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思索する時。。。空っぽの私

いつもお世話になっております。 少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。 「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。 *思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? (私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です) 思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 (そうではない場合がありましたら、ご教授下さい) *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります) 曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 *枠でしょうか? *核でしょうか? (私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗) 単に表現に固執しているだけかも知れませんし、 個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、 出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。 よろしくお願い致します!

noname#122427
noname#122427

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回答No.14

「自己認識の感覚」を、核とか枠とか言った概念で捉えようとしておられるのは、興味深いことです。とくに「枠」といった概念ですが、私は「境界」といった言葉をもちいています。別の所に投稿したものを一部改変して下記に書いておきます。ご参考になれば幸いです。 === 「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。 それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。 そうして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。   観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。 一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。 「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。 すなわち、「この」わたしを突き詰めようとするときに、私と(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体との境界問題が発生するといってもいい。 では、「この」わたしとして「認識」している「もの」は一体何なのであろうか。。。? 私が私を私として認識するとき、時間の流れと記憶との問題が取りざたされうる。すなわち、「自己同一性」である。 「この」わたしが、それを考えているこの一瞬にあると思ってしまうのは、まさに総体から私を切り離しうるという知的に切断された面(以降、知的切断面)そのものであり、切り出された断面に張り付いた私を眺めているに過ぎない。 では、眺めているのは誰か? それこそが「総体から切り離し不可能な私」であろう。。。 すなわち、逆説的に言えば、「総体」とは、空間的にも時間的にも切断されうるものであるがゆえ、時空間を含み、相互関連しうる、ありとあらゆる「全て」である。 なおかつ、眺めている主体は、知的切断面(境界)にて周囲から区分可能な存在でもあるわけである。 ===

noname#122427
質問者

お礼

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします! 読み違い/考え違い等ありましたら、ご指摘頂けますでしょうか。。。

noname#122427
質問者

補足

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! なかなかに論点/気付きが豊富で、あまり整理整頓が上手とは言えない私の頭は様々な情報が飛び交ってしまい、さっぱり収拾がつかずに困っております。大汗 k_jinen様が上げてくださった、 >私   =眺めている主体 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 そして、その「私と総体」は >知的に切断された面(以降、知的切断面) を「境界」とする、と言う判り易い筈の(!!汗)ご回答、とても有意義な回答を頂き感謝申し上げます。 ところで、何が「判り易い筈!!(=判り難い)」となってしまっているかと言うと、この三者を私が以前行った「実験」で得た感覚に当てはめる場合、どれがどれに対応するのだろうか?と考えているからなのです。 (決して、k_jinen様の回答に不足を申し立てているのでは有りません、足りないのは私の思考力ですので、誤解なさらぬようお願いします。) 私が実験で得たもの、は、 (同一の事象に対する思い/心/考えとして) 1)(私の中に)複数の同列同等の人間の存在 2)(彼らを観察/選別/表出する)主体 なのですが、 これは「同一の事象に対して反応」と言う条件でしたので、k_jinen様のおっしゃる >空間的にも時間的にも切断され と言う言葉に対応するのではないか?と考えたのです。 私の「実験」は主に自分を知る為のものであり、かなり狭く独善的に行いましたので、 >ありとあらゆる「全て」 と言う感覚とは程遠いものでした。しかし、今になって思い返すと、 *1)は >「知的切断面」と同じものではなかろうか? *2)は >私(=眺めている主体)と同じものではなかろうか? と頂いた回答を拝読して考えているのです。 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 に思考が及ばなかったのは「何か確固たるもの」を欲しがる未熟な若さ故の視野の狭さであり、臆病さであったと考えています。 その「確固たるもの」を、時間的空間的に限定し切り離した「私」と言う「全て/総体」の一部分にも満たない「断面(知的切断面)」に求めて、何の価値があると考えていたのだろう。。。とちょっと苦笑いです。 やっぱり中学生は中学生なのですね。。。思考範囲が狭過ぎる程狭い。 自分の周りを取り巻く世界とその広さに、遅まきながらですが気付けた事がとても嬉しいです。 そして、その発見を導き出してくださったk_jinen様のご回答に、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!

その他の回答 (22)

回答No.23

No14およびNo16にて回答した者です。 No14のお礼欄を読んで、少し補足説明をした方がいいかな?と思いましたので、書いてみます。ある意味、No14からNo16への「間」を埋める記述でもあります。 === 1.本質的に繋がり合っているにも関わらず、あたかも境界の(枠の)概念的(知的)な設定が「当初からある」とか「当然のごとくにできる」かの様に思い込んでいることが多い。 2.そういった境界(枠)は、(私・内部が能動的に)「(一方的に)作り出す」のでも、(他・外部によって受動的に)「(一方的に)作り出される」ものでもない。両者と両者間の関係の全て(「私・関係・他」といった全体・総体)が変化し続けている中で境界が「生まれ続ける」、「立ち現れ続ける」あるいは「維持され続ける」。 3.通常は、自身の内部に複数の自分を同時に並列的に見ることはあまりないが、(それぞれの境界概念を有する)複数の立場の自己といった概念については、たとえばピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」の歌詞に見いだされる。そこでは、たとえば「通行人」とか「会社員」とかいった概念(枠組み)があって動的に変化しており、だれもが状況に応じて(自然と)複数の立場を使い分けている。 4.一つの物事に対して、(相互に対立・矛盾するように思える)複数の立場・状況を想定し、そこから生み出される(知的に・幻想的に切り分けられる)「複数の私」を並列的に「眺める」といったとき、「複数の私」は「眺めている私」からも(意識されていない)「外部」からも、また「複数の別々の私」として個々に切り離されて存在しているわけではない。同時に「眺めている私」は、「複数の私」や「外部」から切り離されて存在しているわけではない。 5.すなわち「眺めている私」が「複数の私」といった概念で「私」を区分している(ないし、切り分けている=知的・幻想的に切断している)ように思えるだろうけれど、そのような状況に自身があるといったことも同時に成り立っている。 === 「複数の私」・「眺めている私」・「外部」およびそれらの繋がり(関連性)の強度といったものを含む「全て」に思いを馳せるならば、何かしら、参考程度のことを引き出せるかもしれないと思っています。

noname#122427
質問者

お礼

k_jinen様、すっかり遅くなりまして申し訳ありません!! 度々の丁寧な回答に心から感謝申し上げます。 上げて頂いた項目の中で、2がまずハッと致しました。 >両者と両者間の関係の全てが変化し続けている中で >境界が「生まれ続ける」、「立ち現れ続ける」あるいは「維持され続ける」。 この世の全ては変化し流転し、その変化によってまた新たな互いの変化を生み出す。。。この事を強く意識致しました。(方丈記が読みたくなります。。。^^) 「(切り出された)固定の事実」ではなく、「変化の変化」そのものが他へも自らへも影響するのですね。そして変化を生み出す。。。 でもいつも此処でふと、不安になってしまうのです。 思索する/思考する、とは一体何を捉えて行う行為であるのか? 「変化の流れ」を切り出さず、止めずして思索/思考は行い得る行為なのか?。。。と考え込んでしまうのです。(これについてはまたうまく纏まった時に質問を立てたいと思います。) k_jinen様って不思議な方でいらっしゃいますね。^^ 例にピタゴラスイッチを出して来られるとは。。。。ん?勝手に男性の方、と思った私は間違いかしら。。。?大汗 箇条書きって、女性はなかなかこういう場で見掛けない気がしましたもので。。。間違いでしたら御許し下さい! 4と5につきましては、自己認識と言う行為の難しさ/複雑さを更に思い知りましたし、私の捉え方もまた、とても未熟である事を痛感しました。 それにしても、うーーーーん。。。髪を掻きむしろうかと思ったら。。。最後の一文で少し落ち着き、思いとどまりました。笑 >「複数の私」・「眺めている私」・「外部」およびそれらの繋がり(関連性)の強度といったものを含む「全て」 「強度」。。。うむ、ここに思考迷路の突破口が有りそうです。 状況に応じて境界の強弱が変わります。それがこれらの関係を決定しているのかも知れませんね。。。 ありがとうございました!!

noname#80116
noname#80116
回答No.22

 No.15の所論を補います。  ▲ (《バガワ゛ッド・ギーター》辻直四郎訳 2・46〔紀元前五世紀ごろ〕)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あたり一面が洪水に見舞われた。  そこに池もおおわれた。  ならば ブラフマンにとって あらゆる知識(ヱ゛ーダ)は この池のようなものである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ   ○ 《ブラフマン》は しきりにおっしゃっているところの  ★ 人智を超えた存在  ☆ です。宗教色は 払拭してください。(あっ 韻を踏んでいる)。  ところが   ○ もし このブラフマンを 《アクガレのわたし》つまり《アク(いま・ここ)を離れた〈わたし〉》として アク(いま・ここ)なるわたしが 分有しているというふうに言うとすれば   ★ (No.13お礼欄) 「人間は存在として完全ではない」と言う謙虚な感覚  ☆ をないがしろにするでしょうか? どうでしょうか。  * 《人間存在じたい つまり わたしそのものが 触媒になる》を補ったものです。水があふれていることになりますが わたしはそれを意識していないでしょうから――つまり アクガレのわたしとしてですから 意識を超えています―― やはり  ★ 空っぽの私  ☆ です。  * キザを修行中です。評判がよくなければ 止めます。

noname#122427
質問者

お礼

bragelone様、すっかり遅くなってしまいました。 申し訳ありません。 色々な角度からの視点を上手に並べてポンポンポン、と整理する事が苦手でして。。。少し休んだら落ち着いて考えられるようになりました。汗 「しゅうきょうしょくを、ふっしょく」。。。。。涙 話はずれますが、今昔物語やら古典は「ギャグ」の宝庫ですよね。 受験生時代、勉強中は勿論試験中もよく吹き出して困った記憶があります。 韻を踏むのは古今東西ギャグの王道と思います。^^ 頂いた文章をちょっと書き換えてみました。 >もし このブラフマンを わたしが 分有している   *ブラウマン=今/此処を離れた「私」   *わたし=今/此処にいる「私」 本当はもっと前回の回答や他の回答から「同義語」を引っ張り出して並べたいのです。でも「あ、これは同じ意味かな」と思った語句も、実に様々な「前提条件の縛り」があって、それをひとつひとつ検証しない事には「同義語」としては扱えない、と変なこだわりが頭をもたげまして、挫折しました。。。。。涙 これは 「神はそれぞれの心の中に居る」と言う表現の是非を問うのと同じですね。 何かの物語かで読んだ時は「どう言う意味だろう?」と悩んだ記憶が。。。 そんな昔から言われる表現と「個/心/自己認識」の感覚が似通っている、その事それ自体が「存在の善性」を証明している、と考えるのは単に私の思い込みなのかしら。。。 キザの評判について、ですが、 bragelone様はイヂワルしていらっしゃってもキザに決められても、どちらも素敵な香りがします。^^ よく恋愛等で「ギャップに惹かれる」と言いますけれど、両面が互いを引き立て合ってやっぱり「キザに磨きをかけている」のでしょうね。。。 ありがとうございました!!

回答No.21

yukkinさん。こんばんわ。 知識のない pumpieです。 勝手にしゃべるので、ズレてたらすみません。 わたしとしては「東京タワー」のようでありたいと思うのです。 ずっしり立ってる「芯」であり、 その「芯」から送信し、受信し、 一方、無数の人の出入りを歓迎する「器」でもある、 そんな感じだといいなあと思います。 しかし。 わたしとしては「縫い針」のようでもあるようです。 細い「芯」に、かろうじて糸が通るほどの穴が開いていて、 その穴によって、かろうじて、糸と、まじわることができる、 そして、チクチクと布を刺し、 布に模様を刻んだり、ある布と別の布をくっつけたり、 そのようにして生きているようでもあるようです。 どちらかというと心理学畑(?)のわたしには、 人間の持ち物を「キャラクター」として見るか それとも「パーソナリティー」として見るか、 そういう問題であるような気もするのですが。 ではでは。     

noname#122427
質問者

お礼

neutral様、回答ありがとうございます! そっかあ。。。「芯」と言う表現もありましたね。 何故浮かばなかったのかな?と考えてみました。 多分、自分を人間とか「私」で捉えるのではなく、出来るだけ「白紙撤回」した状態で捉えようとしたのだと思います。 となると、意志や善悪を超えた「存在そのもの(それだけ)」となったのです。 それこそ「宇宙空間に放り出したらどうなる?」と言った感覚です。 物質の安定形状は「球」。 では、その身は?と問うた時に「枠」と「核」だったかな。。。と。 (適当な質問者です。。。。大汗) 「縫い針」。。。素敵です。^^ 色彩と光の溢れた感性をお持ちでいらっしゃいますね。^^ 「さんじのにじ」も素敵でした。 読み逃げ常習犯です。。。汗汗 ありがとうございました!

noname#91067
noname#91067
回答No.20

土をこねて器をつくる。 中がくりぬかれてうつらになっている。 うつろな部分があって器は役に立つ。 中までつまっていたら何の使い道もない。 家の部屋というものは 当たり前のことだが空間があるから有用なのである。 その空間、その空虚が有用性なのだ。 ↑たぶん老子の解釈文。 無あっての有、空あっての在、虚あっての実なのだから、 当たり前に生きていることも、 それが当たり前ではなかったと身をもって実感することがあれば 「当たり前」が奇跡にも感じる。喜びにも言葉にならない気持ちで? 思索することになろうかとおもいます。 人間の中身、質というのは私にあるのか? 目をこらしても闇夜にぼんやり眺める星のよう。 なのでよく理解してかもなのですが(汗笑) 明るい日差し、よく見通せて整った道を行くことは怖くない。 その時心の中までは見てない、見ようとしてなく見えない。 信じてるから。(信じることを私は灯りと表現することがある) でも暗闇は見えないから進めない、ことはなく現実には進めます。 自分を信じて足元に灯りをともして行くことも、 暗闇に目が慣れたら見えてくることもある。だからそうなんです。 暗いからこそ浮かんだり、掴むんだ。おめでとう!? 感性豊かな人なら気付けていることだから、こんな賛美をお節介でいいます。 場所じゃなく、平等に流れているはずの時間でも、 移動中に時間に濃度や速度が違って感じる。 自分が進んだ、充実したから感じるのか? でも充実した人生(旅)がいいものばかりとも限りませんけども。 感じ方は大方相対的となるものなのか。

noname#122427
質問者

お礼

miko-desi様、大変に遅くなりまして申し訳ありません!! >その空間、その空虚が有用性なのだ。 うーーーむ。。。^^ 無い事/空っぽである事=ある(この場合は「在る」?)事/有意義、と言う事ですね。。。 うむ。。。私のよろしくない所は「出来れば外身も見目良いと良いな♪」って思っちゃう所でしょうか。。。大汗 >明るい日差し、よく見通せて整った道を行くことは怖くない。 >信じてるから。 「私」の視線が「外」に向かっているから、「中」で起こっている事に気が付かない/思い至らないと言う事もありますね。。。 >でも暗闇は見えないから進めない、ことはなく現実には進めます。 はい。 二十歳の頃、「見えなくて手探りで目的の物かどうかも判らずに掴むなら、何も要らない!」とか「取り敢えず、で見当つけて盲滅法進むなんて嫌!!」とか「望むようにならないのなら生きていたくない!」なんて考えていました。。。でも生き残っちゃいました。^^ 難しいですね。。。あの「完璧主義」があったから進んで来られていたのに、その完璧主義が自分の足を止めてしまっていました。今でも当時の「自分の過ち」が良く判らずに生きています。 これから子ども達がそんな事を言い出すようになったら、私は何を言ってあげられるだろうか。。。と悩みます。 >感じ方は大方相対的となるものなのか。 この一文が印象的です。 相対的でもありますし、対照的でもあるように思います。 (あれ?読み間違いしてますでしょうか。。。汗) 私は「考えた事」を書きます。 miko-desi様は「考えている事」を書かれていらっしゃるのですね。 考える事と書く事が同時進行出来ると良いなあ、と思います。 私は「考え事を考え」て「書き方を考え」て、それから実際の文章にするので、時間が掛かり過ぎるし、跳ぶべきハードルが増えてしまうのですよね。。。もう少し上手くなりたいものです。 ありがとうございました!!

noname#77547
noname#77547
回答No.19

質問者様は、物凄く知的好奇心の強い女性です。 そして、恐らく彼女自身が「これだ!」と認識して納得しなければテコでも動かない頑固なタイプだと思われます。 各回答に対するお礼の一つ一つが柔軟性に富み縦横無尽に文章を操り書き込みをするのとは全く真逆で対照的かもしれません。 この点につき、知性も教養もなくロクな発想も出来ない私には質問者様のあげ足とりや「ちょっとそこが違うんじゃないの?」と言った肘鉄をくらわせるような書き込みしか出来ません。 ですがそれと同時に現実問題として、何か小説を書いて応募してみるとか、大学受験用小論文の添削の自宅バイトを始めるとか、ネット以外にも現実的に何かを始めるきっかけを見つけて未来に繋げられたらいいなあ、そのベースとなるような前向きな対話になってほしいなぁ、と、老婆心ながらいつも思っています。応援しています。

noname#122427
質問者

お礼

あれ。。。またNONAMEになっちゃいました。。。 お忙しい中お気遣い頂きまして、感謝申し上げます。 まだまだ「人生を楽しく修行!」して参ります。 ありがとうございました!!^^

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.18

No.17ですが、次の箇所を訂正させていただきます。 (誤) 言葉は言葉である限り、その社会的、制度的な規範性のおかげで、他者とのコミュニケーションを可能にすると同時に、一人他者(の自己認識)との中和域一人の生命を吹き込まれることで、一人一人の固有の(=唯一無二の絶対的な)内面世界をも構成するに至ったのではないでしょうか。   ↓↓ (正) 言葉は言葉である限り、その社会的、制度的な規範性によって、他者とのコミュニケーションを可能にすると同時に、言葉を生きる一人一人の生命を吹き込まれることで、その人固有の(=唯一無二の絶対的な)内面世界をも構成するに至ったのではないでしょうか。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.17

yukkinn66さん、こんにちは。 >「オレ」と読んで、どきん!としてしまった不届き者です。^^ >いえ、いつもきりりっとしていらっしゃいますからその意外な呼称が。。。^^; ハハハッ、私は文化果つる僻地で生まれ育った、血統書付きの貧農の伜だけに、実は「きりり」とは正反対の男でして、町育ちの愚妻には言葉遣いが下品だとしょっちゅう咎められております。 >「一つの事に対して、幾つの思い/考え/印象が現れるか?」と言う実験です。 >その結論は「同列同等に複数の心/人間?が存在する」でした。 >其処迄折角突き止めたのに、その次の >「その中からどのような選別が行われ、表出の過程はどのようなものか?」には挑まなかったのです。。。 モノを考えるにも、恋をするにも、とにかく晩生だった私の場合、田舎の中学を卒業し、町の高校に通うようになって、ようやく似たような問題意識に囚われるようになった気がします とは言え、まだまだyukkinn66さんのような高等な問題意識と向き合う余裕などなく、何とかして町育ちの同輩達に追いつこうとする焦慮感だけで生きていました。 ですから、以下については、もう少し老成?してから考えついたことです。 「一つの事に対して、幾つの思い/考え/印象が現れるか?」については、「一つの物事は一種の多面体であり、過去から現在に至るまで、それを横から、斜めから、裏側から観察してきたはずで、その度に得られたはずの意味・考え・印象の記憶の総体として、一つの物事は存在する」とでも説明できそうな気がします。 「その中からどのような選別が行われ」るかとなると、その時々に「選別の主体」が置かれている状況に呼応するようにして、しかも当人がそうと意識する間もなく、ほとんど無意志的に過去の経験の記憶が喚起されるのではないでしょうか。 >何事も恐れずに白紙撤回を試みたい所ですが、先入観/迷妄/常識。。。様々に厳つい「枷」が何とまあ、本質/中身も見えない程に絡まっているものか。。。と毎度思ってしまいます。 はい、私自身、そうと意識できる範囲内だけを考えても、自分の思考がほとんど気が遠くなるほどに無数の手枷・足枷の虜囚になっているのを自覚しないわけにはいきません。 ただし、その「枷」の黒幕が、われわれが生まれてから現在に至るまでに修得してきた言葉の辞書性・文法性(=規範性)と裏で通じ合っているとすれば、「白紙撤回」と言っても、決して話は簡単ではないような気がします。 で、われわれにできるのは、せいぜいのところ、自分の思考の水平線の姿をできるだけ具体的に記述するところまでですし、それに成功したものが立派な哲学なり、文学なりになっているのではないでしょうか。 それにつけ、ゴーギャンの「われわれはどこから来て、何者であり、どこに行こうとしているのか?」という有名な言葉がすぐに思い浮かんでくるのですが、現在の私の「自己認識」の正体を知ろうにも、それが「自分はどこから来て」と「どこに行こうとしているのか?」に規定されたものでしかないのではないか、だとすると「自己認識」とは自分の過去と未来をとことん凝視することに他ならないのではないか、という気がしてなりません。 ですから、徹底して自己及び「自己認識」を試みようとする者は、必然的に自分が一種のエイリアンでしかないという認識に逢着せざるをえないような気がします。 ランボーの「われは他者なり」にしても、私はこういう文脈で理解しております。 >これが、「完全な他者」の考えを辿る時の「手がかり/触媒」となる部分、なのでしょうか。 >そうすると、一体人間の「他者に対する自己の確認」の意味での自己認識/自我境界の線引きはどうなるのでしょうね。。。 自分と他人と同じ言葉を共有(=共用)していたつもりでいて、実は互いに全然違った意味でその言葉を理解していたという経験を、われわれは何度も経験しておりますよね。 言葉は言葉である限り、その社会的、制度的な規範性のおかげで、他者とのコミュニケーションを可能にすると同時に、一人他者(の自己認識)との中和域一人の生命を吹き込まれることで、一人一人の固有の(=唯一無二の絶対的な)内面世界をも構成するに至ったのではないでしょうか。 私には、自他の関係、両者の境界線、「他者(の自己認識)との中和域」についても、最終的にはこういう言葉というものの基本性格に帰着する問題ではないのかと思われてなりません。 >人間の思考は常に「化学反応」なのですね。。。 >自分以外の何者(何物)かとの中間に発生するもの、なのですね。 はい、自己と他者(外界)とを媒介するモノとしては、言葉の他には貨幣という面白いモノもあり、やはりいろんな「化学反応」(=揉め事)惹き起こしますよね。 そして、これは私固有のこだわりなのかもしれませんが、自己と他者(異性)とを結合する最も大切で尊い媒介としては、性(セックス)を超えるモノはないと思っています。 もっとも、これは、私がエロオヤジであることを正当化しようとしているだけなのかもしれませんが。

noname#122427
質問者

お礼

kadowaki様、こんばんは。 褒め上手な方々がお揃いのカテゴリーで、すっかり。。。大汗 踊り馬の手綱を引くのが大変です。^^ この質問は本当に気軽に適当に立てたのです。 ちょっと皆様の感覚を伺ってみようかなーーと言う感じで。 でも、その気軽さ故かすっかり「言葉の難しさ」に返り討ちにされてしまいました。涙 人とこのような対話をする上で一番の「厳つい枷」は実は「言葉」かも知れません。 白紙撤回だの先入観/迷妄/常識云々の「枷」より遥かに頑丈で巧妙で。。。すっか途方に暮れてしまいました。 私は「言葉」を少し「数学的に」扱い過ぎるのかもしれない、と反省もしております。自分で自分の思考にブレーキをかけているのです。 もっと大きな大らかな捉え方で言葉を扱えるようになりたいと、この質疑で強く思いました。 他者と自分の間での「言葉の難しさ」であるのならば、許容範囲なのですが、私の場合、自分の内部で混乱を起こすので疲れ切ってしまいます。 こうなると、 >自己と他者(異性)とを結合する最も大切で尊い媒介としては、 >性(セックス)を超えるモノはないと思っています。 この手段に頼ってしまいたくなりますね。^^ 「まあ、いいっかなーーー♪」って。。。 適当なクセして濃密で緻密な媒介手段ですよね。 メチャクチャなお礼になってしまいました、どうかお許し下さいませ^^

回答No.16

No14にて回答した後、過去の回答とお礼欄を拝見いたしました。 核・枠といった概念にて捉えておられるようですが、どちらかといえば、能動的・受動的といった概念が該当するのではないでしょうか? 3人の未就学児の世話とは、ずいぶん大変ですよね。 どのように対処されているかは想像の域をでないのですが、 ===回答No.10に対するお礼欄 何せ三人の怪獣に追いまくられて視野は狭まり、外出は侭ならず、サンプルが少な過ぎるので妄想でしかない考えです === と仰っておられるので、どちらかといえば、受動的に物事を処理して行かざるを得ない状況にあるかと思われます。 また、 ===回答No.9に対するお礼欄 「その結果「人間は複数の人間を抱えて生きている」と結論が出ました。 優劣/強弱/好悪。。。関係無く、両極端を含む複数の「心」が私の中に同時に息づいているのを見ました。^^ 何人もの「私」が、仲良くか、仲悪くか?(笑)共存し、この具象化された「私」を形成し、生かしている、と実感するのはなかなか面白い体験でした。 === からも、外部に対して幅広い対応をこなしていくといった受動的な側面が伺えます。 「核がない」といった感覚は、まさにそういった側面が強調されているからこそ、感じ取られる感覚ではないでしょうか? でも、受動性が強すぎると、何らかの主体性を求められたとき、「選択・決断したくない」という反発が内部にわき上がってくるとかないでしょうか? ←もしかしたら、質問の二つ目 「*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります)」 に関連しないでしょうか? そういったことを仰っているようにお見受けしましたが、私の単なる勘違いかもしれませんね。(その節は、ご容赦下さい。) さて、能動的・受動的といった概念を提示いたしましたが、受動的だから「どうだ」ということではなく、逆に言えば「何にでも合わせていくことができる」といった能動性すら生み出す原動力にもなりうるでしょうし、枠とか核とかいった概念に縛り付けられることすらはねつけるだけの力になりうるかもしれません。 中島みゆきの「East Asia」の歌詞に、そのような想いを見ることができると思っています。 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND40003/index.html なお、質問者様の「枠」に該当するであろう「境界」(=知的・幻想的に生み出され、揺れ動き、幅を持っている)ですが、男女といった性差の概念を当てはめようとするのも一つの考え方でしょうが、私自身は、どちらかといえば、宗教民俗学的(?)な観点で捉えることを好んでいます。 たとえば内部に視点を置くと一神教的な観点が生み出され、外部(他者)に視点を置くと多神教的な観点が生み出されると思っています。

noname#122427
質問者

お礼

k_jinen様、再びの回答に感謝致します。 もう既に三つ目も頂いていますね。。。のろまな質問者で申し訳なく思っております。 >核・枠といった概念にて捉えておられるようですが、 >どちらかといえば、 >能動的・受動的といった概念が該当するのではないでしょうか? そう言う表現も出来ますね。^^ 只、私としましては「自分」を「存在(只此処にいるもの)」として意識する事でやっと「白紙撤回」と言う「究極の柔軟性を必要とされる試み」に挑めるように感じるのです。 意志より好奇心より強く「存在のみに自分自身を白紙撤回」する意識が私には必要なようです。 なので、このような「枠/核」と言う無味乾燥な表現になってしまいました。 わざわざ他の回答と返信に目を配って頂いたようで、お手間掛けて頂きありがとうございます。 そうですね。。。「大変」なのかも知れません。^^ 現状心療内科へ通院する自分を抱えてもおります。 なのに「大変」と認めたくないのです。汗 「。。。ざるを得ない」と言う状況を極端に嫌う私です。 意地っ張りです。 だから、今「受容」を中心に心掛ける時期、と自らガードしているのかも知れません。「状況に迫られての受動態ではない、自分で選んだんだよ!」って。。。 そうは言っても >外部に対して幅広い対応をこなしていくといった受動的な側面が伺えます。 と見抜いて下さったように、私の元来の性質でもあるのでしょう。 >「何にでも合わせていくことができる」といった能動性 はい。これこそ、私が私に誇れる部分です。 どんな状況下でも楽しみを興味をやりがいを見つける事が出来ます。^^ 「枠/核」について、 >たとえば内部に視点を置くと一神教的な観点が生み出され、 >外部(他者)に視点を置くと多神教的な観点が生み出される と言う新たな視点をまたもや頂きました。 これは宗教学で言われるように、発祥地の地理的気候的条件が人間に迫った視点かも知れません。 「受け入れ難い自然環境」と「共存可能な自然環境」。 私個人に暖かく寄り添って下さる回答でとても嬉しく思いました。 ありがとうございました!!

noname#80116
noname#80116
回答No.15

 No.4です。  yukkinn66さん このご質問は 日本の哲学思想をすべて 濾過してやろうというきわめて豪胆でうつくしい魂胆のもとに始められたと推し測られます。考えてみれば 五年十年ほども遅かった企画です。(わたしは 五年前までの十年ほどは 仕事にかかりきりで 余暇にも 勉強せずに 空白の期間を過ごしました)。  このようなご魂胆を上回る大誤解も大誤解でキザもキザ 百乗してもまだ足りないキザでおおばかものからの その後の投稿です。  (ω) 自己認識――《〈わたし〉とは何か》――の問題  ☆ が まづ 横たわっていると言わねばならないようですね。  ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「自己認識」と言うか、「他者に対する自己の確認」と言った感覚です。  これを女性は「他者と自己の間/或は他者そのもの」に置き、  男性は、「自己の内部」に置く、そんな気がしたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 男であるのに この男性の例に漏れてしまうのですが  単純に  (α) あやまつなら 〔その気づきにおいて〕 われあり。If I err, I am. Si fallor, sum.( Augustinus )  ☆ です。普段は 能天気です。つまりは 自慢じゃないですが 天然ぼけです。  ▼ (No.11回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己認識の感覚は量の問題なのかです。枠や容器にそれ(* 量としての感覚)を満たすならば 〔* その感覚量としての自己認識は〕 全ての形(* =表象)〔*や〕表現の根源を纏める〔* 主体存在〕以前なものであり、何の集まりもない場だけのもの。核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。   ★ (No.11お礼欄) 容器と内容物(量)と源泉(核)でしょうか。。。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章の読みは ややこしく思います。  (1) まづ 《存在=わたし》が います。(α)を言いかえるなら 《〈わたし〉と名乗って 言葉で 交通する存在どうしの内のひとり》です。  (2) これを 《源泉(核)》と言ってよいのでしょうが おそらく 《容器》であることを超えています。《内容物(量)を容れる能力存在》であることに間違いありませんが それだけでは 《自己表現をすべてまとめ統括する核(たましい?)》ではないでしょう。  (3) しかも ところが このわたしは 《そのように 何やかやを集めて管理する》一方で それと同時に   ▼ 何の集まりもない場だけのもの  ☆ であるように感じます。逆に そうです。  (4) そのときには  ▼ 核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。  ☆ というごとく この《あこがれ》が 鍵語になると思いました。  (β) あこがれ←―あくがれ←―《あく(処・事)‐かれ(離れ))》  :《心身が何かにひかれて もともと居るべき所を離れてさまよう意。後には 対象にひかれる心持を強調するようになり 現在のアコガレに転じる》(大野晋)  ☆ 《わたし》たちが何にひかれるかは ここでは言わずもがなとしておきますが このわたしの場であるアクから離れるというのは 西欧哲学では言わずと知れた  ▼ (No.12回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・現象学だと思います。・・・「白紙撤回」とは「思索」を成り立たしめている大前提、根本条件それ自体を見つめることですよね。〔* いわゆる《エポケー》ですね〕。  ハイデガーの「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」という発想も、一種の「白紙撤回」だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのあとには そのためにも《ニヒリズム》のそれとしての効用が触れられています。ただし 後半には 異見を添えます。  ▲ 《本当は何もないことを前提にすべきではないのか》  ☆ というように 《何もない》というふうにも 規定する(もしくは 予見を持つ)ことも ふさわしくないと言うべきでしょうね。《あくがれ》の思想は もっと奥が深いと言うべきではないでしょうか。軍配は 後者に挙がるような気がします。  (γ) エポケー(判断中止・白紙還元)≦あくがれ   ☆ 唯一神を想定した人びとの間では 《まぼろし》を見ると言ったかと思います。ちなみに 《目・滅〔ぼ〕し》の意味だそうですから 同じ意義とするには 解釈をあいだに容れる必要があります。《肉眼の視力を超えよ》といった介在です。  (5)《わたしとは何か》は その問いを 同じように問う存在どうしの関係を とうぜん 同時に 持つと言われます。  ★ (No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  他者(の自己認識)との中和域が存在するように思います。  でもその「他者の自己認識」は、自分の想像のでっち上げでしかない、ようにも思えますし。。。  もしかしたら、人間はその「でっち上げ」に惑わされて、他者と不要な距離を置いている、なんて事はないかしら?と今ふと思いました。  >本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか  「自己認識」に囚われて、大事な点を見落としていました。汗  人間の思考は常に「化学反応」なのですね。。。  自分以外の何者(何物)かとの中間に発生するもの、なのですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん――もはや すべてを端折ってまいりますが――  (δ) 《いま・ここ(つまり アク)》なる《わたし》たちは アクからなぞの何ものかに引かれていき アクから離れたやはり《わたし》どうしとして 《化学反応以上の化学反応》をしている。  ☆ のでしょうね。  ★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >私が自分と異なった考えを辿る際には、  >そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探す  :只の「触媒」、効果的な「触媒」。。。それでいいのですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 細かくげんみつに――例によって 心の底までいぢわるな bragelone が――言うとすれば 《対象物とリンクしそうな――効果的な――「触媒」を探す》のは 知識としての《内容物(量)》の問題でしょうね。(*^-^)b  もし それをも超えるとなれば   (ε) わたしそのものが 触媒になる。  ☆ といったところでしょうか。(*^^*)v (あれっ 絵文字 まちがえてます? 気座野寄挫之進でぇーす!)  (6)《関係性》には 実際には どろどろした側面がありますね。  ★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  只「何かをしつこく考える時」、何故かドキドキします。  全く「先に何があるのか見えない」のです。  怖くてドキドキするのでしょうか、何故かいけない事をしているような気持ちになります。  ★ (No.5お礼欄) 自分に囚われ過ぎている、とも感じます。  ★ (No.5お礼欄) 人がやらない事とか、難しいと言われる事とか、これは大変そうだなあと思う事とか、そんなことばっかりに闘志が沸いてしまう面倒な性格です。汗  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 端的に言って   (ζ) 社会における慣習・禁忌・黙契・それとしての常識(非常識?)に挑戦するといった気になると 起こるふつうの・あるべき気持ちと姿である。  ☆ ということではないでしょうか。全部が全部 そうではないかも知れませんが そう言えば このわたしも それでも 厚かましさを躊躇する場面を持ったことがありました。そう言えば ちょっとは 奥ゆかしさがまだ残っているのかと 思ったことがありました。  つまりは すべては えらいえらい人たちの内の不心得者たちが ふつうの市民たちに挑戦的なのだと分析し見通してください。これを むろん われわれ か弱き哲学の徒は 粉砕してまいります。  (7) さらに具体的な自他の関係ないし識別の問題 あるいは 接点はどこかなどなど。  ★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「誰かの考え」を辿っているつもりなのに、気付けば「自分を潜っている」気がします。これはつまり「道を間違えて」いるのか?、それとも「誰か」と自分が「重なっている状態」なのか?  ★ (No.4お礼欄) 人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。  私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アクから離れたわたしは 離れて しかも同時に アク(いま・ここ)なるわたしにあるなら そしてその姿勢が確かになればなるほど 他者〔の考えや 表層の心理〕と からむはづです。  ★ (No.4お礼欄) 自分の中の「こんがらがった糸玉」と格闘している感じです。  ☆ 外側にある他者から (a)ほんとうにその本人の内側にある意志ないし思想と (b)ただ表層に現われた嬉しさや怒りの心理 これら両方が わたしの内に入ろうとするでしょうが (b)は 表面にとどまるはづですよ。心理の内でも よろこびの源泉(核)なら わたしも 共有するでしょうが。  ★ (No.4お礼欄) 私はイマイチな薄暗がりから闇の中で、握りしめた物の正当性を確かめる為に進んでいる、かな。  ☆ 世界一きざな言葉で 締めくくりましょう。わたしは もう――と言っても とうぜん 依然として その理性は 薄暮の薄暗がりですが つまり 人間はみな そうだと考えていますが―― 《闇》は おかげさまで 卒業しました。みなさん すみません。あとの者が先になり 先の者があとになる。  (8) 最後に はじめに帰って  ★ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。  私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何の問題もないと考えますが 別様の方法があるかと言えば たぶん 澄ました野郎の答弁としては――つまり それは わたしbragelone ではないという意味ですが―― こちらは ここに坐っていて あちらから・相手のほうから やって来ると言うでしょうね。まぁ 言わせておく必要はあるでしょうね。そのように 時には わたしたちも 振る舞っていないわけではないようです。

noname#122427
質問者

お礼

bragelone様、ありがとうございます。 私は哲学を学問や勉強として学んだ経験はありません。 只「考え事が好き」な人間に過ぎません。 あまりおだてないでくださいな、ズに乗ってしまう質ですので。。。^^ >(ω) 自己認識――《〈わたし〉とは何か》――の問題 そうですね。。。 まずこの問題をすっ飛ばしてしまった所に、私の返礼遅滞の原因も有りそうです。大汗 自己認識の性差、については未だ突き詰めて考えてない課題です。 此処にてお手伝いを頂いて煮詰めるにも論点が絞れず、気軽に曖昧に書いてしまった事が私を返り討ちにしています。 >(2) これを 《源泉(核)》と言ってよいのでしょうが  >おそらく 《容器》であることを超えています。 >《内容物(量)を容れる能力存在》であることに間違いありませんが  >それだけでは 《自己表現をすべてまとめ統括する核(たましい?)》ではないでしょう。 自己。私。存在。心。人間。魂。。。。 一体どの言葉で語るのがいちばんしっくりするのか。。。と悩みながら書いております。対象となる「モノ」ははっきりしている?のに、それを表す言葉は様々で、獲物を捕らえる道具である「言葉」が、返って獲物を視認し難くしています。。。。 心は「入れ子」のようなものでしょうか。。。。 そして更にややこしい事に、その入れ子の器それぞれが「無限の宇宙」を内包している。。。そんな気がします。 外から見れば一つの器。内に入れば無限の広がりを持つ空間。。。 これが自己認識を同時に「枠」とも「核」とも言い表す要因なのでしょう。 枠も核も同時に一つの「私」。。。 この摩訶不思議な現象を、どうやって言語化すれば良いのでしょう? 皆様はどうしてそのように説明する言葉を持てるのでしょう? どうやって説明したい「心」を「形」を捕まえる事が出来るのでしょう? 私はどうしてこれほど迄に捕まえる事が「下手っぴ」なのでしょう。。。涙 纏まりの無い返信で申し訳ありません。

noname#122427
質問者

補足

回答頂いている皆様へ。 物の見事に返信の遅い質問者で、申し訳ありません!! 私の中には、「言語化し、言葉にして表したい事」が山となって聳え、巨大な流れとなって渦巻いています。でもそれを掬い取る術が私には不足しているのです。 本当に鈍臭く「何かを捕まえる」のが苦手なのです。。。大汗 回答頂いている皆様に申し訳ない思いと焦りと、己の力不足にもみくちゃ呆然として日が過ぎて行きます。 一旦此処で質問を締め切らせて頂きます。 あまりにも返信が遅い質問者に、丁寧な回答が重なって行く事が心苦しいです。。。 必ずお礼をさせて頂きますので、ゆっくりお待ち頂けましたら幸いです。

  • neroli3
  • ベストアンサー率65% (13/20)
回答No.13

NO9です。再びのお礼、拝読いたしました。 >きっと、その「果て」は「人智の果て」であり、 >単なる物質的な限界点 なのだと思います。(思います、ばっかりですね。。。大汗) 私のほうこそ、言葉足らずだったようで、すみません。 「人智を超えた存在」についてですが、私も特別な信仰を持っている訳ではないですが、そうしたものは、はっきりと感じていますよ。 ですが、それが果て、つまり限界という認識ではおりませんが。 というのは、人智を超えた存在というものが、結局のところ、人智を持ってしか想定不能であることから、人智とそれを超えたもの(智慧)とを比較することもまた不可能なはずという理由からです。 よって、単なる物質的限界点というのは、生命の限界(寿命)というように捉えていただければ、わかりやすいかと。 例えばですが、人間に寿命がないとして、そういう世界において、人間がどのような思考を持つのか?ということについて、その世界の存在自体が、既に人智を超えたところにあるのですから、その場合における「果て」というものがどのようなものとなるのか?についても、結局は、現在の寿命を持った人間の頭でしか理解できないということです。 ですが、仮に、時間という概念の存在しない世界=寿命という物理的限界点を超えた場合、果てという概念もまた存在しなくなるのではないのか。というのが、私の今一な頭で思いつくことなのです。 という訳で、想像を超えた(人智を超えた)前提が存在する場合、限界点としての果てをその境界として認識するというより、まさしく宇宙の果ては隣合った宇宙の果てでしかないというような状況になりえるのではないかと思った訳です。 いくつもの自分自身ということでいえば、私もあります。 そういった意味でも、宇宙空間のようなものだなぁと思うのですね。 果ての向こうにもう一つの宇宙がある。まあそんなイメージが一番近いかもしれませんね。 思いつくまま、的確な形容ができないままのようで、お読みいただくのも申し訳ない感じなのですが、私の今一頭では、せいぜいこの程度ということで、お許しくださいませ。

noname#122427
質問者

お礼

こんにちは、neroli3様。 度々丁寧に回答下さり、感謝申し上げます。 返信が送れました事、お許し下さい。 >「人智を超えた存在」 同じような感覚をお持ちの方に出会い、嬉しく思います。 いえ。。。このような「人間は存在として完全ではない」と言う謙虚な感覚って、日常でなかなか出会わないように思いますので。。。 下手したら「何かの宗教に勧誘するつもり?」と言う疑いから防衛線を張られてしまったりしそうですもの。。。汗 >仮に、時間という概念の存在しない世界=寿命という物理的限界点を超えた場合、果てという概念もまた存在しなくなるのではないのか。 あーーー。。。この文を拝見して、しばらく考えてみたのです。 この世界では、「限界がある(=寿命)」が多数派か? 「限界が無い」のが多数派か?って。 すっかりふわふわ宇宙遊泳です。^^ 一体どうなのでしょうね。。。 かなり気まぐれに気軽く立てた質問で、早めに締め切る予定だったのに、色々な視点と新たな感覚の発見が相次ぎ、なかなか着地点が見つからず嬉しい悩みです。^^ ありがとうございました!

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