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思索する時。。。空っぽの私

いつもお世話になっております。 少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。 「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。 *思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? (私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です) 思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 (そうではない場合がありましたら、ご教授下さい) *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります) 曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 *枠でしょうか? *核でしょうか? (私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗) 単に表現に固執しているだけかも知れませんし、 個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、 出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。 よろしくお願い致します!

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

「自己認識の感覚」を、核とか枠とか言った概念で捉えようとしておられるのは、興味深いことです。とくに「枠」といった概念ですが、私は「境界」といった言葉をもちいています。別の所に投稿したものを一部改変して下記に書いておきます。ご参考になれば幸いです。 === 「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。 それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。 そうして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。   観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。 一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。 「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。 すなわち、「この」わたしを突き詰めようとするときに、私と(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体との境界問題が発生するといってもいい。 では、「この」わたしとして「認識」している「もの」は一体何なのであろうか。。。? 私が私を私として認識するとき、時間の流れと記憶との問題が取りざたされうる。すなわち、「自己同一性」である。 「この」わたしが、それを考えているこの一瞬にあると思ってしまうのは、まさに総体から私を切り離しうるという知的に切断された面(以降、知的切断面)そのものであり、切り出された断面に張り付いた私を眺めているに過ぎない。 では、眺めているのは誰か? それこそが「総体から切り離し不可能な私」であろう。。。 すなわち、逆説的に言えば、「総体」とは、空間的にも時間的にも切断されうるものであるがゆえ、時空間を含み、相互関連しうる、ありとあらゆる「全て」である。 なおかつ、眺めている主体は、知的切断面(境界)にて周囲から区分可能な存在でもあるわけである。 ===

noname#122427
質問者

お礼

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします! 読み違い/考え違い等ありましたら、ご指摘頂けますでしょうか。。。

noname#122427
質問者

補足

k_jinen様、回答ありがとうございます。 返信が遅れまして申し訳ありません!! なかなかに論点/気付きが豊富で、あまり整理整頓が上手とは言えない私の頭は様々な情報が飛び交ってしまい、さっぱり収拾がつかずに困っております。大汗 k_jinen様が上げてくださった、 >私   =眺めている主体 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 そして、その「私と総体」は >知的に切断された面(以降、知的切断面) を「境界」とする、と言う判り易い筈の(!!汗)ご回答、とても有意義な回答を頂き感謝申し上げます。 ところで、何が「判り易い筈!!(=判り難い)」となってしまっているかと言うと、この三者を私が以前行った「実験」で得た感覚に当てはめる場合、どれがどれに対応するのだろうか?と考えているからなのです。 (決して、k_jinen様の回答に不足を申し立てているのでは有りません、足りないのは私の思考力ですので、誤解なさらぬようお願いします。) 私が実験で得たもの、は、 (同一の事象に対する思い/心/考えとして) 1)(私の中に)複数の同列同等の人間の存在 2)(彼らを観察/選別/表出する)主体 なのですが、 これは「同一の事象に対して反応」と言う条件でしたので、k_jinen様のおっしゃる >空間的にも時間的にも切断され と言う言葉に対応するのではないか?と考えたのです。 私の「実験」は主に自分を知る為のものであり、かなり狭く独善的に行いましたので、 >ありとあらゆる「全て」 と言う感覚とは程遠いものでした。しかし、今になって思い返すと、 *1)は >「知的切断面」と同じものではなかろうか? *2)は >私(=眺めている主体)と同じものではなかろうか? と頂いた回答を拝読して考えているのです。 >(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体    =「全て」 に思考が及ばなかったのは「何か確固たるもの」を欲しがる未熟な若さ故の視野の狭さであり、臆病さであったと考えています。 その「確固たるもの」を、時間的空間的に限定し切り離した「私」と言う「全て/総体」の一部分にも満たない「断面(知的切断面)」に求めて、何の価値があると考えていたのだろう。。。とちょっと苦笑いです。 やっぱり中学生は中学生なのですね。。。思考範囲が狭過ぎる程狭い。 自分の周りを取り巻く世界とその広さに、遅まきながらですが気付けた事がとても嬉しいです。 そして、その発見を導き出してくださったk_jinen様のご回答に、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!

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その他の回答 (22)

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.12

またぞろ、ピント外れの回答をさせていただくことをお許しいただきたく願い上げます。 私は頭が悪いだけに、これまで「思索すること」よりも、「思索するとはどういうことか?」を考えることの方に、より興味・関心を寄せてきました。 >*思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? 「『「オレはこう思う』とオレをして思わしめているヤツはどこに隠れているのか?」、「そいつはどういう正体をしているのか?」といったことばかり考えてきました。 ですから、私には「自分の心に潜って行く」というよりも、自分を操っているモノの正体を暴きたいという「感覚」ですね。 >*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? 「自己」も「思索」をも確たる実体として考えられない私には、当然ながら「反発/拒絶」も確たる実体としては実感できません。 ただし、娑婆に生まれ出てから現在に至るまで、自分が様々な迷妄の虜になってきたことは認めざるを得ません。 >思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 ハイ、われわれがのほほんと信じ込んでいる(と自覚できないでいる)種々の「前提を疑って掛かる」ことの重要性を訴えたのがいわゆる現象学だと思います。 「白紙撤回」とは「思索」を成り立たしめている大前提、根本条件それ自体を見つめることですよね。 ハイデガーの「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」という発想も、一種の「白紙撤回」だと思います。 そのためには、自分の思索の一切についても、いったんはニヒリズムの浄火をくぐらせてやる必要があるような気がします。 すると、すべてのことがそれ自体で何か意味や価値をもっているわけではなく、一種の因縁、因果関係の連鎖によってそう思わされているだけにすぎないのではないかと思うようになってきました。 >曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 >*枠でしょうか? >*核でしょうか? >(私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 申すまでもなく、自他の差異を弁えない乳幼児は「自己認識」とは無縁です。 ですから、「自己認識」の前提となるのは、自己客体化(他者化)なくしてはありえないはずです。 しかし、そうなると、客体化された「自己」とは、認識主体としての「自己」にとっては一種の別人格となりますから、いつまで「自己認識」を続けても、ついに「自己」の「核」にはたどり着けないはずです。 本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか、そのとき他者によって照らし出されるモノとしてしか「自己」はありえないような気がしてなりません。

noname#122427
質問者

お礼

あ、kadowaki様、お目に止めて頂き光栄です。^^ 彼の君が居なくなられてしまって、ちょっと戸惑い気味です。。。 >『「オレはこう思う』とオレをして思わしめているヤツはどこに隠れているのか?」、 「オレ」と読んで、どきん!としてしまった不届き者です。^^ いえ、いつもきりりっとしていらっしゃいますからその意外な呼称が。。。^^; >自分を操っているモノの正体を暴きたいという「感覚」 #9の方へのお礼欄に書いたのですが、 中学の時に実験をしました。 「一つの事に対して、幾つの思い/考え/印象が現れるか?」と言う実験です。 その結論は「同列同等に複数の心/人間?が存在する」でした。 其処迄折角突き止めたのに、その次の 「その中からどのような選別が行われ、表出の過程はどのようなものか?」には挑まなかったのです。。。 その選別の主体は気になります。 が、またあの実体が無くフワフワと苦しい実験を試みるのは躊躇します。 >「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」 はい。 何事も恐れずに白紙撤回を試みたい所ですが、先入観/迷妄/常識。。。様々に厳つい「枷」が何とまあ、本質/中身も見えない程に絡まっているものか。。。と毎度思ってしまいます。 >「自己認識」の前提となるのは、自己客体化(他者化)なくしてはありえないはずです。 そうですね! これが、「完全な他者」の考えを辿る時の「手がかり/触媒」となる部分、なのでしょうか。 そうすると、一体人間の「他者に対する自己の確認」の意味での自己認識/自我境界の線引きはどうなるのでしょうね。。。 他者(の自己認識)との中和域が存在するように思います。 でもその「他者の自己認識」は、自分の想像のでっち上げでしかない、ようにも思えますし。。。 もしかしたら、人間はその「でっち上げ」に惑わされて、他者と不要な距離を置いている、なんて事はないかしら?と今ふと思いました。 >本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか 「自己認識」に囚われて、大事な点を見落としていました。汗 人間の思考は常に「化学反応」なのですね。。。 自分以外の何者(何物)かとの中間に発生するもの、なのですね。 ありがとうございます!

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noname#91067
noname#91067
回答No.11

言語化は苦手です(汗)。 人間は人間にとって最も、尤もなエネルギー源となりますね。 核にはエネルギーが沢山貯えられています。 でも自己認識の感覚は量の問題なのかです。枠や容器にそれを満たすならば全ての形、表現の根源を纏める以前なものであり、何の集まりもない場だけのもの。核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。

noname#122427
質問者

お礼

miko-desi様、こんばんは。 傷めた足は大丈夫でしょうか?お大事になさってくださいね。 >人間は人間にとって この「人間」は前者が自分でよろしいですよね? では後者の「人間」は *他者 *自分の内部の自分 *自分の内部の自分も含めた他者 どれでしょう。。。。? >核にはエネルギーが沢山貯えられています。 言葉、というのは不思議です。 化学で「(原子)核」と言うと、具体的に凄まじいエネルギーを持っている物、ですよね。 それと同じ「核」と言う言葉を「自分の核」「人間の核」とした場合も、やはり、その核はおそらく未知数に大きなエネルギーを持つと考えられますものね。 >でも自己認識の感覚は量の問題なのかです。 容器と内容物(量)と源泉(核)でしょうか。。。。 私はちょっと、自分の「自我の境界」に不安を感じているのです。 この不安もこの質問の動機の一つなのですが、まあ、前回のような重篤な(!汗)ものではないのでゆるゆると考えて行こうと思っております。 ありがとうございました!

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noname#84922
noname#84922
回答No.10

#2です。お礼拝読しました。 >入り口を変え、鍵を変え、道を変え・・ ああ。またそれだと違っていたかも知れません。 私は、1本調子だったんですよ。 でももう、踏み込まないでしょうね。 >「性差はない・・ 書き方が悪かったです。うまく表現できないので。。 私は女性ですが、「自己認識」に私も性差はないと思ってます。 枠としたほうが、ラクなんです。 面白い質問でした。 昔、漠然とですが、そのようなことを疑問に思っていた時期があったのです。

noname#122427
質問者

お礼

こんばんは、Yseult様。 また回答下さり、嬉しいです。^^ >でももう、踏み込まないでしょうね。 これはどうしてでしょうか? よろしければ理由を教えて頂けないでしょうか? 私は「知らない事」が好きです。 世界も社会も自分も、とにかく「知りたい!」と思ってしまいます。汗 不思議な事に、何かをひとつ知ると、反対側の事も一つ知る事が出来るように感じるのです。 例えば、自分について一つ知ると、世界についても一つ判った気がする、と言う感覚です。 うーーーん。。。具体的に何を知った?と尋ねられると困っちゃいますが。。。汗 でもこの感覚も穿った見方をすると、「自分と他者を重ね/同一化し過ぎる(自我境界が曖昧になる?)」ようにも思えてしまうので、あまり自信は無いのです。。。。 自己認識の性差について、ですが、 申し訳ありません! 私は「有るのではないか」と考えているのです。 あやふやな文章で誤解を招き、反省します! 「自己認識」と言うか、「他者に対する自己の確認」と言った感覚です。 これを女性は「他者と自己の間/或は他者そのもの」に置き、 男性は、「自己の内部」に置く、そんな気がしたのです。 そう言っても私は女性ですので、男性の認識は想像でしかないのですが。。。 未就学児三人の子育ての日々で、そんな事をふっ、と考えたのです。 でも、何せ三人の怪獣に追いまくられて視野は狭まり、外出は侭ならず、サンプルが少な過ぎるので妄想でしかない考えです。。。 >枠としたほうが、ラクなんです。 そうですね、存在する物事は存在する以上認めざるを得ない物ですから、 核を設定していちいちその核に「お伺い」を立てる手間を考えると、「まずは放り込んで、それから考える」方が楽ちんですね。^^ (なんて適当な質問者。。。。大汗) ありがとうございました!!

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  • neroli3
  • ベストアンサー率65% (13/20)
回答No.9

NO8です。お礼拝読いたしました。 >人間の思考力の届く範囲なんて、たかが知れているってことなのでしょうか。 >それとも、こうして捉えようと挑み続ける事によって、いつかは「果て」に辿り着くのかしら。。。 「果て」についてですが、 果てを捉えようと挑み続るということは、そのチャレンジ自体が広がりのスピードをアップさせるという考えですので、果てにはいつまで経っても辿り着けないものと、私は考えます。 (というより、辿り着けないからこそ、面白いと私は思いますが) 私は、思考力も含めて、自身の内部で起こる現象や対象物は、宇宙のように常に広がっていくものという認識でいます。 時間の流れがある限りは、そこは常に広がりを見せるものだということですね。 「たかが知れている」と言うと、なんとなく劣ったイメージですね。私のイメージでは、優劣とは全く次元の異なる、単なる物質的な限界点として「果て」は存在しているというだけです。 つまりは、命に限りがある限り、持ち時間に限りがあり、ゆえに「果て」という物質的限界点があるのだ。ということです。 ですので、人間の思考力に限界があるというより、一人の人間の思考力には限界があるというほうが適切かと。 共通点から探す場合も、そうでない場合も、理屈は同じような気がします。 自身内部の宇宙には、様々なストックがある訳ですが、私が自分と異なった考えを辿る際には、そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探すということですね。これが、私にとっては、内部を探る感覚です。でも決して内側に入っていく感覚というより、やはり外から探している感じなんですね。内側から探すとなると、触媒の正確な位置がわからなくなりそうです。 私の場合は、核の存在を一つと限定できるかどうか、実は核と呼べるものは、複数存在しているのではないか・・・と、自身では感じています。質問者さんはどうですか? こういった問いかけに対して、的確に伝達可能な言語のストックを私が持ちえていないせいだとは思うのですが、言葉での表現の限界を感じてしまいますね(笑) でも、質問者さんのこの問いかけで、また一つ小惑星が誕生した感じがしますね。ちょっとした宇宙旅行のような楽しい気分です。

noname#122427
質問者

お礼

neroli3様、また来てくださり、感謝申し上げます!^^ >「たかが知れている」と言うと、なんとなく劣ったイメージですね。 あ。。。ごめんなさい。 私は「人智を超える存在」を漠然と感じていて(特に何かの信仰がある訳では無いのですが)、その存在の智慧に対しては必然として「劣っている」となってしまうのです。言葉足らずで申し訳ありません。 きっと、その「果て」は「人智の果て」であり、 >単なる物質的な限界点 なのだと思います。(思います、ばっかりですね。。。大汗) >私が自分と異なった考えを辿る際には、 >そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探す はい。#4の方へのお礼欄に >「否定を怖がる」弱さが選ぶ入り口かしら、とも思います。 と書きましたが、そうですね、わざわざこんな不必要に卑下する事も無いかも知れませんね。。。悪い癖です。 只の「触媒」、効果的な「触媒」。。。それでいいのですね。 >実は核と呼べるものは、複数存在しているのではないか・・・ 中学の時に実験した事があります。 「一つの事に対して、私は幾つの思い/考え/印象を抱くのか?」って。 毎日毎日自分の心に潜り込んで遊んでいました。(ネクラな。。。大汗) その結果「人間は複数の人間を抱えて生きている」と結論が出ました。 優劣/強弱/好悪。。。関係無く、両極端を含む複数の「心」が私の中に同時に息づいているのを見ました。^^ 何人もの「私」が、仲良くか、仲悪くか?(笑)共存し、この具象化された「私」を形成し、生かしている、と実感するのはなかなか面白い体験でした。 思い付くままに書いているのでめちゃくちゃですね。。。 申し訳ありません。

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  • neroli3
  • ベストアンサー率65% (13/20)
回答No.8

質問者さんの意図をきちんと理解できているのかわかりませんが、私なりの回答をしてみたいと思います。 核を感じる瞬間というのは、確かにありますが、日常において思索する際には、確実に「枠」として自分を認識しています。 枠というのは、つまりは、思索する際、外から自分を眺め回す感覚があるので、枠のようなものの存在を認識しているということですが。 対象の内部にどんどん入り込んで行き探るというよりは、対象の内部から表出してくるものをあらゆる角度で捉えるという感じでしょうか。 ですから、前提としては、懐疑を抱く対象だけとは限りません。 中身が空っぽというようなイメージより、私の場合は、自分自身の内側は、宇宙のような暗黒空間で常に広がりを持っているイメージを持っています。(自分でいうと何だか妙な羞恥心を覚えますが・・・(笑)) ですから、見えるもの(認識している対象)も見えないもの(認識できていない対象)もあり、追いかけても追いかけても辿り着けない「果て」の存在も感じています。 ですから、私の場合は、自分の心に潜っていくと、果て(枠)を見つけられなくなり、感じるのはただの空間のようなものということになります。 核の存在は感じますが、中心がどこかはわからないので、これが核というはっきりした認識は持てずにいます。 という訳で、どちらでもあり、どちらでもない、というのが私の自己認識における「感触」ということになります。

noname#122427
質問者

お礼

回答ありがとうございます! >枠というのは、つまりは、思索する際、外から自分を眺め回す感覚があるので、 そうですね。。。 ん?あれ?私はあまり「外から眺める」感覚じゃないのです。 只ひたすら「空の容器に放り込んでいる」感じです。(適当だなあ。。汗) それで、「考える」時にはそのごちゃごちゃの容器の中をごそごそ探しまわっているのです。。。と言う事は、中身を探しているのは誰(何)?と言う疑問になりますよね。 これってつまり「核で感じている」って事でしょうか? あれあれ?? 人間の思考力の届く範囲なんて、たかが知れているってことなのでしょうか。 それとも、こうして捉えようと挑み続ける事によって、いつかは「果て」に辿り着くのかしら。。。 ありがとうございました!!

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noname#89274
noname#89274
回答No.7

うわ~まぶし~ 見て!見て!光線が全身から 直視できない!!! もっもっもしかしてあれは。。。 たった一言でも 生きている言葉は場で光を放つものだと思うんだけどさ。。。

noname#122427
質問者

お礼

こんばんは、m_cosmos様。 再びの回答、ありがとうございます! >たった一言でも >生きている言葉は場で光を放つもの 生きている言葉。。。。それです! 私が何かと「言語化能力」にこだわってしまうのは、「生きている言葉を生み出したいから」です。 一言一言が、一文字一文字が、躍動し光を放つような文章に時々出会います。 研ぎ澄まされた感性と鍛え上げられた言語化能力と暖かい人間性で築き上げられる文章。。。。 でも、「生きている言葉」って、生み出すものじゃなくて、 溢れ出るもの、沸き出すもの、かも知れませんね、自然と。 ありがとうございます!^^

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  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.6

最後の一文、 ちょっと・・ぱたんって・・ 余計な一言が・・すみません。無意識に書いてしまった・・ さっき締め切った問題考えすぎて頭疲れてたんですねー。 僕も外からいろいろ取り込みたい時期です~~

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  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.5

こんばんはー。 質問文読んだんですが、すごく共感するものがあります。方向性が、僕と似てるー、と思いました。 質問そのものより、こういう疑問が出る過程が近いです。 >私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚 僕もこの感覚が今でもメインです。 >前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?) これも一緒です。 >自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? 同じかどうかわからないですがよくあります。 自分の直観は正しいというのに、感情は反発する嫌がる、と言うときがあります。個人的に。それは、僕は自分の偏見や思いこみを壊せるチャンスだと思ってます。でもそれをやってしまってややこしいことになるかも、ですが。一度それをやったら解決するまで止まれない感じです。 >*枠でしょうか?*核でしょうか? ぼくはどちらもです。 この場合の自己認識は自己本質、という意味に取りますが、その場合、自分を枠と取るのは、自分の中の外向的な一面の性格ですし、その場合、外部を認識する視点で自分を捉えるので自分は枠だと感じます。逆に内向的な視点の時は、自分の中心ー核こそ本質と感じます。でも内も外も、本来同じもので、それは、内、や、外、という視点を使わないと直感すら働かない人の脳の限界だと考えてます。内も外も共に現実の一部に過ぎないのに、内、と思ったら内のことで頭がいっぱい、外と思ったら外のことで頭がいっぱいになる、というのは人の把握能力が、現実を全部丸ごと一度に把握する力がない、というじゃないでしょうか? 今中身を増やす時期、と書かれてるので、それは、自分の行動を外向きにーつまり外向性の強い期間に入ってる気がします。そのため、核と言うより、枠というほうがフィーリングにぴったり来るのかなー?と想像します。 ぱたん・・・

noname#122427
質問者

お礼

sheep67様、お久しぶりですね。^^ 回答ありがとうございます! >質問そのものより、こういう疑問が出る過程が近いです。 そうなのですか。。。いえ、何とも私は「自分の為だけに思索している」ような気がして、あまり良い状態とは考えられないのですが。。。 自分に囚われ過ぎている、とも感じます。 >それは、僕は自分の偏見や思いこみを壊せるチャンスだと思ってます。 同感です。 人がやらない事とか、難しいと言われる事とか、これは大変そうだなあと思う事とか、そんなことばっかりに闘志が沸いてしまう面倒な性格です。汗 要は戦闘好き、なのですね、私。。。笑 >でも内も外も、本来同じもので、それは、内、や、外、という視点を使わないと直感すら働かない人の脳の限界だと考えてます。 これは「あーーー!」と思いました。 形や言葉は違えど物は同じ、と言う事ですね、「人の脳の限界」。 >人の把握能力が、現実を全部丸ごと一度に把握する力がない、というじゃないでしょうか? あーーー!!凄いですね!! そうです、自己認識やら自我の形を捉えようとする時って、捕まえる傍から溢れて行く感覚で魂が叫び出したくなります。(変な表現!大汗) まだまだ何か「考え」と呼べるような物を熟成するには中身が足りない!!と思うのです。

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noname#80116
noname#80116
回答No.4

 ★ 病的な範囲  ☆ という表現を使うのは どうしてなのかと いぶかっていたら どうも  ★ 白紙撤回  ☆ の過程に入ると どうも そこまでの状態になるかも知れませんね。けっきょくは 《ここ》に つまりは 《わたし》に戻って来ますが よほど面白い内容であれば 相手の考えの中に浸って行きますね。  あるいは 批判を受けた場合だとか 自分の考えとは 正反対であった場合などには それこそ 我れを忘れて   ★ 只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚  ☆ になりますね。と言ってみたとき さらに わたしの場合に しっくり来る表現は こうです。  ○ 相手の場の只中に――つまりこれは むしろあたかも相手の心の中に沈潜するといったことなのでしょうか――入っていく。  ☆ という感覚でしょうか。  そして あまりに深く相手に成り替わった感覚になったときには これは やられたかな とか うわぁっ わたしは完全にまいったということか とか 思って その感覚のときだけは 我れに帰るようです。  つまり とことん 相手の論理に合わせて 推論を 最後まで 導いて行っていますね。考えてみれば。  ただ こういうふうに 相手の思想を吟味・検証する場合には たいてい こちらの考えのほうが より一層 妥当である場合が ほとんとです。どういうわけか そうですね。  相手の思想が 上である場合には ほとんど 最初に出会い知ったときに ただちに 感覚的に分かる場合が 多いようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?  (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは よく分かりませんが ないようです。何が妥当であるか どちらが妥当であるか それの判断に かかりきりだと思います。《反発 / 拒絶》 よく分かりませんが ピンと来ないということは ないのでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「自己認識の感覚」は、   *枠でしょうか?   *核でしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも どちらも ないようです。  ★☆ 「枠」と〔も〕感じ〔ないで〕 あまり自分の内部に「中身」を感じません。  ☆ という状態です。  ★ 言わば「空っぽの容器」の感覚です。  ☆ というのではなく  ○ ただ 白紙の状態〔において 相手の思想を 先へ先へと推理して行っている状態〕  ☆ です。《容器・枠 あるいは 核》とは 感じないですね。つまり 《自己認識》の感覚は 《その相手の理論を行きつくところまで 導いて行って あれっ 打ち負かされたかな と感じたときに いちど 我れに帰ることがある》だけです。  おそらく 能天気という生地の上で 相手の思想を転がしていく というのが わたしの思索だと思います。  自分の考えを述べよという場合には――つまり いまこの質問に答えるような場合ですが―― たしかに 《自己の心の底に落ち着くかたち》で 考えるかも知れないのですが でも こういう場合には ただ 問いに対して 反応しているだけのようにも 思えます。意味は 思索という作業を介さずに 記憶にたずねて そこから 引き出してくるだけのように感じます。  面白そうでしたので 筆が伸びましたが こんなんで いいのでしょうか。

noname#122427
質問者

お礼

面白そうと言って頂けて光栄です。^^ 回答ありがとうございます! ポルノの質問を締め切りながら漠然と浮かんだ思いをそのまま立ててしまいましたので、判り難いですね。。。汗 とにかく皆様の「思索の感覚」が知りたくての質問です。 人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。 私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。 「否定を怖がる」弱さが選ぶ入り口かしら、とも思います。 「自分の中に潜って行く」と書きましたが、それでは誰かの考えを辿る時は?と考え直してみました。 「誰かの考え」を辿っているつもりなのに、気付けば「自分を潜っている」気がします。これはつまり「道を間違えて」いるのか?、それとも「誰か」と自分が「重なっている状態」なのか?どちらなのでしょうか。。。。 「反発/拒絶」の件に関しては、嫌な記憶だのトラウマだの深層心理だの、と言った辺りが関連しているのかな?とも思います。 封じ込んで忘れた振りをしている記憶とか。^^ 考え事だの思索だの、といい雰囲気の言葉を並べていますけれど、 私は結局、自分の中の「こんがらがった糸玉」と格闘している感じです。 なので、現金で日和見と言う反省がいつも付きまといます。汗 純粋な意味での思索ではない、と思うのです。 >おそらく 能天気という生地の上で 相手の思想を転がしていく というのが わたしの思索だと思います。 私はイマイチな薄暗がりから闇の中で、握りしめた物の正当性を確かめる為に進んでいる、かな。 「転がす」なんて、怖くて出来ません。 自分の手から離れるのが怖くて仕方が無い感じです。 。。。この辺が「病的な範囲」と書いた理由です。^^ ありがとうございました!!

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noname#194289
noname#194289
回答No.3

自己認識の感覚を自我意識としてもよいとすれば自我意識のありかは空間ではなく時間ということになるという考え方があります。貴方の言うところの枠というのは時間のことではないでしょうか。これが「我に返った」状態とすれば思考に没頭しているときは「我を忘れている」ということにならないでしょうか。あるいは自我意識を感じるというのは暗闇とはどのようなものかを確認しようと思って明かりをつけるようなものかもしれません。自分の尻尾を呑み込む蛇と同じと考えている人もいます。いずれにしても自分の自我意識というものは原理的にわからないものなのかもしれません。

noname#122427
質問者

お礼

>自我意識のありかは空間ではなく時間ということになるという考え方 全く持って漠然とした思いをそのまま質問にしてしまいましたので、裏付けや支えとなる考えがありません。大汗 時間か、空間か?。。。ですか。。。。 思うままに書くとめちゃくちゃになりそうなのですが。。。 只「何かをしつこく考える時」、何故かドキドキします。 全く「先に何があるのか見えない」のです。 怖くてドキドキするのでしょうか、何故かいけない事をしているような気持ちになります。 本当は反発を食らう前から、初めっから引き返したくてたまらないのです。 でも「恐いもの見たさ」なのか、知りたくてたまらない。。。 「考え事に挑む」と同時に「相反して戸惑う自分の心」を落ち着かせながら進むので、くたくたになります。 一歩進むにも、忘れ物が無いかしら? 踏み込みが悪くないかしら? この一歩のズレが今後何処迄歪みを生むかしら?。。。。と不安が膨張します。 私の考え事(=思索)はこんな感じです。 また違った方向から書いてみました。 めちゃくちゃですね。。。汗 ありがとうございました。

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    当方、大変な事態に陥っています。 まだ十分中身のある、CRC-556のスプレー缶のノズルを被せるチューブ(フタを開けて中のノズル(ツマミと表現した方が適切?)を取ると現れる噴き出し口の元の方)が、缶を落としてしまった勢いで破損してしまいました(多分、どこかにぶつかったのでしょう)。残念ながら、チューブにノズルを被せる事ができないように変形してしまっています。 そのまま捨てる訳にも行かず(中身が勿体ないし、そのままではゴミとして出せない)、せめて中身を別容器(例えば「寝ぐせ直し」のスプレーみたいな霧吹状(ガスを使わないやつ))に移したいと思うのですが、ヘタにどこかに穴を開けると一気に高圧ガスが吹き出して危険かもしれませんし、かといってチューブは押し込む事ができない程缶の中に埋まっているような状態ですし・・・。 どうにかして、中身を取り出す方法をご存知の方がいらっしゃいましたら、方法を教えていただけませんでしょうか?ともかく、中身を出して別容器に移す事ができればいいです。

  • 大学のゼミでイジメと誹謗中傷を受けている(アスぺ)

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  • 「誇大な感」とは何か?

    自己愛性パーソナリティ障害の特徴として「自分は特別で重要な存在である」と誇大な感覚を持っている事であると専門書には書いてあったのですが、この「誇大な感覚」って、例えば子供の頃から九九も言えない位に学校の勉強が出来ず、教師や親から怒られたり周囲から貶されて過ごして来た人が、突然「自分には政治の才能がある!!」と思い込む様になり、政治に関する仕事を目指すと言った、現実の等身大の自分の能力から大きくズレている考え方を「誇大な感覚」と表現するのでしょうか?

  • 思索力の意味について。

    文字どうりなのですが、思索力の意味を教えていただけないでしょうか?

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  • 自己資本とは

    初歩的な質問で恐縮です。 新聞などによく「自己資本」という言葉を目にします。なんとなしに 読み流していたのですが、先日の日経にて「自己資本13%減」という 記事があり、ふと疑問に思った事があるので記述させて頂きます。 経済・経営に素人ですのでとんちんかんの文面かもしれませんので ご了承ください。  自己資本と聞くと会社設立時の元手となるお金で、それを元に (担保)に土地や設備を購入して経営を行っていくものと連想していました。  だから中小企業などの資本金などは1000万円などど、企業カタログ などには記載しており、 自己資本(=資本金と捕らえています)は変わらないものと思っていました。 しかし、その日経によると自己資本が 減少したとの表現で記事となっていました。 (1)自己資本は増減するものなのでしょうか? 仮に自己資本が増減するとすると、小生が思うに「内部留保」と言われ るもの(会社の儲けによる貯金)が自己資本にプラスされて増加する 事なのかな?しかし、減少するとはどういう事なのでしょうか? 自己資本を支払いとして使ってしまったのでしょうか? (2)仮に自己資本が増減するのであれば、その要因は何でしょうか? (3)内部留保は自己資本にはなり得ないのでしょうか? 分かりずらい文面ですが、ご存知の方からの返答お待ちしております。

  • 何もかも捨ててしまいたい時。空っぽな自分。

    こんばんわ。 すごく憂鬱な気分です。 頑張れない自分。 いつも逃げてばかりの自分。 家族構成は、父と私の二人。 約2年前に、父が脳内出血で倒れ、左半身麻痺になりました。 1年近く、父はリハビリしましたが、半身麻痺が残ったまま、去年の年末に家に帰って来ました。 それから介護を今年9月までしました。 デイサービスや、ショートステイも使いながら・・・。 父と私の今までの関係は良いモノではありませんでした。 父を憎み、中学卒業してからは、親元から離れて暮らしていて、5年前に和解みたいな感じで実家に帰って来ました。 父が入院してからは、殆ど毎日、病院に行きました。 介護も、本当に疲れました。 20代前半から心療内科に通っています。 主治医の先生や、ケアマネさんにも、何度も愚痴り、助けを借りながら・・・ 介護は、肉体的にも精神的にも疲れます。 そして金銭的に余裕がなくなり・・・。 父と世帯を分けて、父を施設に預けました。 父のいない家。まだ2ヶ月少ししか過ぎていませんが、寂しいです。 介護も嫌。 父を食べさせて行く事も出来ない。 綺麗事じゃ生きていけない。 でも、綺麗事ばかり言う自分。 世帯を分けて、父は生活保護です。 私は父を施設には入れたくなかった。 でも、介護の限界も感じながら、でも、金銭面での余裕がない。 辛い。情けない。 親一人も食わして行けない、自立していない自分が。 父は年金も障害年金も貰ってません。 私も、障害年金は貰ってません。 今もお金に余裕がなく、でも、私が頑張って働いて、年末に向けて、父と一緒に良い年末年始を迎えたい!って。 ベッドも買わなくちゃいけないし。 お金をあまり気にする事なく、年末の買い物に行ったり・・・ でも、自分一人、生きて行く事で精一杯で・・・ かと言って、ガンガンに働く気力もなしで。 父の笑顔が見たくて、父と良い年末を過ごしたくて・・・ 年末が近くなかったら、私はもう、部屋に引きこもって、何もしないと思います。 でも父との年末を。 父も楽しみにしています。 でも、何もかも捨ててしまって、消えてしまいたいって。 でも、父の笑顔が見れなくなるって。 父が私の今の支えであり、父も私が一番の頼り。 なのに、頑張れない自分。 空っぽです。 寂しい。 情けない。 毎日、不定愁訴。 現実感湧かない。 孤独感。 捨ててしまいたい!なんて、今まで何度も思いましたが捨てれませんでした。 だからきっと、今も捨てられないんだと思います。 父を残して私が先に・・・と思ったこの前。 でも悲しくなりました。 何で逃げてばかりなんだよ!って。 生きるって何? 必死に生きてみろよ!って。 父の子供で良かったって思えた。 でも、こんな娘に産まれて、申し訳ないって。 産まれたのが罰なんだって。 ココには書けない、最低な生き方をしてきたので。 今もしています。 明日は仕事なのに、もう、頑張れる気しない。 最低です私。 ダメ人間です。 自分でも自分が分からないです。

  • 缶が「ポコン!」となる理由と鳴らなくなる方法

    DIY好きでいくつかの溶剤を4リッター缶で所有しております。 何週間か何ヶ月に一度ぐらいランダムのタイミングで突然どれかのペール缶が「ポコン!」と鳴ります。 今朝も起きようかと思ったタイミングで鳴りました、缶内部の化学反応か気圧のタイミングなのかと考察しております。 屋内に置いても段ボールに入れて雨風が当たらないようベランダに保管してるほうも同じように鳴ります。 別の容器に入れ替えれば鳴らなくする事は解決するのでしょうが缶で販売してると言うことは長期保管に向いてるのだと思いますので中身を入れ替えるのはできません この原因と解決方法をご存じの方、教えてください

  • 空っぽ

    最近心が空っぽな感じがして、 美味しい物を食べても、好きなカラオケに行っても、お気に入りの本を読んでも、恋人や友達と遊んでも、満たされません。 その瞬間はちゃんと楽しいのですが、その後に自分の胸にぽっかりと大きな穴が空いたような気分になります。 横になってぼーっとテレビを見ていたら、悲しい訳でもないのに涙が出てきたりします。 町を歩いていても同じようになったりします。 実は今も何故か涙が出ています。 もしかして、最近恋人が前ほど構ってくれなくなったから寂しいのかなと自分では思っているのですが、それだけでこんな風になるものでしょうか。 こんな状態になってると彼に言うのも、ただ困らせるだけな気がして出来ずにいます。 皆さんはこんな状態になったことはありますか? こんなときはどうしたらいいんでしょう? わかりにくい文章で申し訳ありません。 どうか皆さん、アドバイスをお願いします。

  • 何をやっても満たされない、空っぽな私。。。

     27才、女性です。最近、何をやっても心が満たされず、悩んでいます。  私にはやりがいのある仕事もあり、収入もそこそこあり、素敵な彼氏もおり、ショッピングやフィットネスクラブなどの趣味もあり、毎日忙しくすごしています。  なのに、なぜか心はいつも空虚なんです。  心が空虚だから、仕事や恋愛や趣味で紛らわそうとしているのかもしれません。本当はいつもむなしいんです。  こんな悩み、贅沢でしょうか?   私のように感じている方はいますか?  そんなときはどうやって解決していますか?  誰かに相談して解決する問題ではないかもしれませんが、回答よろしくおねがいします。