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強過ぎる関心

ghostbusterの回答

回答No.5

お久しぶりです。 その昔、近所の大学で浜田省吾のコンサートがあるから、一緒に行こうと誘われたことがあるんです。 え~、やだよー、浜省なんて…って思ったんですが、無料だし、じゃあ、行くかってことになった。そのときに、うしろに立ってた人が(娘連れのおばちゃんでした)ぐいぐい押してくる。もう、押してくるなよ……とずっと思ってたんですけど、そのうち気がついたんです。あ、自分も同じように押してるんだ、って。 わたしの頭の中では、相手が押してきた、とあった。それを不当に思っているうちに、「押し返している自分」というものがブラックボックスに入ってしまっていた。わたしが押し返すから、おばちゃんも押してくるんだ、って。だから、わたしは少し横にずれました。その位置からは、前のでかいお兄ちゃんの頭のおかげで、それまで見えていたマッチ棒大の浜省は見えなくなったけど、まあいいや、って。そうなったら、そこからベースが見えるのに気がついて、コンサートの間中、ずっとベースを見てました。なるほどなあ、この人、こんなふうにリズムを取るんだ、って、とってもおもしろかった。気が付いたら、そのおばちゃん、わたしより前に出てましたけど(笑)。 わたしの好きなレヴィナスの好きなパスカルの言葉に、“「そこは私が日向ぼっこをする場所だ」という言葉のうちに、全地上における簒奪の始まりと縮図かある”というのがあるんです(いい加減な記憶による不確かな引用)。 誰かが「自分の日向ぼっこをする場所」に入ってきた。そのとき、ここは自分の場所だ、と宣言して排除する。このとき、排除した人は、自分がまったく悪いことをしたなんて思ってないでしょう。逆に、正当な行為をしたと確信しているでしょう。だけど、パスカルはそれが「簒奪の始まり」だという。何でだと思います? わたしはこんなふうに思うんです。 出来事は、出来事として起こるんじゃない。それに立ち会った人が、「始まり」と「終わり」に区切りを入れて、取り出して、それをつなぐ「物語」をつくって、初めて「出来事」になるんです。そうなると、立ち会った人それぞれによって、「出来事」というのはちがったものになる。まるで芥川龍之介の『藪の中』ですよね。あれを読むと、たいがいの人は「真相はどうだったんだろう」と思うんですが、実際には「真相」なんてものはどこにもないんじゃないか。 「私」にとって、「自分の日向ぼっこをする場所」に入ってきた人は乱入者です。けれども入ってきた人は、まったく別の意図を持って、単に歩いているだけだったのかもしれない。にも関わらず、そう宣言し、相手を排除することによって、「私」は自分の解釈が絶対だ、唯一のものだ、と相手に押しつけるのです。簒奪するのは、「場所」ではありません。相手の「物語」です。 そうして、自分の「物語」を相手に押しつける人は、独裁者になります。 独裁者というのは孤独です。わたしは独裁者というと、いつもロバート・シェクリィの『宇宙市民』というとっても愉快なSF短篇を思い出します。あらすじを紹介すると終わらなくなっちゃうんで省略しますが、それを読むと、独裁者って大変だなあとつくづく思いますよ(笑)。 自分の見方を唯一のものとして押し通そうとすると、かならずそこに摩擦がうまれます。際限なく互いの見方を主張しあうか、どちらかが屈服するか、妥協するか、そのいずれかになるでしょう。 理解し合った上で、自分が主張する地点と、相手が主張する地点のいずれでもない場所に一致点を見いだすのは、もしかしたらすごくむずかしいことのように思えるかもしれない。けれど、わたしたちは、実は、日常、気がつかないうちにそれをやってるはずです。それが円滑なコミュニケーションというものだから、あまり意識はされないだけで。たいてい意識にのぼってくるのは、不調に終わったコミュニケーションの方ですからね。 質問者さんは、それでも「自分の物語の方が正しい」とおっしゃるかもしれません。わたしにはそれはわからない。わたしはそれを判断する立場にはいません。でもね、正しいかどうかの判断は、少なくともその当事者が下すものではないと思う。そしてまた、当事者の一方が、「証拠」をずらーっと並べて、さあ、判断してくれ、と迫るものでもない。だってその「証拠」というのも、その物語の脈絡のなかで「証拠」として機能している一要素に過ぎないのだから(だから、あのときこういうことがあった、つぎのときどういうことがあった、ってわたしに説明しないでくださいね)。 「さびしい王様」になるのがイヤだったら、少し、立ち位置を変えたらどうか、と思います。押されてるから自分は仕方なくこっちに来た、というのではなくて。 こういう場というのは、やりとりするのが、言葉でしかないですよね。しかも、日常生活であれば、その言葉を回収する「場」というものがあります。たとえば『藪の中』だって、現実に起こった事件だったら、「真相なんてどこにもない」なんて悠長なことは言ってられません。 だけど、言葉だけのやりとりしかないと、どこまででも行ってしまう。実際に泳ぐと、5キロも泳げば、あ~もうダメ、となっちゃいますが、言葉でならどこまでだって泳げてしまいます。回収される「場」を持たないやりとりというのは、実は、かなり危ういものではないんでしょうか。だからわたしはあまりそういう場には近寄らないことにしてるんですけどね(笑)。 質問者さんがこんなふうにおっしゃっておられるということは、よほど苦しい思いをされたんだろうと思います。 でもね、それはもう終わってしまったこと。 いま苦しいのは、過去のことを思い返して、何度も何度も同じ物語を読み直しているからだとしたら。いまの自分を苦しめているのは、過去の事実でしょうか、思い返している自分でしょうか。 時間を経たせてやることです。いや、ほっときゃ勝手に経つんですがね、時間なんてものは。自分がたぐりよせ、たぐりよせさえしなければ。 ひどいことをした相手に謝らせてやらなければ、自分の傷は癒えない、と思っているのだとしたら、そう思っている限り、自分は自分の築き上げた物語の外に出られません。だって、相手にはまた別の物語がある。謝れ、と命じることは、自分の物語を唯一絶対のものである、それを受け入れろ、と命じることにほかなりません。そんなことは誰もしてくれないだろうし、そうなったら質問者さんは、ますます自分の物語という牢獄のなかで、謝れ、謝れ、と怒鳴り続けます? 外に出ることです。 「出来事」が物語であるとするなら、それを振り返る「いま」の自分が変わってさえいれば、いくらでもちがう物語にすることができる。そう思ったら、なんか、気分が晴れ晴れしてきません? ああ、こういうことを書くと、どうしても説教臭くなっちゃう。ほんと、もうダメだ、こういうことをわたしにはもう書かせないでください(笑)。

noname002
質問者

お礼

宗教的なまでの盲従要求を受け入れることでしか認めてもらえない。受け入れればいいじゃないか或いは自ら従わせてみせろ、とも(遠まわしに)言っていたようですが、私は従わなかった従わせるつもりもなかった。 「相手にはまた別の物語がある。」まず、これを、お互いに認められるかどうか。 「相手には」、当然、「私にも」、のはず。 孤立した立場に置かれていると感じた私以外の人たちも、それぞれの立場で大なり小なり異なる思惑があったかもしれない。 「さびしい王様」になるのがイヤだとも思わないです。但し、先にも言いましたけど「王様」なんて全くガラじゃない。でも、「さびしい」とかは鈍感なのか平気なほうなんです。盲従するくらいならば。本当は盲従させてもらいたい気持ちもあったんですけどね~ >こんなふうにおっしゃっておられるということは、よほど苦しい思いを 確かに、ひと口で言えない、いろんな思いは ありました。メンタル面での不調も影響したと思いますし、もっと遡った過去から押し込むように抱えていたものを刺激され続けた部分もあったのかもしれません。 >それはもう終わってしまったこと。 いや、これ違います。たぶん、別のことを思ってらっしゃる。 「それ」に関連してなら、ごく最近も「当事者」の一人が、 「少しの混乱から、たくさんの混乱を生み出しました」 などとシャアシャアとホザイタのを目撃し、怒髪天状態で殴り込みかけましたけど!(メ ̄Д ̄) 仰るように、「ほっときゃ」いいんです。でも、ほっとけなかった。他の回答者様にも述べましたが、自分に向けて「張られた網を」たぐりよせて「ビリビリに破いてやりたくなる」んです(笑 謝れと言い続けて徒労に終わったと みえるのは表面的には事実としてもいいでしょうが、「当事者」どうしの間ですら、まだ知らないことがあります。他に、私の意向をよそに続いていきそうな奇妙な事態もあるのですが、それらについては今ここで言うことではないですし、これからも言わないかもしれません。 そのことよりも、私が今回ここで尋ねたかったのは、「終わった(あの)こと」ではなく、今進行中のことについてです。勿論やめてもらいたいことなのですけど、何故、どういうつもりで それが なされるのか理解できないからです。私だったら まずやらないことなので。 gbさん?!有難うございます。でも字数が全然、足りない~;

noname002
質問者

補足

若かった頃に、トコトン「押し返す」のと「押されっぱなし」両方それぞれに試してみたことがあります。 「押し返す」ほうの結果は、、、まあ言いません(笑 「押されっぱなし」のほうは、いっさい無抵抗だと、どこまで押されるものなのかな、と。 最終的には端の端っこまで流されて、マジで身に危険が迫りました。冷や汗かくまでやる私も どうかしてますが。押してくる人のなかには、私が少しも逆らわないでいるのに気づいて、うっすら笑みを浮かべつつ、それでは遠慮なく!と ばかりドンドン押してきた人もいました(案外、女性が多かったような)。 私は、およそ「独裁者」とか「王様」って器じゃないです。 でも、いままでに、多分「乱入者」になりかけてたことは、ある。それに気づいて「横にずれた」ことも。 だけど、この、「横にずれ」ること自体で、実は相手を脅かしていて、相手なりに持っている「物語」?に一種の圧力をかけていたということもあり得るんだと思いました。そのときに気づいてなくても、もう その時点から押しつけ合いは始まっていたかもしれない。 「横にずれた」ほうは大して気にも留めずにいるのに、「ずれ」られたほうが気に病んでいたりする。そして、「あなたが 横にずれた のは私としては心外で大いに気詰まりなのです。」などと、まっすぐ すなおに話しかけるということはしないで、「横にずれた」ままいる相手を、いろいろと回りくどい あの手この手を尽くして元の位置へ戻そうとする。が、実は相手は、「ずれた」その位置で、すでに満足していたりするので二度「ずれ」る必要はないだろうと思ってる。だから、元の位置に戻そうとして、いろいろやる相手がウザくなってくる。「私は、ここでいいんですよ」と言っても、相手は耳を貸さず、とりあう気がない。「ずれ」させた自分、というのを挽回するのに必死になってたりする。 「この位置も、いや、この位置がオッケー」と思って、もはや元の位置に戻る必要を感じない者と、そのままを認めて受け入れることができず、なんとか元の位置に戻そうと、迂遠なイロイロをやり続ける者。 (いつだって、そこから出発したらいい、と)戻る気がない者は、それだと相手が負担に思うことに気づいてない。 何事もなかったとして相手に自発的に元の位置に戻ってもらいたい者。自分の働きかけが相手の位置を決めさせたと思う気詰まりに耐えられない。 不毛な平行線。お互いに何かを取り下げ、何かを容認することができないでいるようだ。 一致点を見い出すためには、何を取り下げたり何を容認できるのか理解し合ったうえで判断しなくちゃならないですよね。片方の者が一方的に片方の者に従うべきとするのであれば盲従しておればいいだけのことだから判断するための理解の必要すらないです。或いは双方共に、相手は何を取り下げ何を容認してもいいと考えてるのだか、「あなたから、どうぞ」「いーや、あなたから」。延々と、お互い、先に相手に言わせたがり、いつまでたっても決着が付かない。これって、うるわしい譲り合いなのだろうか? いっそ、こちら側から積極的に圧をかけ、強行の構えを見せたら、相手は慌てて、自ら要望を申し述べたり異議申し立てなどするかもしれない。 >正しいかどうかの判断は、少なくともその当事者が下すものではないと では、誰なら正しく下せるでしょう? 私は「自分の物語の方が正しい」とは思ってないです。むしろ、正しいのか どうか実のところ分からない。皆そうではないでしょうか? 私を「さびしい王様」「独裁者」と読むのは、それは回答者さまが区切りを入れて読んだ、回答者さまの「物語」でしょう。 私に言えることは、自分に どういうことが起きてきて、それを どんなふうに感じているか、どのようにしたかったか、それだけです。その、「物語」というのですか、私が、それについて述べたことを、相手は どのように判断したのかということが第一の問題だったと思っています。 そもそも相手の働きかけに応じて「横にずれた」のなら、トコトン、相手の望む位置に立ってやればいい?かつての「押されっぱなし」実験のように。 >押されてるから自分は仕方なくこっちに来た 最初は そんな感じもあったかしれないけど、最終的には、こっちが押し返して押しまくってるつもりだった(笑 オマエの「物語」は このように読んだ、いや、このようにしか読んでやらない。 自分が示した「物語」をオマエは どう読んだか、いや、このように読め。 読んだ以上は相手の「物語」の「予定調和」に協力し従うのか。従わないなら戦うか。 私は、どちらも納得しなかった。 なかの一人は「受け手側、解釈する側の自由、勝手」を絶対的に優先、歩み寄りのための異議申し立てだの軌道修正などは、いっさい受け付けないという姿勢で貫く構えを宣言しました。 (お礼欄へ)

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