• 締切済み

人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について

ruehasの回答

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 我々の脳内に生み出される感情といいますのは、自分に与えられた状況に対応して選択されるものです。この選択基準は質問者さんの脳内に質問者さんの性格や価値観といった潜在意識として存在します。ここで潜在意識といいますのは「前意識」のことであり、意識として自覚される前の無意識領域に当たります。 ここには障害者に対する質問者さんの前意識が録音されています。そして、それは個人的価値観や生まれ育った社会の文化的価値観であり、質問者さんの個人体験から多くのひとに共通する利害や道徳観などが丸ごと混在します。このため、質問者さんの脳内では無意識に再生された感情と、そうあってはならないといった道徳観や正義感が葛藤するわけです。 これは質問者さんの深層心理でありますから、自分が何故そう感じるかといいますならば、内省か精神分析という手段があり、恐らく、心理学で有効なのはこちらの方です。では、そうではなく、質問者さんは飽くまで心理学にその論理的な答えを求めたいと仰るならば、残念ながらそれは、質問者さんはご自分の内面以外に何らかの理由を見出すことにより、これによって自分の気持ちを安心させたいという欲求を抱いていることになります。 障害者認定を烙印とは思いませんが、その人達が我々とは異なる運命に曝されてというのは事実です。この事実から目を背けるわけにはゆきませんし、自分の心に嘘を吐いても仕方がありません。通常、我々にとってはそれほど身近というわけではありませんが、質問者さんは自らがその世界に足を踏み入れているわけです。 「同情」といいますのは、立場が対等である場合には発生しません。従いまして、質問者さんが同情心を自覚するのは、それは立場が対等ではないからです。 我々の感情といいますのは、脳内の情動機能が利益・不利益の判定を下すことによって発生します。そして、他人の不利益に対して悲しいと感じることを「共感」、可愛そうに思うことを「同情」と言います。 まず、共感が得られなければ情動反応は発生しません。そして、脳内に発生した情動は表出の過程で様々な状況判断が行われることにより、分類の可能な特定の感情へと分岐します。 何れも悲しいという情動であることに違いはありません。ですが、ただ悲しいと感じているだけでは、我々の脳はそれが誰の苦しみであるかを認識することはできません。そして、ここで自分に与えられた状況が正しく評価されることにより、それは他者に対する同情として分類・自覚されることになります。 このように、状況の判別が行われるならばそれは結果に反映します。このため、立場が対等である場合、我々の脳内に同情という感情は発生しません。では、逆に発生した共感が同情に分岐しないというのであるならば、それは脳が双方の立場を認識していない、ということになります。 その苦しみを理解するのはまず必要なことですが、共感だけでは障害者を支援することはできないと思います。そして、お互いがその関係にあるならば、それは必然的に同情となります。 では、ここで同情心を排除しようとするならば、そのためには、これを自覚した状態で自分を相手と同等の立場に持ってゆかなければなりません。ですが、相手は障害者ですから、物理的には無理です。ならば、その障害を事実と受け入れた上で、それを自分の問題として解決しようとするならば立場は対等ということになります。 口では何とでもと思われるかも知れませんが、私としましては、これは理想論でも何でもありません。一般の我々が実際にそれに携わることありません。ですが、仮に我々がみなこれを社会全体の問題として捉えることができるならば、差別もまたなくなるはずです。では、もし質問者さんが将来その現場に立つことになるというのでありますならば、それは質問者さんご自身の手で間違いなく実現できることと思います。 障害に対する嫌悪感といいますのは誰の心の中にもある通常の反応です。ですから、道徳観だけでこれに対処しようとするならば必ずや心に矛盾が発生します。ならば、質問者さんが実際にこれに携わろうとするならば、それは単なる道徳的適応ではなく、これには使命感によって対処しなければならないということになります。そして、これを同情やおせっかいではなく、使命感として運用するためには、障害者支援に関する正しい知識といいますのは、そのためにも必ずや必要になるのだと思います。 色々とたいへんな分野だとは思いますが、ぜひがんばって下さい。

関連するQ&A

  • 絶えず侵略されているような感覚

     私は、絶えず他者から侵略されているような、乗っ取られているような感覚に襲われます。背後から聞こえてくる足音、ぶつかりそうな位置を歩く人、次々と仕事を持ちかけてくる同僚、食べ物をくちゃくちゃ噛む音、私を利用したり罠に陥れたりしてくる人々・・・とにかく大小かかわらず、あらゆる物理的・心理的刺激が、私への侵略・メンタルレイプのように感じられます。    これは何という精神病なのでしょうか?このような悲惨な感情を和らげるには、どうしたらよいのでしょうか。

  • 知的障害の人はかわいそうか?

    僕の職場に歳は30歳くらいの男性で知的障害の人がいる。 人より学習能力が劣っているというか、要するに頭が弱い。 周りの人の中では彼に同情する人がいる。かわうそうだと。 通常我々が心や体に傷を負った人をみて同情するのは、 自分がその人の立場になれば辛いと思うから、同情するのだと思う。 だから知的障害の人にも同情するのだと思うのだが、しかし 同情されている知的障害の当人は本当に不幸なのだろうか? 仮に痴ほう症やアルツハイマーなどにかかっている人をみて、 同情はあまりしないと思う。 その人の親族など近い人には同情する場合もあるが、その当人自体 には同情はしないだろう。 それと同じことで、親兄弟はたいへんだったことだろうと思うが、 知的障害者の当人に同情する必要があるのだろうか? 実は以前僕は、その知的障害者の人に幸せかどうか聞いたことがある。 彼の答えは、「わからない」だった。 彼は自分が障害者ということを知っている。 そのため生まれつき人よりハンディを背負っていることがわかっているが、 その分得していることも知っている。 楽な仕事を与えられて、早く帰れるし怒られる事もない。 障害者年金もあるのだろうか、パチンコしたり酒を飲みに行く金もある。 はたして彼は本当に不幸で同情するべき人なのだろうか?

  • 心理学的に何か用語とかったあるのでしょうか?

    自分がコンプレックスに思っていることで、相手のその部分を意識してしまうのって何か心理学的な用語ってあるのでしょうか? 例えば、自分の鼻にコンプレックスを持っていたら相手の鼻を気にしてしまう。 自分が人間関係に対して何かしらのコンプレックスを持っていたら、他者の関係性にやたら敏感になるなど。 ○○は不仲。や一緒にいるのに無言。 など。 こういった、他者に対して自分のコンプレックス部分が気になる心理って何か名前ってついてたりしますか?

  • 人の話が理解できないのはどこかに障害をもっているのですか?

    僕はなかなか人の言うこと聞きません。 自分が正しいと思うことを実戦してきたみたいです 最近越えられない壁にぶつかりました 原因は僕が精神障害だからでしょうか? 普通の人と感覚がずれている気がしてなりません 近々精神科医にでもいくべきでしょうか? これは個性なので伸ばしていくべきでしょうか?

  • PTSDと時間感覚について

    PTSDと時間感覚について質問があります。 PTSD=心理的衝撃による心身の障害。時間感覚の欠落が特徴。気持ちに余裕がある時に、現実を徐々に受け入れていく事が出来る。 と私は理解しています。 でも、どういう仕組みで心理的衝撃が時間感覚の欠落を引き起こすのか、が分りません。時間の捉え方は、人によって、文化圏によって、物理学と心理学など視点によって違いますが、PTSDの場合はどう考えているのでしょう? PTSDと時間感覚の関係はどう捉えると良いでしょうか?解説、参考になるサイトや文献、または私の理解が違っているとの指摘、をお願いしたいと思います。

  • 感受性が強すぎて疲れるという感覚が分かりますか?

    私は幼いころから感受性が強すぎると言われることが多かったです。 対人間については、とてもストレスがたまり疲れます。 人と一緒にいると、その人の人格や気持がこちらに乗り移ったように感じます。自分の嫌いなタイプの人間と一緒にいると、心が毒される感じがします。 文面だけでは分からないと思いますが、人の問題と自分の問題はハッキリ区別しているので、境界性人格障害ではないと思います。また、自分の心の問題を他人に投影して苦しんでいるわけではないと、自分では思うのでその前提で考えて頂けますでしょうか。 憑依体質とは、霊感のある方に対する表現でしょうか。私は幽霊を見たり感じたりは全くしないのですが、このような人にも憑依体質というのはあるのですか。 この感覚がお分かりの方、いらっしゃいませんか?対人間(芸術以外、生身の人間)に関して、疲れることが多くありませんか?どのように対処していますか? ちなみに、結婚相手に対してはこの感覚が最も少ないです、なので結婚したのですが、それがなぜなのかは不思議です。

  • 楽しさ・寂しさの感覚がよく分かりません。

    1人で居る時に感じる「寂しい」さ、と誰かと一緒にて、同じものを観て・聴いているのに、自分だけ同じように感じることができない・共感できない「寂しい」さ、はどちらが辛いですか?(第一の質問) 私は後者の方がとても辛いです。 今まで色々な人とどこか自分と共通する価値観や、気持があるはずだと思って、探しても探してもそんなものはどこにもなくって、それがどうしようもなく辛いです。 どうして周りの人は楽しいのか、自分にはどうやっても分かりません。 興味無いことなら、少しでも興味を持とうと、まずは知ることから。 自分が興味を持ってることなら、周りの人にも興味を持ってもらえそうな話とか色々探すのですが、やっぱり空周りになってしまっています。 本当は周りの人も、そんなには面白がっているわけではなく、「面白いから笑うんじゃなくって、笑うから面白い」的な心理なのでしょうか? でもそのことを言ってしまうのは雰囲気を壊してしまうから言わないだけなのでしょうか? 大人のマナーなのですか? (第二の質問) 自分だけ、周りの人が面白いと感じることや、その逆の感覚が周りと違うのかどうしても分かりません。 そういう場での私の感覚での意見はいつも周りが静まり返ってしまって、とても辛いです。 ずっと「変わってる」って言われるのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。 なぜこんな思いをしなければいけないのでしょうか? (第三の質問)

  • 心理学を学んだ人

    最近デートをしていた男性が学生の頃から心理学を専攻していて、今でも勉強を続けているそうです。 もうこの方とはすぐにお別れをしようと思っているのですが。。。 私は割と社交的な方で、老若男女問わずかなり人付き合いも多く、濃い付き合いの人もいます。 仕事柄もありたくさんの人と接してきたと思うのですが、この男性は私の人生で出会った誰よりも自己中心的で気遣いのない方のように感じました。 それは経験不足から本当に気がつかないというものではなく、確信的に自分が楽をするためだけに、故意に周りを動かそうとしている部分を多く感じました。 私は心理学のことはよく知らないのですが、カウンセラーとかになる方などが学ばれているものなので、普通の人よりも、他者を理解したりすることを学んでいるのかと思いました。 その方はそれを仕事としている訳ではないのですが、心理学の内容というのは、他者とのコミュニケーションなどには関係ありませんか? それともその人が心理学を学んだことは、それで自分のことを理解し、そして周りを動かすすべを得ようとしたのでしょうか? 心理学を学んだと言っても色々なのでしょうし、元々の性質があると思うのですが、そういう方が誰よりも、コミュニケーション能力が低いことに驚き、興味を持ちました。

  • 足が1本ない人が走って勇気を貰える感覚がわからない

    パラリンピックってどういう見方をするのが正しいんですか? 「あー、あの人足が1本無いのにめちゃ頑張ってるなあ。私は足が2本あるから頑張らないとなあ」 みたいな感じで見るのが正しいんでしょうか? スポーツを見て 「勇気をもらった。夢をもらった」とか言う人いるじゃないですか。 あの感覚が分からないんですよね。 テレビで障害者が走ってるの見て勇気とか夢とかもらえる人の感覚ってどういうことなんでしょうか? たぶんそういう事言ってる人も明日から普通に会社通勤して仕事して家に帰って寝てるんでしょうから、夢とか勇気ってあっても無くてもどっちでもいいんじゃないかと思いますね。 勇気もらって何をするんですか? パラリンピックってどういう見方をするのが正しいんですかね? 障害者に関しても「足が一本ないのはあなたの自己責任ですよね」って感情が先に来るので、足が1本無いとかアピールされても知らんがなそんなもんって感じです。 先天性とか自分ではどうにもならないことだとか主張されても 私自身就職氷河期に大学卒業して就職できずに非正規雇用で苦労しましたが、それに対しても自己責任で片付けられてきたので、障害者にも同じような感情しかないですね。 苦しい状況は自己責任、日本はそういう国でしょ。

  • 偽善よばわりする人は、「善」が前提?

    あくまで例えば、の話。一つの例として↓、ですが、 ボランティアや社会的弱者のために何かしたり熱く語ったりする人を、偽善よばわりする人って、 弱い人達が、ちゃんと幸せだったらいいな、と思いながらも、 「そりゃ自分だってみんな幸せだといいなと思うけど、他人を思いやる余裕なんてないし、理想ばかり言ってんじゃねーよ」と思って腹立ってんですかね?  ってことは、この人たちは実は、 「善」を前提にしていて、「わかるけど、理想だけど、きれいごとよ」つまり、偽善だよ、ってなるのですかね? でも、この、「わかるけど~」の部分を、あまり口に出して言うわないですよね?なんででしょう。 一番みんなが忘れてる事は、いつ自分が病気、障害者になるかもしれないって事。そうなったとき、自分は、誰の世話にもならないですむ、とでも思ってるのか、それともそこまで想像がいってないのか? なんで?  ぶっちゃけ、そういう人達の情熱がないと、公的も含めて、なりたたないのにね。 私は結局、ムキになって「偽善だ」的な事を、言ってる人は、 子供っぽいと思うんですけど。 みんな大人だから、自分は何も出来ないけれど、世の中にはそういう事をやってくれる人がいるので、任せとけばいいや、ぐらいが本音でしょ?私もです。 ヒトが気付いてない事を、自分は気付いてるんだぞ、という、無意識の自己主張? 長くなったけど、私が聞きたいのは、ムキになって「偽善だ」という人の、心理的な事についてです。べつに福祉の話ではないので、そっちには言及しないで下さい。