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他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

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回答No.10

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。 ○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。  1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?  2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?  3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索による気づきとしての、普遍的経験や理論でしょうか?  4. ご質問では哲学の議論としておられます。哲学の議論についてのみに問題になることなのでしょうか?  4-2. 他者の意識の存否は哲学の議論の他は、問題にする必要はないのでしょうか?或いは他の面においては存否が確認されているのでしょうか?  5. 哲学の議論において、他者の意識の存否に疑念を持もたれたご経験やご認識をされたことがあるので質問されているのでしょうか?   それとも理論的に、或いは思考により疑念がおきた、ということでしょうか  6. ご質問者さんは、哲学の問題や投稿においては、他者の意識の存否を意識的に念頭においておられるのですか?   同時にご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか?   (その念頭に置くこと、自己の内面思索に置くこと、その仕方は自己性において大きな意味があるかも知れませんね。) ○ 私見  生理や肉体で個別になっている、私たちの各個の意識って、以外に共有的であると存じております。意識の共有がないところでの議論は成立しないでしょうね。  そういう中での自己と他者だと存じております。時にはその共有性や存否についての確認と、創成は必要とされることですね。  私は一端的ヒンドゥの哲学の片端をかじっています。意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。  以上のように思っておりまして、上記の補足のお願いを致しました。どうか勉強させてくださるようお願い申しあげます。

taka-kazu
質問者

お礼

意識が共有的とは始めて聞くご説でした。それは自己と他者の思考がどこかでつながっているということなのでしょうか。それとも、自己と他者は何かに対する共感という形でつながっているということなのでしょうか。捕捉に書き忘れたのでここに書いておきます。 私はインド仏教哲学に興味があるので、それと関連しているヒンデュー教の哲学にも興味があります。 >>意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。 という一文は、意識についての新たな側面を感じさせるものでした。 ご長文によるご質問とご回答、ありがとうございました。

taka-kazu
質問者

補足

多岐にわたるご質問、ありがとうございます。さっそく答えてみます。 1私はそもそも他者の意識の有無は自己の意識の有無と同じような方法では確認できないものと考えています。よってこの質問には答えることはできません。 2これが一番の難問です。私の意識はクオリアを伴って、いまここに現われているように思えます。しかしそれを何らかの基準で確認することはできません。確認するためには、私の存在を判定する、超越的な存在が必要になりますが、それを私が確認することが不可能だからです。私の意識があることは「あるように思える」としか言いようがありません。 3思索による気づきとしての、普遍的経験や理論にあたります。私は他者の意識というのは原理的に確認不可能なものと考えています。 4これは哲学についての議論です。たとえばこれが物理学、心理学的な「他人がものを見ている時に、脳内ではそれに対応する神経反応があるか」という議論なら、単純に脳を調べて、確かめればいい話です。しかし、意識というのはそのような科学的な測定が不可能な存在なので、哲学の問題です。 4-2先に述べたとおり、意識は科学的な測定が不可能な存在であり、哲学以外の議論ではとらえられるものではないと考えています。 5質問の意味が分かりません。「哲学的の議論において」と「理論的に、或いは思考により」の違いを説明していただけませんか? 6前にも述べたとおり、他者の意識の存否は確認不可能なものと考えています。なので、他者の意識の存否は念頭に置いていません。また、 >>ご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか? という質問については、イエスです。自身の意識を念頭に置いて考えています。 ちなみに私の言う「意識」とは、五感による表象(知覚表象、触覚表象など)や意志表象、想起表象などの諸表象の相互連関のことを指します。 また、私の哲学観は西田幾多郎の「善の研究」や、仏教の唯識哲学、西洋の唯心論、独我論に近いです。外界や他者、客観というものの存在は確認することはできず、それなりに確かに思えるのは、五感による表象などの諸表象を伴った私という人間の意識そのものだと考えています。

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