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人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について

noname002の回答

  • noname002
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回答No.1

はじめまして。 私は、学問的な知識を持っていないほうですし、基本的に自分自身が経験・体験したことや自身の身近で見聞したことでしか お話しできません。ですので、そのあたりから投稿させていただきます。 福祉の現場では どうなのでしょう、障害って、近頃は「障碍」とも書くみたいですが、「害をなす者」という意味で使われてはいないわけですから、「害」でも「碍」でも、どちらの字でも、現実の障害者にとっては、人生の一面で大いに思い当たる意味を含んでいますので、私は、いまのところ、従来どおりの字を使っております。 さて、何に よらず、自分の弱点と思っていることを隠すぶんだけ、他人の弱点にも敏感になるようです。 自分と同じようなと感じるから、他人の それに対して同情的にもなるのが一般的なようですが、だからこそ、逆に、攻撃的になったりもしますね。 いずれにせよ、そこに一種の「同一視」が はたらいているのだろうと思われます。 私は、母親に、あかちゃんのとき背負った障害に関して、他人に開示することを極力避けるようにとの方針で育てられました。 当の私自身はというと、背負った障害のことを、自分自身で恥じる気持ちは薄かったのですけど。 母にしてみれば、自分の不注意が原因になったことも含めて、ほかならぬ、わが子の身に起きたことだからこその警戒心でもあったのでしょう。 母親ですから、わが子が「同一視」の対象になるのは、たやすいでしょうし、不利な面を神経質なくらい忌み嫌う思いと、守ろうとする思いとの狭間で、分裂的な様相すら帯びてきます。 それは、同情などという安易なものではないですし、それ以上に、始末の悪い、困ったことでもあります。 その母自身は、と言いますと、ふつうよりは際立った美点を多く持っている反面、ふつうよりも重い弱点欠点も抱えている人でした。まあ、こういう所でバラしても怒らないかな?というものを一例として挙げれば、日常、字がヘタだということ、文才に乏しいということを、プライドの高さのせいでしょうか、必要以上に気に病んでいました。そのわりに、では努力するのかというと、それは しませんで、そういうことについては もっぱら隠し、それでも必要に迫られれば、私を始めとした親しい周囲の者に、身代りに処理することを命令して済ませ、あとは、持って生まれて際立った長所や才能だけで勝負、そういう人生でした(笑) >他者が障害を持っていると“より自分とは違う人”そして“かわいそうという同情”を持ってしまいます 人は、自分に重ねてみようとする部分が大きいほど、不名誉や屈辱や怒りを感じるもので、距離感が大きいほど、冷静でおれるものですね。 ですが、冷静でおれるということが、距離感に裏打ちされているものならば、すでに、分離や排除が なされ済みだからとも言えそうです。 私は、数年前に、就職のことで、それまでになく悩んでいたおり、障害者福祉に携わって長年 活動してこられたかた(このかた御自身は健常者)に伴われ、障害者が働いておられる場所を見学させていただいたことがあります。 そのときに、私の事情を大まかに聞いたかたたちが、皆で いろいろと質問してくださり、考えあぐねてくださり、親身なアドバイスも くださったのですが、いずれも、明らかに私よりも生活が大変だろうと思われるような障害を抱えておられるかたがたでした。 温もりのある連帯感のなかで(それは、ほとんど、ある種のエロスさえ感じさせるものでしたが)、私自身は、というと、母親の強い意向もあって、実際には、ほぼ健常者としての衣をまとって生きてきましたせいか、彼らのような程度の障害者からも、もちろん、いわゆる健常者からも距離のある、まことに宙ぶらりんの存在なのですね。 自分よりも程度の重い、あるいは生活に支障が大きいだろうと察せられる障害者にも、健常者の範疇の人たちにも、距離感がありますと同時に、親身な感覚もあります。そういう、いわく言い難い存在です。 たとえば、聴覚障害というものがありますが、これは、全盲なら全く見えません、と言いきれるように、全く聞こえません、と言いきれる人は少ないらしく、むしろ、聞こえたり聞こえなかったりの幅が、人によってマチマチなのだそうです。 私なども、その一人なのですが、すでに聴覚障害者認定のもとに、補聴器なども、早くから使いこなしてきた人たちに混じっていますと、表現しにくい孤独感を感じてしまうものがあります。 このように、同じ障害名を持っている者どうしであっても、距離感は あるのですね。 そして、彼らの間でも聞かれ、私自身も常々思うことなのですが、目の不自由なかたや、中途で障害を負ったかたの御苦労たるや、と思ってしまいます。ただし、かわいそう、というのとも違う、大変だろうなあ、という、身につまされるような想像からなんですが。 しかし、どのような障害であっても、それも、その人の人生と個性を つくっていく糧となるには違いありません。 このごろは、自分自身が、同時に親が、それなりの年齢になり、老年の人の心境も、他人事ではなくなってきました。 人は、自分を基準に、ものごとを感じたり考えたりするものですね。 ときに、その自分自身にすら、探りを入れなければならないこともありますでしょう。この御質問のように。 基本的に、自分と同様なものであって、ことさら上から見下ろすような感覚で見るべき相手でもないという実感を得られるには、その対象である者たちのなかに入ってみることで、多かれ少なかれ、得るところはあると思います。 そして、なお且つ、やはり、外からは「同種」のように思われたなかにも、おのずと違いは、いろいろあるものだということが、お分かりになってくると思います。 質問者さまは障害者福祉を学んでおられるとのことで、先述しました、私が お世話になったかたのこともあり、御精進を応援したいと思いました。 がんばっていただきたいです。

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