【汝裁く莫れ】他人への固定的判断とその克服方法
- 日本の昔にもその傾向がありましたが、国政や統治のための、国民感情を把持していくには、仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。
- 先の大戦後、ある意味で当然ですが一国を統率して国際の中で伍していくために、国民の統率が大事な課題となっている東アジアの諸国があります。
- 仮にその支えとなっている反日思想を除去してしまった場合、そういう国々の国民の心の支えは空しくなり、ふらついてしまうでしょうか?
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【汝裁く莫れ】
【汝裁く莫れ】 日本の昔にもその傾向がありましたが、国政や統治のための、国民感情を把持していくには、仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。 先の大戦後、ある意味で当然ですが一国を統率して国際の中で伍していくために、国民の統率が大事な課題となっている東アジアの諸国があります。 そのために歴史的に深いかかわりのある隣国への敵愾心をあおることも利用されている面があるかのようです。これは双方にとって克服しなければならない不幸な事です。 【仮にその支えとなっている反日思想を除去してしまった場合、そういう国々の国民の心の支えは空しくなり、ふらついてしまうでしょうか?(QNo.5827301)】という質問を歴史カテでいたしました。 また、関連してhttp://questionbox.jp.msn.com/qa5817520.htmlという質問もあります。 個人としても私たちは、何かと人を判断判決して、自己を保持・把持して日々いろんな関係を判断し決め付け、生活をしています。 『汝、裁く莫れ』は自分の一方的固定的評価や判断が不当であることへの忠告だと存じます。 【質 問】 1. みなさまは、他人への固定的判断の不当性を感じたことはありませんか? (自分が他人へした、固定的判断。或いは他人から自分にされている判断) 2. そういう固定的判断の克服や消却にはどんなことが有効でしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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断言というか、、、要するにニーチェはこんなことを言いたかったんじゃないかと。 例えば目の前にバナナらしきものがある、しかしこれは幻想であって実は無いかもしれない。 でも、存在するように見える。 腹が減っているように思えるが、目の前にあるものが本当にバナナで、本当に自分は腹が減っているのなら、このバナナを食べるとハッピーになるかもしれない。 が、しかし、、、、 と迷ってないで、バナナだと思えて、腹が減っていると思えたら、 「目の前にあるのはバナナ、そして私は腹が減っているから食う」 でいいってことじゃないかと。 どっち着かずで疑ってばかりいても前に進まないじゃないですか。 「やはり偽者か」となるか「うめー」となるかは、バナナだから食おうってアクションを起さないと、永久に本物なのか偽者なのか わかりっこないじゃないですか。 遠くから眺めているだけでは、何も進展無いじゃないですか。 イエスの話は、、、 ニーチェ流に、とにかく解釈を試みないことには、何も始まりませんので、<新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる> ってことの表現がこの箇所だと思います。 つまり古い体制の集団に新しい思想をもってきても、古い体制はそれを受容できない。 だから、新しい思想は新しい人種にもっていく。 というのが、その例えだと思います。 例えば古い体制の集団に新しいアイデアをもっていっても、今までとは違うので、拒絶されるでしょ? 古いので柔軟性が無く、変わることを恐れる老人なわけです。 しかし 心が若い つまり柔軟性がある人なら、のびるので取り入れられる。 従ってアイデアを拒絶されたとしても、それは正しくなかった証では無いこともあるわけです。 古い体制にそぐわないだけの話。 新しい柔軟な精神を持った人達が、時代を動かしていくわけです。 これを思想の脱皮と古代から表現されているわけです。 蛇信仰は爬虫類の蛇を神様だと信仰しているのでなくて、古い思想からの脱皮、つまり生まれ変わるって概念。 <そのために> 一旦形を作らなければならないわけです。 そして自ら形どったものから脱皮する。 それを繰返してきたんです、人類は。 あ、木胡桃。 これ コケモモって読んでましたけど、きくるみなんですね。 いただきまーす。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.6&7です。 バケツの底に穴が空いているようです。 打つ手がありません。 ★★ (No.6お礼欄) 今回の私のこの質問を離れて、熟読させていただきます。 ☆ 《この質問を離れて》ではなく わたし bragelonne の真意を離れて わたしの文章をどうにか読もうという魂胆と受け取ります。 ★★ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~ 汝、裁く莫れ。 人を決め付けないということなのでしょうが、人は決め付けて、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《硬い甲羅で自分を保護・確保して生きている》というのは 《固定的判断》や《論断》の問題とは微妙に違います。《意志行為としての判断》は あくまで動態です。つねに過程です。いかに頑なな決めつけの場合でも わたしの削除された質問が復活したように 変わるものです。 《甲羅でおのれを保護する》あるいは《蚕のように繭の中にくるまる》というのは 心理的な自己防衛としての反応になります。心理的というのは 何らおのれの心とは関わらずに その場の成り行きによって取る反応という意味です。それであっても 自己防衛ならやはり《甲羅による自己防護》であるのだから 同じではないか? いいえ 違います。 心にかかわらず・心とは別にその場の成り行きで反応するというのは ほんとうには《意志行為としての判断》ではないからです。まだ自分がないということでしょう。それも むろん社会人であるなら すでに《個人としての自由意志の発現》だと見なされますが 本人は何とも不本意なことでしょう。 ですから 問題は 意志行為としての・あくまで動態的な過程におけるところの判断・論断 これが 大事です。動態だということは 軌道修正があるということです。妥当性を求めて つねにどこまでも境地を互いに――互いにです 互いに――揚げて行きます。 どうか 大海原とその海域が おのれの心だと思ってください。甲羅も繭も要りません。おのれの自由な船を浮かべて航海して行ってください。 《規範》は 《心》そのものではありません。おのが船に旗をかかげているようなものですが 旗じたいが 《わたし》でもなければ《こころ》でもありません。《汝 さばくなかれ》なる規範は 愚の骨頂です。布や板や石に書かれた文字ではなく 胸のこころの奥の奥のそのまた奥のわが真実なるこころのさらに奥のなぞにしたがって 堂々と大海をすすんで行ってください。。
お礼
度々ありがとう御座います。 いえ、 bragelonneさんの真意を無視するつもりはないですよ。 私自身の狭い質問の世界を離れて、もっとゆっくり丹念に勉強します、ということですよ。 とても難しいのですが、そうするより読解ができないのです。 ありがとう御座いました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
“汝裁く莫れ” 宗教色の濃い言葉ですが、出所はキリスト教ですか、仏教ですか。 質問の‘姿勢’を見ると多分に、他者を批判(裁く)的な見方をすることに罪悪感とか、嫌悪感とかをご自身が感じているようですね。 また人間として、そうした姿勢に疑問を感じたりもする、と言うことでしょう。 凡人は(多くの人は)過去を振り返り、反省するという作業を通して、こうした気持ちに気づくのではないでしょうか。 もしそうだとすると、理性の働きに頼ることが“有効”でしょう。 “情”の面では精神的な修行が必要なので時間がかかりますが、“理性”を働かせるのは現代人の得意とするところだから。 でも、内面の葛藤(理性対感情)はいつまでも残ります。 またhakoburuさんの回答はとても参考になりました。
お礼
無論仏教やインド哲学にないものはありませんが、この句はイエスの言葉として引用しております。 私は西洋に伝わったキリスト教徒いうものを好んではいませんが。 ありがとう御座いました
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
> 『汝、裁く莫れ』は自分の一方的固定的評価や判断が不当であることへの忠告だと存じます。 :「一方的・固定的」というベクトルは生あるものにとっては必須の要件と私は捉えます。 この必須性(という熟語があるかどうかわかりませんが)と不当性とのバランスをどのように取っていくべきか(取っていくと納得いく道がひらけるのか)、という視点が必要であるように感じました。 「汝犯すなかれ」と言う場合、性欲(という必須生)を無視してその忠告(というかこの場合は戒めということになるのでしょうが)を受け止めようとしても不毛の結果に終わるのとおそらく同じことではないかと思われます。 「一方的・固定的」という態様が人間にとって「必須の要件」であると考えるのは、「生きよう」とするエネルギー自体が「一方的」であらざるを得ず、また、そういった自己を認めアイデンティティとして確立する必要性が精神的に求められている以上、それは「固定的」な要素が不可欠だろう、と考えるからです。 しかし、それのみで満足しきれないのもまた人間という生き物の性のようです。 それは、他者への想像力が備わっているために、他者にも同様の「必須の要件」があることを知って(感じて)いるからなのでしょう。 生きる以上立ち止まることはできず、立ち止まらない以上、他者との軋轢は必然的に生じてきます。 自他の「必須性」が衝突するわけですが、双方にとって「必須」なわけですから、これを、一概に悪と決め付けないことから始めるのが妥当ではないかと思うわけです。 以前、このカテで教えていただいたことですが、自らの内なる排他性(必須性)を常に監視し続ける、という内容が記憶に残っています。 捉えどころのない波のように流動する内面と(常に、だと疲れるので)時おり対峙し、時には満足し、時には修正し、うまくいけば喜び、間違えたら謝り、ということの繰り返しが単純なようで最も「有効な克服法」になるような気がします。 無学ですが、散見するところによると稀代の聖人たちの教えにしても「完璧(に固定できる、且つ一方的に普遍的)なもの」は存在していないのではないでしょうか。 「生の原動力としての必須性」を「消去」しようと(いう不可能性に邁進)するのではなく、修正しつつ対峙していくということが、最も柔軟で、柔軟であるということは、常に変動していかざるを得ない自他にも対応できるという意味で無理が生じにくく、無理が生じにくいということは、ある意味で普遍性の獲得に最も近い方法なのかもしれません。 自らに言い聞かせるつもりで記述しましたが、口幅ったい表現、尊大な物言いも混在していると思います。 ご寛恕のほどお願い申しあげます。
お礼
ありがとう御座います。 【生きよう」とするエネルギー自体が「一方的」であらざるを得ず、また、そういった自己を認めアイデンティティとして確立する必要性が精神的に求められている以上、それは「固定的」な要素が不可欠だろう、と考えるからです。】という考えもありますね。 今回のこの質問は、 士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。 孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。 イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。 とか 大聖市井に隠る。や大声俚耳に届かず。 というような事にも関連したものでした。 ともすれば私たちは、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。 そのようなことを憂えての問題でした。 ありがとう御座いました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
>日本の昔にもその傾向がありましたが、国政や統治のための、国民感情を把持していくには、 >仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。 現状の若者を中心とした偏向した右傾化というのは、サブカルチャー化しているようです。 押井守さんの作品を支持する若者がわっしょいわっしょいやってる感じです。思想も芸術や ファッションと同じですからいいんですけどね。でも、いくら面白くても「偽史」は「偽史」 であるとちょっと疑いながら、面白がるぐらいのセンスが必要だと思います。 ネオナチのフーリガンだの、一人っ子政策の申し子の中国人の若者だの、嫌中だの、嫌韓だのとか、 流行りですから、どんどんやってくれていいとは思いますけど、だけど、歴史的事実は結局は 一つであって、それを多面的に見る人間がいて、自分は今どっちの方向から見ていて、なぜ そう見方をしているのかっていう認識は必要ですよね。 なぜ台湾人は親日で、同じ立場の中国や韓国は反日なのかって、インフラ整備は同じようにやって るはずじゃないかなって、もともと日本より進んでいる国に攻め取って文化を押しつけられたら プライド傷つけるのはあたりまえで、まだ遅れている国に文化を与えたらありがたがられるのは あたりまえなんです。 なんだかそういうことを冷静に踏まえずに、あんまり免疫のない鬱積したナショナリズムに、 サブカルチャー的なものでわっしょいわっしょいやられて、すっごい表層的な愛国心が、 オタクを中心にバーチャルな優越感をくすぐってるだけっていうのは何か萎えます。
お礼
私の今次質問と関りなく、ご高説を熟読し勉強させて頂きます。 ありがとう御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6の回答を終えてから 気づきました。 わたしの削除された質問【Q:昭和天皇の戦争責任】(その一のほうです)は おかげで復活しました。 これなどは 《固定的判断》あるいは勝手な《論断》が 解きほぐされて 直った事例です。 そういうこともありますから 気長にまいりましょう。 つまり つねに妥当な論断――そして さらに色をつければ 社会公共のための発言であること――をこころがかけてまいりましょう。
お礼
汝、裁く莫れ。 人を決め付けないということなのでしょうが、人は決め付けて、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。 よく熟読させていただきます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.3です。 ★ 自分の支柱として、人を論断して生きていますね。 / それはみにくいなぁと存じているのです。そういうものを克服したい思いからの起質問です。 ☆ 何ら《みにくい》とはわたしは思いません。 わたしは 竹下登は 人間の顔をしていないと論断していました。小沢一郎は もう二十年遅いつまり過去の人間だと論断しています。 別に《支柱として》はいないのですよ。強いて言えば そういう反応です。精神衛生上の判断です。(消極的な支柱にはしていますかね。でも 支柱を求めて そういう判断を持つのではありません)。 問題は 表現の自由のもとに そのおのおのの判断を明確に根拠や論拠を示して明らかにすることです。という意味は 誰もがそうするということは 互いに妥当性を求めて 経験合理性に照らし合わせて推論を競うことになります。弁証法過程を互いに歩むことになります。 いつまでも同じ次元における・つまりそこにとどまり続ける競争ではなく まして――議論の過程でけんかになったとしても――勝ち負けを誇るためにでもなく 言わば世の中の心の境地の水準が少しづつ上がっていくことを願ってのことです。(まあ このような願いが 妥当なことであるかどうかをめぐっても 対話や議論を重ねなければなりませんが)。 どうか《論断》にこそ意を用いて行ってください。願うらくは その推論をたしかなものとして 発表してくださるようのぞみます。 公共の仕事に就いているひとは あたかも人格的な批判のような論断にも――条理を尽くした話であるならば――答える説明責任があるとむしろ考えます。
お礼
今回の私のこの質問を離れて、熟読させていただきます。 ありがとう御座いました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>人は彼は、彼女は○○だという認識を持って、自己の落ち着きをしていると存じます。 >それを克服したい、その不当性をりかいしたい、といおうご指導をお願いしてつもりです。 今ニーチェ読んでいるんですが、、、 ニーチェいわく、断言しろ でしたよ。
お礼
そうですか。 それも一つの方法ですね。それでいいなら。無論、私も古来の方と同じようにそうやって断言して今もこの柔弱なるガゆえに敢えて断言して生きていますが。 士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。 孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。 イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。というようなことに関連しているとも思っています。 ともかく人は固定観念を形成するものですね。 古来、地上のそういう性癖をどう反省しどう抜け出るかの質問でした。 木胡桃さんは今もニーチェを手にお取りになられて、何時までも若々しいですね。 ありがとう御座いました。
人に対する判断と言うもの自体が断片的であるような気もします。 人の関係性とは流動的であり、さらに言えばなんら固定されているものでもなく、他者が何者であるか、自身が何者であるか、そういった事柄は知るべきことであるかもしれないが、囚われるべきことではないと思います。 プレーンな関係で居ると言うのが、望ましいと思います。 何らかの判断によって損なわれるようなものは、人の間には存在しないと思います。
お礼
士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。 孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。 イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。 というようなことに関連しているとも思っています。 ともかく人は固定観念を形成するものですね。 古来、地上のそういう性癖をどう反省しどう抜け出るかの質問でした。 ありがとう御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
われが我れに還ることを促すことです。わたしがわたしである自己到来を得させることです。 それには 対話しかありません。どこまで行っても 話し合いです。 対話をどれだけ重ねても ということは その《固定的観念》の非を指摘し分からせても 一向にその観念があらたまる気配はないという場合が 往々にしてあります。聞く耳を持たないという場合です。いえ 聞く耳を持って聞きましたという反応や姿勢は見せるのですが 一向に中身はあらたまらないという場合です。 こちらの存在を無視した発言や行動に移ったら その決定的な事態に際してなら もうその相手は死んだ者と見なして 放っておいてもよいでしょう。相手にすることはありません。 ただ 中途半端に部分的には 妥当性のある話しに耳を傾け納得したということさえあって しかも けっきょくは何も変わっていないという場合があります。苦労します。手はありません。
お礼
bragelonneさんありがとう。ご訪問くださりましたか。 今日、お食事は済みましたか?私も46年いた大学で何も出来なく、道真ではないが怨霊に化しています。 そういうことかもしれませんが、ここ三十年は、11時就眠、3時起床で、bragelonneさんとのご挨拶のときは、無論食事は未だです。でも年寄りっていいもので、食欲も人への要求も何もなく為りますね。 そんな人間でも、自分の支柱として、人を論断して生きていますね。 それはみにくいなぁと存じているのです。そういうものを克服したい思いからの起質問です。 ありがとう御座いました。なにとぞよろしくお願いします。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>日本の昔にもその傾向がありましたが、 これって理由は穢れるからだったと思います。 それで中世は武士は取り締まりや裁くことをしなくなり、大量に浪人が出ることになり、日本は無法地帯になってしまった。 >国政や統治のための、国民感情を把持していくには、仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。 はい 従軍慰安婦問題は近年突如沸いたわけですが、国民を煽り支持をしてもらうために利用することにしたので、近年取上げられることになったわけですよね。 それまで誰も取上げなかったのは、そういう事実があるとは誰も思っていなかったから。 で、日本も寝耳に水で「そんなことがあったんですか」状態で、「それが事実ならすいませんでした」となったわけですが、民間の人が被害者と名乗り出た人達を調査した結果、被害者だと名乗り出た人は、そういえばお金がもらえると賄賂をもらって嘘の供述をしていたことが判明。 お隣の国は、こんなことに政治資金を利用して政権を取ろうとしていたわけです。 それに煽られたのが若い世代だったようで、事実を知っている年代は煽りに載らなかったが、煽りに載った高齢者はお金目当てにその嘘を補強した。 >1. みなさまは、他人への固定的判断の不当性を感じたことはありませんか? 不当性というのは、正しくないってことですよね。 どうしてそういう見解になるのかは、情報不足が原因ってことが多いので、一応知っていれば知っていることを言うこともありますが、パワーを誇示する目的の場合、いくら事実を説明しても相手は事実を知りたいのではなく、自分の願いを達成したい すなわち自分のパワーの影響を他人に与えたいのが目的だった場合、途中でそれに気づけば、相手の真の目的を知った段階で、あほらしさを感じ、タッチしなくなります。 > そういう固定的判断の克服や消却にはどんなことが有効でしょうか? 情報収集。 以前ここで従軍慰安婦問題を取上げ、日本はなんて国だと言ったところ、「それは工作され情報操作された偽だ」と指摘を受けたことがある。 そこであったと確信していた従軍慰安婦問題が、事実は違うと新しいことを知るきっかけになった。 だから、口に出すことだと思います。 そうしたら中には「それは違う」と新情報をくれるじゃないですか。 その新情報が本当か確かめて、事実だったら、認識を塗り替えられるじゃないですか。 人に批判されることを恐れて何も言わないでいると、間違えたままじゃないですか。 だから、他人から批判されることを恐れないことが有効なんじゃないかと。
お礼
kigurumiさん お久しぶりです、NO.3まで今拝読しております。 どうも私の質問が皆さんに理解されていないようです。 国や国際関係のことは、質問に引用してある通り、歴史のカテで教えを願いしております。 ここでの私の教えてもらいたい事は、他人に対する論断判決の観念の事なんです。 人は彼は、彼女は○○だという認識を持って、自己の落ち着きをしていると存じます。 それを克服したい、その不当性をりかいしたい、といおうご指導をお願いしてつもりです。
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- 国際問題
- 尊徳より韓国を選んだ小田原市民
神奈川県小田原市議会は6月16日の本会議で、育鵬社と自由社の歴史教科書を採択しないよう求める在日本大韓民国民団湘西支部の陳情を賛成多数で採択した。朝日新聞によると、審議では育鵬社などが「反韓国、反中国の感情をあおり立てている」という意見が大勢を占めたという。 こういう問題では、自分の意見と議会の意思が合っているかいないかでダブルスタンダードになりがちだが、私は教育委員会は住民の意見を聞いた上で採択の権限と責任を果たすべきだと考えているので、育鵬社などを排除せよという議会の意思が示されれば尊重すべきだと思う。 ただし、今回の陳情を行ったのは民団湘西支部という外国人団体であり、教育への内政干渉だ。教育基本法は「国民の育成」をうたっており、外国人より前に国民の意見を聞くべきだろう。 長く教科書問題を取材しているが、過去にこんな陳情が通った例はない。恥をかくのは、そんな議員たちを選んだ小田原市民だ。 育鵬社などを除く5社の教科書には小田原が生んだ二宮尊徳が載っていない。小田原市民は郷土の偉人より内政干渉受け入れを選んだことになるのだ。(産経ニュースより一部抜粋) このニュースを見て愕然としました。そして、いくつかの疑問が生じたので質問します。 1) 日本国民の教育に関する外国からの明らかな内政干渉で違憲行為ではないのでしょうか? 2) 国民の根幹となる教育問題で一地方議会がこのような議決をする行為は越権行為では? 3) いちいち隣国の干渉に自国の教育が左右される事は健全な国民を育てることはできず、また独 立した主権国家としてあるまじき判断ではないのでしょうか?(日本は中国や韓国の属国ではな い) 4) もういい加減、自虐史観の教育は止めるべきでは?大東亜戦争がなぜ起こったのか、当時の世 界情勢から見て客観的な教育はできないのでしょうか? 5) 隣国の感情を気にして何かメリットでもあるのでしょうか?(ちなみに中国や韓国は日本が首相の 靖国参拝を中止したり、このような教科書問題で譲歩しても関係なく竹島や尖閣の領有権を主張 し、外交に関して何のメリットもなくただいたずらに日本人の尊厳を傷つけているだけのように思 います。) とにかく、このニュースを見て小田原市議会の判断に憤りを感じました。
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- 「隣国と仲良くしたい」は、間違っていた?
以下は、いままで長い間「隣国とは仲良くすべきだ」と考えていた私が、「それは間違っていた」という、いわば反省文です。この反省は間違っているでしょうか。 日本は総体的に善良な人が多い国でしょう。それゆえに、わが国では「隣の国とは仲良くしないといけない」、と思う人が結構多いようです。政治家のなかにもいるようです。私も、今日までは、そうだなぁ、と思っていました。 韓国紙・中央日報が、2013/5/27付のコラムで、日本への原爆投下を「神の懲罰」だと書きました。私は、そのときも、やはり同じ考えでした。 しかし、最近になって、どうも、その思いが怪しくなってきたのです。例の「ホワイト国」除外問題から、隣国の国民が、これでもか、これでもか、と全国的かもと思われる規模で、反日運動に熱を上げています。この状態を、ある人は、「反日民族運動」だと表現しています。 その隣人が、「1965年に日本の国と結んだ日韓請求権協定は違法だ」、として、守らないと主張するのです。 昔から、いつも、どこでも、隣人とは特別な関係のようです。次の様な諺もあります。 「隣の貧乏鴨の味」 人はとかく他人の不幸を願うものだというたとえ。隣の家が貧乏だと、まるで美味しい鴨でも食べているようないい気分になるという意。 「隣の花は赤い」 他人の物はなんでもよく見えて羨ましく思えるというたとえ。隣の家に咲いている花は、自分の家の花より赤く見えるという意から。 これで、分かるように、もともと、隣人と仲良くすることは、至難の業のようです。隣人と仲良くしようと考えていた今までの考えは、間違っていたようです。 個人の家とは難しいけど、遠くの家とは仲良くできます。それは直接の利害関係がないからです。元々、隣とは仲良くできないのです。学校の場合もそうです。学校の成績が1番の人と2番の人は仲良くできません。40番の成績の奴と一番の人は仲良くできます。 ある人は「隣人とは憎みあい、遠くの者と仲良くするということが地政学の常識です」と警告しています。 このような事象は、原理原則です。隣国とは仲良くしようとしてもできないのです。仲良くしようと頑張るのは、「地政学の常識」に無知な者が考えることだと、今回の「事件」で理解しました。 隣国とは、仲良くする努力などしても無駄なことで、殺し合いの戦争をしないように気を付ければいいのです。経済的な戦争があっても、構わないのです。経済的な戦争が絶えないとしても、それは、地政学的には普通の状態なのです。特に心配することはないのです。 今日、隣国から日韓秘密軍事情報保護協定破棄のニュースが入るかも知れませんが、大型台風予報ニュースくらいに聞いておけばいいのです。
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- 約束が守れない自分を変えられず、困っています。
私は約束を守れません。そもそも、自立できていない人間だと自覚しています。つまり、自分の考えをちゃんと持てず、他人の判断に依存している、と思います。周りの反応で自分の立ち居地や言動を無意識にコントロールしてきただけに、自分の言葉は非常に軽いです。よくあるのが、その場しのぎの口約束や、そう言えば喜んでくれるけど実行しないリップサービスなど、罪の意識なく、言ってしまいます。彼から、何度もそういうのは止めて欲しいと言われていても直りません。自分がやる、と宣言したことも守れません。「出来なかったら別れる」と言われても中途半端のままになってしまい、彼を傷つけイライラさせてしまっています。自分でも、こんな薄っぺらい浅はかなところを直したいです。やると決めても途中で諦めてしまう甘さを克服したいです。どうしたら直せますか?自分の意識だけでは無理な気がします。ちなみに20代後半女です。
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あぁそうですか。実行性、積極性の面からも受け取ることが出来るのですね。 木胡桃さんは本当に、私の界とは異なる界からのお話で開けますね。 蛇信仰。私たちもラージャ瞑想ヨガをやっていますが、蛇はプラナというか生命と意識の力で、その統率がまぁプラナヤマってやつですね。 パタンジャリでいうと四番目段階。ヤマ、ニヤマ、アサナ、そしてこれ。頭蓋の大脳に入ってプラチャハラ集中、ディヤーナ瞑想、サマディの一体ですね。 水神は確かにそう爬虫類、インドは竜でなく蛇ですね。ブラフマも不顕現の時には蛇を従えて静に座す。 何度も顕現しまた、自己に溶解させる。そんな回帰性が蛇ですね。 木胡桃って苔桃のことでしたか。博識だなぁ。 百万年も少女でいる仙女みたいだなぁ。