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人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について

noname#163132の回答

noname#163132
noname#163132
回答No.6

福祉や心理学については、まるっきりの素人ですが素人なりに考えてみました。あまり回答らしい回答ではありませんが…。 >人は自分の弱い部分(身体的な障害や短所)を“隠したい”と思ったり 自分の弱い部分を欠点であると意識して恥ずかしいという気持ちがあったり、同情されることを嫌っていたり、人と深く関わりたくないと感じているとそうなると思います。 でも、隠すことによって不利益が大きかったり、反って誤解を招くようなら、本当の自分をさらけ出そうと考える人もいると思います。 そのことがストレスになっていようが苦しかろうが、隠し通せている内は、まだ精神的に余力があるということだと思います。 これがいよいよ困難になって、 「隠せなくなる」のか、「隠すのを止める」のか…。 「隠すのを止める」のを選んだ人の方が、自分のそのままを受け入れる事が出来た分、精神的に解放されて、活動範囲や可能性が広がると思います。 「隠すのを止めた」ときに、他者との心理的な距離感が縮まったと感じるものだと思うからです。 また、「隠せなくなる」になってしまった場合は、不本意でそうなった分、恥辱に感じる人もいることでしょう。 精神的なダメージは、「隠せなくなる」ケースの方が大きいと思います。 >他者が障害を持っていると“より自分とは違う人”そして“かわいそうという同情”を持ってしまいます)。 人(少なくとも私自身)がこういった感覚を持ってしまうのはなぜでしょうか? これまでの回答でも既に“共感”について述べられていますが、質問者さんは、常に人に“共感していたい”ところがおありなのだと思います。 それは裏を返せば、ご自身も“共感して欲しい”と望むことが多いということなのだと思います。 恐らく質問者さんご自身が、人から共感して欲しいと思ったり、助けて欲しいと思っていたときに、現実に救われたり理解が得られて嬉しかったという経験を重ねていく内に、ご自身にとっては“共感する”ということが、生きていく上で非常に大きなウエイトを占めるものとなっていったのだと思います。 このようなご質問をなさったのは、質問者さんにとって大切にしたい感情が“共感”で、それを心の中に留めておかないで、行動に移すことを人生の中で最も重要なテーマだと捉えていらっしゃるからではないかと思います。 現実に“共感”とは、自分と似た境遇の人に向けやすいものだと思いますが、質問者さんが障害者を理解(共感)したいとお考えになったのは、障害を持つ人こそが健常者よりも共感者を必要としていて、助けを必要としているのだとお感じになっているからではないでしょうか。 質問者さんは実生活において、ご自身が共感を切望していた人達からそれを得ることが出来ずに長く苦しんだか、逆に非常に苦しんでいたときに、思いも寄らない人達に救われたという様な経験はありませんか? 自分にとって身近な人から共感を得られずに苦しんだことがあると、共感が得られずに苦しむことが多いであろう人達に関心が行ってしまうことは、充分あり得ると思います。 その様にして自分の過去の隙間を埋めるように、無意識に弱い立場の人に同情してしまうこともあると思います。 自分が思いがけず得た情けを与えてくれた人に会うことが叶わないなど、返すことが現状として難しかったり、その出来事自体が自分自身を支えている核のようなものだと感じていると、助けを必要としている人にその思いを向けたいと感じるものだと思います。 優しさに飢えていて優しさに救われた経験があると、自分よりも苦しみが多いのではないかと自分自身が感じた対象に、手を差し伸べたいと感じてしまうものだと思います。 また逆に、これといった不自由のない環境に育つと、困難な境遇にある人に対して関心が行くものだと思います。 最初は良く分からずに好奇心からだったとしても、人には想像力、共感力が備わっているから、唯単に自分とは掛け離れた存在というのではなく、その人達の現状には不自由や困難が付きまとっているのだと強く感じ取ると、それらが今の自分とは一見無関係であるように思えても、近い将来か未来に自分にも起こり得ることではないかと身近に感じて不安になり、その苦しみに共感し、相手に対し同情を覚えるものでしょう。 質問者さんは健常者よりも、障害者には困難な境遇が表に現れやすいので、関心が行ってしまうのだと思います。 >人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について タイトルの意味が良く分からなかったので、回答することに躊躇していたのですが、ここで言うスティグマとは、身体的な障害を持つ人を「自分と違う人=障害者と認識すること」を指すのでしょうか? そして分離・排除とは、「差別」のことでしょうか? 他者の身体的な障害や短所を見分けることを「分離」とし、社会的に弱い立場の人(障害者)だと認定することを「スティグマ」とし、これらの行為を「排除」と捉え、全体として「差別感情」について述べているのでしょうか? タイトルが理解できていないと的外れな回答になってしまいますので、私には回答自体が意味をなしているのか自信がありません。 質問者さんは、障害者に対して同情はしているけれど、同情とは差別感情も伴うもので、「自分とは違う人」と上位に立って「かわいそう」で留まっているとお感じになっていて、自分自身に対して不信感があると言うことなのでしょうか? 「分離・排除」と言う言葉と質問者さんとの関係に引っかかりを感じたので、ご質問の意味が私には今ひとつ分からないのです。 母親が子供の世話をするのは、子供がまだ未熟だからですが、「かわいそう」だから「同情」のみで世話をするのではないです。 上位に立って憐れみから世話をするのでもありません。 赤ちゃんや幼児は自分で出来ることは限られていて、言語能力も身体能力も低いのですが、それは通常であれば育つ内に能力が高まって行くことは理解できても、母親に忍耐力と愛情が備わっていないと、中々、世話は上手く行きません。 例え血を分けた親子であっても、母親に忍耐力も愛情も欠如していたら、我が子であっても差別して虐待してしまうと思います。 母親が、まだ未熟な幼い子供に対して抱く感情は「守りたい」だと思います。 「守りたい」という感情は「かわいそう」とは少し違います。 似ているけれど、「同情」ともまた違います。 自分の命と引き替えにしてでも、大切にしてあげたい気持ちです。 実際に自分が死んでしまっては守ってはあげられないけれど、最後の最後は自分よりも大切な存在に捧げたい気持ちが「守りたい」です。 私は、子供を「守りたい」と思っていても、心理状態が悪かったり、肉体的にも限界を感じて、子供に対して感情的になってしまって手を挙げてしまったことがあります。 そのときは、心も体も痛かったです。 自分が親から殴られたときよりも痛かったです。 「守りたい」を“感情的になって放棄してしまった”自分が許せませんでした。 質問者さんが不障害者に対して持ちたい感情とは、母親が幼い子供に抱く「守りたい」という感情に近いものではないかと思います。 どんなに相手が助けを必要としている人であっても、他人にそこまでの感情を持つことは難しいものですけれど、愛情を持って向かい合えれば素晴らしいことだと思います。 また、「守りたい」と言う感情は差別とは縁遠いもののように思えるけれど、その対象に害を為す存在に対しては、時に排除という烙印を押してしまうこともあります。 同じ目線になろうと意気込みすぎると、何処かにしわ寄せは行ってしまうものだと思います。 完全な調和を目指すと、反って歪になることもあるように思えます。

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