西行の短歌「かたじけなさ」について

このQ&Aのポイント
  • 西行の短歌「かたじけなさ」について教えてください。
  • 西行が伊勢神宮にお参りした時の歌であり、神宮の神々しい佇まいに対して、胸打たれた気持ちを詠んでいます。
  • 「かたじけなさ」という語の解釈にかかっている問題で、西行の態度や思想を推測することができます。
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何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに

西行の短歌、 ・何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる に詠まれる「かたじけなさ」ついて、教えてください。 この歌は西行が伊勢神宮にお参りした時の歌であり、神宮の神々しい佇まいに対して、胸打たれた気持ちを詠んだと言われています。状況を推測すると、西行が真言宗の僧侶であり、神道のことは知らないという意味で「しらねども」だが、神道の神も十分に感じ取って涙した、ということでしょう。 しかしお坊さんが神道に「しらねども」と言いつつ感動するとは、奇妙なことです。肯定的に見れば、宗教という壁を越えて、聖性が普遍的であると柔軟に捉えたと言えるでしょう。一方、否定的に見れば、節操がないとも言えます。さて、この短歌は何を言わんとしているのでしょうか。 この問題は「かたじけなさ」という語の解釈にかかっていると見えます。この語は現代では使われなくなりつつありますが、この語の持つ思想を理解すれば、西行の態度をもう少しはっきりと推測することができないでしょうか。つまり彼がどの点で神道を受け止め、どの点で仏教と一線を画したかがわからないでしょうか。 文学からでも言語からでも考察できる問いですが、短歌を好例とする日本人の「かたじけない」という思想に特に興味があるので、哲学カテとしました。

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  • booter
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回答No.4

私自身も教えてもらう身なのですが、参考になればと思い回答致します。 ご存知かもしれませんが、「本地垂迹説」なるものがあります。 日本古来の神道は、仏教という宇宙の真理が日本に現れた一つの表現なのではないか?(今は逆の感がありますが)、という話しです。 http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo0/ss051.htm >   高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の >   山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と >   もうす。大日如来の御垂迹と思ひてよみ侍りける > >     深く入りて神路の奥を尋ぬれば >        又うへもなき峰の松風 > > >   高野の山に住んでいたが、そこに住むのも嫌に >   なって、さすらいの心がおこり、伊勢の国の >   二見の山寺にいた。大神宮の御山を神路山と >   いう。伊勢の皇大神宮の天照大神は大日如来 >   の御垂迹だということを思って詠んだ歌 > >    大日如来の本地垂迹のあとを思いつつ、 >    神路山の奥深く入ると、この上もなく尊い、 >    又微妙な神韻を伝える峰の松風が吹くよ > > >   この歌から推察できるように、西行は僧であり >  ながら神宮参詣をしている。またこの時代の思想的 >  特色であった天照大神を密教の本尊大日如来の垂迹 >  とする「本地垂迹」思想がみられる。 また、 >   さかきばに心をかけむゆふしでて >       おもへば神もほとけなりけり との句より、神様も仏様も一緒なんだなあ、と言っています。 以下は私の推測です。 私が想像するに、この当時は元々の宗教である神道と外来の仏教の混交が起きており、それに対してどちらも正しい事を言っているから、どう整合性をあわせようかと模索している途中であったように思えます。 その思考実験の結果、本地垂迹である西行の一句が出来上がったのでしょう。 神道も仏教も、「向こうの宗教が悪い、俺の方に従え! 」なんて明確に言わなかったんでしょうね。「まあ、あちらさんはあちらさんだから」のように解釈の幅を持たせたのでしょう。「はっきりしないが衝突を避ける」という良くも悪くも日本人らしい選択です。 さて、この中の「かたじけなさ」は神様のような存在から受ける超越的な慈悲を指しているように思われます。 人間は極限状態において、理性や論理的理解よりも信仰や直感的感覚を優先します。 よって、既存の宗教の枠組みにとらわれる事なく、「神様とか真理のような存在」という共通認識を規定した後に、そこから発せられる慈悲を言語化したのが西行の「かたじけなさ」であったのではないでしょうか。 もう少し言いますと、「鳩の迷信行動」に代表されるように、人間は世界の中での事象に偶然に遭遇しても、それが発生したのはロジカルな理解ではなく、自分の行いや、あるいは神様などの超越的存在がお怒りになった事が原因で必然的に起こったのだという主観的観測から逃れる事はできません。 鳩の迷信行動 http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/intro/intro_47/index.html 例えば、皆既日食が発生した場合、「天体がこのような動きになっているから」とは考えずに「神がお怒りになられているから」といった、ロジカルに説明し得ない事象に対しては信仰を優先するクセがあると思われます。 現代でも、今回の東北地方太平洋沖地震で「神が起こした」と言う発言が海外であったように、個人の心情の中でプレートテクニクスの理解よりも信仰を優先した結果このような発言に結びついたのだと思われます。 これを踏まえて、西行のこのうたの私の解釈としては、「何だかよくわからない(ロジカルに説明できない)けれども、直感的に何か超越的なものがあるのが分かる。直感的に超越的な存在がいるのが分かる。更に言えば、こちらからは何にもしていないのに、そこから無条件に慈悲が出てくるのが分かる。世の中いろいろひどい事があるけれども、慈悲が与えられるのに対して、こちらが何にもしていないのは申し訳なく、しかし誠にありがたい。」と言っているのだと思っています。 件の「かたじけない」の心情は「やっぱりこちらからは何にも出せそうにないけれども、礼を欠いてしまうので御礼だけは言っておきます、申し訳ない、ありがとう」という心情を踏まえた礼の挨拶と捉えています。 ----- 余談ですが、現在の日本の神道は、天皇家にキリスト教が入り込んでいる状態となっております。現状がどうなっているのか、これも日本人らしく吸収してしまうのかという事は非常に興味深い事ですが、推移は見守って行きたいと思っています。 ※上記の「理性や論理的理解よりも信仰や直感的感覚を優先する」件についてはポーランドのテレビ作品「デカローグ」の第一話が理解を深めるのに役立ちます。信仰と理性、どちらを優先すべきなのか・・・。機会があれば見てみて下さい(図書館に言えば取り寄せてくれるかもしれません。昔WOWOWで放送していましたのでWOWOW再放送orCSで放送していれば見る事をお薦めします)。 http://www.amazon.co.jp/dp/B0009OA5IE

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。盛りだくさんですね。リンクのページは読んでみました。僕なりにそのページをまとめると、二つのことが言えそうです。 (1)仏教と神道について。 なるほど、仏が神の姿をとって現われるという思想(本地垂迹説)に西行が触れていたという視点は、面白いですね。僕はNo3の方の指摘がよく意味がわからなかったが、この説でわかりました。 僕も調べ直しましたが、本地(本来)の存在が、垂迹(スイジャク、仮の姿)をとって現れ出たと考えるということのようです。しかし、どちらが元で、どちらが仮かは時代によって推移があるようです。平安時代は仏が元だと考えたが、鎌倉では神道が元だと考えた。更に室町だと、仏が天皇の垂迹だと考える説まで生まれた(回答者様は、天皇が本地とお考えのようですね)。 回答者様は、西行は中立的であったとお考えのようです。しかし僕は、「さかきばに 心をかけむ ゆふしでて おもへば 神もほとけなりけり」という言葉遣いに注目すると、あくまで仏が本来であり、それが垂迹して神の姿になったと考えたように思えます。「神<ほとけ」という風に、仏の方が広い意味だと取って言いますから。僕は同じことを今回取り上げている短歌にも読みこめるかと思いました。「かたじけない」というからには、恩恵を与える存在だと相手を捉えたとは言えそうです。以下のお言葉はその通りです。 >よって、既存の宗教の枠組みにとらわれる事なく、「神様とか真理のような存在」という共通認識を規定した後に、そこから発せられる慈悲を言語化したのが西行の「かたじけなさ」であったのではないでしょうか。 しかし僕の理解ですと、神はきちんとお祭りしないと祟る存在だそうですから(?)、神を、慈悲深い仏に読み換えたと思っています。神社の前に行って「これもお恵み深い仏様と同じです、ありがたい」といったわけです。こうなると西行は、表向きは「しらねども」と謙虚でありつつ、実際のところは、強かな人だったのかもしれないというイメージが僕には湧いてきました。なかなか人間味が出てきました。 (2)高野山から伊勢への移動 それからリンクでは「かたじけなさ」を考えるにあたって、もう一つヒントがありました。伊勢にいる前に彼は高野山にいたのですが、「山深み」ではじまる寂然にあてた句は次のようであるとありました。 >「音あはれなる谷の川水」「はげしき物すごき月影」「訪うものは色づきはじめたはじのたち枝」「何心なくなく猿の声」「かつがつ落ちる橡の実」「物おそろしきふくろうの声」「ものものしくわたる嵐」「ほだを切る斧の音」「見るものはみなあはれもよほすけしき」「馴れて寄ってくる鹿」 リンクでは分析が無いので、あくまで僕の考えだと断っておきますが、高野山というのは「はげしき」「かつがつ」「おそろしき」「ものものしく」など、なかなか、荒々しい場所だということがわかります。そして「あはれ」が二回でていますね。「あはれ」の使用法は、西行の句を全部検討しないと何とも言えないし、僕はそれができないのですが、艶があるという風情ではないし、古今和歌集(たおやめぶり)を好む西行にとってみると、不本意であったのかも知れません。かつ戦乱があり、その不安も抱えていた。 伊勢に行った時の句が、「深く入りて 神路の奥を尋ぬれば 又うへもなき 峰の松風」ですが、松風という語の選択で、そこに古今集の世界を見出そうとした西行の気持ちが伝わって来るというものです。伊勢という場所に七年間も住んだということは、気に入ったのでしょう。「かたじけない」と感謝する気持ちもわかります。 さて、キェシェロフスキ、なかなかユーモアがあって面白いですよね。今度、観かえしてみます。

kusa-mura
質問者

補足

【まとめ】 早仕舞ですが、お陰さまで、大体のことがわかりました。「かたじけない」という言葉は当初、西行の心情を説明した言葉だと思っていました。しかしそうではなく、「何事」の性質を表わしており、その性質とは仏の「慈悲深さ」であるという風に考えてみました。その根拠は、BAにある通り、本地垂迹説です。僕なりに解釈すると次の感じです。 >高野山から伊勢に引っ越して、転地で神社にお参りした。新しい地であるだけに不安もあった。神社は、本来は自分の宗派である真言宗と違う。しかし神々しい神社にも、何者がいるのかわからないが、その存在は恵み深く、自分のよく知る仏と似たものであると感じた。知らぬ地でも仏は自分について、守ってくれているのかと思うと、涙が出た。 西行の転地は、今でいうと、外国に行ったようなものでしょう。宗派も違う神道が大きな力振るっている地で、不安もあったかもしれません。そこで見知ったものの片鱗をみると、感謝の気持ちで涙が出るということはあるだろうなというのが僕の解釈です。うん、僕にこの句を勧めてくれた誰かさんが感動した理由がよくわかりました。そうだろうなぁ、異境の地であるアメリカで、仏をみたんだろうな。頑張れよー、と言っておくことにしよう。

その他の回答 (3)

noname#156094
noname#156094
回答No.3

「しらねども」は、分からねど 理解できぬまま、という神の心への参入を表しているように思います。 「かたじけなさ」は、ありがたい 神の深い心への感謝を表しているように思います。 真言でいえば 「加とは如来の大悲をいう、持とは衆生の信心をいう」 神霊も含めた世界が、そのまま仏の世界でもあるという曼荼羅の思想においては違和感がなかったのではないでしょうか。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。仏教は神道と違和感がなく溶け込んだということですが、それだと「しらねども」とする必要が無かったように思えます。

kusa-mura
質問者

補足

素気ない書き方をしてしまいましたが、No4の方の投稿で、神と仏の関係について、理解が深まりました。失礼しました。

回答No.2

勝手な解釈で畏れ入りますが、参加を御許しになって下さい。 そこで申し上げます。 聖域の中で自分の「思考」の未熟さを思い知りながらも、 その自分を受け入れてくれている、 という事情への感謝なのではないでしょうか。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。おっしゃることに同意するところです。 「かたじけない」という語は辞書を引くと面白くて、畏れ多い、恥ずかしいの意味もあります。 これに即して短歌を考えると、まず西行は聖域に未熟者の自分が迎え入れられて、身の置き所の無さを感じているということなのでしょう。しかし、それは卑屈な気持ちや、恥ではなく、「こういう自分でも迎え入れてくれて感謝します」という謙虚な気持ちとして読めそうです。 伊勢に限らず、度量の深い人間に接すると、謙虚な気持ちに人はなるものです。伊勢を知らずとも、日常で感じる「かたじけなさ」の連想からこの短歌を味わうことができるかもしれません。

noname#134289
noname#134289
回答No.1

>しかしお坊さんが神道に「しらねども」と言いつつ感動するとは、奇妙なことです。肯定的に見れば、宗教という壁を越えて、聖性が普遍的であると柔軟に捉えたと言えるでしょう。一方、否定的に見れば、節操がないとも言えます。 「しらねども」は単なる謙遜でしょう。 西行法師は代々衛府に仕える北面の武士でした。 法師というと仏教が本職のように見えますが、彼の場合は神道も仏教も同程度に通じていたでしょう。 西行法師でなくても、伊勢神宮を訪れた人はほとんどみな(どの宗教を信じている人も、あるいは宗教を信じていない人もすべて)敬虔な気持ちになると思います。 おそらくキリスト教者の西洋人がお参りしても同じ気持ちになるでしょう。 西行法師がかたじけなく思うのは極めて自然なことだと思います。 現代の、仏壇も神棚もお祭りしている信心深い御老人がお参りしして、深く感動し「ハー、ありがたや、もったいなや」と敬虔にお辞儀するのと大きく違わないと思います。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。この回答では、節操がないというより、そうそう深く考えないでもよい、ということになるかもしれませんね。 しかし知らぬものに敬意を払うと言っても、そのやり方はいろいろあります。僕の問いは、大雑把にはわかるような気がすることを、より細かく考えてみたいということなのです。 西洋人のキリスト教徒でもとお書きですが、僕は彼らが「ありがたや」とは思わないだろうなと考えています。そもそも「かたじけない=畏れ多い+感謝する」にあたる語が無いからです。日本の伝統文化は壮大であり、敬意を表するという理解の仕方だろうと思えます。それは理性的な考え方であって、涙をこぼすまでには至らないでしょう。やはり「かたじけなさ」とは特殊だなと思うのです。

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