• ベストアンサー

現象学的思索

現象学的思索とは、「マフィアのボス」といったシンボル(?)を投下し、それ自身の発展を観察するという手法と考えてよろしいですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#91529
noname#91529
回答No.1

「マフィアノボス」概念投下自体は、あまり関係しないかもしれません。 が、フッサール的に言えば、「マフィアノボス」のアプリオリな側面は、何かとまず考える(構成要素1)ことです。そして、イメージの中に潜む錯覚は具体的には何かと掘り下げる。(プロフィールに俺俺テーマの哲学引用文を書いて、括弧で著者名を書き添え、自己の権威付けを図るるるるとか言う醜く、イカ臭い飾りごとをしないということ・その態度です。) 社会学的に例示すると、社会の混沌期には、社会性を形づくる上で「血縁」が非常に重要な要素となるということですが、それをたとえば、現時点で地理的に「どの地域でこの考え・理論が正しい」といえるかとか、混沌とした社会の中で血縁関係を重視したとき新しい問題として浮かび上がる悲劇(逆に利点)とは何かと哲学的に取り扱い(構成要素2=他の学問への応用、もしくは関連する学問の基礎付け代行)、「結果を出す(構成要素3=作文)」ということです。 社会科学的に、たとえばデジタル革命に関してこのアプローチは、かなり頻繁に 使われているようです。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私がイメージしたもので基本的にあっているのかなという印象を受けました。 しかし、ここまで高度で特殊だとヒゲのおじさんの変な趣味がフッサールやハイデガーに影響したのかなと妄想してしまいますw

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 【我々は自分自身(人間)を殺す技術(核兵器)を手に

    【我々は自分自身(人間)を殺す技術(核兵器)を手に入れた】 なぜ人間は自分自身(人間)を殺すのでしょう。 なぜその技術を飛躍的に発展させることに人生の身を費やしてしまったのでしょう。 なぜ自分自身(人間)の食料事情に技術の進展に尽力せずに人を増やすことではなく人を減らすことで人類が発展すると思ってしまったのでしょう。 核兵器で世界人口を減らすのと食料技術の向上で世界人口が増えるのを補う技術発展に人生の身を削る。どちらが正しい未来への選択だったのでしょう。 日本はもうどんどん人が減っていっている。 原爆を投下したアメリカは人口が3億人から5億人になろうとしている。 一方の日本は1億人を切るだろう。 やはり食料危機問題に技術革新に全力を使うべきで科学技術の発展に優秀な人材を消費する今の時代の未来への選択は間違い続けている気がする。

  • 思索力の意味について。

    文字どうりなのですが、思索力の意味を教えていただけないでしょうか?

  • 社会科学における記述と説明について

    社会科学の教養書で「創造の方法学」を読みました。 著者の高根さんがスタンフォード・カリフォルニア大学で勉強した 社会科学の方法を述べられており ・記述とは観察で得たことや事実のこと ・説明とは現象の原因と結果、いわゆる因果関係を探ること だと書いてありました。 この本が書かれたのは1970年代です。 調べたら2004年に翻訳書で 「社会科学のリサーチ・デザイン 定性的研究における科学的推論」 という英語だと94年に発行された有名な古典があるそうですね。 読んでいないのでネットで集めた情報になりますが 上記の本では 記述のことを ・歴史的事実を要約すること、記述的推論の二つに分けている。 記述的推論とは ・観察した現象から観察されていない現象を理解する過程。 説明のことを ・因果推論が重要で「創造の方法学」と似たことが書いてあるようで 独立変数・従属変数や 処理グループ・制御グループなどについて書いてある。 現代では70年代から方法も変化・発展しているはずですが 社会科学の方法において 「創造の方法学」で述べられた記述と説明の基本的な考え方・方針は 同じなのでしょうか? それとも大きく変化したのでしょうか?

  • 思索する時。。。空っぽの私

    いつもお世話になっております。 少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。 「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。 *思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか? (私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です) 思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、 (そうではない場合がありましたら、ご教授下さい) *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか? (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります) 曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、 *枠でしょうか? *核でしょうか? (私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。 言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗) 単に表現に固執しているだけかも知れませんし、 個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、 出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。 よろしくお願い致します!

  • 漂泊の思索と文学

    家庭、父母の家庭。私たち夫婦の家庭。 一体それらは人間のとわなる落ち着きの場所なんでしょうか? とわの落ち着きの場所や自分ってどんな風なんでしょう。 随筆風で結構ですので、なんでもお書きください。 夫婦の相手って本当にあいてなんでしょうかね。などと感じることもありまして。 (漂泊の畏友の哲者を偲びつつ質問しております) 牧水の 「幾山川越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」を出すつもりはありませんでした。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1365694368?__ysp=5bm%2B5bGx5bed6LaK44GI5Y6744KK44KG44GR44Gw でも芭蕉などの漂泊の方を思うと、ついここに回帰してきます。

  • 哲学を考えるツールとは何ですか。

    哲学を考えるツールとは何ですか。 前回の質問ではたいへん多くの人に回答をいただきましてありがとうございます。 大変嬉しく思いました。 しかしながらまだよくわからないところがあるので もう一度質問させてください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6 上記によりますと 学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、世界、存在、時間、空間、現象、経験、人間一般、理性、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、などがある とあります。 この中には科学で研究されるテーマもたくさんあります。 言語・世界・時間・空間・現象・神・霊魂などは科学においても研究されます。 科学ではデータ・史料・観察などの手法によって研究すると思います。 それでは哲学はどのような手法をもちいて研究するのでしょうか。 どうぞよろしくお願いします。

  • 哲学の役割は?

    私は、哲学にとても興味があります。ただ哲学が何か、哲学がどういうものかいまいちというより、かなり掴みきれませ何ん。哲学がかを考えるときに強いストレスを感じます。原因は私の無知です。年齢は20代前半です。以下、失礼に値する文章かとは思いますが、どうか皆様の的確なご指摘やご指導があれば幸いです。 『哲学の目的』はなんでしょうか?『哲学には社会に対して何ができる』のでしょうか?『哲学の役割』は? 物理学なら、明晰かつ斬新な物理モデルを発見することによって、技術発展を通してひいては医療・貧困・飢餓の問題の解決の一助に成り得るでしょう。 法律学なら、より良い少数派や弱者を救う法的プロセスを発見し法制化することによって、より人々が安心して暮らしやすい社会づくりをすることができるでしょう。 会計学なら、より適切な会計的手法を編み出すことによって、利害関係者のより一層の保護を図り、健全な経済の発展に資することができでしょう。 どの学問もそれぞれにそれぞれの前提と研究方法が確立されていて、それがひいては何らかの形で、その学問以外の社会や第三者のためへの貢献へとつながっているように思えます。 それに対して、哲学はどうでしょうか?哲学には社会に対して何か貢献できるという確固たるものがありますか?正直に申し上げて私はそれを感じることができません。良い言葉ではありませんが、哲学は単なる自己満足で終わってませんか?自分たちなりに自分たちが粋だと思ってる思索・研究ができれば、それを是とする、という。どうでしょう?哲学が学問として単なる自己満で終わってるという私の見解は。どうか皆様の御指摘・御指導お聞かせください。 よろしくお願いします。

  • ブッダ vs フロイト (つづき)

     諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しない。    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  もし たたき台としてなら    ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。  ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教的にいえば  「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」  とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。  なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、  物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、  因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。  ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~  (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、  その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん)  ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~  トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか。  ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~  これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。  そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91  §1.1 原始仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、    「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、    「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」    という意味です。   ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》と解しておきます。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 1.3 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  ~~~~~~~~~~~~~  

  • 考えるとは何か

    考えるとは何か、と考えてみると 果たして私は考えているのだろうかと思い当たります。 考えているそのプロセスを観察すると、思考というお芝居を鑑賞している存在(意識)がおり、 それがお芝居中で起きた出来事を第三者(他人)に自分の考えはこうだと説明するわけです。 お芝居の結末が悲劇なら、自身のマイナス思考又は不安、他人の事ならば警告又は助言になるわけです。 つまり、「私」と「思考」は分離可能だと思われますがどうでしょうか。 共感という現象も思考部分のコンセンサスをとればいいのですから案外簡単のような気がしますし、思考の結果についてそれほど「私」が悩むこともないのかもしれません。 思考とは何かの前に「私」と「思考」を分けてみましたが、皆さんは自分の思考についてどう感じますか。

  • 陽性転移の持続

    精神科の治療において発生し得る陽性転移ですが 患者自身が転移現象によるものと認識しているにもかかわらず 医師に対する好意的な感情が持続してしまうのはなぜでしょうか。  医師と患者としての関係が私的な関係に発展することは皆無。  医師は患者に好意を抱いてるわけではない。  むしろ、医師は治療目的で転移を利用している。  (↑あまり良い表現がみつからなくて、すみません) 転移と認識していれば、これらは明確だと理解できると思います。 にもかかわらず持続するのはなぜでしょうか。 不思議でたまりません。 これでは、患者は医師から離れられなくなりませんか? 別の病を患いそうな気もします。 よろしくお願いします。