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何かの短歌なのですが…

大学の心理学のノートの端っこに短歌が書いてあったんです。 磨かずば 玉も鏡も 何かせむ 学びの道も かくこそ ありけれ 多分それは心理学の先生が何かの時におっしゃっていたものなんですが意味がよくわかりません。なので1この歌が有名なものなのかと言うことと、2この現代語訳を教えて頂きたいと思い質問しました。 どなたか是非ご教授下さいお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ninnincho
  • ベストアンサー率46% (115/245)
回答No.1

明治天皇の皇后である昭憲皇太后の詠まれた歌です。 意味は、「どんな宝石や鏡といえども磨かなければ何の役にも立たない。同じように学業も研鑽を積まなければ役に立たない」という意味になります。 この歌は東京女子師範学校に下賜(かし)され日本最初の校歌になり、かつては小学校唱歌としても歌われたようです。

komekome24
質問者

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遅くなって申し訳ございません。 大変助かりました。本当にありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.3

「磨かずば…」で始まるのが三十一文字(みそひともじ)ですよね。 これに対して改作の「七五調バージョン」は、次のようになっています。 金剛石も磨かずば玉の光も添はざらん 人も学びて後にこそまことの徳はあらわるれ 時計の針の絶え間なくめぐるが如く時の間も 日陰惜しみて励みなばいかなる業もならざらん 両バージョンとも昭憲皇太后作とされています。 メロディーを付けて歌うのは、七五調バージョンのほうです。 東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水女子大学)の校歌になっています。 華族女学校(後の女子学習院)でも歌われていたようです。

komekome24
質問者

お礼

遅くなって申し訳ございません。本当に助かりました! 丁寧な回答ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 母が昔の(明治時代の)高等女学校で習ったと思われる、よく歌っていた歌の文句に  「金剛石も磨かずば   玉の光は添わざらむ   人も学びて後にこそ   誠の徳は   顕わるれ」 というものでした。当時はこういう同じ主題による変奏曲が沢山あったものと思われます。

komekome24
質問者

お礼

遅くなって申し訳ございません。大変助かりました! ありがとうございました。

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