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語りえないことについて人は沈黙せねばならない、のですか?
ghostbusterの回答
> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。 ということではありません。 たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。 碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。 楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています。五線譜に、でたらめに音符や記号を並べたとしても、楽譜にはなりません。 ここでいう「言語」とは、そうした石や音符の代わりに、「音声」や「文字」によってあらわされる具体的なものです。石や音符同様に、その向こうに「像」を結ぶものです。「本」や「マグカップ」や「テーブル」のように。あるいは、それが「宇宙人」や「幽霊」など、仮に現実にその存在が確かではなくても、「ありうるもの」「起こるべき出来事」として、わたしたちが「像」を結びうるものも含みます。 そうして像として用いられる文を「命題」と呼びます。 「この本は『論理哲学論考』だ」 「このマグカップにはミッキー・マウスがついている」 「テーブルの表面はすべすべしている」 このように、記述として用いられ、真偽を問えるような文章を命題と呼びます。さらに「思考がそれによって表現されるものを命題記号と名づける」(3・12)と続きます。 こうして、言語は世界(事実とこれから起こりうる事実=事態)の論理的な像である、としていきます。 そうして成立し、妥当している事態や事実を自然科学が記述します。それによって 「真な命題の総和が自然科学の全体(あるいは諸科学の総体)である。」(4・11) これに対して 「哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。」(4・113) 「哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界づけねばならない。 哲学は思考可能なものを通して内部から思考不可能なものを限界づけねばならない」(4・114) ということになっていきます。 --- 以上の回答をしていて不安になってくるのは、おそらく意味が伝わらないだろうなあ、と思っているからです。 知らないことをわかる、ということは、「知識」というものを、たとえばカロリーメイトみたいな固形物として、わたしたちの体内に取り込み、蓄積する、ということではありません。そうではなくて、知らない言葉やその用法や置かれた文脈を、自分がすでに知っていて、使うことのできる言葉に置き換えることにほかなりません。 ところが、わたしたちひとりひとりが使う言葉は、その「言葉」をささえる膨大な「言語体験」のネットワークによってささえられています。このネットワークというのは、わたしたちの無数の現実体験によって裏打ちされています。わたしたちが「言葉」を使う、ということは、それを支える現実と連動しているわけです。 未知の領域を学ぼうとするときは、単に言葉を学ぶだけではない。わたしたちがすでに抱えている言語体験のネットワーク自体を、組み換えていかなくてはなりません。つまり、何かを知ることは、そのたびに、これまでの自分の理解の枠組みを作りかえていくことにほかならないのです。 何かがわかった瞬間、世界がまるでちがって見えてくる、こんな経験はおありかと思いますが、言葉を通して世界とふれているわたしたちにとって、自分の理解の枠組みを作りかえるという作業は、世界そのものを作りかえることにほかなりません。実際、「わかる」というのは、そのぐらいの「飛躍」を要求するものです。 ところが、自分の理解の枠組みの全体を作りかえるのではなく、それを温存したまま、その枠組みの中で、新しい知識の一部を処理しようとすることを、多くの場合、わたしたちはやってしまいがちになります。単に処理できるようになったことを、「わかった」と誤解してしまうのです。 特に、言葉によって語られる「思想」や「哲学」は、その危険をつねにはらんでいます。ここでどれだけわたしが言葉を費やして説明しても、おそらくそれは質問者さんの「体験」とはなっていかないでしょう。それよりも、ちゃんと本を読まれた方がいいように思います。 いくつか本を紹介しておきます。いずれも新書で入手しやすいものです。 まず『論理哲学論考』を読む前に、橋爪大三郎の『「心」はあるのか』『はじめての言語ゲーム』を。 もう少しひろく現代思想について興味がおありでしたら高田明典『「私」のための現代思想』を。 哲学が扱ってきた言葉や他者や社会というのはどういうものか知りたければ中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』を。 以上、参考まで。
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