意識の中に「自分」は存在するのか?

このQ&Aのポイント
  • 意識の中に「自分」は存在するのか?肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。他人、他の物体、を見るのが主である。鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。
  • これを、意識に当てはめて考えてみよう。体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。
  • こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか?しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか?との、疑問が生じる。本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか?
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意識の中に「自分」は存在するのか?

. 意識の中に「自分」は存在するのか? 肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。 他人、他の物体、を見るのが主である。 鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。 しかも、鏡に映った像は「自分」と左右が反対の歪んだ像だ。 自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。 「自分」への関与度の高い「顔」は直接見えないのである。 ※繰り返すが、基本的に「自分」で「自分」を見ることは出来ない。 これを、意識に当てはめて考えてみよう。 (ここでの意識は、心、精神、魂、等と区別していないので、意識という言葉で統一している。) 体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。 同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。 ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。 例えば、自分の手、足を、自分の意識で思い通りに動かすことが出来る。 これを、自分の部位とすると言うことである。 (他人の手、足は、自分の意識で動かすことが出来ない。) ここで、対象を意識に移して考えてみる。 その中で、自分の意識で制御できない部分があれば、自分の部位と言うことは難しくなるという考えである。 ・例えば、痛みである。  これは、制御できない。だから、意識の中での「自分」の部位から外せると思える。 ・次に考えるのが、喜怒哀楽である。  喜びも、悲しみ、等も制御できない、どこからかやってきて、どこかに消えていく。  同様な理由で、喜怒哀楽も、意識の中での「自分」の部位から外せる。 ・・・・・  こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか?  しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。  あとから、思い起こして、「あの時は、集中して考えていたな。」と認識できるぐらいである。  まるで、手足をわずかに自分の物と、感じる様に・・・  そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。  物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか?  との、疑問が生じる。  本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか?  現状では、雑な、思考だが、皆さんの意見を聞かせて下さい。 .

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noname#136007
noname#136007

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

 「意識」の「意」は心。「識」は「知る」ということで。    物理的には、自分の顔は鏡に映す事で見ることが出来る。  それを心の世界にあてはめると、   心の鏡に映った自分を見る。ということになります。  そこで疑問が湧きます。  心の鏡って何、その鏡に映っている自分ってこの私だよね。  と、ここまで考えたら、物理的な例えが通用するなら、自分の手足は直接見えるので、心だって鏡を通さずに見える、という理屈になります。「顔」は見えませんが。  そうしてごく普通に「自分」を意識したりするけれど、自分の心って常に揺れ動いていて、真の自分ってあるんだろうかなんて不安にもなります。  そこで意識を活発に働かせて、心の鏡を用意しました。多分「顔」が見たくなったので。  でも衣服を重ね着した自分が映っているだけで、肝心な顔は良く見えません。  前に戻って、それじゃあ心の鏡ってなんだろう。  やっぱりここは、物理的世界でなく、精神界のことなのだから、鏡は心の働きと捕らえるべきではないかと思いました。  この働きを「意識する、認識する」という言葉に置き換えてみましたが、安易過ぎるでしょうか。(‘大円鏡智’なんて難しい言葉を思い出しますが、この世界の事でしょうかね)  意識の中の「自分」が自分でないように思うのは、衣服を着込んだぼんやりとした自分しか見えないからだと思います。心を映す鏡だってぴかぴかに磨かれているわけではないでしょうし、歪んでいるかもしれません。  心は「自己なるもの(があるとするならば)」が、煩悩という衣服を纏っていると解釈します。例えて、たまねぎのような構造をしているのではないでしょうか。(十界なんて世界をダブらせて考える事も可能かもしれません。誤解の可能性もありますが)  普通に社会生活をしていても、心構え次第、努力しだいでたまねぎの皮の一枚や二枚をはがす事はできるでしょう。  でもそれ以上になると、山奥に籠もり(欲望の刺激を避けて)修行する(心の垢を落とす、鏡を磨く)事が必要になるようで、だから「真実の世界」なるものに、心惹かれる人たちは出家する事になるのです。  そして修行が進めば、だんだん核心に近づいてくるというわけです。  でも最後の一枚の中に核はあるんでしょうか。  あると思います。  たまねぎが芽を吹くので分かります。  これがいわゆる「自己」というものだと思いますが、凡人は“想像”するしかないので、多くの心の探検者は“思索”する事になるのでしょう。

noname#136007
質問者

お礼

. yy8yy8az さん、回答ありがとうございます。 それから、お礼が遅れてすみません。 >でも衣服を重ね着した自分が映っているだけで、肝心な顔は良く見えません。 心の中を観察したんですね。 そう、よく分からないんですよ。意識の中の自分って・・・ >例えて、たまねぎのような構造をしているのではないでしょうか。 そうかも知れません。でも、タマネギじゃなく、キャベツかも知れないんですよ。 >でも最後の一枚の中に核はあるんでしょうか。 >あると思います。 >たまねぎが芽を吹くので分かります。 >これがいわゆる「自己」というものだと思いますが、凡人は“想像”するしかないので、 >多くの心の探検者は“思索”する事になるのでしょう。 たまねぎだと芽を吹きますが、キャベツだと芽を吹きませんね。 やはり、思索の旅を続けるしかないのでしょうか? .

その他の回答 (13)

回答No.13

 No.9&11&12です。  もう来ませんが  ★ それでは、今後の書き込みを、ご遠慮下さい。  ☆ というのは なぜですか? 理由を言わない発言は 小学生でもしないでしょう。  ま だから間違っているということになるわけでしょうね。それでは。

noname#136007
質問者

お礼

. 先ほどの回答へのお礼を、ちゃんと読んでいただくと分かっていただけると思ったのですが・・・・ それでは、貴方が「哲学をしている」と言うならば、 (1)哲学の代表的な思考方法を2つ上げて下さい。 (2)その、具体例を上げて下さい。 (3)あなたの、思考方法がどの方法を多く用いているか、お答え下さい。 宜しくお願いします。 .

回答No.12

 No.9&11です。  ★ 真面目に回答下さい。  ☆ 唖然とは こういうときに言う言葉かと 初めての体験でした。  ★ そうすると、哲学の一つのテーマでもある「自分とは何か?」の問いの否定になりませんか?  ☆ 《自分とは何か?》の問いに答えたつもりですが? しかも 大真面目に。  ★ 突き詰めると、「哲学する」の否定にもなりませんか?  ☆ あなたの思っていておこなっている《哲学する》が この今の主題については まちがっていたということを意味するようですね。  ★ あなたにとって「哲学する」とはどういう事ですか?  ☆ あなたとのやり取りは 今回が初めてですが 回答No.9からの投稿や応答が それです。いま実践しているそのことです。

noname#136007
質問者

お礼

. >☆ あなたの思っていておこなっている《哲学する》が この今の主題については まちがっていたということを意味するようですね。 それでは、今後の書き込みを、ご遠慮下さい。 .

回答No.11

 No.9です。  ★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   質問者〔* 回答者のまちがいだと思います〕様は、質問および、他者様への回答のお礼を、よく読まれていますか?     #6の回答のお礼に、その回答を書いています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つぎの箇所でしょうか?  ★★ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   自分は、意識の中で自分の存在しないと感じています。(まだ、直感レベルです・・・)   じゃ、自分はどこに存在するのか?   それは、「無意識」または、「意識」と「無意識の」間にあるんじゃないか?   というのが、今の自分の感じている所です。   これから先、この辺を突き詰めて考えて、みたいと思っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしのNo.9のあとに VIVIDNESS さんが回答No.10として説明されているので もう必要はないと思いますが ひととおり述べます。  と言っても つぎのひとことです。  ○ 次の括弧 ≫ ≪ でくくった部分の《自分》が 通常《わたし》と自称する自分のことですよ。  ★ ≫自分≪は、意識の中で自分の存在しないと感じています。  ★ ・・・というのが、今の≫自分≪の感じている所です。  ★ これから先、この辺を突き詰めて考えて、みたいと〔* ≫わたし=自分≪は〕思っています。

noname#136007
質問者

お礼

. 通常とは何ですか? 多くの人が持っている概念という意味ですか? 通常を受け入れるとは、思考停止になりませんか? 多くの人の考えている「自分」を受け入れるとしましょう。 そうすると、哲学の一つのテーマでもある「自分とは何か?」の問いの否定になりませんか? 突き詰めると、「哲学する」の否定にもなりませんか? あなたにとって「哲学する」とはどういう事ですか? 最後の問いだけで結構です。 真面目に回答下さい。 .

回答No.10

 もしも、「自分」が「無」であると意識するならば、そのように意識している『自分』は、いかなる存在として定義されるのでしょうか。「自分」が存在しないことを疑うならば、その疑うという意識作用の中に、まさしく『自分』の存在が見出されるのではないでしょうか。つまり、『自分』とは、意識そのものなのではないでしょうか。  さらに、この『自分』の存在証明に着目してみます。ここでは、「意識した」ことによって「自分」が見出されているのではなく、「意識した」という「自分」を『意識した』ことによって、『自分』の存在を明らかなものとされているのです。  この自己認識は、実は、このような存在証明の占有する領域のものではなくて、我々が日常的に行っているものだと思います。実際に、kunobouさんが言うように、「よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。あとから、思い起こして、『あの時は、集中して考えていたな』と認識できるぐらいである」ということは、しばしば見られることです。「意識した」ということは、「意識した」ということにほかなりません。「意識した」ということから、自己の存在が明らかなものとされるためには、「意識した」という「自分」を『意識した』という状態がなくてはなりません。  したがって、我々は、ある意味では、直接的に「自分」を認識することをしていないように思えるけれども、やはり、直接的に「自分」を認識することをしていると言えます。つまり、「自分はあるか」という直接的な認識を立てたとしても、結局は「意識した」という「自分」を『意識した』という、間接的な方法で自己認識が成されてしまうように思える。ところが、その間接的な方法とは、確かに、間接的な方法のように思えるのだけれども、それ自体として取り出してみれば、やはり認識そのもの(=直接的認識)なのだということなのです。  

noname#136007
質問者

補足

. 回答ありがとうございます。 (長文のためが、回答者へのお礼の欄から拒絶されましたので、ここに書かせていただきます。) 先にお断りしておきたいのですが、自分は回答を持ち合わせていません。 疑問を持っているので、ここの質問スレッドで、問いを出しているのです。 ですから、これから述べることも、思考を深めるための材料の提示という感じで受け取って下さい。 VIVIDNESS さんと、何度か意見を交わすうちに、お互いの思考が深まることを期待しての提示です。 まず、一つ目です。VIVIDNESS さんの、 >つまり、『自分』とは、意識そのものなのではないでしょうか。 の趣旨は、デカルトの「我思う、故に我あり」と同じ事を言っていると考えていいのでしょうか? 仮に、そうだとして、話を進めます。しかし、デカルトの、この言葉は多くの哲学者から非難されているんですよ。 wiki 我思う、故にわれあり http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A (一部抜粋) >後世への影響 >以後の哲学は現代に至るまでこの影響を色濃く残しており、 >同時に、それに対する批判もマルティン・ハイデッガーなどから生まれている[要出典]。 >現代ではしばしば、デカルトのコギトの存在確立が近代の幕開けとなったといわれ、 >ポストモダンなどの見地から様々な形で批判されることがある。 >しかし、一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。 >例えば、哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、 >(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。 >そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。 >アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、 >厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。 >確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。 つまり『自分』=「意識そのもの」には、ならない、 思索の飛躍がある。その間を緻密な思考で埋める必要がある。とか、色々言われているのです。 つぎに、二つ目 >その疑うという意識作用の中に、まさしく『自分』の存在が見出されるのではないでしょうか。 これには、僕は、次の様に解釈できる余地もあるのではないかと思います。 例えば、芸術作品を見ます。絵画、文学作品、音楽、でも何でもいいのですが、仮に音楽を聴く場合を想定します。 音楽作品のなかに、作者の個性つまりは、作者を見いだせます。しかし、音楽作品=作者ではないとも言えると思うのです。 最後に、一つ(三つ目) 仮に、意識を「自分」とします。それじゃ、意識がない時「自分」の存在もなくなる。となります。 寝ていて夢を見ている時はどうでしょう。 寝ている時は、意識はありません。(この場合というか、全体を通して、意識は潜在意識を意味しています。) 熟睡している時、その本人を激しく揺り動かしても、反応が無い場合が多々あります。 じゃ、意識はないが、生命活動をしている、この人は、何者なのか? 夢を創出している主体は何なのか? 「意識=自分」と「意識の無い(寝ていて夢を見ている)主体」との関係は何なのか? との疑問が生じてきます。 回答にはなっていませんが、自分も答えを探している最中です。 これを、VIVIDNESS さんに、考えて回答いただければ、僕の疑問の回答への大きい道しるべになると思います。 回答、宜しくお願いします。 .

回答No.9

 こんにちは。  ★★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「自分で自分だと意識している意識は、自分じゃないんじゃないか?」  との、問題提示なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二つ目の《自分》が 《自分じゃないんじゃないか?》というわけでしょう?  ぢゃあ ひとつめの《自分》は 自分であるのではないですか? それとも誰なのでしょう? 無なのですか?

noname#136007
質問者

お礼

. 質問者様は、質問および、他者様への回答のお礼を、よく読まれていますか?   #6の回答のお礼に、その回答を書いています。 .

回答No.8

 kunobouさんの求めている回答は、実践しなければ求められないレベルの事かも知れません。  心を、三頭立ての馬車に例えてみてはどうでしょう。  先頭に1頭、後ろに2頭です。  先頭は『意志』後ろの2頭は『感情』と『理性』。  後ろの2頭がバランスよく働けば、先頭はスムーズに働けます。  実践は感情に働きかけると思いませんか。  善とか念仏とかを実践しないと、つかめない世界の事のように思うのです。  野球を例えに使ってみます。  打撃でボールをバットに当てる事ができて、内野ゴロは楽に打つのに外野へは飛ばせないレベルの人が、外野へボールを飛ばしたとします。  そのとき初めてその人は、その感触を体で受け止めることができました。    それまでは指導者から、打ち方やその感覚を言葉で説明されていて、分かったつもりでいましたが、実践し体感した事によってその人は、その打ち方や感触を自らの言葉で、説明できるようになったのです。  と言ったような例えではいけませんか。  重ねて言う事になりますが、  kunobouさんの掴もうとする心は、実践が必要ではないでしょうか。      

noname#136007
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 yy8yy8az さん、以前僕(mintarou1)が立てた、こんな質問スレッドを覚えているでしょうか? 心とは、すべてなんだ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5331537.html #23での回答のお礼で、心について僕は質問しています。 その問いに対して、#24で、k_jinen さんが回答していますが、その中で >>> そんなふうに、心の動きを細かく観察してみると、心とは、二つに分かれるのではなく、もっと数多くの部分(又は層)に分かれている感じがします。 (又は、各層でネットワークを取っている感じもします。)その辺もまた、著者の説明に物足りなさを感じています。 それについて、どう思いますか? <<< 「こころ」というものに関する概念区分は様々にあるでしょうが、多くは、たとえば「知・情・意」といった区分があります。 さらに細かく分けているものは、たとえば「多重知能」などです。(この辺りは「知・情・意」の全てを、「知(能)」というフィルターを介して区分しているとも言えます) と、しています。 「心」については、様々な概念区分があるという事です。 この、事実に基づいて「心」を考えないといけません。 yy8yy8az さんの言うように  心を、三頭立ての馬車に例えてみてはどうでしょう。  先頭に1頭、後ろに2頭です。  先頭は『意志』後ろの2頭は『感情』と『理性』。 では、現段階では、良しとしてはいけないと思っています。 すみません。また、回答お寄せ下さい。 .

noname#136007
質問者

補足

. 回答者への回答のお礼は、ちょっと不親切だったのでないかと反省して、本文を再度読み返してみました。 >kunobouさんの掴もうとする心は、実践が必要ではないでしょうか。 ということの、実践とは、何をすればいいのですか? 本文では、具体的に何をすればいいか、分かりませんでした。 私が実践する必要のある、具体的作業を教えていただけませんか? .

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

>自分の意識で制御できない部分があれば、自分の部位と言うことは難しくなるという考えである。 >・例えば、痛みである。 自律神経ってあります。 自分の意思では操作できない神経。 例えば心臓の鼓動は自分で意図してやっているわけじゃないし、眠っている間も呼吸できるのは、自律神経がやっているから。 寒いとき体が震えるのも自律神経がやっている。(筋肉を震わせ摩擦を起こして発熱し、体温の低下を防ぐ。身体が勝手にやっている。) youtubeに<Anata Dare ? : Rei's Monologue>ってのがあるんですね。 自分に実感が無い。別の何かの存在を感じるわけです。 このもどかしさの世界に綾波レイは困惑しているわけです。 綾波レイの身体はサルベージュされて碇指令が作ったもの。 魂はユイ。後にリリスに帰還し新たな者になりますけどね。 新世紀エヴァンゲリオンのエヴァは人間が作った人造生物。 エヴァと搭乗した人の回路を接続し、シンクロすることによってエヴァが動く。 で、エヴァに初登場したシンジは、ボコボコにやられて絶対絶命になるんですね。 碇指令は、シンジに使徒が倒せるとは思っていなかった。 エヴァ(ユイ)が目覚めることを期待してシンジを搭乗させた。 ボコボコにされてエヴァは機能停止になった。 エヴァが動かなくなりシンジが殺されかけたとき、エヴァは再起動を勝手にした。 シンジの操作無しに、勝手に動いて敵を倒した。 ユイとエヴァが自分の子供と自分の生存を守る本能で、敵を倒すって知っていたから、なんの訓練も受けたことがないシンジを搭乗させたわけです。 エヴァ+ユイ+シンジの三位一体。 これがエヴァ初号機。 で、シンジが乗っていないとき、エヴァが暴走したことがある。 鋼鉄の装備を外して、使徒を八つ裂きにして食った。 これがユイ・シンジが関与していないエヴァの状態。 鋼鉄の鎧は、拘束具。 本来の力を発揮できないようにするため装着されたもの。 人もそう。 火事場の馬鹿力で火事になったら、重いタンスすら持ち上げることができる。 普段人間は本来持っている力の一部しか使っていないです。 そうすることですぐにエネルギーを使いきていざってとき動けなくならないようにするため。 だけど、いざって時、命が関わった事態に直面したとき、鎧を外し本来の持っている力を発揮するんです。 この拘束具を故意に外すのがオリンピック選手の中にいる。 外す術を訓練により習得しているので、驚異的な数値を記録できるわけです。 つまり人間はひとつではなく、肉体と魂と自我との3つの複合体なんです。 この乗り物にわれわれは乗って操作できる部分は操作するが、全部を操作できるわけじゃないんです。 そして基本エヴァの生命保存の本能があるので、いくら理想で他人を救おうとしても、駄目だってエヴァが却下したら、助けにいかないわけです。 ただしエヴァが助けることを了承する場合もある。 自分の遺伝子を持つ子供の命が危険にさらされた場合、自己犠牲を払って子供を助ける。 自分が死んでもその遺伝子を持つ子供が生存しつづけるのなら、死んだことにならないから。 これは他の動物もそうだと思います。 自分の身体に宿っている魂はひとつだけじゃないんです。

noname#136007
質問者

お礼

. 回答の趣旨は、何でしょうか? 「遺伝子が魂である」と言いたいのでしょうか? 僕の頭が悪いというのは、何度も表明しています。 もっと、趣旨のわかりやすい書き方をしていただけると助かります。 (新世紀エヴァンゲリオンは、まだ見ていないんですが、色々な方から勧められます。そんなに、面白いんですか? ワクワク!) .

  • vaness
  • ベストアンサー率33% (1/3)
回答No.6

ハートマインドさんスゴーイ! 感心してます。 補足になりますが、 心理学的にいえば、無意識の否定が「意識」として りかいされてきたので、 はーと様の「無」の解釈を超えるそれ以上のレベルで 納得のいく説明は、できませんよね。 生命論を展開するにしても、理にかなっているようです。 0と1を比較しても、始まりは0です。大自然の神秘は、0。 存在が問題なら、無が、大事になってくるというのが自然ですから。 何々の意識 コレコレヲ意識するという言葉としても、 自己より意識のほうが、小さなものですから、意識の中に自分が存在するということはなさそうです。 自分の中に意識が存在していて、無を介し、意識が自然とつながっているともいえるのではないでしょうか。 東京から、北海道に飛行機で旅行するとして、羽田から3時間・品川から何分というぐあいに、中途半端な計算をしないように、 自我と宇宙を考えようとすると通過地点である意識については、それ自体の意味が薄くなってしまうようですし。 ハート様の意見が一番しっくり来るという感想を抱きました。

noname#136007
質問者

お礼

. ハートマインドさんに、ハートをがっちり捕まれた様ですね。 彼の言っている事を、否定していないんですよ。 ただ、公開の場なので、他の人が分かりやすい様に、理論的に書いて欲しかったですね。 実は自分も過去、それらしき事を言っているんですよ。 自分(旧名:mintarou1)で立てた次の質問スレッド 自分を突き詰めれば、自分でない感じがする。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5445957.html #22の回答へのお礼の欄で次の様に書いています。 >話は、少し変わりますが、 >いま、(顕在)意識について考えています。 >追い込んで考えて行くと、時々、分からなくなるんです。 >分からないと言うのも、随分いい加減な言い方ですが、 >例えば、 >意識って本当に存在しているのか? >意識って本当に自分の本質なのか? >自分の物じゃないのに、自分の物と勘違いしているんじゃないか? >とか・・・・それって、仏教で言うところの「空」に近いんですかね? >考えを詰めていくと、宇宙空間にぽっと放り出されたような感じがします。・・・ それから、これは、別の人が立てた質問スレッドですが、 自分とはだれ? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5555209.html #3の回答者は、次の様に書いています。 >あなたは何者でもありません。存在も怪しい。 >しかし、あなたがこうして私に応対されていることで、かろうじてあなたは何かの存在なのです。 自分は、意識の中で自分の存在しないと感じています。(まだ、直感レベルです・・・) じゃ、自分はどこに存在するのか? それは、「無意識」または、「意識」と「無意識の」間にあるんじゃないか? というのが、今の自分の感じている所です。 これから先、この辺を突き詰めて考えて、みたいと思っています。 それを、瞬間に理解(?)した、ハートマインドさんは、すごいと思いますよ。 .

回答No.5

 質問の意図を理解しました。  『意識する=客観視する』ということで。    「意識」が捉えたと思っている「自分」は曖昧な自分であって、ほんとは真の「自分」を捉えてはいないのではないか、ということですね。  曖昧な「自分」なら意識できる、といえると思いますがいわゆる“真我”なるものを「意識」できるのか、というと疑問に思います。  でも、それは普通の人間(凡人)だからではないでしょうか。  過去にはその“真我”なるものを求めて修行し、そして掴み取り、言葉に残そうとした聖人達がいました。  と言っても「真我、あるいは自己」なるものを、誰がどのように言っているのかと問われれば知らない、と言うしかありませんが。  人間は迷う心を迷わない心にしたくて修行し、迷わない心の世界に入ったその状態を「悟り」と言ってますが、そうした悟りの世界に入った人はどのくらいいるのでしょう。  その中の‘選ばれた人たち’はその心を何とか言葉にしようと努力し、経典なるものを残しました。  そうした、言葉に置き換える作業ができる、ということは「自己」なるものを「意識」出来たから、ではないかと思うのです。  ☆『聖典』なるものに、「真実の自己」が顕わされているならば。

noname#136007
質問者

お礼

. 要するに、「修行して下さい。」って言ってるんでしょうか? .

回答No.4

あなたは、「意識がない自己」というものを考えられますか? “意識=自己”です。 歴史的には、そこにおける「自己の意識の中の宇宙(心)」と 「宇宙の部分としての自己(体)」の関係が問題になってきました。 しかし、最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測 される事によって生じており、真の自己とは、あなたの感じる 「自分(感受表面)」の内側(肉体)ではなく、外側(宇宙=意識) だと言えるのです。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで 遡った)補完なのです。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが 宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。 「相補」というのは、絶対時空を否定し認識体との相対において しか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が 現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的 存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、 ということです。 即ち「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補として 生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という 無の射影として、存在は生じていると言えます。 (認識体自身が、その仮説的空間に有限な大きさ(肉体)を 占めていることで先入的根拠の完全否定)

noname#136007
質問者

お礼

. 僕の問題の提示の仕方が悪かったのかも知れませんが、言いたい趣旨は「意識の中に自分が存在していない」と断定しているわけではありません。 「物理的な目が、自分の目を見ることが出来ない。」 これを、意識に当てはめて考えてみて、「意識は自分を意識できないんじゃないか?」 「自分で自分だと意識している意識は、自分じゃないんじゃないか?」 との、問題提示なんです。 .

noname#136007
質問者

補足

. 回答のお礼を何度か読み返して、説明が分かりにくく不十分な感じがしたので、再度補足説明します。 僕たちは自分の目で、他の人、物(例えばコップ)を見ますよね。 この場合、自分の見た「他の人、コップ」は、自分ではないですよね。 ”見た物≠自分”という関係が成立するでしょう。 だけど、見た物が認識出来ることで、自分は存在しますよね。 これを、意識に当てはめます。 意識で、色々な物を感じます。 痛み、喜怒哀楽、音、臭い、味・・・etc 先の論理をトレースすると、{意識が知覚した物=見た物}の関係を考えることが出来ると思うんですよ。 ならば、”意識が知覚した物≠自分”という関係が成立するのではないか? と言うことなんです。 イコールを否定しても、物を知覚する事で、自分の存在が証明できるでしょ。 つまり、“意識=自己”への問題提示なんですよ。 分かっていただけたでしょうか? .

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    頭の中で自分の好きな音楽がながれてしまいます 思考が妨げられるのでかなり辛いです 生活に支障がでるし友達ができないのでなんとかしたいです 集中するとながれてしまいます 思考が妨げられない時間が長時間続くとそのあと必ず思考が妨げられます はっきりしていて自分の頭の中だけでなっているとわかります 治りますか

  • 自分の存在価値を認めて「楽しい」と感じるには

    どうしたら自分の存在価値を認められて「楽しい」「幸せ」を感じられるようになるのでしょうか。 以前からずっと自分の中で抱えていた問題なのですが、ようやく 本気で向き合って、解決に向けて何かしてみようと思ったので、 これまで同じような経験をされた方などからアドバイスをいただけ ますと嬉しいです。長くなりますがよろしくお願いします。 質問の本質的な内容は、どうしたら自分の存在価値を自分で認めて、 自分の判断で前向きに生きていけるようになるか、その方法について です。 私は現在27歳の会社員です。両親は健在ですが、幼少期より、かなり の確立でACである母親からのコントロールを受け、母親へ強い恐怖心 と嫌悪感を持ちながらも、母親の顔色を伺いながら機嫌を損ねない ようにと思いながら成長しました。(現在は母親への恐怖心はなくなり、 嫌悪感だけは持ち続けています。)一方で、仕事の都合もあったので すが、不在で、母親の言いなりになっているように見える父親に対して 非力さと哀れみを同時に感じながら、昨年末まで両親と同居していました。 このような環境の中で成長し、私には以下のような悪循環を繰り返す思考の癖が あることがわかってきました。 ・何かに成功しても、そのあら探しをしてしまい、決して満たされない気持ちになる ・だから過去にはつまずきしかなく、しかもそのつまずきが今後の人生にも影響を 強く及ぼすという不安を持つ ・それゆえ、自己評価が低く、強い劣等感が常にある ・自分のことを理解して受け入れてくれる人なんていないんだと思う一方、 理解して欲しくて本当は仕方がないという思い ・だから誰のことも決して信用できない、愛することなど尚更できない ・そこから発生する「自分は一生ひとりぼっちなんだ」という思い込み ・こんな自分と一緒にいたい人なんていない、という虚無感 ・それゆえ、人との親密な関係を築けない、本心で対話できない ・だから人生の楽しみ方がわからない ・こんなダメな人間にできることなんて何もない また、母親の顔色を伺いながら成長したこともあってか、 他人に嫌われたくないという思いは相当強く持っており、 嫌われないことを確認することによって自分の存在意義 を見出そうとしたこともありました。 母親は明らかに私の心をどこかで傷つけた存在ですが、 そういった過去に明らかに自分を傷つけた人物をどうにか 受け入れようとして、時々思い出して、また上記の思考 ループに陥ります。 それと、他人と深い関わりができない(ある種のとてつもない恐怖を たまに感じる)こともあり、過去にお付き合いした方のことは全然 信用できず、それなのに「結局他人は自分を裏切る」という気持ち に落ち着いて疲れてしまいました。 心身ともの休養が必要なことはよくわかるのですが、「楽しみ」 「幸せ」がよくわからないせいか、自分のキャパシティを 超える過密スケジュールなどを組んでしまい、心身を逆に痛めつける という状況も発生しています。 ただ、ここ数年は、このような思考に陥る頻度は年に数回になり 減ったのですが、やはり心身の疲労が途轍もないです。 最近では、このような思考の癖の中で吹き出す不安も、思い込み だと論理的には理解できるのですが、感情の部分で割り切ること ができず、前に進もうとしている私を引き止めているような気が しています。 こういう思考の癖を解決あるいは解放して、私にとっての本当の 「楽しみ」や「幸せ」を感じる、あるいは探す方法を知りたいです。

  • 自分が話していることを意識しすぎる

    現在大学1年の者です。 人との会話中、 自分が話していることを意識しすぎて 会話に集中できません。 最初、自分の声を意識し始めてから 相づちや話し方がぎこちなくなったり 目を合わせることに違和感感じたり 最終的には だんだん頭の中がふわふわしてきます。 周りにはバレてないらしく、 社交的で明るくて友達多いって言われてます。 でも本当は人と話すことが 怖くなってきてるし必死です。 好感をあげようといつも自分の話し方に 意識がいってしまう。 コミュニケーション力に波があって、 上記のことが気にならない日は なにも考えずに わーっとしゃべります。たまにですが。 気になる日は なるべくわーっと明るく‥を意識して なんとか楽しそうに話してますが 内心は必死です。 この波のせいで 人と電話することや遊ぶこと、 たまに家族と話すためにリビング行くことすら 嫌になります。 中学、高校までは こんなこと悩まずに笑ったりしゃべったり お笑いやったりしてたんですが‥ 自力で直すために 何から始めたらいいですか? ちょっとした 気持ちの持ち方なども待ってます!

  • 他人に意識があり、他人が生きている証拠

    他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか? また、独我論は否定できないというのも、よくわかりません。 例えば、私に5感がある。寒い・熱い、触る、音を聞く、見る。 そして、他人にも、「5感があるように思える」。 他人は、笑い、悲しむ表情があり、、、、「完全に生きているように見える」。 わけですよね? そして、全世界の99.999999999999999%ぐらいの人達は、 「他人は自分と同じような存在であり、自分が生きているから、他人も同じように生きている。他人に感情や、意識はある。それは、確かだ。」 っと、思っています。私も、基本的にそのスタンスです。 他人に意識・感情があると思うのですが、合っていますよね? しかし、オカルトサイトでは、「他人はいない」とか、書かれています。大本は一体どこなのか? 「他人は自分の鏡」という話もありますが。 でも、他人に意識や、感情がなく、他人がただの人形だとしたら、非常に不気味な世界だな、と思えます。 それに何より、この世界で生きているのが、「自分1人ぽっち」だということになってしまいます。 例えで、映画を自分が見ているのが、現実だ、という話もあります。 自分の内側が投影されて、外の世界が映し出されているだけだと。 それに、自分が全てを創造しているとしても、自分の思い通りになっていない世界なんて、 存在価値があるのか?と思えるし、馬鹿らしいと思えます。 しかし、自分の思い通りにならない世界は、自分と違う考えの世界であり、 自分と、他人は異なる考えを持つように見えます。=自分と他人は別々に存在する。 それはまさに、「現実そのもの」に思えます。 例えば、今日なんか、デパートへ行きましたが、他人は、笑ったり、話したりしています。 明らかに、「他人に意識があり、他人は自分同様に生きている」と、思えます。 そして、これは世界の常識となっていて、疑う必要なんて、あるのか? 独我論なんて、考えすぎの嘘の論じゃないか?と、思えます。 それは、確固たる現実として、目の前に開かれています。 ただし、ネット上の書き込みは、他人に意識がないように見えてしまいます。 つまり、目=視覚の現実のウェイトが大きいことを意味します。 ドラマや、映画などの、「演技」ってのもありますが、 現実の他人の容姿は、まさに、「演技じゃなく、真実」に見えます。 よって、独我論は嘘であり、他人にも意識があり、考えがあり、生きている、 自分と同じような存在だと思えるのですが、どうでしょうか? 別の話として、1人1人が宇宙を創造しているという話もありますが、これもよくわかってません。 それは別に、他人も自分同様に、生きているだけ、と思える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて、、、逆に考えます。 他人がいない、世界に1人ぼっちだけ、だとする。自分1人だけ、と。 そんな虚しい世界に、存在価値はあるのでしょうか? 全て、自作自演です。 自分が他人をも創造して、自作自演していると。 ネット上のカキコすらも、自分のただの創造だと。 そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?

  • 地球(惑星)に意識はあるのでしょうか?

    地球(惑星)に意識はあるのでしょうか? 馬鹿な質問かもしれませんが、例えば 地球「40億も生きたんだしみじみ・・だなぁ」 など、喜怒哀楽を人間ほどリアクションが大きいとは言わずとも、思考しているのでしょうか? 私の勝手なイメージですが、とても長い寿命、巨大さ、多くの謎など惑星は人間よりも遥かに 高度な生命に見えてなりません。人間も素晴しい生命だとは思うのですが・・・ 質問を探ってい感情は存在しないとお答えになっている方がいらっしゃいましたが、中々理解できませんでした…。 出来れば、どなたか噛み砕いた内容で助言をして頂けないでしょうか?

  • 【人間には自分の中にいるもう1人の自分の存在に気付

    【人間には自分の中にいるもう1人の自分の存在に気付いている人もいる】自分で自問自答するのは、自分の中にもう1人の自分という意識があるからで多重人格者は障害ではなく普通のことである。 多くの人は自分自身にもう1人の意思が存在し、ときどき自分で聞いて葛藤している自分の中にある2つの人格に対話させて答えを導き出す行動を取っている。 このとき対話している副自分は誰ですか? どこから発生して生まれているか教えてください。

  • 低周波の電磁波で他人の意識に連結できるって本当?

    最近、よく、低周波の電磁波で他人の意識と自分の意識を連結させて、他人と交錯する意識の中で思考を盗聴したり、他人を操れる装置があると聞くのですが、それって可能でしょうか?一般家庭用100Vの電気配線から電磁波が出て人を犯すらしいのですが、本当でしょうか?どなたか詳しい方教えてください。よろしくお願いします。