• ベストアンサー

人間が宗教に救いをもとめる理由

何故、人間は宗教を信仰するのでしょうか? 例えば、お釈迦様は実在の人物ですが、阿弥陀如来はお釈迦様亡き後に弟子らが大乗経典を作るうえでアミダに意味する「計り知れない何々」という表現を擬人化(つまり、形も色も存在しない)し、神話的表現にしたと聞きます。その当時ならまだしも、信仰することで不思議な事実に出会うとかも無いのに、この現代、科学的時代に人間の作り話から生まれた阿弥陀如来、そしてその住む世界を、また、その他の宗教の神々を人間の救いとするのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • bknachi
  • ベストアンサー率44% (31/69)
回答No.7

人間に宗教がなかったらどうなると思われますか?

menzuki09
質問者

お礼

想像すると、すごく不安になりますねー。これなのか!これなのでしょうね。 bknachiさんのご意見は至って短いコメント(中身は極めて重要なメッセージ)ですが、素直に自分自身が不安に感じた瞬間の心、気持ちが宗教に救いを求めているのだと思いました。ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • cobuta
  • ベストアンサー率13% (9/69)
回答No.6

No.3です。 死を目の前にしている人が、宗教的世界をないと思ってしまったら…ていうことですよね。 死を目の前にしたことがないので、断言は出来ませんが私はこう思います。 死を目の前にしたからこそ信じる信じようと(精神的に助かろうと、救われようと)するんじゃないでしょうか。 信じる事はあるかないかではなく、あると思うか思わないかなので「ない」と言われようとも「あること」にするのではないかな? 仏教で言うと思わず手を合わせ赦しを願い、救われることを願ってしまうものじゃないかなと思います。 意識することではなく、あらがいようのないどうにも出来ないことが迫ったら、そんな自分の気持ち次第の不確かなものを信じようと信じてしまうんじゃないでしょうか? 家族が次々病気になったときは「一生のお願い!今まで過ち、ごめんなさい、ごめんなさい凄い反省していますから、家族をとらないで」と手を合わせた記憶があります。 本当にそれで助かるとは思ってないけど、救いを求め救われようとするんでしょう。 その一生のお願いが叶えられず、居ないと思っても同じことではないかな… 思いの力で存在しているのだから…と考えます。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。困った時の神仏頼みというのを私も良くしますし、今もそうです。しかし、本当に困っている時ほど何の助けもない。 ある人はそれは人間界においての課題であり、修行であるなんていう人もいますが、特に大きな問題もなく、人生を過ごされている方も結構いるものです。信じようとする力不足かな!本当に人生に困った時は救っていただきたいのが本音ですが、現実を見れば、やはり、神仏頼みも気休めかとなってしまうのが本音で、日常生活をおくっています。

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.5

100%科学で解明されているのなら科学教を信じたらいいのですが、実際は科学で解明されていないことのほうが多いからです。 特に四苦八苦はほとんど科学の不得意な分野です。 例えば断崖絶壁で足を滑らせ宙吊りになったら、誰でも思わず「助けて」と大声を出します。 そこでは声の届く範囲に人が居る居ないに関わらず、 また人がいても、その者の力で宙吊りの自分を引きあげる事が可能かどうかを判断しての発声ではありません。 まさにその発声は「生きたい、死にたくない」という自分の気持ちを表す嘘偽りのない真実の言葉のはずです。 真言宗の真言にもそのような意味が含まれているとともに、お経が頭の中で理解して終わりのものでなく、声に出して唱えることが大切だとされているゆえんです。 なおご質問の阿弥陀如来はアミターバ(無量光)という言葉が中国で阿弥陀仏と音訳され、ひいては阿弥陀如来となり、また人間に似せた仏像が創作されたのも、哲学的な教えだけでは大衆に受け入れがたいとことがあったからだと思います。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。私は信仰心がないわけでもありません。某宗派のお念仏も唱えることも一応できます。また、神仏を否定しているわけでもありません。ただし、その存在はといわれると「本当は…。うーん?」となる感じです。自分の場合の考えは、あの世のイメージを作り上げて脳に記憶させると、死んだ時そのイメージを残したまま、命の停止となり、自分自身の安堵感みたいなものがあるのではないかと、勝手に想像したりします。このテーマはやはり難しいですね!

  • pet777
  • ベストアンサー率25% (62/241)
回答No.4

死に対する恐怖、不安かなぁ。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。やはり、そこに繋がるとおもわれますか。 なるほど理解できます。

  • cobuta
  • ベストアンサー率13% (9/69)
回答No.3

神や仏は赦しを請い、感謝をする対象だと思います。精神的な支えとなるもので、神や仏がいるいないはさして大きな問題ではないのでしょう。 キリスト教では懺悔と讃美歌なんかがあり、謝り感謝しますよね。 仏教では合掌があり、合掌は片手が「ごめん」もう片手が「ありがとう」という意味があり、仏様に合掌一礼しますよね。 罪を犯さずに生きられないので赦しを請い、生きれる感謝をする。それが神や仏て存在だから、のめり込まないでも、どこかで意識するものじゃないのかな?と思います。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?

  • cerberos
  • ベストアンサー率50% (420/830)
回答No.2

科学が発展しても、所詮人間の精神的な弱さは克服できませんから。 生きてゆくうえで仕事や人間関係・金銭など悩みは尽きませんが、その時々で選択を迫られます。 そのときにうまくこなせれば良いのですが、失敗することも多々あります。 そういった選択に悩んでいるときに「あなたは考えずに、神の教えに従えばよい」と言われると、 それにすがってしまう人間の弱さがあります。 自分で選択した結果は自分の責任ですが、神様の教えに従って失敗したら神様の責任→神様の教え に反している相手が悪いと責任転換できますから。 宗教を信じている全ての人がそうだとはいいませんが、狂信的に宗教を信じている人は自分で考え ることを放棄している人が多いようにも感じます。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?

  • shubal
  • ベストアンサー率20% (402/1958)
回答No.1

感謝の気持ちと苦しみのためですよ。

menzuki09
質問者

お礼

ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?

関連するQ&A

  • 人間が神、宗教を創りだした理由

    ※信心深い方は、お読みにならないでください。 人間はなぜ、神や悪魔のようなものを創り出したのですか? 科学がまだ未熟だった(というか、皆無に近かった)大昔から、 人間はどこの国のどんな人種でも、 神々や悪魔、鬼、 場合によっては一神教の神様などを必要としてきたのでしょうか? 暗闇や天変地異、病気や死、恨みつらみなど等、 色々なものに恐れを抱き、苦しめられてきたのは、今も昔も同じ。 今は様々な分野の研究が進み、医学も日進月歩、 月だけでなく、常時、宇宙空間に人間が常駐している時代、 太陽系だけでない、広い宇宙のことも、徐々に分かってきている。 そんな時代でも、信仰心は忘れたくないものですが。 たぶん、ほとんどの人が、神や神々が大地や空、月や太陽、 星々を創った、なんて信じていないと思います。 アマテラスオオミカミも神話の世界だけで、 ギリシャの神々も神話の世界の住人です。 キリスト教も、神話という形をとっていませんが、 旧約聖書の創世記は完全に神話です。 必ずと言って良いほど、どこの地域のどの民族も、 何かしらの神を「創造」し、祀ってきました。 神が人間や世界を「創造」したというより、 人間が「神々」や「神」を「創造」したのでしょう。 宇宙には何か計り知れないものがありますし、 私も無神論というよりは、不可知論者なので、 自分なりに色々考えてきましたし、 何か偉大なものへの畏怖の念や信仰心のようなものもあります。 ご意見、ご回答をいただけますと嬉しいです。

  • 仏教の如来について

    宗教についての質問ですがカテゴリがないのでこちらで質問させて頂きます 仏教において菩薩が修行して解脱し如来になりますが 阿弥陀如来や薬師如来、大日如来などの大乗仏教の如来たちも 元は人間で菩薩を経て如来になったのでしょうか? クグッても人間のときのエピソードなどが出てこないんです

  • 「仏」の顕現記録は?

    阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩……。これらの「仏」が人間の前に現れたと過去形で記録された経典がありますか。過去形でなければ現れると断言している経典が沢山あるのだと思います。 実際に現れたと過去形で記録されているものについて、何という経典の何処に記されているか幾つか指摘して下さると有り難いです。仏教に関心の薄い市井の人間が容易に手にすることの出来る経典が好ましいです。また、それはどの宗派の見解なのかも知りたいです。 よろしくお願いします。

  • お釈迦さまの人生

    1.) お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。 2.) その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、 何年ぐらいたってから出来ましたか。 3.) 何百年も後になってから出来た経典は、 実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。 4.) お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。 ※ 以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)  

  • 延暦寺について教えてください。

    比叡山延暦寺は天台宗でご本尊は薬師如来ですよね。しかし真言宗のご本尊である大日如来も祭ってありますが、これは問題ないのでしょうか。なぜ大日如来も祭ってあるのでしょうか?また阿弥陀如来も祭ってありますが、阿弥陀如来はお釈迦様のようにもとは人間なのでしょうか。教えてください。  というのも、延暦寺に行ったときに、体がすごく楽になり、守っていただいたというのを実感したからです。そこでいったいどの仏様を信じればいいのか迷っているからなのです。ただ、薬師如来というのは人が作ったものだとわかっていますから、あまり信じる気にならないものですから……。

  • 蟻を擬人化したならば、彼らはどのような神を信じるでしょうか?

    初めまして。 早速質問を御願いします。 質問は 「蟻を擬人化したならば、彼らはどのような神を信じるでしょうか?」 です。 (蟻と言っても様々な種族がありますが・・) 最近、人間の文化論の本を読んだのですが、 それによると、地域によって信じられる神々・神話の体系は、 その土地の気候風土や、社会の生産体系に大きく依存するとのことです。 外部環境が同じであれば、必ずしも同じ神々・神話の体系が信じられるいうわけではないのでしょうけど、 幾つかの値には収束するのではないかと思い、 ならば、人間ではなく蟻という環境ではどのような信仰が取られ得るだろうと思って質問しました。 例えば、行動範囲が二次元的であるところや 嗅覚が非常に発達していると思われるので、嗅覚的なビジョンを持つであろうとか 女王蟻を絶対崇拝するであろうことや、 共産主義的な生産体系や、子孫の育成のシステムや・・・ そんな彼らの環境から、「彼らならこういう神話を信仰するだろう」というのを教えてください。

  • ブディズムの再生はあるか。

     ブディズムの再生はあるか。  ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?  ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?  ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。    *  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|      *  ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。  ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • 大乗仏教 悟りについて 如来と羅漢 

    前から疑問に思っていたんですが、一番最近成仏された方が釈尊で、次は弥勒さんですよね。釈尊や阿弥陀さんとか如来となられた方の「悟り・解脱」とその他大勢の羅漢さん達の「悟り・解脱」は別モンなんですか? 釈尊のお弟子さんたちも「悟り」をえて「解脱」していますし、日本だけでも多くの方が悟って解脱しているとされています。彼らは羅漢であって、いわゆる如来ではないですね?この違いはなんなんでしょうか?羅漢さん達は解脱しているわけだから、未来永劫、「如来」にはなれない? また、俗に言う菩薩さんたちで(観音・勢至など)あえて成仏せずに菩薩位に留まっている方もいますが、もし成仏したら、羅漢ではなくて如来になるんでしょうか? 同じ「悟り」なのに一方は「如来」で一方は「羅漢」なのはどういうことですか? あくまで大乗仏教で、「解脱」「悟り」や「如来」や「羅漢」という存在があるという仮定でお答え下さい。乱文失礼しました

  • あらゆるものが全て宗教であるとする発想はどこから

      無い神はあるなどといい、無信仰も宗教であるという。 となるとあらゆるものが宗教の一形態になるのである。 教会に行って賛美歌を歌ったり、神社にお参りに行ったり、広布の広場に集まって南妙法蓮華経とお題目を唱えたりするのが宗教であるのと同じく、ファミコンゲームにハマるのも宗教、ボランティアで社会奉仕するのも宗教、哲学するのも宗教、数学や物理などの学問に励むのも宗教、つまりあらゆる人間精神から生まれる活動は全て宗教表現の1つであるとする人達が見受けられる。 特に宗教漬けになった人たちの中にこのように考える人が多いのである。 無信仰も宗教であると唱えてこれにどんな意味があるのでしょうか。 なぜ彼らはこのような発想をするのでしょうか。  

専門家に質問してみよう