこの”行”です。「パンが食べたい」と食べながら「紅茶を飲みたい」とかそういった”意志作用”のこととお考えいただければと。 ・識:「”きれいな”バラだ」と”認識・判断”するのが”識”です。その「きれいだ、バラだ」という”識別判断”をするための”情報や価値基準”が”想”でございます。  従いまして、ご質問者様の仰る通りの定義付けでよろしいかと考えております。  ですが、順番はこの”五蘊”では問題視されないかと思うのですが....   ご参考になれば、幸いでございます。

noname#130082
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 >順番はこの”五蘊”では問題視されないかと思うのですが.... 言われてみれば、五蘊というものを、人間がものごとを認識するまでの「プロセス」を5つにとらえたもの、と思い込んでいたようです。私の思い込みでした。お釈迦様は、プロセスのことだよ、とはおっしゃってませんね(^^;。 大分、イメージがわいてきました。ありがとうございます。ただ、No.1さんとの答えとの食い違いがありますので、もしかしたら、別の答えの方もいるかもしれませんので、締め切りは少し延ばさせていただきます。 >客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます 私の理解では「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない、と思っていましたが、そこらへんも勘違いかも。 まあ、私は哲学や神学そのものより、「ひとつの苦しみを解消するだけでも大変なのに、お釈迦様というのは、すべての苦しみから開放される方法がある、と言っている? 本当にそんなことがあり得るんだろうか?」という方向の興味なので、五蘊皆空から苦しみからの解放につながるかどうか?という方向が問題なんですけどね。 ともあれ、わかりやすいご回答、ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

☆お釈迦様は、心の働きが人間存在の3/5と、大変重いわけですから。 ● 正しい考え方ですね。 さて、五蘊の仮和合というのは後代の説明だと思いますが、その意味は人を分析的に捉えると、「肉体」とそれ従う「感覚」(表面意識)、「思考」、「思考による行動」、及び「思考と行動の繰り返しによる知識(習慣)」の5つになるということですね。 釈尊が説いた仏教は、『思考』が一番大切ということですね。そのためには習慣的知識ではなく正しい知識(仏法真理)を学びなさいといっているのですね。 「肉体」とそれ従う「感覚」などは数十年しかないのだから仮のものですね。「思考と行動それに基づく習慣的知識」このうち思考と習慣的知識、つまり傾向性ですね。これが人の本質であるといいたいのですね。この思考の傾向性を「業」というのですね。 「惑・業・苦」とも表現します。間違った(習慣的)知識に基づいて生きるから悪しき傾向性が生まれ、それが原因で苦が生じる。それの繰り返し転生を断ち切るためにはまず、仏法真理を学び、思考を仏法真理にあわせて日々考え・行動して行きなさいということなんですね。 後代の僧達が説明のためにいろんな造語を持ち込んでいますので言葉で混乱してしまいますね。

noname#130082
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 >「思考」、「思考による行動」、及び「思考と行動の繰り返しによる知識(習慣)」 なるほど、そういう風にとらえることもできますね。 ただ、これだと「行」は「行動」の意味なんですね? >後代の僧達が説明のためにいろんな造語を持ち込んでいますので言葉で混乱してしまいますね。 そこが一番困っているところです(T_T)。 特に、日本の仏教は、オリジナルからかなり変化している様子ですので、私の脳みその混乱が激しくて・・・。

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     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

  •  天則的の識と智との区別

     明治から大正にかけて活動した“悟れるお坊さん”の文章を以下に紹介します。  質問は、この世の真理を追及している皆さん方に、この文章への感想を伺いたいのです。  文面でわからないところは「機制により感覚の方面は識と云ひ観念の方を智に属す」です。  「観念の方を智」、これがうまく解釈できないでいます。  ☆ 天則的の識と智との区別  宇宙《は》本(もと)一観念態とすれば、此処に繋がれる個人も、之全一の個人心なれば本(もと)一体《であって》分別すべきにあらざるも、生理機能の感覚機制に制限せられて、際限あるを免るゝ能(あた)はず。  人の感能によらざる観念と、《人の》感覚とは、一方は無限にして一面《もう一方》は有限なり。環(かん)の内外の内面は狭くして外面は広きが如く、感覚は機制的に制限せられて狭きに反して、観念は無限なり。  吾人が眼を挙(あ)げて天を瞻(み)あげるとき、円形にして際限あるが如くなるも、肉眼によらずして観念による時は無限の観あり。機制による感覚の方面は識と云ひ観念の方を智に属す。  天然の規制を超えたる一大観念たる大円智の一大観念の一員たる自観によりて観ずる時は、絶対唯一の観念態なるを識(し)らん。  認識より見れば、客観界の複雑なる、また物のために障礙せらるるも、観念には単純にして無碍に霊徹し、空間無限の如き世界万象も、同じく同一の観念が主観客観の両面に顕現したる同一性のものなり。  ☆ 内外同一観念  人の感覚は機制に局限せらるるといふも、本(もと)一大観念に繋がれることは認識に於いて示せり。人の瞳は小さくも、眼を放ちて蒼穹の無窮を仰ぐとき、無数の星宿は燦爛(さんらん)として光を放ちて瞳点(どうてん)と交渉す。  瞳(ひとみ)小なりとて広大なる蒼穹を容れて余りあるものは、一大観念よりてなると、《また》個人の観念と霊通するが故なり。  また人の脳裏の感覚的元質なるものは至微幽玄なるも、無辺の空間を収入して尚《、》容(い)るるに余りあり。是また一大観念と自己の心質と同一なる故なり。  一大観念態は本(もと)物心二質同一の故に、肉眼と肉の髄脳等を透して観念を為す。  “絶対”という言葉が使われていますが、これは“相対”に対する言葉として使われていると思っています。このお坊さんは“絶対”をその意味で使われているようです。  私が付け加えた( )の振り仮名や《 》の補足の言葉は適当かと思っているのですが、どうでしょうか。  よろしくお願いいたします。            

  • 魂と心と肉体

    瞑想を通して、「魂と心と肉体」とは別々のものという理解にいたりました。 ------------------------ 魂:自分の本質。死ぬと心と肉体は消滅し、魂だけの存在になる。魂の奥にいけばいくほど深い霊的な世界とつながっており、その中心部は神とリンクしている。 心:魂と肉体を結びつけるもの。魂を汚したりを磨いたりする働きをもつもの。精神と同義。 肉体:魂の宿る器。三次元的物質世界の感覚器官。 ------------------------ 「魂の表面<->心<->肉体の脳」という構図で、心は物質的世界からの情報と霊的世界からの情報の接点であり、心の感じ方により魂や肉体に影響をあたえるものである。と感じるのです。 これが正しいかどうかはおいておいて、仮にこうして見た場合、 例えば 「キリスト教の三位一体とはこのような解釈の側面のあったりするのであるのだろうか。」と、このようなテーマを宗教的や哲学的にはどう解釈するのかと疑問に感じた次第です。 私自身は宗教も哲学の知識も持ち合わせておりません。 また瞑想等によってこのようなテーマに造形をもつかたからもご意見を頂ければと思います。