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精神は 空である。

 色即是空・心(受想行識)即是空であるなら 精神も空である。  精神分析によって認識され規定されている精神の状態も そして精神分析じたいも みな空である。  空即是色・空即是心(受想行識)であれば 精神分析なる行為も精神の状態もそれとして――仮りの現象として――起こっている。   これでよいか?

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回答No.19

ゴータマさんの仏教は、いわば《苦の仏教》、《汚染の仏教》。 対して、密教は、《楽の仏教》、《清浄の仏教》。 大乗は、その中間。ゴータマさんの仏教ではダメだと思いつつも、その未練が残っている。《自性清浄心》や《一切衆生・悉有仏性》を説きながら、その立場に徹しきれていない。不徹底と言えば、確かに不徹底。思想的に甘いところがあると言われれば、甘い、中途半端でどっちつかず。普遍に徹しきれていないから。 《密教》ねぇ~、やれば面白いんでしょうけれども、究極の勝義諦だから、理屈をこねられなくなって、哲学的にはあまり面白くないんですよね~。 何でも魔法のキーワード、《清浄》のヒトコトで片付いてしまうので。 阿弥陀さんもいらないし、仏性や如来蔵、自性清浄心、空さえ不要の世界!! 子供を失ったお母さんには 「阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて また立ち返る 阿字のふるさと」 とだけ言えばよい。 《阿字》とは、大日如来のこと、この宇宙そのもの。 悲しむのではなく、笑ってあげなければ。 「ありがとう、わたしの子供に生まれてくれて!!」 よい年越しを!!

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まだ納得が行きません。  (1)  ゴータマ氏とそのエピゴーネンの――《犯行》のと言いたいのですがその――手口は 決して《中途半端で どっちつかず》ではなく 《甘い》と言って片づける性質のものではありません。  共同体――広く一般概念としての・つまり国際社会としての世界――に《一切衆生 悉有仏性》なる自性清浄心が 一人ひとりおのおのの田んぼとしてあります。そこでは 山から水を引いて来て それぞれの田に満遍なく行き渡るようにしています。  ところが この《最高の牛》さんたちは この水を自分たちの田にだけ引こうとしているのです。  あるいは そのたとえは間違っているとすれば こうです。つまり この水は ゴータマ・ブッダとそのブッダの世界から来ているのであって おまえたちは ありがたいと思え いつもおれたちがおれたちの流儀で水を配分してやるから それに従いたまえと言っているのです。  水は くばってやるから だいじょうぶ。日照りのときには そのように一たん何かが起きたときにこそ ブッダのありがたさが分かるというものなのだが このほとけさまをきみたちは ひとえに拝みなさい。と言っており そのようにしか言っていないのです。そういう共同幻想が 千年二千年はびこっています。人びとは 真綿でくるむようにして締め付けられ あたまをヤラレています。  まじめに研究している場合にこそ この曖昧なモヤモヤ・ワールドがあたまの中に築かれているように思います。  一たん人殺し(物部氏の殺害)をおかして権力をにぎったあとでは 《和を以って貴しと為せ》とおっしゃる。おれたちには逆らうなと。この社会体制をゴータマ・ブッダの引き放った矢が何かの原子核にぶつかってきらめきのごとく散りばめられることになったその共同幻想が 目に見えないかたちで覆っている。支柱となっていて しかも魔法のキラキラ星としてただよっている。この観念の繭。  この秩序方式が終焉を迎えています。  この秩序方式を解体せねばなりません。引導をわたす行為は 《能動的な行為》として 必要です。  ブディストによるブディズム解体委員会を発足させる必要があります。  ブディズムの〔再〕普遍理論化を 全体系にわたって おこないます。  (2)  密教は 一般概念としての梵我一如なる《非思考の庭》類型のもとにあれば だいじょうぶですが それを逸脱してしまえば おかしなことになると考えます。  アミターバ・タターガタもマハーワイロ―チャナ・タターガタも――つまり類型としての梵我一如の梵=ブラフマンが――要らないというのであれば それは そこからは おそらく人間のやりたい放題であって 歯止めは効かなくなるでしょう。  (3)  ★ 阿字のふるさと   ☆ もいいのでしょうが お母さんはかなしいと思いますよ。胸の裂ける思いなのだと思います。思いっきり泣こうと言ってやってからです 阿字のふるさとは。  以上 百点満点の五十点です。ぶらじゅろんぬ教官は きびしいのです。

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noname#215306
noname#215306
回答No.20

空は、充満の勘違いや、未熟な段階の理解のようですけど?・・・

bragelonne
質問者

お礼

 みよんよんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  よく読み取れないのですが  ★ 空は、充満の勘違い  ☆ つまり空は ほんとうは《充満》を意味する。のに 質問者は《空っぽ》という意味に採って勘違いをしていますよ。――という意味でしょうか?  つまり そういう勘違いをするようでは  ★ 未熟な段階の理解のようですけど?・・・  ☆ どうするんだ? それでは話が始まらないではないか?――という意味でしょうか?  初めて聞くお話ですので 説明を補足要求としてお願いしたいと思います。    そうですね。  《空》には じつはふたつの概念のあり方がありますね。    ひとつは ものごとを・つまりは世界を《空》と見るというその意味での空。これはつまり 《実体がなく 自在・自存のものはない》言いかえると《世界のものごとは すべて仮りのものである》という意味です。  もうひとつは そのような空観を根拠づけるその元になっている何ものかのことです。言いかえると その仮りに呼ぶところの《絶対としての空》は それのみは 人間によってはついぞ認識しえない何ものかなぞの場である。といった概念として想定するものです。  言いかえると 《絶対としての空》とは 経験世界におけるもろもろの相対的なものごとであることを超えている。因果関係からまったく自由なナゾとしての存在(または非存在)であり あるいはそれは有る無しというような認識をも超えている。《実体》というものが有るか無いか この問いをも超えている。実体であるかないか これが人間にはついぞ分からない。いえ 分かるか分からないかが 人間には分からない。そういうナゾの何ものかのことです。だから雲をつかむようなものですから 《霊》と言っています。  つまりは この《霊としての空》から見れば 世界のものごとはすべて 《仮りのもの》である。これは 空観だと考えます。うつろいゆくものであり 人間にしてもその身も心でさえも 朽ちゆくものであると語っています。  果てさて 《充満》としての空とは どういうことでしょう? よろしかったらおしえてください。

回答No.18

こんばんわです。 ☆☆☆☆☆☆ 弱ったな、思わぬところから火の手が上がってしまった。 「《自性清浄心》になる」と書いたのが迂闊だったのか。「《自性清浄心》の活動性が完全に発現する」とでも書けばよかった、とすこし後悔!! でも、これは言葉遊びだよな。結局のところ、同じことを言っているのだから。 現実態の心 = よごれ + よごれに基づく心理作用 + 可能態としての心・自性清浄心 では、ダメですか? ちょっと、キリスト教のスコラ哲学っぽいですけれども。 で、  現実態の心 = 存在(esse)  可能態の心・自性清浄心 = 本質(essentia) とする。 《現実態》よりも、《現勢態》の方がいいのかな、用語的には。。。。。。 《質料因》や《形相因》とか出されると、ちょっと困るんですが。 スコラ哲学によると、「キリスト教の神さんは、純粋形相であり、純粋な現実態」だそうだから、何とかなるのかな。(スコラ哲学に責任転嫁する) なおも食いつかれたら、 この質料因と形相因の二つは、《空》とその同義語の《無相》で誤魔化す。それは迷いの心が勝手に作り出した幻影のようなものですと、誤魔化す。(ポリポリ)。 こんなことを書いたら、敬虔なブディストの皆さんからクレーム殺到か(笑い)。 「眠り猫、お前は、自性清浄心をアートマンとしているぞ」とか、 「お前の考えは、アビダルマ的だ。《法体恒有》説そのものだ」とか。 でも、言葉や概念で説明しようとすると、概念の対象の存在を仮定しないことには、どうしようもないじゃん。 どうしても、イデア的なもんが必要になるのよ。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  つまりくどいように述べますが 《有漏の種子がキレイさっぱりなくなった状態》としての自然本性から出発しているはずです 人間は誰でも。要らないものがくっついたのだから それを取り除けばよいし かんたんに取り除くことが出来なくてもそれは 仮りの現象として起こっているに過ぎないと構えていられる。――ということでなくては おかしい。 ~~~~~~ 《構えていられる》ではちょっと困るのですが、そうです。 大乗起信論の《本覚門》は、この立場ですよね。 でも、わたしは、そのことを《始覚》から長々と、回りくどく説明します。 でないと、《仮の存在》の大きさが蔑ろにされる危険性があるので。 ~~~~~~  つまり 人間のよきところを活かすように努めるのではなく 必ずしもそうではなく よきところ(清浄心)より先に自分たちのオシエとその教団の繁栄とがある。というように思っている節がある。のではないでしょうか?  自性清浄心は 誰かが説いたから 人間にそなわっているのではないわけです。そのように説かないのであれば それは 自己の田に水を引こうとするわざになるでしょう。 ~~~~~~ 《自性清浄心》や《如来蔵》なるものが本当に存在するのかどうかは分かりませんけれども、 ゴータマ・ブッダがそれを唱えたから、それが存在するのではありません。 我田引水かどうかは分かりませんけれども、既成教団化した仏教教団が、これはゴータマ・ブッダのみが説かれた教えである、と言うことはあるでしょうし、実際にあったのでしょうね。 今でも、《自性清浄心》なる言葉をたてに、 「人間を罪・原罪をおう存在ととらえるキリスト教とはまったく異なり、仏教は人間を《清浄》な存在ととらえる」 と、仏教の優位性を説かれる仏教学者もいるくらいですから。 ですが~、 般若経などでは「あれも空だ、これも空だ」と、こちらが辟易とするまで《空》ということばを並び立てますが、 同じく代表的な大乗仏典である《維摩経》では、真っ先に《清浄》という言葉が出てきます。「この娑婆世界は清浄だ」なんて書いてありますよ。密教の《理趣経》は、さらに進んで《欲望清浄》!!「欲望とて空なんだから、ベクトルの向きを変えれば、人助けになる、利他につながる」となる。人間の生を絶対肯定している。 なので、読むお経によって違うというところでしょうかね~。 根クラなゴータマ仏教や般若経なんか捨てちゃって、根アカな維摩経を読むなんていかがでしょう。 大体、般若経を読んだって、そこに何が書いているのか、分かりませんって(笑い)。 そして、大乗仏教のオシエについて本当に学びたい人は、大宝積経の《カーシャパの章》(迦葉品)でしょうね。 仏教の基本教義を学ぶにあたって、これを越えるお経は、たぶん、ない!! ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  そうしますと どうなんでしょう? ほんとうに死について皆目分からなかったのか。それとも そのときだけ気が転倒していて 気づかなかったし わが子の死をみとめたくないし みとめようと決してしなかったのか。 ~~~~~~ 現代と時代が違い、たぶん、お呪いが盛んな時代でしょう。 一時的な錯乱の可能性はありますけれども、むしろ、「あの噂の高いゴータマならば、死者を生き返らせることができる」と信じていたのではなでしょうか。ここは、そう読むべきだと思います。 こうした心理状態では、「それはできない」と告げられたとしても、「なぜ?」、「なぜ、わたしには?」となるばかりだと思います。 もっと即物的なことを言えば、「大量のお金や捧げ物が必要なの? それがあれば……」と誤解される危険性もあった、と思います。 その工面のために、身を売るなどの行為をおかしたかもしれませんし。。。。。。 時代と社会性を考慮に入れて読むべきではないでしょうか。 ~~~~~  ならば 単純にときを俟てばよい。どうしても気が変になるほどの動顛振りであったなら じっといつまでも付き添っていてやればよい。それだけのことではないのでしょうか? ~~~~~ というわけで、これは賢明ではないと思います。 どうしても、その時に、彼女に「死者を蘇らすことはできない」という事実を理解させる必要があったのではないでしょうか。 ~~~~~  つまり もしおっしゃるように《〈巧みなる手引き〉(方便)は大切なんだな~》ということになるのであれば それはあくまでもこの《方便》が主役であるということになっているのだと考えます。編集されているのだと。  あるいはつまりその方便を説く人もしくはそのオシエが主役に登場してくる説話なのだなぁという受け取り方になるはずなのです。  つまりは その子の死と母親の狼狽は むろんヤラセではありませんが ちょうど《方便》を使うのによい事例だということで採り入れて オシエの問題としてその内容を展開した。のではないでしょうか? ~~~~~~ いやいや、《わたしが読むと》ですよ。 と同時に、このお話は、釈尊の実際の説教がどのようなものであったのか、その引き合いによく引用されるお話です。 いわゆる《対器応法》です。ゴータマ・ブッダは理解力に応じて、その教えを説いた。 教えの内容は同じでも、その説き方が人によって違った。 そして、必ずしも言葉だけで教えを説こうとはしなかった。 もっともその人にとって有効な方法で教えを説いた。 そうした能力を、ゴータマ・ブッダは有していた。 別に手間を惜しんだ分けでもなければ、教えを出し惜しんだわけでもない。 こうしたことは信じるべきだと思います。 言葉がすべてではないので。 ~~~~~~  必要ないものなのです。あるいは その方法もよいが わざわざそこまでのことをしなくともよい。という事態なのです。  ただの自己宣伝 なのではないでしょうか? ~~~~~~ それは勘ぐりすぎですよ。 ここは素直に読むべきだと思います。 と同時に、民間呪術やバラモン教などの祭式否定の教えも含んでいるのかもしれませんね。 そんなことをしても、無意味であると、平易に読者やこのお話を聞く人に伝える意図が仏伝作家にあったのかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 納得行きません。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ どうしても、その時に、彼女に「死者を蘇らすことはできない」という事実を理解させる必要があったのではないでしょうか。  ☆ 納得行きません。なぜなら この母親は 近所の家を一軒一軒まわって行って ことごとくどの家でも葬式を出しているということなわけです。でしたら 人の死ということについて じゅうぶんすでに知っているはずです。近所で葬式がおこなわれたからには すでに経験しているはずなのです。  ただただその時には わが子の死ということで気が動転していただけだと見るのがふつうです。  まさかまだ年端の行かない幼い母親であったとしても 《死者をよみがえらせることができない》ことくらいを知らないという法はないでしょう。  ただしもっとも そのベストアンサーでは 次のような尾ひれもついています。これについては 話が別だと見ておきます。  ◆ ~~~~~~   お母さんのあたまも冷静になってくる。  その時ふと気が付いたのが、  「私はこの子を、生きているこの子は大切で、死んでいたら必要ないと思っていたのではないか。確かに、我が子が死んでしまったことは悲しい、けれども死んでいたってこの子はかわいいわが子のままだったじゃないか。そうか、死んだこの子に『必要ない』と言い続けこの子を殺していたのは、母親である私だったのではないか・・・」  それからこの母親はお釈迦様の元へ行き、  「あなたは我が子を生き返らせてくださいました。この子はこのままでかわいいわが子でございました。ありがとうございます。」  と、深々頭を下げられた。  ~~~~~~~~  ☆ ここまでの別の筋がつきまとっていたとは 誰も分かりません。話が別だと見ておきます。  ○ もしマナ識やアーラヤ識が中性(無記)であるなら余計に 無明や苦から出発してその解脱や明知への転換を説くというその順序にかんして言えば それは ただのマッチポンプ方式での《衆生救済》の手口だと考えられるという問題。  ☆ 次のような図式で捉えるなら いわゆるブディズムは 最初の(α)の自性清浄心を抜きにして話をこしらえている。このような物言いです。   ○ 自性清浄心のはたらき ~~~~~~~   (α) 自性清浄心をやどす《身と心》    (α‐1) いわゆるクリスチアニズムでは この自性清浄心の状態から《原罪》が生じたという要因を理論(神学)の中に置いて あとでそれがイエスによってあがなわれるという構成になっている。つまり ひとつのマッチポンプ方式でオシエがつくられている。  じっさいには 《へび》は 空である。物語の要素として登場するのみ。  それにしても 仮りに原罪を欠かすことの出来ない要素だとしても イエスのあとでは いちいちマッチポンプは要らなくなっている。   (β) 《有漏の種子》――欲望から何から世間のシガラミのようなものでしょうか――が身と心にくっつく。溜まる。言いかえると アーラヤ識やマナ識はそれじたい中性だが ただちに無明のはたらきが現われてのように 自分の内からも外からも 煩悩のゴミが溜まってしまう。    (β‐1) 修行によってこの有漏の種子を押さえ取り除く。   (ω) さとりにいたる。  ~~~~~~~~~~~~~  ですから 即身成仏ないし即得往生を打ち出すなら (β)即(α) というかたちにおいて(ω)のさとりがある。得られる。(β‐1)の修行は要らない。有漏の種子も 空である。自性清浄心でさえ 空である。それらは仮りにこの経験世界にあっては現象しているが 空としてみればこれらを引きずることはない。いくら悩まされたとしても 空である。つまりその意味で 即身成仏なのだというのが――その動態として・過程として―― われわれのすがたである。  ですから もし  ★ ~~~~~  現実態の心 = よごれ + よごれに基づく心理作用 + 可能態としての心・自性清浄心  では、ダメですか?  ~~~~~~~~  ☆ というようなあり方として捉えているのだとすれば たぶんこの《よごれ》やそれによる心理作用を さとりの当体は 引き受けているということなのではないかと見ます。  自性清浄心は そのための(=引き受けるための)想定上の根拠ですが じつは実際には これは霊ですから いっさい人間には分かりません。しかも生まれてから生きて来て どうも清浄心だとかブッダターだとか神の霊だとかと聞くと それらはどうもわが身と心にやどっているのではないかと うすうす さとっている。というように説明するしかないようなモノです。コトです。  という話において 人間は即身成仏としての動態を生きる。その発進は ただただこの雲をつかむような清浄心を心に受け容れるというときわが心に《非思考の庭》が成ることによってである。  そうでなければ ブディズムは我田引水のオシエであると成ると考えます。修行が不可欠だと言い張る場合ですとか(つまり 即得往生を言わない場合) あるいは オシエはブディズムでなくてはならないとやはり言い張る場合にです。  普遍理論を言おうとしつつ その立ち場は わるく言えば蛸壺と言ってもよいほどの特殊な自己宣揚的な立ち位置を固めている。のではないでしょうか? 自分で苦を言い無明を説いて火を擦っておいたその煩悩の火を今度は消すためのポンプ このポンプは われらの陣営の中にこそあり。ほかには無いのだと言っているのではありませんか?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の次の語句を 言い直します。  × 自性清浄心でさえ 空である。  ○ 自性清浄心でさえ その言葉・その概念としては 空である。

回答No.17

こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ たぶん、ビックリなさると思うのですけれども、 第七識である末那識も第八根本識であるアーラヤ識も、ともに中性です。これ自体は悪でも善でもありません。 で、善・悪・中性(無記)の区分があるのは、眼~身識の《前五識》と第六識である《意識》です。 マナ識は、アーラヤ識を常住不変の《アートマン・我》と勘違いし、それにとらわれていますけれども、これ自体はあまり悪くない。《有覆無記》、無明に覆われているけれど、マナ識自体は中性だというわけです。 気絶をした。熟睡(ノンレム睡眠状態)している。意識がない。でも、突っついたりすると、自身の身体を守ろうとするかのような反応をする。意識がないのに、おかっしいじゃないか。 と言うわけで、 こうした生理的反応・機能をマナ識と呼んだんじゃないですかね。 こう考えると、マナ識が中性であるということが納得いただけるかと思います。 パワーは強くない。しかし、恒常的にこのマナ識は働いている。しぶとい。なので、末那識のことを《恒審思量》と呼んだりもします。 で、アーラヤ識は、ま~、《種子・bija》を入れる容器みたいなものです。中性。善・悪・無記の区別があるのは、その中に詰まっている《種子》(習慣性みたいなもの)です。ただし、種子は未発現のエネルギー体のようなもので、これ単独で何かが起きるわけではありません。この種子が芽吹くには、お水をやるなどの何らかの縁が必要になります。 で、自力派のブディストは、修行によって、発現前にこの《有漏の種子》を根絶しようと頑る。そして、それがキレイさっぱりなくなった状態が、悟りであり、心の有り様としては《自性清浄心》になったとなる。 まぁ、《自性清浄心》になるという言い方も変と言えば、変なんですけれども。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  つまりいまちょうど わが子を死なせてしまった母親がゴータマにさとされることになるというケシの実をさがす説話が 質問に出ていましたね。  もう生き返らせることは出来ないが 死んでしまった赤子であっても心の持ち方としてはその母親の内において ただ悲しむのではなく生まれて来てくれてありがとうというようにまでなってその子は生き返ったのだという落ちになっているのだとか。 ~~~~~~ 私がこの説話を読むと、《巧みなる手引き》(方便)は大切なんだな~、となります。 子供を失い半狂乱のお母さんに「死者は二度と蘇らない。誰にも蘇らすことはできないよ」と教えを説いても、このような心理状態では、その教えを聞く耳は持っていないでしょう。 そして、このことを、そのお母さん自らが気付かない限り、根本的な解決にならない。 というのは、ゴータマさんが「そんなこと、できっか!!」と追い返しても、その母親は違う人を訪ねて、同じことを懇願するに違いないからです。 だから、ゴータマさんは「一度も死者を出した家からケシの実をもらってきたら、子供を蘇らせてあげるよ」とその母親に語った。 お母さんは、歓喜して、ケシの実を求めて、何軒も何軒も家を訪れた。 しかし、一度も死者を出したことのない家などあろうはずがない。 そして、その母親は、次第に自分の行為の虚しさに気付いた。 「人間は必ず死すべきものであり、死者を蘇らせることはできない」 のだと。 で、わたしは、 「なんと親切でお優しい人だ」 そして、 《巧みなる手引き》は重要なんだなぁ~」 となります。 ここで、ゴータマさんは、「死者を一度も出したことのない家からケシの実をもらってきたら、そのこどもを蘇らせてあげる」と語っただけで、一切、オシエを説いていない。 「子供が死んだことを悲しむな」とも、「死や愛する者との別れが苦である」とも言っていない。 「死者は決して蘇らない」とも語っていない。 ただ、彼女の悲しみや苦しみが少しだけなくなることのお手伝いを、チョッピリしただけ。 で、彼女の悲しみや苦悩を減らしたのは、彼女自身。 これは、一種のカウンセリングと呼べるのではないですかね~。 ちょいと余談。ゴータマさんはその母親に嘘をついたのかどうかを検証!!  P=《一度も死者を出したことのない家からケシをもらってくる》  q=《その子供を蘇らせてあげる》 とすると、ゴータマさんの発言は  p⇒q (「⇒」は「ならば」) Pは命題として「偽」だから、「p⇒q」という命題は、命題qの真偽に無関係に、常に《真》。 よって、ゴータマさんは、嘘をついていない!! 論理学的にこういうことになります。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  つまり ゴータマの説諭による癒しと和解なのではなく 当人の自性清浄心の発露においてみづからがみづからをすくっている。 ~~~~~~ ですよ。 ゴータマさんの説諭やお経、教え自体に人を救うチカラなんかありやしません。 自身を救うのは、《如理作意》であり、《自性清浄心》や《如来蔵》のハタラキです。心の自浄能力であり、自然治癒力のようなもの。 この《如理作意》や《如来蔵》のハタラキをアミターユ・ブッダと呼ぼうが、マハー・ヴァイロチャナ・ブッダと呼ぼうが、南無久遠の本仏と呼ぼうが、それは言葉の違いだけです。まったくの慣習。 《神の愛》や《神の恩寵》と呼んだってかまわない、です。 まあ、多くのブディストは、仏教は無神論だ、《神のホニャララ》では困る、とクレームをつけるでしょうけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 ふーむ。なかなかむつかしいですね。  こんにちは ねむりねこさん。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ まぁ、《自性清浄心》になるという言い方も変と言えば、変なんですけれども。  ☆ この一点ですね。わたしの疑問は。  マナ識もアーラヤ識も 中性(無記)だと分かりましたが それでも無明の種子がくっついて来て溜まる。その発芽を押さえ無くすために修行する。  ★ ~~~  で、自力派のブディストは、修行によって、発現前にこの《有漏の種子》を根絶しようと頑る。そして、それがキレイさっぱりなくなった状態が、悟りであり、心の有り様としては《自性清浄心》になったとなる。  ~~~~~  ☆ これはやっぱしおかしい。  すでに初めに自性清浄心であるゆえに たとえ有漏の種子が縁とともに発現しようとしても 発現しつつも それも空だと見ていることができる。  つまりもし中性であるとすれば 有漏の種子が溜まってもそしてその発現の縁が現われたとしても その中性のままであればよいわけです。ぜんぶ空だと見ていることができる。    つまりくどいように述べますが 《有漏の種子がキレイさっぱりなくなった状態》としての自然本性から出発しているはずです 人間は誰でも。要らないものがくっついたのだから それを取り除けばよいし かんたんに取り除くことが出来なくてもそれは 仮りの現象として起こっているに過ぎないと構えていられる。――ということでなくては おかしい。    ですよね? もしそうならないのなら やっぱしマッチポンプ方式のオシエであり説法であるとなります。  つまり 人間のよきところを活かすように努めるのではなく 必ずしもそうではなく よきところ(清浄心)より先に自分たちのオシエとその教団の繁栄とがある。というように思っている節がある。のではないでしょうか?  自性清浄心は 誰かが説いたから 人間にそなわっているのではないわけです。そのように説かないのであれば それは 自己の田に水を引こうとするわざになるでしょう。  微妙ですが 重大な問題だと見ます。  ★ ~~~~~~~  ここで、ゴータマさんは、「死者を一度も出したことのない家からケシの実をもらってきたら、そのこどもを蘇らせてあげる」と語っただけで、一切、オシエを説いていない。  「子供が死んだことを悲しむな」とも、「死や愛する者との別れが苦である」とも言っていない。  「死者は決して蘇らない」とも語っていない。  ただ、彼女の悲しみや苦しみが少しだけなくなることのお手伝いを、チョッピリしただけ。  で、彼女の悲しみや苦悩を減らしたのは、彼女自身。  ~~~~~~~~~  ☆ これはですね。いまから詭弁を弄しますが まだ納得し得ません。  つまり 問題は 子どもの死をどう扱うかであり 付け足しとしては あんがい死者の生き返りというのは――復活の問題とはまったく別に――あるようなのです。だから ほんとうに死んだのかの確認の問題が 付属していると考えます。  付属の問題はもう措くとしますが ではその母親は 子どもの死あるいは人間の死について どう受け止めていたのか? あるいは 人間の死をみとめることが出来ないのか または 誕生は分かるが死去ということがそもそも分からなかったのか? という問題にしぼります。  そうしますと どうなんでしょう? ほんとうに死について皆目分からなかったのか。それとも そのときだけ気が転倒していて 気づかなかったし わが子の死をみとめたくないし みとめようと決してしなかったのか。  いづれの場合にしても つまりあとで人間の死というものをみとめ受け留めることが出来たことからすれば いづれの場合にしても《死が分からないわけではなかった》と捉えられます。  ならば 単純にときを俟てばよい。どうしても気が変になるほどの動顛振りであったなら じっといつまでも付き添っていてやればよい。それだけのことではないのでしょうか?  つまり もしおっしゃるように《〈巧みなる手引き〉(方便)は大切なんだな~》ということになるのであれば それはあくまでもこの《方便》が主役であるということになっているのだと考えます。編集されているのだと。  あるいはつまりその方便を説く人もしくはそのオシエが主役に登場してくる説話なのだなぁという受け取り方になるはずなのです。  つまりは その子の死と母親の狼狽は むろんヤラセではありませんが ちょうど《方便》を使うのによい事例だということで採り入れて オシエの問題としてその内容を展開した。のではないでしょうか?  つまり その事例を採用した時点で オシエの自己宣伝のためのヤラセというようにもはや舞台が変わっています。  たしかに 最後にはおっしゃるように・つまり  ★ ~~~~~    ☆ つまり ゴータマの説諭による癒しと和解なのではなく 当人の自性清浄心の発露においてみづからがみづからをすくっている。  ですよ。  ゴータマさんの説諭やお経、教え自体に人を救うチカラなんかありやしません。  ~~~~~~~~  ☆ というふうにめでたしめでたしに終わるようなのですが そこが曲者です。  なぜなら 《いつまでも一緒に付き添っていてやって ときを俟てばよい》という処方箋と同じ結果が出るからと言って それとは別の処方箋つまりいまの方便の駆使でも同じことだとはなりません。  なんでゴータマの方便としての説諭が 話の主役に成らなければならないか? ――ここにすべてのからくりがあります。  あの理数系のねむりねこさんをしても  ★ これは、一種のカウンセリングと呼べるのではないですかね~。  ☆ という批評を述べせしめたこの説話ないしそこでの方便 これが くせものです。  必要ないものなのです。あるいは その方法もよいが わざわざそこまでのことをしなくともよい。という事態なのです。  ただの自己宣伝 なのではないでしょうか?  ★ 心の自浄能力であり、自然治癒力のようなもの。  ☆ というように締めくくられるのでしたら 方便は問題ではないはずなのです。主役ではないはずなのです。しかもカウンセリングの問題でもないはずです。  ですから もっと言えば その母親にしてみれば たしかにあれこれ言われたとおりにおこなってみた結果 やっと死についてみとめることができた よかったよかった。ではあるのですが そんなことなら――そういう結果であるのなら―― わざわざケシの実をさがすようなことをしなくても ただただしばらくときを置いて よく考えてみたらどうか? とでも言ってもらえたら 何でもないことだった。と思うはずです。    つまり早い話が ゴータマは わたし(=母親)をバカにしたのか? と思うのがほんとうの落ちなのです。  もし《死》について生まれてこのかたまったく知らなかったのだとしたら どうなるか?  もしそうなら どんな方便も効かないでしょう。  効くのなら ときを俟てばよい。だけなのです。    詭弁でしょうか?

回答No.16

仏教の用語で言うと、 記憶は《念・smrti》ですね。念力とか念仏の《念》です。  smrti:remenberance. √smr  smr:remember 陀羅尼(ダラニ)も記憶に関係する言葉です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC 理解などの《解》は、《mukti》や《勝解・abhimukti》らしいのですが、  mukti:release. √muc  muc:release で、《mukti》は《解脱》を意味するらしいんですよ。《解》は文字通り《解き放たれる》の意味。なので、《mukti》が《了解》の意味になるのかまでは、ハテナ?です。 《知解》はハテナ? 活用がよく分かりませんけれども、jnana-muktiとか言うんですかね~(ポリポリ)。 アーラヤ識の《alaya》は、収める、潜む、執著・愛著(の対象)の意味です。  万物を生み出す能力・チカラ(シャクティ)である《種子・bija》を収めるから。  潜在意識だから、潜んでいるから、  第七識である《マナ識》の執著の対象だから、 アーラヤ識なのだとされています。また、収めるの意味を強調して、アーラヤ識は、《蔵識》とも呼ばれます。 アーラヤ識は、別名《阿陀那識・adana-vijnana》とも呼ばれるのですが、なぜ、アーダーナ識なのかが分かりません。adanaは、(身体の)《維持》《保持》の意味らしいのですが、 adana:eating food. √ad ad:eat aadaana:スープとか、なんか食べ物 なんですよ。 身体は、食べ物で養われるから、adana-vijpnanaなんですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。いろいろありますね。  まづは ご回答をありがとうございます。  アーラヤ識は記憶ではなく マナ識も意志とは別。ですか。  中立・中性の概念ではないのですね。  《解》も 解き放たれるのが 渇愛からだとすれば 何でも苦や無明から出発しているのですね。  中立・中性の自然本性が 自性清浄心であるってわけではないのですか。  まづ解き放たれなくては 光り輝くこともないのですね。  やっかいですね。いまさらのことですが。  記憶すら解脱の方向への《念》なんでしょうか。そこまでではないでしょうか。  ううーむ。アン‐アートマンを言う割りには 込み入っています。  すんなり《空》を言うのかと思ったら そうだとすると 無明なり煩悩なり《苦》を初めに打ち出したことから これを打ち消すためのオシエであり修行なのでしょうか。  これは ちょっとおかしな雲行きです。  かつて ゴータマの説き方は マッチポンプだと言ったことがあります。無明を言い苦を説く。けれども あとで明知への転換を説き解脱を指し示すのなら なぜそれを先に言わないのか? そのような順序でしか言わないのなら それはただのマッチポンプ方式である。と。  つまりいまちょうど わが子を死なせてしまった母親がゴータマにさとされることになるというケシの実をさがす説話が 質問に出ていましたね。  もう生き返らせることは出来ないが 死んでしまった赤子であっても心の持ち方としてはその母親の内において ただ悲しむのではなく生まれて来てくれてありがとうというようにまでなってその子は生き返ったのだという落ちになっているのだとか。  火がついた。ので 消した。心に穴が開いた。ので 心の持ち方で埋めた。  どうもこの方程式は ちょっとおかしい。のではあるまいか。  もともと自性清浄心であり そのことに気づく。のみ。なのではないか。  オシエなどは介在しない。媒介なしのさとり。即身成仏。即得往生。  種も仕掛けもないという《非思考の庭》における不思議な種と仕掛け。  ◆ 悲しまないのではなく「悲しみながら」、苦しまないのではなく「苦しみながら」、私たちはそれでもそのことを背負って生きていくことができる。  ☆ いえいえ。色心は即 空。空は即 色心。  ですから 大いにかなしむ。とことんくるしむ。それでも 空だと分かっている。空観において生きる人の境地が それこそ生体電気信号なる電磁波に乗って 相手に伝わる。ゆえに その人も同じようになって 空において苦しみ悲しむ。  つまり ゴータマの説諭による癒しと和解なのではなく 当人の自性清浄心の発露においてみづからがみづからをすくっている。  さて ツッコミをどうぞお願いします。

回答No.15

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ 質問には直接関係しないのですが、 仏教で《こころ》をあらわすサンスクリット語には三つあるんですよ。 citta: thinking, mind,heart etc. √cit 漢訳では《心》の字が当てられます。《考える》に重点が置かれる。 語源的には違うとされていますが、√ci(集める)に注目し、《こころ》全体みたいな意味もあります。受・想・行・識を含み、いちばん意味としては広いそうな。 manas:mind. √man 漢訳では《意》の字が当てられます。《思う》に重点が置かれる。《意志》っぽい面が強くなります。 vijnana:act of discerning. √jna 漢訳では《識》。《知る》ことに重点が置かれる。 で、ちょっと変なことを考えました。 『ゴータマさんは、ダンマパダで《manas・mano》を使いる。 インド大乗仏教は、《vijnana》を多用。たぶん、アビダルマも。ヴェーダ以来の知識偏重のためか。《意》に重視を置いたゴータマ仏教がバラモン教化した? 変貌を遂げた?? 中国仏教では、《心》という言葉を好んで使ったらしい。考えることが好きな中国人の性格にフィットした? 華厳・天台というインドには全くなかった形而上学を作り上げたもんな、考え出したものな、中国人。 日本人は、モノの哀れ、情や情感で仏教を理解しているよな~。親鸞仏教は、情念、情動の仏教だし、日蓮系の仏教は情熱だし。この二つが日本で流行るわけだ。禅は禅で、虫の声を聞いて悟ったとか、葉っぱがヒラヒラ舞い散ったり、月を見てハタと悟ったという話も聞くし。。。。。』 などとロクでもないことを考えたりもしてみました。 同じ仏教でも、時代とところによって、《こころ》のとらえ方、解釈が違う??? ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ★ 般若経とかでいう《光り輝く心》のことか ───。そして、これが《大円鏡智》、マハヤーナ・ブディズムの究極の智慧。  ☆ つまりあるいは 自性清浄心をすでに掲げているその行き方とは 同じことだと見る立ち場です。    たぶんそうははっきりとはおっしゃらない。だけなのではないか? どうでしょう? ~~~~~~ 《始覚》がベースなので、できるだけ《本覚》の面は出したくない。 《始覚》で足りるならば、《本覚》を出さない。 これ、私のポリシーなので。 ~~~~~~  これはまた大胆な。  そこまで大上段に構える必要はないのではないか、という感じがします。  ~~~~~~  ☆ という大胆で大上段に構えた発想であり行き方なのだと見るのですが どうでしょう?  ちがっているとすれば どこでどのようにでしょう? ~~~~~~ というか、《即身成仏》や《即得往生》という言葉を出すと、ドン引きしたり、強い警戒感を抱く人が多いでしょう。 と言うわけです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~   ○ たとえば座禅を お寺だとかの決まったところでするのではなく ごくふつうに生活日常の中で 自分ひとりでいるときにせよ相手と面と向かって話し合っているときにせよ その心構えとしては《座禅》をおこなっている。という事態 これは 考えられませんか?  ですから 座禅に限らず ヨーガにしてもほかのもろもろの修行全般について あるいはまた瞑想体験等々にかんして すべてそれらを 実際の生活の中で 言ってみれば四六時中おこなっている。――こういうことは 考えられないでしょうか? ~~~~~~ 禅家さんの方では、日常生活における行住坐臥すべてが禅(の修行)なのだ、みたいなことを言いますね。 その根拠は、僕が思うに維摩経です。 ~~~~~~~ 「(ほんとうの座禅というものは、)身体も心も三界のなかにあらわれないように座禅すべきなのです。滅尽(定)にはいったままで、しかも行・住・坐・臥が現れているように座禅しなさい。すでに獲得した(聖者の)姿を捨てないままで、しかもふつうの凡人のような性格をあらわすというように、座線をしなさい。(中略、)輪廻に属する煩悩を断たないままで、しかも涅槃にはいることにもなる、座禅をしなさい。大徳シャーリプトラよ、すべてこのように座禅を行うならば、世尊は、彼を座禅者と呼ばれるのです」 (中公バックス 大乗仏典 《維摩経》) ~~~~~~~ 維摩ことヴィマラキティーが何を言っているのか、さっぱり分かりませんけれども。 なにかスゲ~ことを言っていることだけは、直感的に分かります。 ちなみに、座禅と行住坐臥に関係したところだけを、眠り猫が嫌うクマラジュウ訳にしたがうと、 ~~~~~~ 一切の精神作用を滅した禅定から起たないでしかももろもろのふるまい(行住坐臥)を現ずることこそ安座なのです。 (筑摩書房 大乗仏典 中村元訳 《維摩経》) ~~~~~~ となります。 クマラジュウ訳ですと、《行住坐臥》と《座禅》の関係性が見えてくるようです。 少しアレンジすると、《行住坐臥》≒《座禅》ぽい思想が出てくるように思います。 と同時に、 逐語訳であるチベット語訳と羅什訳を比較すると、羅什訳の問題点が浮き彫りになってくるようにも思われます。 やっぱ、羅什訳は危険。眉にツバをつけて、羅什訳は読まないと(ポリポリ)。 などと細かい詮索は抜きにして、 座禅やヨーガの境地や体験が体の隅々に行き渡ればいいじゃないですかね~。 そうすれば、行住坐臥の中に自然とその境地が現れるであろうし、 行住坐臥がそのまま禅やヨーガになることもありうるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ちょっと外へ出かけたら 世間さまは 年の瀬です。としのせとしのせしていました。みんなの顔にそう書いてありました。  ★ 仏教で《こころ》をあらわすサンスクリット語には三つあるんですよ。  ☆ チンタは 広い概念なのですね。  これにはですね インドヨーロッパ諸言語はもとよりほかの語族における語(語群)のあり方を比較対照してみるのがよいのでしょうね。  もうひとつは わたしの捉え方として 精神は 自然本性の内 身と一体としてあり精神としても取り出される場だと思いますが その精神には 《記憶・知解・意志》があると見ます。このみっつの行為能力に分けたときの区分が知りたいとも思います。  マナスというのなら その《意志》は むしろマナ識なのでしょうか?  《記憶》は アーラヤ識? なのかな。  《知解》は チンタ? ヰジュニャーナ?  《精神が精神する》という精神の自己同一性は 《記憶》という能力行為だと見ます。そこには自己組織化といった秩序作用をふくみます。情報の整理さえ記憶がじぶんでやってくれます。  記憶の自己照射は 《知解》になります。情報を取り出します。また得られた情報を自己の知識として整理して記憶におさめます。  《意志》はすでに記憶行為にも知解行為にも その初めにそのような心つもりがあったし 自覚せずしてもはたらいたと見られます。意志は 知解が取り出して来た情報から思考や行為にとっての結論を決める判断をもおこないます。  ★ ~~~~  というか、《即身成仏》や《即得往生》という言葉を出すと、ドン引きしたり、強い警戒感を抱く人が多いでしょう。  と言うわけです。  ~~~~~~  ☆ ということは 《強い警戒感を抱く人》でなければ・あるいはたとえ抱いていてもその警戒感を強行突破してもよいと判断するのならば 大上段に構えるというその大前提であると同時に大結論である中身を やはり伝えるのではありませんか?  つまり このことが《ポリシー》であって 次の場合は細かい注意事項であるように思います。  ★ ~~~~~  《始覚》がベースなので、できるだけ《本覚》の面は出したくない。  《始覚》で足りるならば、《本覚》を出さない。  これ、私のポリシーなので。  ~~~~~~~  ☆ 本覚は本覚であるという大前提を抜きにすることは あり得ないと思われますから。  まむしのぶらじゅろんぬのようで すみません。  ★ ~~~~~  禅家さんの方では、日常生活における行住坐臥すべてが禅(の修行)なのだ、みたいなことを言いますね。  その根拠は、僕が思うに維摩経です。  ~~~~~~~  ☆ これまた微妙に違いがあるのですが。  ☆☆ 〔座禅や瞑想体験やら〕すべてそれらを 実際の生活の中で 言ってみれば四六時中おこなっている。  ☆ というのは その座禅などなどの修行をそれとしておこなうためではありません。  ひとりのボディサトワとして社会の中で縁起共生の生活を送るということ このひとつのコトに集中して修行もほかの実践も同時に一体となった振る舞いとしておこなう。こういう意味です。  何だか感覚として言うのですが どうもブディズムはマハーヤーナにしても 犀の角のごとくひとり進むのが基本なんですかねぇ。  サンガというのは 共和国とか共同体なのでしょう? となりに人がいるわけですよね。  たしかに 境地といえば あくまで個人でしょうけれど。・・・  というような調子です 今回は。

回答No.14

こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ 識・vijnana:act of discerning √jna。だっけ、日本語だと《識別》ですかね。《vi》は《分ける》とかを意味する接頭辞だそうです。 jna:know 慧・prajna:《pra》は「よく」を意味する接頭辞で、「よく知る」の意味。般若。 悟ると、識・vijnanaの分けるを意味する《vi》がとれて、《pra》がついて《prajna》にかわるそうな。 唯識では、たぶん、この《vi》を《主観》・《客観》、《能取》・《所取》の意味に解釈しているのではあんめ~か。《分別・vikalpa》でもいいんですけれども。 なので、 ~~~~~~~  《境識倶泯》 これはそうとすれば いわば《模範》理論ですよね。 ~~~~~~~ は、言葉遊びの側面があるのは事実だと思います。 しかし、 よく磨かれた鏡・《大円鏡》のごとく、対象(ダメだ、言葉で説明しようとするとどうしても主観・客観の二極構造が現れてしまう)をそのま鏡に映し出す。しかも、この鏡はみずから不思議な光を発するとかいう話。─── 般若経とかでいう《光り輝く心》のことか ───。そして、これが《大円鏡智》、マハヤーナ・ブディズムの究極の智慧。 唯識では、悟りのことを《転識得智》(識を転がして智を得る)とか言うんですがね、 迷い・凡夫の段階では心は《識》であって、悟り・仏の世界では《仏智》へと《識》が質的変換を遂げる。仏智や仏心というのは、《煩悩がとれたキレイ・キレイのココロ》すなわち《自性清浄心》のことなんでしょう。 だっけ、《精神》や《心》は《空》。 時々刻々、こころは生滅し、相続の関係で前の心と今の心は結ばれている。一時も休むことなく、変化しつづける。と同時に、だから、《識》から《慧》への変化が可能になる。風邪をひいた心が風邪から治ることも可能であって、カウンセリングが成立する。 でも、結局は、心の自然治癒力のなせるワザ。《如理作意》───サンスクリットだとヨーニス・マナシカーラだったかな、根源的思考とか訳されます───人間誰しも備わっている《根源的思考》や《如来蔵》、《仏性》の働き。カウンセリングという作業は、その働きを活性化させるためのもの。あくまで、立ち直るのは、自身のチカラです。 如理作意の説明は、以下のサイトで http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/51653102.html ☆☆☆☆☆☆ 禅とかでいう《無心》、これは駄目ですね。 「わたし、悩んでいます」 「じゃぁ、その心を取り出して見せてください」 この対話で、「悩む心は、実は無いんだ。《無心》だ」、これで悟れた、悩みがすべて消えたなんて、嘘っぱち。こんなので、悩みが克服されるワケがない。 《心非心》ならともかく、絶対に《無心》という言葉を使ってはなんね~!! これは仏教ではなく、《老荘思想》、もしくは老荘風に色濃く味付けされたもの。 《仮》、つまり、現在ある心の存在の大きさを見誤らせる。 生きている限り、悩みはあるんだわさ。 成道後のゴータマブッダでさえ、悩みはあったんだわさ。 確か、ゴータマ・ブッダには四つの悩みがあった、と仏伝は伝えている。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ○ 精神は 空である。  ○ ならびに 精神の病いは これも 空である。やまいという現象は起こっているが それだけのことである。 ~~~~~~ はそのとおりだと思うのですが、 ~~~~~~  この現代病にかんして 即身成仏ないし即得往生を――目標無しに――旗印として掲げたいと思いますが どうでしょう? ~~~~~~ これはまた大胆な。 そこまで大上段に構える必要はないのではないか、という感じがします。 《悩非悩》でいいんじゃないですかね。 悩みも仮、病も仮なので。 《仮病》は困りますけれども。 ん、《仮病》は仏教起源の言葉??? ならば、《仮病》でもいいのか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ jna:know  ☆ これは 語源として同じ語だと思います。 kennen ですとか あるいは  gnosis ですとかも。  さて 発想にかんする・ねむりねこさんとの微妙な違いをみつけました。  わたしの場合は  ☆☆ この現代病にかんして 即身成仏ないし即得往生を――目標無しに――旗印として掲げたいと思いますが どうでしょう?  ☆ という行き方と  ★ 般若経とかでいう《光り輝く心》のことか ───。そして、これが《大円鏡智》、マハヤーナ・ブディズムの究極の智慧。  ☆ つまりあるいは 自性清浄心をすでに掲げているその行き方とは 同じことだと見る立ち場です。    たぶんそうははっきりとはおっしゃらない。だけなのではないか? どうでしょう?  どちらも  ★ ~~~~  これはまた大胆な。  そこまで大上段に構える必要はないのではないか、という感じがします。  ~~~~~~  ☆ という大胆で大上段に構えた発想であり行き方なのだと見るのですが どうでしょう?  ちがっているとすれば どこでどのようにでしょう?  ★ 唯識では、悟りのことを《転識得智》(識を転がして智を得る)とか言うんですがね  ☆ この転識得智という過程をあゆむその前に・そのはじめに 自性清浄心は――かかげていなくとも 心の中のどこかでは――分かっているし けっきょく考えてみれば そのような《はじめ》による大上段の構えは 知らず知らずのうちにでも 持っているのではないか?   これが 今回のご返答です。  精神分析は うまくまとめてもらってしまいました。  別の手をまた考えます。

回答No.13

私の場合には純粋な思考の対象として仏教を 自分なりに勉強しています お寺様がお説教に来て頂いた際に 菩薩って何ですか との私の問いに対して それは 菩薩様でんがな これでは何が何だか判るはずがありません 一念発起ネット伝いに色々調べていって 又東京にダライラマ14世が来られた際には会場まで言って公演を拝聴いたしました (1)識 の本質 (2)仏教はどの様な本質を有する学問なのか (3)日常の中の仏教 これが私の大命題です(大げさですね) ここから そしてこの命題から色々な事を知るに至りました 知る事と 知らなかった事の偉大さに日々感激している一人の人間です 貴方の思考が深まる事を念じながら私からの問答を終わります

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは おおさかぢゃぱんさん。ご回答をありがとうございます。  たとえば直後のNo.14 ねこさんの解説は役に立ちますよね。  わたしは オシエとしてはもうほとんど きちんと覚えていませんので――むしろおぼえないことにしましたので―― たすかります。  ほかにもくわしい方がいらっしゃるようですが 同じように おおさかぢゃぱんさんもご研究の成果を披露なさってください。  ということだと思います。  ともに一歩一歩あゆみましょう。

回答No.12

 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

bragelonne
質問者

お礼

 これを支持するというご見解でしょうか?  《道徳》および《ルサンチマン》は どうでもよいのですが――それとして理論の中に組み入れられたかっこうでは説明されていないと考えます―― そのたとえば拉致なら拉致という《行為》じたいについて取り上げても 問題はおおきいはずです。よ。  つまり道徳としての善悪論で判断し多かれ少なかれ抱かれてしまっているルサンチマンにもとづき感情を入れて裁定するから 弱者の立ち場から生まれるのみの見方であって それはマチガイだという議論は 当たりません。  それとても 理論として論理的に扱わねばいけません。(強者がつねに 行為者と行為とを分けないとは限らないでしょうし 弱者がつねに行為者と行為とを分けるとも限らず ルサンチマンというようなあたかも悶々と反芻する悔いと悩みの世界に落ち入るのではなく そうはせずに さっさと抗議し抵抗し報復の《行為》にまでおよぶ例もいくらもあります)。  問題は 拉致なら拉致という《行為》じたいについて どうであるか? です。  不法行為である。ひとの自由意志を踏みにじる無効の現象である。人間の為すおこないではない。  という問題です。  もっとも確かにこの《自由意志》にしても いまの《道徳》やら《行為ないし現象の背後の〈主体〉なる理論》からみちびき出された概念であると言おうとしているようですが これは 当たりません。自由意志はその神学の議論はさておいても ふつうに普遍的なものです。公理です。  もし自由意志が公理として想定されないならば いわゆる犯罪は すべて行為能力なしゆえの無罪という判定になります。ゆえにです。  ニーチェは気がくるっているとしか考えられません。

bragelonne
質問者

補足

 ここで みなさんへの補足質問です。  ● すでに掲げたものとしては 次のように精神分析についての批判の問題があります。  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~~   この質問としましては 次の命題をもう少し問い求めて行きたいと思います。   ○ 精神は 空である。   ○ ならびに 精神の病いは これも 空である。やまいという現象は起こっているが それだけのことである。  この現代病にかんして 即身成仏ないし即得往生を――目標無しに――旗印として掲げたいと思いますが どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ● そしてさらに 次のような命題を掲げて問いたいと考えます。   ○ たとえば座禅を お寺だとかの決まったところでするのではなく ごくふつうに生活日常の中で 自分ひとりでいるときにせよ相手と面と向かって話し合っているときにせよ その心構えとしては《座禅》をおこなっている。という事態 これは 考えられませんか?  ですから 座禅に限らず ヨーガにしてもほかのもろもろの修行全般について あるいはまた瞑想体験等々にかんして すべてそれらを 実際の生活の中で 言ってみれば四六時中おこなっている。――こういうことは 考えられないでしょうか?  けれども そのようにしてこそ 《精神は空である》ということになるのではないか? と考えるのですが どうでしょう?

回答No.11

☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ★ 最後は《境識倶泯》で、対境(客観)と識(主観)はともに滅びま~す。  ☆ これは いのちが尽きて朽ちるときのことを言っていますか? それともいわゆるさとりの状態では――生きているうちに――そうなるということでしょうか?  でも《生きている》ことと《主観がほろぶ》こととは 相容れないでしょうから あれっと思ったのですが。 ~~~~~~ 生きているうちにです。 厳密には違いますが、唯識的には《境識倶泯》が悟りですかね。 識と外境(外境は、実は心の中の表象です。モノが外に実在しようがしまいが、それは仏教の認識論的には瑣末な問題)がともに滅ぶことによって、《自性清浄心》が輝き出します。 西洋哲学的に言えば、主観と客観の完全合一といったところでしょうか。そこでは、主観と客観や自他の差別・区別はありません。すべてが溶け合っています。───と書いていますが、書いている私、自分で何を言っているかまったく分かっていません。だって、《安慧》の鏡のたとえ、全然、分からないもん。最後は、華厳教学ぽく煙にまくしかないだもん─── 自利他利が完全に合一しています。他人の苦しみは自分の苦しみであり、他人の喜びは自分の喜び。菩薩を目指す大乗ブディストの最終境地。無縁慈悲を完全な形で現身において体現、実現している。 まぁ~はっきり言って、おとぎ話です。 人間には絶対に到達できない境地です。歴史上のゴータマもこの境地には、おそらく達していない。 しかし、大乗ブディストはこれを目指さなければならない。 曲がりなりにも、オレは大乗ブディストだと自認、公言するヒトは、これをやらねばならない。 いいんだわさ、時間はたっぷりあるんだから。 永遠に悟れないんだから、悟らないと決心しているんだから、菩薩って奴は。 一歩ずつ、時に後退しつつも、その理想を目指して歩めば、いいんだわさ。 その結果、悟れようが、悟れまいが、そんなことは問題ではない、No problem!! 眠り猫は徐々に徐々に密教化していますからね~、 眠り猫には、無縁の、大乗ならではの深遠な境地かも(笑い)。 目指すは、アタマで《即・身・成・仏》だ~!! そうそう、仏教の《即》という言葉は要注意ですよ。 この言葉は、《同じ》とか《同一である》ということを意味しませんから。 般若心経には、《不異》とは書いてあるけれども、《同一》とは書いていないでしょう。 で、この言葉が出てきたら、「論理や概念的な思惟では成立しないけれど、ホニャララだわさ」、「ヨーガによる《直覚知》によると、ホニャララだわさ」の意味と思った方がいいですよ。 般若心経の話はすべて、論理や言葉を越えた世界、《非思考の場》で成立する話ですから。 《リンゴはリンゴでない。ゆえに、リンゴはリンゴ》 《A≠A ∴ A=A》 名づけて、《即非の論理》!! 空の世界に、この世界の論理はまったく通用し・な・い。 論理的にはありえないけれども、 ならば、 アタマで《即身成仏》も可能のはずだ(笑い)。 《即》は「この世の論理を越えている」!! ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  2. 《煩悩がなければキレイキレイ》の《キレイキレイ》という肝心な要素を見ない。広い意味での《煩悩》だけだと思っている節がある。(好意的に見れば そういうやまいの状態を その範囲において扱っているからには 世界のすべてと見ている。つまり 煩悩のみについて研究するというだけの話になるのかも知れません)。 ~~~~~ フロイトの精神医学は、仏教の唯識から《悟り》や《自性清浄心》という言葉と、神話的な部分を抜き取れば、唯識と非常によく似ていると思いますよ。 《煩悩》を《リビドー》、《無意識》を《習気(行為の習慣性)》、《深層意識》を《末那識》と《阿頼耶識》と考えれば、その構図はフロイトの精神医学の理論と共通点が多いのではないですかね。 唯識は、ココロを詳細に分析し、心理作用を細かく分類し、カクカクの心は、アレとコレとが組み合わさって出来ているとかやっていますよ。そして、その克服法・対治法もマニュアル化されているらしいでよ。あくまで、仏教の修行法としてですけれども。 何しろ、ゴータマ以来、仏教は、こころとは何かをひたすら追い求め、千年以上もその研究に没頭してきましたから。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ フロイトの精神医学は、仏教の唯識から《悟り》や《自性清浄心》という言葉と、神話的な部分を抜き取れば、唯識と非常によく似ていると思いますよ。  ☆ マチガイではないでしょうか このフロイト理論は? きわめて狭窄な世界観に立っていると見ずにそして言わずにおくことは 犯罪行為をかくまうひとつの犯罪ではないでしょうか? と問いたい思いです。キレイキレイを捨て去ってしまっては ダメなんぢゃないでしょうか?  ★ ~~~~~  生きているうちにです。  厳密には違いますが、唯識的には《境識倶泯》が悟りですかね。  識と外境(外境は、実は心の中の表象です。モノが外に実在しようがしまいが、それは仏教の認識論的には瑣末な問題)がともに滅ぶことによって、《自性清浄心》が輝き出します。  ~~~~~~~  ☆ 情況論理のごとくに理解はしましたが。  ★ ~~~~~  まぁ~はっきり言って、おとぎ話です。  人間には絶対に到達できない境地です。歴史上のゴータマもこの境地には、おそらく達していない。  しかし、大乗ブディストはこれを目指さなければならない。  曲がりなりにも、オレは大乗ブディストだと自認、公言するヒトは、これをやらねばならない。  ~~~~~~~  ☆ それでしたら――というふうに ほかの訪問者の方々に不案内な話の進め方になりますが―― 《他人(ひと)を自分と同じように愛せ》とひとこと言えば よいのではないでしょうか? よいなら なぜ言わないのでしょうか?  ★ ~~~~~  西洋哲学的に言えば、主観と客観の完全合一といったところでしょうか。そこでは、主観と客観や自他の差別・区別はありません。すべてが溶け合っています。───と書いていますが、書いている私、自分で何を言っているかまったく分かっていません。だって、《安慧》の鏡のたとえ、全然、分からないもん。最後は、華厳教学ぽく煙にまくしかないだもん─── 自利他利が完全に合一しています。他人の苦しみは自分の苦しみであり、他人の喜びは自分の喜び。菩薩を目指す大乗ブディストの最終境地。無縁慈悲を完全な形で現身において体現、実現している。  ~~~~~~~~  ☆ 目標をつくりその認識(もしくはイメージ戦略であるにしても)によって 或るかたちを概念として植えつけます。《空》の境地になるために空を概念化している。  それよりは あくまで自分と同じように 他人(ひと)を――自分を活かすとともに――活かすようにはたらく。これだでけでよいのではないでしょうか?  ほかのすべてのオシエは屁の河童であり しかもこの《愛》についてだけは あたかもオキテのごとくある。というかたちです。  《境識倶泯》 これはそうとすれば いわば《模範》理論ですよね。模範方式と言いましょうか。確かに《利他》の一辺倒とか《人類愛》といった広すぎる理念の旗印ですとかに比べるなら まだよいのかも知れませんが どうもこの模範像については モヤモヤとしたあいまいさの内に究極の《消滅なるニルワーナとしての自己無化》が やはり雲の上の光のごとくに掲げられている。ように映ります。つまりは その最高の模範が ゴータマ・ブッダであって このゴータマの神格化にまで到るっていう事例のことです。  マハーヤーナ・ブディストは もっと実践論を・研究の成果を実践論として 明らかにせねばならない。のではないでしょうか? 焦眉の急務だと見ます。    この質問としましては 次の命題をもう少し問い求めて行きたいと思います。  ○ 精神は 空である。  ○ ならびに 精神の病いは これも 空である。やまいという現象は起こっているが それだけのことである。  この現代病にかんして 即身成仏ないし即得往生を――目標無しに――旗印として掲げたいと思いますが どうでしょう?

回答No.10

そうですね 私の勉強はまだまだこれからなので意識の中に確定的なものがありませんので 違う要素が必要なのです 探求心の扉を開けてくれありがとう

bragelonne
質問者

お礼

 いえいえ。だれもが手さぐりでのあゆみだと思います。  わたしの場合は 言い方がえばって言っていますが。  そしてじつは 座禅などの《体験》の問題などは お手上げです。  でも ぎゃくにその無知の立ち場で突っ張って いろいろやり取りをしています。そういった内容の回答も来ています。    すみません。はっきりと威張って返答を書きました。いちどやり取りしたことがありましたね。

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    般若心経 の色即是空、空即是色を唱えた人は誰ですか? 般若心経を書いたのは誰ですか? 色即是空、空即是色の意味はどう捉えていますか?

  • 無と空

      この世は無なのかと訊けば、いや無ではなく空であると言い、 この世は空なのかと訊けば、いや空ではなく無であると言う。 結局のところ、無と空の違いさえ定かでないのである。 色即是空、空即是色などとゆーても所詮はこの程度の有様、何のことだか本人も分っておらんのである。 無と空の違いさえ知らず座禅を組んでおるのである。 哀れとしか言いよーがないな。   

  • 般若心経は間違い?

    スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。 彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。 この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。 皆さんはどう思われますか? それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

  • 仏教の教えは唯一つ

      仏教は唯一つのことを説いているのではないか。 色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり、無である。 仏教が説いているのは唯これだけであり、それ以外には何も語っていないのである。 色即是空空即是色、仏教においてはこれが全てであると思っております。 仏教はあの世のことなど何一つ語っていない。 極楽浄土のこと、地獄のこと、人が死んで成仏するとかしないとかのこと、六道輪廻のこと、戒名や戒名料のこと、お題目のこと・・・等々、これらについて仏教は何一つ語っていないのである。 仏教が説いているのは唯一つのこと、色即是空空即是色である。 この世のあらゆるものは空であり、無である。 あの世のあらゆるものもまた空であり、無である。 何故ならあの世はこの世が作り出したもの、あの世とはこの世のことだからである。 故に極楽浄土は空であり、地獄は無である。 これで良いのではないか、これで何の問題もないのではないか。 私はこれで十分であると考えます。 このように考えると極楽浄土も、地獄も、成仏も、戒名も、六道輪廻も、お題目も、・・・およそ坊主の考える一切が空であり無となるのではないか。    

  • この世からあの世のことは語れますか?

    この世からあの世のことは語れますか? また、あの世からこの世のことは語れますか? 仮に語れたとして意味あるのですか? 何のために語るのですか? 色即是空、空即是色。 この世のすべては無であり空であるなどと坊さんたちは説きます。 それはこの世のことですか、あの世のことですか? 生きているうちからあの世のことについて語ってどうするのですか?

  • まず初めに無ありきってことか

      「色即是空、空即是色、この世の全ては無であり空である。」 我々が日々見たり、聞いたり、味わったり、感じたりするこの世の諸々の出来事は全て錯覚であり、我々がこれら諸々の出来事を単に階層現象表面的に定性化している、まあ簡単にいえば「いい加減」に認識している結果であり、もともとこの世界は無であり空であるとみなす考え方はいかがなものでしょうか。