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何故宗教は有るのでしょうね救いという程のものでもなく・・救いなど無いと言う方が・・

arayata333の回答

回答No.22

No20です。 意図が無かったわけではないですが、解かりにくい回答文を書いてしまいました。 再回答します。 宗教の本質が 神仏への謙虚さにあるならば、 それを利用してなんらかの別の目的のためにだましている人が裏にいようといまいと、 その本質をつかむことは、 意識のあるかぎり、 私達の究極的な力にもなるし、一歩一歩の誰にとってもの大きな力にもなりうるものと   思います。 そのことへの気づきの 力は、意識の中で 折れそうな枝とは表現する人はいないと思います。 それでも その枝が折れてしまう可能性があるのは、そこに「悪と科学」で脳(意識)が操作されてしまう可能性があるからです。(死によって意識自体が無くなってしまうという事については、死後の世界の在る無しの別の論議ともなりかねないところ、その意味でも、ここでは略します。) 私達の意識は その点からも常に相対的です。 しかしそのままにて 謙虚さはかなり力強い気づきの世界と思います。 でも その謙虚さを 教義を疑わないこととしている信仰には、 一枝の強さはあれど、 自分への嘘という気持ちも脳(意識)のどこかにあるでしょうし、 まさに> 有ったとしても今にも折れそうな枝にしかならないと<というふうに、 そのままそのとおりに思えます。 もしかしたら、 この存在に(というと難しいですが) 生きてることのすべてに謙虚になれ、我以外皆師、 それもそれをどんなに頭の悪い人においても感性において(感じるということにおいて、ということです。)学ぶことがあるということを気がつくことが 宗教の本質なのかもしれません。 大勢の あまりにも大勢の 宗教組織に折れそうな枝を与えられてしがみついてる人たちがいるかと思いますが、 そういう人たちも あと一歩なのではないでしょうか? その普遍的な あたりまえの真実を哲学できるようになりさへすれば、 おそらくほとんどの宗教教義とも矛盾することなく、 宗教の本質を確信出きるようになるのでは と 私は思っています。 枝を しっかりしたものに しっかり考えることによって育てればいいんです。 そういうリーダーが 宗教組織の育ってほしいなと思います。 自律の宗教と 他律 あるいは他によって立つ宗教(絶対に頼る宗教)とありますが、 自分で気がつく必要があるということは自律の宗教に偏ってるように見えますが、 この自分で 謙虚さの強さに気がつくという道にしても、  絶対、あるいは神でも観世音菩薩でもなんでもいいのですが、 すべてをわかっているような存在への謙虚さというのが、 存在への感謝であることにただあたりまえに気がつけば      解かりやすく言えば 感謝しておもわずひれ伏したり どさっとその心のふるさとの大地に身を投げ出すような気持ちになってみれば、  さて絶対他律と どこが違うのですかということです。 時間的に 他律宗教に頼っている人の方が 自律宗教に頼ってる人より はやく自律できるかもしれないということです。 雲が解かりやすいかも知れません。 雲って 無限に豊かに変化しています。  どこまでも どこまでも 知るほどに豊かです。  でも、 私は むかし、五感のすべてが色あせたように何も感じたり、感動なんて何もなくなったようになってしまったことがあります。 病気なのかよく解かりません。 悪いことは思い出せないといいますが はっきりしていないのです。 しかし、 すべてが灰色だったことと何年かそれが続いたことは思い出せます。 何もたべても もちろんおいしくないわけです。 そんな時にても ある時 川原で どてっとすっかっり心身疲れきって何時間も寝そべっていたら、 数時間後 ふと川のせせらぎの音が聞こえてきたんです。  すると その音が これは確かに私の心を癒し始めてるとも気がついたんです。    と、 次に 仰向けになっていた私の目に はじめて青空と白い雲が  これは少しですが心(意識)に飛び込んできました。    始めて 灰色としてではない 何かの色という感じでしかなかったですけどね。 でも この一点が 希望となったのでしょう。  それから徐々にですが 感覚は戻ってきました。 この事は どんな状況どんな心のときにも 人間は諦めちゃダメだ どんな人も変わることは出きるんだという  ほんの それこそ一筋の理かもしれなくても 「その証拠」と理解しています。 また たった一筋でも 人間には大きな力となる時があるということそれは意味していたと思います。 この一点、や一筋の理 、これは、一枝というものも必ずしも 弱い人間にとって「折れそうな」と表現できないものを与えてくれる 存在となりえることをも 意味してると思ってますし、 そういう地点からも宗教を私はいろいろ考察したりもしています。 ただし、その弱さを 増幅する機能を多くの宗教組織が持ってしまっている姿も私は見てきました。 だから ここには 哲学が必要であることは確かだと 私は語りたくなるんです。 やがて、雲の豊かさが無限であることに気がつけば、  地球中のあらゆる大自然の美、たった一枚の葉っぱでさへ無限に豊かな感動を私達に与えてくれる世界にも気がつけるでしょう。 この弱い 生物でもある意識のままにてです。 そうしたら、 それは自分で作ったせかいではないですから むずかしいこともなく ただあたりまえに、 神仏に謙虚になっているはずです。 自分なんてちっぽけなもので、 どこまでも さらにさらにおくが深いのですから ただの雲ですら(この水のある星の灰色?の水蒸気にすぎないもの?ですら)   宗教が かなり強靭な折れない生きた枝であることを  教えてくれる時はくるでしょう。 迷うことは そこに向かっている思索の苦しみとも言えるでしょうから それもむしろ大切と思えばいいと思います。 意識のある限り「希望」をすてるな。  これがこの回答のここだけの(笑)メッセージです。

noname#95026
質問者

お礼

「今にも折れそうな杖にしかならない」とは、折れると言う意味ではありません、か細い杖です、修正します。杖には違いがありません、光には違いがありません。 か細い杖を、凄いものだと思い、正しい願いなのに神さまは、何故、願いが叶えてくださらないのか?神を疑うだとか、信仰を疑う、色々な矛盾を聞く事がありますが、そもそも神とは矛盾そのままで有り、矛盾そのままを有り難く感じる、それが信仰の要だと思います。 答えは神の側に有るのであって人間側にはない、つまり言い換えれば神は親で有り人間は子供と言い換える事が出来ると思います。 親は子供を時に叱ります、甘いものを食べ過ぎると虫歯が出来ます、親には判りますが、小さな子供には判りません、子供は甘いものを取り上げられて泣きます、子供にとっては苦です。 つまり宗教とは苦がなくなるのではない、そう言う意味で、か細い杖と言う意味ですね。 つまり、人間(子供)の智では神(親)の超智は解らない。 だが神は親ですか子供の為に悪いようにはしない例え苦難を与えても。 arayata333さんの考えと余り変わらないと思いますが。 神(存在に)に全てを任せるのが信仰だと思います。が、神(親)の気持ちは人間(子供)には理解が出来ない。つまり智と超智は相容れない。故に本当の信仰を得ている人は数少ないと思ったりもしますが。

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